第46話 小さな照会
土曜の朝、シエルは静かに目が覚めた。
しっかり眠れたはずだ。けれど、まぶたを開いた瞬間、昨日の図書室の頁が胸の奥でざわめく。
“アカシックレコード”
名前を知っただけで、世界の輪郭が変わった気がした。だからこそ、何も知らないふりは、もうできそうになかった。
シエルは布団の中で一度だけ深呼吸をした。
次に息を吸い込むまでの間に、今の自分を置く。
土曜。家。自室。朝。まだ、人の領域にいるはずだ。
そうやって順番に並べると、体の内側のざわめきが、かろうじて静かになった。
階段を降りると、台所から味噌汁の匂いが漂ってくる。焼き魚の香り、湯気の立つご飯、箸の当たる音。天宮家の朝は、いつも通り始まる。
「おはようございます」
「おはよう、シエル」
美穂が振り向き、武臣が新聞を下げた。
「今日は休みだろ。もう少し寝ていてもよかったんじゃないか?」
「目が覚めたので」
「ならいいが」
短いやり取りのあと、向かいで湯呑みを置いた結衣と目が合う。
昨日の帰り道のことを、気にしている表情だった。
「まだ、残ってる?」
声は軽い。けれど、訊いているのは、起き抜けの事ではなく、図書室の件だと分かる。
シエルは迷ってから頷いた。
「はい。ちゃんと、残ってます」
「そっか」
結衣はそれ以上何も聞いてこなかった。
味噌汁の椀を手に取りながら、シエルは視線を落とした。
「……今日、宗一さんに報告も兼ねて相談したいです」
箸の音がひとつ止まる。
それでも、食卓の空気は重くならない。誰も「何があった」と詰めてこない。この家はそういう家だ。
結衣が先に頷いた。
「うん。それがいいと思う」
「鳴瀬か?」
武臣が聞く。
「はい。午後にでも」
シエルが答えると、武臣は新聞をたたんでテーブルの端へ寄せた。
「車を出してもいいが」
「今日は電車とバスで行ってみます」
シエルがそう答えた。
鳴瀬へ初めて行った時のことが、シエルの脳裏によみがえる。私鉄に揺られ、バスに乗り換え、石段の上へ続く空気が少しずつ変わっていった、あの遠出と近場の中間みたいな距離感。車で一気に連れて行かれるのとは違う、町から町へ移ろい行く情緒あふれるひと時だった。
「そうか」
武臣はそれ以上、何も言わなかった。
美穂が、柔らかく言う。
「行くなら、お昼はちゃんと食べてからね。空腹で神社に行くの、だいたいろくなことにならない気がするから」
「それ、経験則っぽいですね」
「経験則よ」
美穂が笑い、結衣とシエルもつられて笑った。
朝食のあと、結衣は宗一に短く連絡を入れた。返事はすぐに来たらしい。
「午後なら大丈夫だって。祠の前までは行かないって」
その言葉に、シエルは息をついた。
行く。けれど、いきなり深いところまでは踏み込まない。そう線を引いてもらえるだけで、怖さの形が変わる。
「シエル」
結衣がスマホを伏せて言う。
「今回は"読む"じゃなくて、"掬う"くらいで止めてよ」
「……はい」
「答えを多くもらうより、戻ることのほうが大事だから」
その通りだと思った。
全部を知りたいわけじゃない。いや、知りたいのかもしれない。だが、今はそこまで手を伸ばす段階ではない気がした。
「浅く掬うくらいにします」
そう言うと、結衣が頷いた。
「うん。宗一伯父さんもいるし、それなら、大丈夫じゃないかな」
昼を少し回った頃、二人は星ヶ丘駅へ向かった。
休日の駅前は、平日よりも色が違う。学生の群れがないぶん、買い物に出る家族連れと、部活帰りらしい制服姿がまばらに見える。
私鉄のホームへ降りると、春の風が吹き抜けた。
シエルは黒髪黒目のまま、結衣と並んで電車に乗る。窓の外を流れていく町並みは、高台から少しずつ表情を変えていく。電車の揺れは穏やかだった。黙っていても気まずくならないのが、ありがたい。
「本当に、"ぬ"の次だけでいいの?」
向かい合わせの席で、結衣が聞く。
シエルは窓の外から視線を戻した。
「うん。まずは、前に拾った続きの一文字だけ」
「図書室で見た "まだ書かれていない" の方じゃないのは?」
「あれは、たぶん広くて深いから」
口にして、自分でもその言い方がしっくり来た。
「あっちは、何か一つというより、場所ごと開きそうで……」
「なるほど」
結衣は納得したように頷く。
「じゃあ、"ぬ"の続きなら、前の自分が残した手がかりを拾いに行く感じか」
「……そうかもしれません」
自分が残した、という言い方に、思議な感じがした。
けれど、祠の前で拾った一音と、札に落とした丸は、間違いなくここまで自分を連れてきている。
鳴瀬駅で降り、そこから小さな路線バスに乗り換える。
車内は空いていた。山へ向かう道をゆっくり上がっていくにつれて、窓の外の緑が濃くなっていく。民家がまばらになり、風の音が少し深くなる。
結衣が隣で小声を落とした。
「黒、しんどくない?」
「まだ大丈夫です」
「 "まだ" がつくなら、着いたらすぐ緩めていいからね」
「はい」
結衣はそれ以上言わなかった。
バスを降りると、空気がひんやりしていた。山の匂い。湿った土と木々の陰影。天ヶ浜の春より、ひとつだけ季節が遅いような冷たさだった。
石段の脇を通り、社務所へ回る。参拝の導線から少し外れた裏手は、人の声が遠い。
戸が開き、宗一が出てきた。
「来たか」
「こんにちは、宗一さん」
「お邪魔します」
シエルと結衣が頭を下げると、宗一は二人を見て短く頷いた。
「中で話そう。今日は祠の前までは行かん」
「はい」
社務所の奥へ通される。湯飲みが置かれ、机の上には白い紙と鉛筆が一本、先に用意されていた。硯も筆もない。昨日の図書室の件を聞くだけにしては、準備が整っている。逆に、その無駄のなさが宗一らしかった。
「まずは話を聞こう」
座るなり、宗一が言う。
シエルは息を整えてから、昨日の図書室で起きたことを順に話した。弓道場で見たものと同じ四角い窓だったこと。用語辞典の頁と重なるように、読めない文字列が立ち上がったこと。ロザリオに触れて戻ったこと。そして、その頁に ”アカシックレコード” という言葉があったこと。
宗一は遮らずに聞いた。全部聞き終えると、宗一はしばらく黙った。
「なるほどな」
その一言は、驚きでも否定でもなかった。
「名前がついたからといって、急に中身が変わるわけではない。だが、向こうに触れてる自覚ができたのは悪くない」
そう言ってから、宗一はシエルを真っ直ぐ見た。
「前までの手順、覚えてるか?」
試すような口ぶりではない。ただ、確認のための声だった。
シエルは頷いた。
「見えても追わない。触らない。切らない。名は拾う。息を置いて戻る」
「そうだ」
宗一は短く返す。
「それに、今日は一つだけ足す。問いを小さくしろ」
結衣が横から言う。
「ほら。だから ”読む" じゃなくて "掬う" ね」
「うん」
シエルは自分の胸元へ手をやった。制服の下にあるロザリオは、今日も変わらずそこにある。
宗一の視線が、その仕草を捉える。
「ロザリオは握っておけ。それは、何かを開くための道具ではない。戻るための目印だ」
「……はい」
「欲張るな。問いは一つ、答えも一つでいい。拾ったら戻れ」
その言葉で、今日やることがきれいに一つになった気がした。
宗一が机の上の白紙を指先で押さえる。
「で、何を問う」
シエルは間を置いて答えた。
「 "ぬ" の次の一文字だけ」
結衣が、そこでシエルの横顔を見る。
「本当にそれでいいの?」
「うん。まずは、前に拾ったものの続きだけ」
広くは聞かない。答えの意味を全部知ろうともしない。ただ、前に自分が拾った断片の、その先だけを確かめる。
宗一は頷いた。
「それでいい。欲を出さんほうがいい問いだ」
湯飲みを机の端へ寄せ、白い紙の横に鉛筆を置く。
「拾えたら、すぐに書け。向こうのものは、こちら側の形に落とせ」
社務所の裏手へ出る。
祠そのものは見えない位置だった。けれど、山の空気の奥に、あの場所の気配だけはある。近い。近いが、飲まれるほどではない。その距離の取り方が、宗一らしい。
作業台代わりの細長い机の前に、シエルは立った。結衣は斜め後ろ。宗一は正面ではなく、少し外した位置に立つ。
見守るための並びだ。
シエルは黒を保つ意識を緩めた。
視界の端の滲みが引いていく。肩の奥に入っていた余計な力がほどけ、黒髪と黒い瞳の定着が静かに解ける。銀と碧が戻る感覚は、ひとつの呼吸に近くなっていた。
春の風が頬を撫でる。
「行けるか?」
宗一が聞く。
「はい」
ロザリオを握る。銀の鎖と小さな十字が、ひやりとした。
息を吸って、吐く。
次に吸い込むまでの短い間へ、自分を置く。
昨日の図書室とは違う。あの時は、不意打ちのように頁が立ち上がった。今日は、自分でここへ来て、自分で一つだけ問うと決めている。
だから、怖さの形も違った。
飲まれるかもしれない怖さではなく、欲張ったら壊してしまうかもしれない怖さ。
( "ぬ" の次の、一文字だけ)
心の中で問いを置く。
その瞬間、視界の端に四角い輪郭が出現した。
祠の時より浅い。図書室の時より細い。水面に映った窓が一度だけ揺れるみたいに、薄く、だが確かにそこにある。
読めない列が走る。
見ようとしない。追わない。
息を置く。
掬う。
そのつもりで待つと、列のどこかから一つだけ、音より先に形が浮いた。
“ひ”
それは、文字というより、筆先の払いのようにも見えた。
見えたと思った瞬間、四角い輪郭がこちらを引こうとする。
胸の奥が冷える。
「シエル!」
結衣の声が短く飛んだ。
ロザリオを強く握る。銀の冷たさが、現実の居場所を教えてくれる。
吸って、吐く。
戻る。
木の匂い。土の匂い。春の湿った空気。
世界が順番に戻ってきている。
シエルは目を開けた。
視界の端に残る白みが消えるのを待ってから、机の紙へ手を伸ばす。鉛筆を握る指先は、震えていなかった。
ゆっくりと書く。
“ぬ”
その隣に、“ひ”
書き終えたところで、ようやく指先が熱を持っているのに気づいた。
結衣が、そっと息を吐く。
「……戻ってる」
「はい」
シエルの返事も、思ったより落ち着いていた。
宗一が紙を覗き込む。
「見よう」
シエルは紙を差し出した。
宗一は、そこに並んだ二文字を見て、目を細める。
「ぬ、ひ……か」
その声は低いままだったが、わずかに何かを測る響きが混じっていた。
「今のはうまく掬えた」
「はい」
「二文字目まで行こうとしたら、たぶん引かれた。今日はここで終わりだ」
結衣がすぐ頷いた。
「賛成。ちゃんと戻れたなら、今日はそれで上出来」
そう言われて、シエルは紙の上の二文字を見た。
“ぬ”“ひ”
どこかで見たような並びだ。だが、今ここで意味を言い当てようとすると、手順そのものを壊しそうな気がする。
宗一も、そこは急かさなかった。
「意味づけは後だ。今やるのは、欲を出さずに持ち帰ることだけでいい」
ありがたい言い方だった。
正解を急がせない。だが、意味がないとも言わない。その距離感が、宗一らしい。
シエルはもう一度紙を見た。
「うん。今日は、それで十分です」
結衣が横で笑う。
「その返し、今のはけっこう自然だった」
「今、そこですか」
「今こそだよ。これ大事だから」
頬が熱くなる。だが、それで場が軽くなるのなら悪くなかった。
宗一が紙を畳まず、白布の上へ置く。
「次もやるなら、同じ型でいく。問い、一つ。答え、一つ。息を置く。ロザリオで戻る。紙に落とす」
「はい」
「引かれそうになったら閉じる」
その一言に、シエルは頷いた。
理解できた、と思う。
アカシックレコードは、どこまでも開いていく知識の海ではない。少なくとも今の自分にとっては、作法を守って一頁ずつ、一文字ずつ触るしかない場所だ。
社務所へ戻る頃には、陽光が少し傾いていた。
帰り支度の前に、遥が淹れてくれたお茶を飲む。由奈は顔を出しかけて、宗一に「今は邪魔するな」と言われ、ふてくされながら引っ込んでいった。その騒がしさが、逆にこちら側へ戻った感じを強くする。
帰り道は、来た時よりも静かだった。
バスに揺られ、私鉄に乗り換え、窓の外に流れる夕方の町を見る。天ヶ浜市へ近づくにつれて、山の匂いが少しずつ薄れ、住宅街の明かりが増えていく。
隣で結衣が小声で言った。
「疲れた?」
「少し」
「でも、前とは違う顔してる」
「どう違いますか?」
「怖がってるけど、逃げたいって顔じゃない」
その言葉に、シエルは窓へ目を向け、そうかもしれないと思った。
怖いことに変わりはない。けれど今回は、自分で問うて、自分で一つ掬って、自分で戻ってこられた。
たった一文字だが、それでも、前とは違う。
指先でロザリオを服の上から押さえる。銀の冷たさは、もうただの気休めではなかった。
帰る位置を覚えておくための、小さな印。
世界は一度に開かない。
けれど、たった一文字でも、前より確実にこちらへ持ち帰れた。
それだけで、今日は充分だった。




