迷子
「坂ノ上学院」は、源家を中心とする、渡辺、坂田、碓井、卜部の五つの家のうち、坂田家が中心となって出資し、江戸時代後期に、最初は私塾として出発した。
明治の初めに本格的な「学校」としての体裁を整えられ、約100年余りを経て戦後になると、現在のような1学年12クラスものマンモス校にまで拡大していった。
敷地面積、約十数万平方メートルの内に、明治から昭和の初期頃まで使われた木造の旧校舎に、初等部から高等部までの、それぞれの現校舎。
そして、運動部ごとに振り分けられた幾つかの校庭と、体育館、武道館、プール、図書館、寮といった建物群を、赤松を中心とした松林が取り囲んでいる。
さらに、その周りを赤煉瓦造りの高い塀がぐるりと周回し、「私立・坂ノ上学院」というカタチを形成しているのだ。
1学年は12クラスという編成だから、小、中、高を合わせると、生徒総数は4000人を優に超える。
その内の1人として、現在、在籍2ヶ月ほどになる渡辺遥は、一週間ほど前、鬼退治の総本山たる源家が、鬼道からやって来た鬼に侵入された一件で左腕を骨折し、ギプスで固めた腕を、首から下げた白い三角巾で、吊りながらの学園生活を送っている。
考え事をしていた遥は、一瞬、放課後を告げるチャイムが鳴ったことにも気が付かなかった。
遥は、源家が1000年にもわたって採ってきたシステムに、最近、ますますもって懐疑的になっている。
源家を護る、渡辺、坂田、碓井、卜部の4つの家の内、「卜部」家の若き当主、卜部季武が源家に対し起こした「復讐」が一応の結末を見た時、これまで自分達が「鬼の姫の子孫」と思い込んでいた源鈴子を、ずっと自分の身代わりに仕立てていた本当の『姫』は、遥に言った。
「もっと、喜んだらどうなの?こうして、私が無事だったんじゃない」
と。
その時、遥の内に「何だ?コイツ?」という思いが、自分でも正視しがたい、おぞましい怪物のように鎌首をもたげ始めた。
それは、今まで感じたことも無いほど昏い、蔑みの感情だった。
「自分は、こんな女など、どうなってもいいのではないか?」
「季武さんは、こんな女の家のために、あんな最後を迎えることになってしまったのか」
そんな思いが、遥自身の内側で、日増しに強く、明確な「形」になっていくのが分かる……。
遥が携行する童子切安綱は、その力を眠らせる付喪神の布でグルグル巻きにされており、例え鬼道が開こうと、渡辺洸から直接の協力要請でもない限りは、その戒めを解くつもりは、遥には毛頭なかった。
今の彼は、童子切に直接触れることさえ、嫌だったのだ。
──────季武さんは源家だけじゃなく、他の、全部の家も、同じ様に許せなかったんじゃないだろうか……
そう思いながら席を立った時、声を掛けてくる者があった。
「浮かない顔だね」
振り向くと、そこには碓井家の見鬼である碓井由良の、7歳上の兄──────碓井杜貴也の姿があった。
有名な、渡辺家の見鬼様にしてはさ。と、悪意や嫌味を感じさせない、柔かな口調で話しかけてくる。
白皙を縁取る、ややウェーブのかかった黒髪は弟の由良を彷彿とさせるが、その黒白の美貌には、由良以上に孤高の雰囲気がある。
それでいて、その声の調子には、他人を惹きつけずにはおかないような、余裕にも似た、手招きするような「甘さ」がある。
少し前まで不登校を続けていた人物とは、とても思えない。
「僕なんか、いるだけで名門の名を貶めているようなもんさ。役に立った事だって、特に無いんだ。ましてや、今は、この腕だしね」
遥は、伏目がちに白い包帯の巻かれた左腕を揺らした。
見鬼特有の中性的な容姿は、華奢な体格と相まって、渡辺遥の性別を、どっち付かずの、あやふやなものに見せている。
人によっては女子だと勘違いするだろうし、見紛わなくとも、この年齢の男子にしては、随分と少女めく容姿を備えた、線の細い少年と思うだろう。
だが、源家で起きた「例の事件」以降、遥は何事につけ、終始沈みがちで、目に入る包帯の白さが、また実に痛々しく見る者の目に映って、彼の側に行くのを、つい、躊躇わせるほどだ。
「そんな事は無いさ。君は、その腕でも人鬼相手に、勇敢に右腕だけで戦ったっていうじゃないか。誇ったって良いくらいさ」
「それは──────由良から聞いた?」
内心、見鬼ではない「部外者」の杜貴也が、例の事件のことをサラリと口にしたことに、遥は内心でドキリとしていた。
だが、「まぁね」と微笑みかける杜貴也の顔は、遥も滅多に見ることの無かった由良の笑顔を思い起こさせ、今の遥に、何とも言えない安堵感を与えたのだった。
いまや、源家の在りように不信感を抱くようになってしまった遥は、同じ見鬼でもあり、短い間でも、肩を並べて共に戦った「戦友」である碓井由良と、無性に話しをしたかった。
同じ見鬼でも、自分が好きになれない「本当の姫」に掛かり切りの渡辺洸よりも、同性ではない渡辺結や坂田皐月よりも、由良と話したかったのである。
季武が亡くなった、あの日の源家での夜以来、一度も会っていない由良に、内心の思いを吐露し、笑いとばされるなり、叱責を受けるなり、呆れられるなり、されたかったのかもしれない。
それが、どんなものであれ、今後の自分自身が進む道に指針を与えてくれるような、そんな気がしていたのである。
今、彼は、「水から陸へと上がった魚」のような迷子だった。
「それはそうと、このクラスのもう1人の見鬼、坂田皐月は、全然、学校に出てこないね」
杜貴也が、ごく自然に話題を変えた。
「出てこない方がいいよ」
「ひどいな」
言いながら苦笑する杜貴也に釣られて、自分も笑う。
「会わせる顔が無いんだ」
と。
いつしか、遥と杜貴也は話しながら教室を出て、部活やら下校やらで行き交う生徒たちに混じって、廊下を歩き始めていた。
フンフンと、杜貴也が小さく鼻唄を口ずさむ。
それは、一週間ほど前、鬼と化した源家の当主の弟、源弥三郎が逃走の際にくちずさんでいた唄、「隠形の唄」であると、分家の人間である遥は気が付かない。
それでも遥は、その不思議な旋律が気になって、それは何の唄なのかと問いかけようとした。
その時──────
「俺は今、すごく機嫌が良いのさ」
と、杜貴也が笑った。
「君とこうして、友人になることが出来た。かつて、同じ主君に仕えた先祖の子孫同士が、こうやって肩を並べて歩いているなんて、それだけで、とても不思議なことだとは思わないか?」
孤高の貴公子のような顔がほころび、微笑みかける様は、それを見る者に、「これほどの人が、こんな風に笑みを見せるなんて!」と、思わずにはいられない程のものだった。
遥は急に自分が赤面しているかもしれないと思い、慌てて顔をそむける。
遥は、自分自身が、急速に目の前の男、碓井杜貴也に惹かれてゆくのを、ほとんど抗し難いほどに感じていた。
傷心を抱えた遥は、この時、季武の死を切っ掛けとして、自分を含めた、周囲のすべてが変わっていこうとしていることに、まだ、気が付いてはいなかった。




