薄氷
出発の日が慌ただしく決まり、明日の日曜日には多々良朔夜に率いられる形で、
多々良良平、
多々良蓮、
多々良莉奈子の、計4名が、他の3名に先駆けて、京都へと出発する。
だから今日は、多々良綾の神力が、人鬼に対し、どのような形で発揮されるのかを、皆で確認しなければならないのだ。
土曜日の午後。
部活帰りの制服姿で、多々良由利絵は綾の家へと歩いていた。
由利絵の家から、綾の家があるアパートまでは歩いて10分程度というところだが、学校からとなると、その倍の20分はかかる。
重い足取りでの、20分は長い。
「神力確認」のため、綾を迎えに行く役を自ら買って出た由利絵だったが、正直、綾の父親の顔は、なるべくなら見たくなかった。
────朔夜さんにお願いして、付いてきてもらえばよかったな……
自然と、由利絵の口から溜息が洩れる。
綾の父親は、綾の母親────つまりは、奥さんに先立たれてから、お酒をあおっては、荒れることが多くなったのだという。
そう大人達が渋い顔で話しているのを、由利絵は聞いてしまったことがある。
まともな働きも無いのに、何度も何度も借金しては、その度に、親戚中で面倒をみているのだという事も。
さらに、借りたお金の、ほとんど全てを、お酒やギャンブルにつぎ込んでしまって、家のことは、ぜんぶ綾に任せっきりなのだという事までわかると、もう、由利絵にとっては綾の父親は、もはや自分の叔父と言うより、酷い大人の象徴としてしか映らなくなっていた。
目的地のアパートが見えてくると、由利絵は口元を、固く、真一文字に引き結んだ。
足取りを重くする思いを、頭の中で、横へと押しのける。
綾の住んでいるアパートは、二階建てだ。もともとは白かったのであろう壁は黒ずみ、所々、茶色と黄色を混ぜたような色になっている。
綾の部屋は二階で、由利絵は、老朽化で所々サビついた階段を、特に意識したわけでは無いが、足音を立てずに昇った。
四つ並んでいる部屋の、一番奥の突き当たりが、綾の家だ。残り三つの内、手前の部屋以外は表札が出ておらず、誰かが住んでいる様子も無い。
奥にある綾の家まで足早に辿り着くと、由利絵は、少し震える指先で呼び鈴を押した。
誰も、出てこない。
また、呼び鈴を押す。それを何度か繰り返すと、ようやく扉が開いて、
「……なんだ」
と、無精髭を生やした、年の頃40代後半といった、やつれた感じの不機嫌そうな男が顔を出した。
「突然お邪魔して、申し訳ありません、叔父様」
由利絵は、まずは丁寧にお辞儀をした。
「クラスの、連絡事項の事で伺いました。綾ちゃんは、いらっしゃいますか?」
由利絵が喋っている最中に、綾の父親が、「お前は、あっちに行ってろ」と、家の中に向かって吐き捨てた。おそらく、綾本人が、何事かと顔を出したのだろう。
その様子に由利絵は苦笑したが、叔父が自分の方に向き直る前に、すぐに表情を元に戻す。
「連絡?そんなものは、週明けにでも、学校ですればいいだろう」
「今日、これから、少し前に怪我をして入院したクラスの子の御見舞いに行こう、という事になったんです。その子と仲良かった子、全員で。急に、本当に、急に決まった事なんです」
「……」
「綾ちゃん、その子と席が近くで、よく楽しそうにお喋りしていたから、綾ちゃんも誘おう、という事になって、私が誘いに来たんです」
「……」
「もちろん、担任の先生も付き添って下さいます。あ、先生に電話して、確認とりますか?そのほうが安心ですよね?」
この手の親が、担任教師と良い関係を築けているわけが無い。そう見越しての、由利絵の「策」である。
「そんな事、せんでいい。わかった。おい、綾、クラス全員で御見舞いだとよ。行きたければ、行ってこい。夕飯の支度をする時間までには戻ってこいよ」
綾が身支度を終え、部屋の奥から出てくるまで、綾の父はブツブツと、何事か不平を洩らし続けた。由利絵としては、綾を連れ出すことにまんまと成功した以上、あとはせいぜい、お行儀よく、愛想良くしているだけだ。
やがて制服に着替えて、肩より少し長いくらいの髪を左右で結んだ、綾が顔を出す。慌てて準備したらしく、息が少し乱れている。
綾は、早生まれの由利絵より何ヶ月か年上のはずだが、小柄で背が低く、年齢よりも幼く見える。実年齢より大人びて見られることの多い由利絵にとって、綾は、何もかもが対照的だ。何よりも、睫毛の長い、儚さを感じさせる透き通った瞳は、由利絵には、とても綺麗に見えた。
従兄弟の莉奈子などは、会うたびに、これ見よがしに綺麗に着飾っている。
だが、莉奈子のことは、あまり綺麗とも、可愛いとも感じたことは無かった。本当の美少女というのは、綾のような子のことを言うのではないかと、由利絵は思う。
「由利絵ちゃん?」
綾の呼びかけに、由利絵はハッと我にかえると、素早く綾の手を取って、足早に歩き始めた。
「由利絵ちゃん、お見舞いって、誰の?誰が入院したの?」
「さぁ、早く。綾も急いで。みんな待ってるから」
綾の言葉にかぶせるようにして、由利絵が少し声高に喋る。
由利絵が、綾を呼びに来た本当の理由を話したのは、何度か道のりに角を曲がって、綾の住んでいるアパートが、視界から完全に消えてからだ。
「え⁉︎じゃあ、本家の裏の『御山』の入り口で、みんな待ってるの?」
綾は、文字通り目を丸くした。
「そう。これから皆で付き添って、綾の神力をチェックするから」
由利絵と綾が言うように、多々良家の本家の裏手には、一族が所有する山がある。
「御山」、もしくは「聖域」と呼ばれるその山は、多々良家の広大な敷地の大部分を占める形で、隣り合う多々良、久遠寺の両家の敷地にまたがり、仕切りのような形で鎮座している。
御山の南側が多々良、北側が久遠寺というように、両家の敷地は、この山を挟んで、背中合わせのように広がっているのである。
山に、決まった名前は無い。
ただ、そこは現在から900年近く前、鎌倉幕府が源義経を追って東北へと攻め込んだ際、同行した渡辺党によって、殺された人鬼の血肉がバラ撒かれた場所なのである。
だからこの山に生えている木々は、当時の鬼の血を吸って育った、言うなれば「鬼木」なのだ。
神力の一番厄介な点は、鬼にしか、その力を発揮することが出来ない、という点にある。
それは、言い換えれば渡辺党は、鬼と対峙するまで、自らの神力がどのようなものなのか知る術を持たない、ということだ。
その最大の問題点が、この山の中ではクリアーされるのである。
渡辺党が永きに渡って、この地に縛り付けられてしまうのは当然の成り行きだった。
「……」
「心配しなくたって、大丈夫よ。急な事だけど、実は、『渡辺党』全員の京都行きが決まったの」
「えっ‼︎じゃあ、もしかして……」
「そうね。私達に出番がまわって来たってことは、鉄壁だと思われていた見鬼たちが、失敗したって事よね」
綾は頷きを返したが、由利絵を見返す瞳には、はっきりとした不安が揺れている。
──────あ、ヤバ……
これはマズイ、と、由利絵は思った。
騙して連れて来た上、色々あって、ただでさえ皆の前に出て行きづらい綾を、これ以上、不安がらせてどうする。綾は、自分以外の従兄弟達に会うのも、ほとんど初めてのはずだ。
「だ、大丈夫よ。戦いと言ったって、実戦は、みんなが初めてなんだし。それに、私たち『渡辺党』からしたら、害虫駆除みたいなもんでしょ?」
由利絵は饒舌に徹する事にしたようで、他にも、今回の京都行きには朔夜も同行してくれること、綾の、まだ誰も知らない神力の内容に、皆、ことのほか興味を抱いていること、莉奈子という底意地の悪い女がいるけど、何を言われても気にする必要は無い、ということなどを、由利絵は口にしてゆく。
綾の顔に笑顔らしきものが射し込みはじめ、やっと由利絵は安心した。
「7人が2班に別れて行動する事になるけど、私と綾は同じ班だし、『坂学』への転入組に比べたら、ずっと危険は少ないよ」
自分達の班は、綾と自分と、そして、あの十六夜であるという事は、あえて由利絵は口にしない。
やがて、神力を確認するための神域である『御山』への入り口を示す、朱塗りの鳥居が見えてきた。
朔夜が、由利絵と綾に向かって片手を上げる。
あまり歳が違わないと思われる、男の子が2人。1人はこっちを見ないけれど、もう1人は、メガネの奥の瞳が優しそうだ。綺麗な子と、綺麗だけれど、どこか気怠げな雰囲気の女の子が、2人で並んで立っている。
どっちが「意地の悪い」莉奈子ちゃんだろうかと、綾は考える。綾の目には、どちらも意地悪そうには見えない。
こうして7人は、朔夜と十六夜に先導される形で、初めて全員そろって、聖域へと足を踏み込んでいった。




