蠱惑(こわく)
「おい!」
風船男の怒鳴り声が、割って入ってきた。
「お前ら、呑気に話し込んでんじゃねえ!」
「なによ、まだいたの?」
皐月は、ありったけの嫌悪感を声に込めた。
大男のほうも、それを感じ取れないほど鈍感ではない。「何ィ?」と、怒気をそのまま声にした。
「怪我しないうちに、とっとと消えてよ。私は季武さんみたいに、人間出来てないんだから」
腰に手を当て、自分のことを仰ぎ見るようにしながら言い放つ皐月のことを、大男は品定めするかのような視線で睨みつけた。
「────ほう。確かに、そこの腰抜け野郎とは違うようだなぁ……さすが、金太郎の子孫は勇ましいぜ」
次の瞬間、風船男は、「はぐっ」と低く呻きながら、その場にズルズルとうずくまった。電光石火の素早さで、骨喰眞守の柄が、男の鳩尾に食い込んだのだ。
「あ、ゴメン。手が滑っちゃった」
それを見た季武が、「あーあ、先に手を出しちゃいましたよ」と、心の中で天を仰ぐ。
「コレ、ちょっと預かってて」
皐月は、骨喰眞守を季武に手渡した。
「武器は、使っちゃまずいでしょ?」
と、顔をほころばせながら言う。
────もう、それ使って一撃喰らわせちゃってますけどね
季武はそう思ったが、思うだけに留めた。
「こうなったら止めませんけど、油断しないで下さいよ?」
「何でよ?あんなの、単なる肥ったオジさんでしょ?」
「奴は、『蠱』と呼ばれる術の使い手です。その成り立ちは、我々の家よりも旧いんです。虫を仲立ちとして、一種の異能を振るいます。注意すべきは、奴がカエルと結縁を結んでるってことです。多分、半分くらい人間捨てちゃってると思いますので、そこのところは本当に要注意ですよ?」
「カエル?何それ?カエル男ってこと?笑っちゃうわね」
腹を押さえつつ起き上がってくるカエル男を視界にとどめながら、皐月は口調とは裏腹に、慎重にカエル男との距離をとった。
「季武さん、少し離れててよ」
「言われなくとも……」
季武の声も、表情も、警戒をはらんだ緊張感に強ばっている。
起き上がったカエル男は、見た目、平静そのもののように見えた。だが、いまや全身、怒気の塊と化していることは間違いない。
一瞬で、カエル男は皐月との距離を詰めた。枝から落ちる、一枚の木の葉が地面に落ち切る前に、カエル男は、皐月の視界一杯を占めていた。
ギュンと大気が唸りを生じて、カエル男から強烈な回し蹴りが繰り出される。
反射的に身を沈めて、皐月はこれに空を切らせた。相手がカエル男と知って、最初から人間離れした瞬発力を警戒していたのだ。
皐月は透かさず、今、まさに相手の全体重を支えているはずの、片方の脚を思い切り蹴り払った。
カエル男を転倒させて、今度は相手に立ち上がらせる時間を与えず、そのボテ腹を一蹴りして終わり────
そう考えての、最初の一撃である。
案の定、吹き損ねのトランペットのような声を発して、カエル男は地べたに転倒した。
よし、狙い通り────
皐月は、この後、自分の知らないところで見合いなんか段取りしていた父に、どう文句を言ってやろうかと考えながら、トドメとなる一撃を放った。
ズブリ、という音がした。
蹴りを放った皐月の脚に、手応えは殆ど無かった。
自分自身の戸惑いを表に出さないよう、皐月は意識的に、表情を硬くした。それとは対照的に、カエル男は歯を剥き、表情だけで笑う。
皐月の白い足首が、カエル男の、グローブのような手に掴まれた。
白足袋に塗り下駄の片足を掴んだまま、カエル男が立ち上がる。
「あっ」
皐月が、尻餅をついた。
カエル男は、さらにその手を高々と掲げ上げ、皐月を宙吊りにする。振袖の裾がめくれ、白い脚と、そして太股、さらには、その下の下着までが露わになる。
「やだ、ちょっと、やめてよ!」
「ふん、捕まえちまえば、こっちのもんだぜ」
カエル男は、勝ち誇ったように言った。そして値踏みするような声で、「おやぁ?」とつづける。
皐月が、慌てて振袖の裾を両手で手繰り寄せた。
「何だぁ?お前、勇ましいわりには、随分と可愛らしい趣味してんじゃねぇか」
カエル男は、特徴的な「キシシ」という笑い声を、再び上げた。
皐月が、くやしそうに唇を噛みしめる。
戦いの様子を静観していた季武が、「骨喰眞守」の封を解こうと、大薙刀をくるんでいる、色褪せた布の組紐に手をかけた。
その時────
人気の無い、広すぎる庭に、いやにハッキリと、「バキッ」という鈍い音が響き渡った。
「お?」
カエル男が、くらりとよろける。
カエル男のこめかみには、白い足袋に包まれた、細くて白い脚────ではなくて、筋肉が隆々(りゅうりゅう)と盛り上がった、白いが、逞しい足が「蹴り」の形でめり込んでいた。
カエル男は、今、自分に何が起きているのか理解できない、という声で、もう一度「お?」と言った。
バキッという音が、もう一度。
さらに、もう一度。
剛力を誇る坂田家特有と言われる「剛化現象」を起こした皐月の蹴りは、喰らうと、流石に効くらしい。その上、頭部というのは他の部位と比べて、柔らかくは出来ないものだ。
四度目を喰らった時点で、カエル男は大きくよろけた。つかんでいた皐月の脚を離し、今度は、自分が派手に尻餅をつく。
「思ったとおりだわ……」
上から振り下ろされるような声に、カエル男は動転しきったように皐月の姿を見上げた。頭がクラクラして、すぐには立ち上がれない。うまく足に力が入らず、いったんは腰を浮かしかけるものの、また、すぐに尻餅をついてしまう。
「頭だけは、柔らかくすることが出来ないのね」
そう言う皐月の姿は、隆々とした筋肉に鎧われて、体全体が二周りほども大きくなっていた。肩幅も広がり、着ているものは、完全に着崩れしてしまっている。
「おい、ちょっと待てって……マジかよ?」
「ダメよ────こうなると、もう止まらないの」
何やら興奮した様子の皐月に、カエル男は初めて焦りの表情を見せていた。
人体の中で、唯一やわらかくできない部分、それは骨であり、皐月が口にしたように、頭蓋骨に覆われた頭部である。その後頭部を、皐月はサッカーボールでも蹴るかのように、思いきり蹴り飛ばした。
衝撃と共に、カエル男の巨体は10メートル近くを吹っ飛んでいった。そしてその先にある、大きな庭石に頭から突っ込んでしまう。
轟音と、地響きと、そして砕かれた石塊の破片が、濛々(もうもう)たる埃のなかをパラパラと落下する。
「それにしても、ずいぶん派手にやらかしましたね」
季武が、肩で息をしながらへたり込んでいる皐月のそばに膝をついた。
「まぁ、あれでも死んではいないと思いますが……」
そう言いながら、皐月の着崩れした着物を、さり気なく直してやる。皐月の体型は、すっかり元に戻っていた。
「しかしこれでは、さすがに人が集まってくるでしょうね。早いとこ、この場を立ち去りますか」
「うん────」
か細い声。
皐月はカエル男を蹴り飛ばしてからというもの、地面にへたり込んでしまって、動こうとしない。
「大丈夫ですか?────立てます?」
「大丈夫……大丈夫、だけど…」
「坂田家の剛化現象、初めて見ましたけど、リスクも大きいようですね」
皐月に肩を貸しながら、季武はゆっくりと立ち上がった。
源家の使用人たちが、庭の異変に気が付いたらしい。少し離れた母屋のほうから、口々に何かを叫びながら、こちらのほうを指差しているのが見える。
二人が踵を返しかけると、少し前まで「庭石」だった瓦礫の山で、爆発らしきものが起こった。
カエル男が跳ね起きたのだ。




