泥花蜜(どろかみつ)
自らが巻き起こした塵埃の只中で、カエル男は、自分に起こった事が信じられぬといった態で屹立していた。やがて皐月と季武のことを視認すると、唸るような声を上げる。
「……小娘が」
季武は、カエル男の着ているものが、妙な崩れ方をしていることに気が付いた。注視すると、それが激しい闘いだけによるものではない証拠に、薄く白煙があがっているのだ。
その、季武の訝しげな視線に応じるような表情で、カエル男は細い両目をいっそう細めた。
「気付いたか?」
「……」
「南米にはな、蟇など比べものにならないほど、強力な毒を分泌する種類がいるんだぜ。そいつはよ、苦しめば苦しむほど、大量に毒液を分泌するんだ……こんなふうによ!」
叫びつつ背を向けたカエル男の上半身は、衣服がほとんど、溶けて失われていた。隆起状の突起物が不規則に並んだ、不気味な肌が露出している。
見ると、それらは脈打ちながら、ドーム状に膨れ上がっているのがわかった。そして突起物の先端から、突如、いきなり透明な液体が噴出してきたのである。
「!?」
これには、さすがに季武も軽く仰け反った。
噴き出した液体は、シャワーのように細長い放物線を描きながら、地面へと降り注いでいく。飛沫が飛び散り、わずかに濡れた地面からも、鼻を刺すような異臭、そして、白煙が立ち込めている。
「……酸?」
しかも、どうやら相当な毒も含まれているらしい。白煙に捲かれた庭木の緑が、枯れたように変色している。
季武が何より驚いたのは、これほど強い酸性の毒を分泌しながら、カエル男の体は、まったく無事なことだ。おそらく、両生類のような粘着質の皮膚が、体全体を保護しているせいだ。
季武は、これとまったく同様の働きをする器官が、人の体内にもあることを知っている。
胃である。
一度の食事で、500ミリリットルも分泌される胃液には、金属をも溶かしてしまう強力な塩酸が含まれている。
にも関わらず、胃液が、胃袋まで溶かしてしまうということは無い。
これは、胃壁の粘液細胞が、絶えず粘液を分泌し続けているからである。
奴の体も、それと同じに違いない。毒液自体も、多分、胃液を変化させたものだ。
────それを、背中にあると思われる毒袋に保蓄し、背筋を収縮させるか何かして、一気に放出する────そういう仕組みか?
人間離れした奴だと思ってはいたが、正直、これほどまでとは思わなかった。季武は、逆に感心さえ覚えてしまう。
辺り一面に、白い異臭が立ち込め始めた。カエルと結縁を結んだ男の撒き散らす毒煙は、風に煽られ、揺らめきながら、いまや源家全体に拡散していこうとしている。
季武は、皐月を半ば抱えるようにしながら、低木や、植え込みの茂みを、茂みから茂みへ────そして、物陰から物陰へと、隠れながら、風上へと移動してゆく。
何度目かの物陰に身を隠した時、季武は、自分と同じように身を隠している鈴子と遭遇した。
「あれ?」
「あ……」
「こんな所で、何やってんです?お姫さま」
「あ、あの……」
鈴子は、目に見えて動揺した。
「あの、その」と実に分かり易く狼狽えた後、観念したように、自分が何でこんなところにいるのかを、しどろもどろで説明する。
「私……やっぱり、連れ戻されちゃうんでしょうか?」
怖ず怖ずと、鈴子が尋ねる。
「心外だなぁ」と、季武が吐息のように答えた。
「そんなふうに思ってたんですか?」
ねぇ、と、季武が皐月に同意を求める。
「ありがと、季武さん。もう、立てるから」
皐月は不機嫌さを隠しきれないといった様子で、明らかに鈴子に当て擦るように言った。和かだけれど、冷たい。
「お姫様、不自由なのは解らなくもないですが、私も遥も由良くんも、そして洸さんだって、あなたを御守りするため、全てを投げうってきたつもりではあります。では、どうかお気を付けて」
言うだけ言うと、皐月は、一度も鈴子のほうを見ようとはせず、早々にその場を後にした。どすどすと、地面を踏み鳴らし、去ってゆく。
「気にしないでいいですよ。これは、その遥君が言い出したことなんでしょ?」
鈴子は小さく頷きを返したものの、それきり、沈み込んだように黙ってしまった。
「さてと────それじゃ、あまりグズグズもしてられませんね。抜け出すなら、今、起きている混乱が、収まりきらぬ内でなければ」
自分たちが逃げてきた方向に、次々と源家の使用人たちが向かってゆく。口々に、「何だ?何事だ?」と発しているところを見ると、まったく事情を知らないらしい。
季武は、腕時計で時間を確認した。
時計の針は、10時40分位をさしている。
「40分遅れですか……」
と、つぶやいた。
────私が君なら、40分くらいは余裕で待つんですが……まさか、あきらめて帰っちゃったりはしてないでしょうね、遥君……
鈴子の手を引きながら、季武は、やや早足で歩いて行った。
一方、カエル男は、いまだに其処彼処に、毒液を撒き散らし続けていた。
危なくて、誰も彼に近づくことすら出来ない。
うっかりと風下に立ってしまった使用人の何人かが、毒煙を吸い込み、玉砂利の敷かれた地面に横たわっている。
他にも、庭石に覆い被さるようにして吐いている者が数人。
咳き込みながら、比較的、無事な者たちが慌てて風上へと走ってゆく。だが間に合わず、その途中で半数が倒れた。
「あいつら!どこに隠れやがった!出てきやがれ、ちくしょう!」
カエル男は、喚き散らしている。
その時一匹のスズメバチが、毒霧をかき分けながら、その中心に立つカエル男へと、密かに接近中であった。
その接近に、カエル男は気付くことが出来なかった。
周りの喧騒と、何よりも自分から、視界を白く染め上げてしまったからである。
数秒後、カエル男はバッタリと倒れた。
後頭部には、大きなスズメバチが一匹止まっている。
毒煙が、すっかりと風に吹き払われてしまうと、突っ伏したカエル男を中心として、遠巻きに使用人たちの輪が出来つつあった。
「何だ?どうなったんだ?」
「急に、倒れたようです」
そんな内容の話し声が、其処彼処から囁かれ始める。
「今のうちに、警察呼びますか?」
そう耳打ちした若い使用人が、年輩の執事らしい男に凄まじい眼光で射抜かれ、「申し訳ありません!」と、背筋を伸ばして恐縮する。
そんな中、人々の輪の外側から、ツカツカと輪の中心へと歩み出てきた者がいる。
年端もいかぬ、女の子だ。
胸元にリボンをあしらった、黒を基調としたフォーマルなワンピース姿。肩まである栗色の髪は、先の方がくるくると巻き毛がかっている。
やや吊り上がった目もと、そして、小さな口元とが相まって、まるで人形のように愛らしい。
女の子が、カエル男の頭のところで、しゃがみ込んだ。
それを見守る人々が、全員、口をつぐむ。
沈黙の中、女の子は、カエル男の頭をポカリと殴った。
「痛い……」
と小さく言って、殴ったほうの手を、もう片方の手で押さえる。
その姿に、微笑ましいものを感じた何人かが小さく笑う。けれど、やがて、ブンブンと耳障りな音が周囲を圧し始めると、全員が、何事かと頭上を警戒し始めた。
その音は、まごうこと無き蜂の羽音であったからだ。
その時────
栗色の髪の少女が、自分で自分のスカートを、胸くらいの高さにまで捲り上げた。
それを見た者は、誰もが、その凄まじさに我が目を疑った。
少女の細い脚は、大人の親指ほどもあるスズメバチで、ビッシリと埋め尽くされていたのである。
次の瞬間、蜂たちが一斉に飛び立った。
目の前の少女は、倒れているカエル男と同類だ────
そう悟った者から慌てて逃げ出したが、間に合うわけはない。飛び立ったスズメバチの大群は、その場に居合わせた人間すべてに、怒涛のように襲いかかった。
オオスズメバチの毒は、神経性の猛毒である。その強さは、コブラの毒や、青酸カリよりも強力と言われる。
だがこの少女は、あるいは少女の一族は、結縁を結んだ虫の毒質を変えられるらしい。
カエル男を含め、恐るべき蜂の一刺しを受けた者は、皆、安らかな寝息を立てながら、幸せそうに地面に転がっているのだった……。




