#2
「葉子、葉子……」
と香緒里の声が聞こえた。
私がゆっくりと顔を上げると、今度は、世界史の寺西の声が聞こえる。
ふと我に返るともう三限目で、私の机の上には一限目の数学の教科書が出ているままだった。
慌てて机の中から世界史の教科書を出す。
「財前、方程式は解けたか」
寺西の言葉にクラス中が笑っている。
私は世界史の教科書を机の中に戻した。
そして手を真っ直ぐに上げた。
「先生……」
寺西は黒板に書く手を止めた。
「どうした、先生に方程式の事訊かれてもわからんかもしれんぞ」
また笑いが起こる。
こうやって皆の人気を取る先生だ。
怒る気にもならない。
「体調が悪いので帰ります」
私は机の上のモノを鞄に詰めて、さっさと教室を出た。
「おい、おい財前」
廊下を歩く私に寺西が言う。
私はそのまま学校を出た。
いつもの様に校門を出るまで自転車を押して、出た瞬間から自転車をこぎ出す。
何処でも良かった。
息苦しい教室の空気から逃れる事が出来れば。
私は自転車を走らせる。
温い風が髪の毛を浚う。
何処にも向ける事の出来ない苛立ちが空っぽの私の中で蠢いている様な気がした。
目の前の信号が赤になり、私は自転車のブレーキを握った。
目の前を数台の車が過ぎて行く。
その排気ガスの臭いが凄く嫌で、私は俯いて息を止め、焼けたアスファルトを見た。
来夏さんがいつもいる公園の傍を通る。
流石にこの時間に来夏さんは居ないだろう。
芝生の広場を隅から隅まで見るが来夏さんの姿は無かった。
「いる訳ないか……」
私は自転車を走らせて家路を急いだ。
急ぐ理由も無いし、帰ってもする事も無い。
私は何をすればいいんだろう……。
そんな事を考えながら自転車をこぐ。
公園を過ぎた所にあるコンビニに寄る事にした。
お昼は学食で食べるつもりだったけど、早退しちゃったし……。
私は前の籠に入れた鞄を持ってコンビニの中に入る。
適当にパンと飲み物を取り、窓際にある本のコーナーへ。
いつもは気付かなかったけど、雑誌って結構ある。
友達が学校に持って来るファッション誌の類には興味が無い。
じゃあ何に興味があるかって訊かれても困るけど……。
なんとなく気になった雑誌を手に取った。
過去のスクープをまとめた写真の載った雑誌。
パラパラと捲ると国会議員が誰かに撃たれて死んだ瞬間を撮った写真が載っていた。
連写で撮ったのか、ビデオなのか、撃たれて倒れる写真が並べて載っていた。
記事によると周囲には撃たれた議員の脳が飛び散ってたらしい。
私はその記事の最後にあった名前が目に入った。
「野上来夏」とそこには有った。
これって来夏さん……。
私はもう一度、食い入る様に見た。
数年前の事件だったけど、こんな事件があったのは覚えていた。
そのスクープを撮ったのは来夏さんだったんだ……。
私はその雑誌も一緒にレジに出した。
家に帰るとベッドでその雑誌をもう一度読み返した。
当時の来夏さんの書いた記事がそのまま載っていた。
来夏さん……。
本当にライターだったんだ。
私は初めて知った来夏さんのフルネームをスマホに入力して検索した。
思ったよりも色々な記事が出て来た。
国会議員の不正とか、アイドルの不倫の記事まで。
そりゃ、頼まれたら女子高生のパンツの写真も撮る訳だ……。
私は買って来たパンを食べながら、スマホを見た。
知っている人の書いたモノがネットや雑誌で読める事が不思議な感覚で、私は夢中で読んだ。
読み進めて行くと、他のモノとは少し違った文章を見付けた。
何かの雑誌のウェブ版でライターを取材するというコーナーがあり、フリーライター野上来夏の事を書いてある記事を見付けた。
私は思わず身体を起こし、それを読む。
野上来夏は本名で、来夏と言う名前は来夏さんの父親が付けた名前で、六月生まれだという事と、父親の趣味がカメラで、ドイツのカメラメーカーのライカから取ったモノらしい。
そう言えば来夏さんのカメラにも「Leica」って書いてあったな……。
好きな音楽はヘレン・レディ。
知らないな……。
尊敬する人はルポライターの木瀬義秋氏。
木瀬氏のフクシマを撮った写真が宝物だと書いてある。
木瀬義秋……。
誰だろう……。
フリーライターになった切っ掛けは食べるため……。
何とも来夏さんらしい答えだ。
三流大学を出て、出版社で雑誌編集の仕事を数年やった後、木瀬氏の写真を見た日に、出版社を退職し、タブロイド紙の会社のドアを叩く。
そのままフリーのライターとして活躍。
他人と違う観点からターゲットを狙う方法で、多くのスクープを掴む。
来夏さんって凄いんだ……。
凄い人と話をしてたんだな……私。
来夏さんの尊敬する人の木瀬って人の情報はネットには出て来なかった。
どんな人なんだろうか……。
私はスマホを胸の上に乗せてベッドに横になった。
なんだか少しだけ来夏さんと近付いた様な気になった。
私にも出来るかな……。
ライターって仕事。
見慣れた天井を見ながらそんな事を考えた。
少し眠ってたみたいで、目を覚ますと夕方だった。
夏の一日は長く、まだ外は明るかった。
私はキッチンに下りて冷蔵庫からいつもの様に缶ビールを取り、部屋に戻った。
プルタブを開ける時の独特な音が良い。
私は喉を鳴らしながら缶ビールを一気に半分程飲んだ。
そして机の引き出しからタバコを出して咥える。
近所から子供の声が聞こえて来るけど、私の部屋の窓からその姿は見えない。
タバコに火をつけて、窓を大きく開けた。
タバコを咥えたまま、大きく身を乗り出した。
そろそろ窓から入って来る風だけじゃ暑くて眠れなくなる。
今日の夕飯、なんだっけ……。
私は夕飯をチェックするのを忘れた。
父が帰って来るかどうかもわからない。
私はタバコを咥えたままベッドに横になり、天井を見る。
この間読んだ本で十四歳って多感な時期で……みたいな奴があった。
十七歳だってそんなに変わらない。
回りが思うより不安定だ。
落ちそうになったタバコの灰を空き缶に落とす。
そしていつもより少し長いタバコを消した。
残ったビールを飲み干すと空き缶を持ってキッチンへ行く。
ついでに今日のおかずをチェックするために冷蔵庫を開けた。
今日はオムライスで、やっぱり私の分だけ。
今日も父は帰って来ない
冷蔵庫を閉めるとドアに予定表が貼ってあった。
週末には進路の最終決定日と書いてある。
三者面談の日だ……。
進路か……。
将来の事まで考えて進路を決める。
十七歳の高校生にそんな事が出来るのだろうか。
皆、そんな事考えてるんだろうか……。
空っぽの私。
疑問符だけが私の中で蠢く。
「進路か……」
私は冷蔵庫のドアに手を突いて溜息を吐いた。
私って大丈夫なのかな……。
ちゃんと高校生出来てるのかな……。
私は部屋へと戻るために階段を上った。
部屋に戻ると椅子に座り、クルクルと回った。
部屋が回っている。
何の飾りも無い女の子らしくない部屋だって、母にも言われた事がある。
女の子らしい部屋ってどんなの……。
ぬいぐるみとか飾るの、花柄のカーテンとか、ひまわりの付いた麦わら帽子とか掛けるの……。
女の子らしい部屋にしても良いけど、それは同時に私らしくない部屋になる気がする。
回転する椅子を止めて、机の上に手帳を出す。
開いてみるけど、何も予定なんて書いてない。
日付の下に赤い線を引いてるのは生理が来た日と終わった日。
これは初潮を迎えた時に自分でちゃんと記録しなさいって母が教えてくれた事。
大人になった時、役に立つからって言ってた。
それ以外書き込んでいる事といったら終業式。
本当は部活の予定とか、友達と遊ぶ予定とか、色々と書き込むつもりだった。
だけど、この先の予定は真っ白。
今の私と同じ。
とりあえず、週末に「進路最終決定」と「三者面談」を書き込んだ。
母は覚えているのだろうか。
手帳に挟んだ進路の書き込む紙。
これに書き込むと私の行先が決まってしまう。
こんな紙に書き込むだけで、将来が決まってしまう。
「ご両親と話し合って、進路は良く考えて決めなさい」
と担任の黒田は言ってた。
良く考えろって言われても週末には出さないといけないし、父も母もなかなか会えないレアキャラみたいな存在で……。
もう、どうすれば良いんだろう……。
もう一本タバコを吸おうと思い机の引き出しを開けた。
最後の一本だった。
それを咥えて火をつける。
後で買いに行こう。
タバコ吸いながら進路を考えている女子高生って何人いるんだろう。
そんな事を考えたら可笑しくなった。
タバコを消して、煙の充満した部屋から外に向けて扇風機を強で回す。
匂いはわからないけど、とりあえず煙は無くなった。
制服を脱いで、服を着替える。
流石に制服でタバコを買いに行くのは気が引ける。
脱いだブラウスを洗濯機に放り込み、玄関を出る。
ガレージから自転車を出して、近くのタバコ屋まで行く。
兄の名前のタスポを持っているので、自販機でタバコをいつも買う。
近くでしてた子供たちの声はもう無くなってた。
暗くなってきたんで帰ったんだろう。
坂道を軽快に下りながらタバコ屋へと向かう。
今はタバコの販売もコンビニにお客さんを取られ、今では自販機だけがその売上の大半を占めるとテレビで言ってるのを聞いた。
このタバコ屋も同じで、お店が開いているのを見た事は無い。
たまにおじさんが自販機に補充しているのを見た事はあるけど……。
私は傍にあるベンチの横に自転車を止めた。
そして私の吸う銘柄の自販機にお金を入れてタスポをタッチする。
そして取り出し口から出て来たタバコを取り、ポケットに入れた。
顔を上げるとタバコの自販機の隣にお酒の自販機があった。
私はその自販機が気になり並んでいるお酒を見る。
こんなモノもあるんだ……。
少し高いがウイスキーなんかも自販機で売っている。
私はそれを飲んでみたくなり、お金を入れた。
しかし、お酒の購入にも成人のチェックがあるらしく、どうすれば良いのかわからなかった。
「子供には買えないぞ」
と声がして免許証を差し込んでくれる人がいた。
大きな音を立てて、ウイスキーのボトルが落ちて来た。
私は、顔を隠す様に頭を下げて、
「すみません。ありがとうございます」
と言った。
顔を上げてその人を見る。
「やっぱり葉子か……」
とそこには来夏さんが立っていた。
「来夏さん……」
来夏さんは微笑みながら自販機でタバコを買い、そのままお酒の自販機で缶ビールを買っていた。
「何でこんな所に……」
来夏さんは、私の自転車の傍に停めた車を指差して、
「今日は珍しく仕事の帰りだ」
と言う。
そしてジュースの自販機で缶コーヒーを二本買い、私に一本くれた。
「ちょっと付き合えよ」
と言って、ベンチに座った。
私は来夏の横に座る。
「今日、昼前に帰ってただろう」
来夏さんは私を見て笑った。
「どうしたんだよ……。最近元気無さそうだけどさ……」
タバコを開けて咥えた。
私は手に持った缶コーヒーを両手で握ったまま、頷く。
「何か、よくわかんなくて……」
来夏さんはポケットを探っていた。
ライターを探している様だった。
私はポケットのライターを来夏さんに差し出す。
来夏さんはそのライターを見て動きを止め、
「ありがとう」
と言うと私のライターで火をつけた。
「私も、何がわかんないか訊く程、野暮じゃない」
そう言って私にライターを返す。
「何がわかんないかもわかんないんだよな……」
来夏さんは煙を吐いて、私を見た。
私はコクリと頷いた。
「それで酒か……」
「そう言う訳じゃないんですけどね……」
私は笑いながら、傍に置いたウイスキーのボトルを見た。
来夏さんは私を見て微笑むと、
「でも、わかるよ……。そんな歳で、将来何がしたいか決めろって言われてもな」
そう言うと空に幾つか見える星を見た。
「私もわかんなかったな。わかんないからとりあえず大学行って、それでもわかんなくて、本が好きだから出版社入って……」
私が昼間読んだ来夏さんのネット記事の説明と同じ事を言っていた。
「知ってますよ……」
私が言うと来夏さんは笑っていた。
「野上来夏……フリーライター。尊敬する人は」
「木瀬義秋」
来夏さんは自分で言う。
「ネット読んだな……」
私はコクリと頷いた。
来夏さんは微笑んでタバコを吸った。
「私の尊敬する人、そして目標だ」
私を見て歯を見せる。
私は、楽しそうに話す来夏さんが羨ましかった。
来夏さんには目標があって、私には何も無い。
私はベンチに座ったまま両足をピンと伸ばし、伸びをする。
「木瀬さんに会った事あるんですか」
来夏さんはタバコを咥えたまま空を見た。
「多分……」
え、多分……。
「ビルの屋上に寝転んで都会の雲の写真を撮る人が居てね……」
来夏さんと同じだ。
「何だろうな……。不思議な人だったな……」
木瀬さんを思い出す様に優しい表情の来夏さんだった。
「でも、その時はそれが誰かわからなかったんだ……。けど、ずっと前から知ってたような気持ちになったし、私の心が躍ってたんだ」
私はポケットに入れたタバコを出し、封を切ると咥えた。
そしてライターで火をつけた。
「それが木瀬さんだったんですね……」
来夏さんはタバコを吸う私を見て、苦笑した。
「それもわからないんだ」
「えっ……」
来夏さんはクスリと笑い、
「少なくとも私の中の木瀬義秋は彼だ。それで良いんだ」
と言う。
そして、手に持ったタバコを近くにあった吸い殻入れに捨てた。
「ただ……」
来夏さんはそう言うと俯く。
「どうしたんですか」
私もまだ長いタバコを吸い殻入れに入れた。
「いや、何でもない」
来夏さんは缶コーヒーを飲み干して、自販機の横にある空き缶入れに入れた。
そして私の方を振り返った。
「葉子……」
私は顔を上げた。
来夏さんは私に優しく微笑む。
「酒とかタバコとか、男とかクスリとか……。人間、逃げ道はいっぱいあるんだけどさ。逃げないで自由にやれるのも若い奴の特権だからな。それが出来なくてそういうのに逃げる奴ってのは擦り切れてしまった大人か、もう壊れてしまった大人だ」
ストレートに酒とかタバコは良くないって言わない来夏さんが私は好きだ。
来夏さんは車のドアを開けた。
そして乗り込みながら、
「今は子供を楽しめ。葉子はもっと子供でいいよ」
そう言ってドアを閉め、エンジンを掛けて、クラクションを二回鳴らすと走り去った。
私はその来夏さんの車のテールランプをずっと見ていた。
「子供で良いんだ……」
私は何故か、そう呟いた。
家に帰ると、父のロックグラスに氷を入れて部屋に入った。
誰も居ないのだから何処でウイスキーを飲んでも良いのだけど、私には自分の部屋が一番落ち着く場所だ。
氷を入れたグラスにウイスキーを注ぐ。
ビールやカクテルの様なお酒は飲んだ事あるけど、ウイスキーは初めて。
琥珀色のお酒に指の先を付けて舐めてみると、痺れる様な感覚。
そしてグラスに口を付けて見た。
唇が痺れる。
高いお酒はまた違うのかもしれないけど、カッと熱くなる感じがする。
来夏さんの言う「逃げている」って感覚は全く無かった。
私としては大人と対峙しているつもりだった。
更にウイスキーをゴクリと多めに口に入れた。
喉が焼ける感じ。
嫌いじゃないかも……。
「暑い……」
私は来ていたシャツとスカートを脱いで、下着姿でベッドに横になった。
父が酔っぱらってパンツ一枚で、ソファで寝てる事がある。
身体の中が熱くなり、ベッドの冷たい感覚が気持ちいい。
父もそうなんだろう。
顔が熱い。
ビールやカクテルでは此処まで熱くなる事は無い。
息を吐く時に胸が震える感じ。
瞼が重く、朦朧として行く感じ。
子供には味わえない感覚なのかもしれない。
脱いだスカートのポケットでスマホが震える音がしている。
誰だろう……。
そう思いながらも起き上がってそれを取るのが億劫で。
それでも手を伸ばすが、放り投げた場所が遠く、手が届かない。
私はベッドから転がる様に落ちた。
「痛ったぁ……」
床で打った膝を摩りながらスカートを取り、スマホを出した。
画面を見ると佐知の名前が表示されていた。
「佐知か……」
私は、電話に出ずにテーブルの上にスマホを置いた。
どうせ、部活に出て来いって話に決まってるし……。
私はゆっくりとベッドに上がると、大の字になり天井を見た。
酔ったのか、ふぅと息を吐く。
進路、将来、三者面談、水泳、選考会、尊敬する人、目標、自分の事、明日の事。
空っぽの私の中に風に舞って、道の隅に溜まっている枯葉の様に問題が積もって行く。
多分、私だけではない、佐知にも同じ様な問題はあるだろうし、来夏さんにもある筈。
それから逃げているのは私だけなのだろうか。
皆、出来れば逃げたいに決まっている。
そして気が付くとそんな問題が解決していれば良いと考える筈だ。
私は頭の下に両手を入れて枕代わりにした。
「どうなるんだろう……私」
私はそのままゆっくりと目を閉じた。