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こんなに蒸すんだ。夕風が熱いのもおかしなことじゃない。ただ……ひどく喉が渇く。
ひりつく喉の感触で目が覚めた俺は、寝床の中でモバイルを引き寄せた。
「三時か……」
当然、家中寝静まっている。窓の外からも静寂しか聞こえない。
オラヌさんのことなど気にかかっていないと言えばウソになるが、だからといって誰かが飲み物を持ってきてくれるわけでもないのだ。自分で行くしかあるまい。
軽く体を返して仰向けになった次の瞬間、全身の毛穴が開くほどの恐怖が俺を凍りつかせた。
(何か居る)
太ももに触れる人肌の感触。なのにそれは冷たく、張りに乏しくて……
(死体だ)
じいちゃんの葬式のときに触れた頬の手触りと同じだ。それが今、俺の太ももの裏にある。気のせいなんかじゃない。その証拠に膝は緩く曲がった形以上には下がらない。
(いや、気のせいだ……絶対、気のせいだ!)
拒絶を込めて膝を伸ばす。
ぬろり
舐められた!
体温を失っているくせに、ぬっとりとした唾液を擦り付ける肉質が、ぽってりと妙に鮮やかだ。掛け布をめくり上げそうになるのをこらえて、そっと寝床を抜け出す。
薄掛けに、ちょうど人の頭程度のふくらみが残ったが、めくりあげてその正体を確かめる勇気はさすがに持ち合わせていなかった。むしろ布団の上から押さえ込んで、封じ込めてもしまいたいが、それには例え布越しとはいえ、あの質感に触れなくてはならないわけで……
きし、きし
小さな床音は、目を覚ました家人がこの部屋へ向かっている足音なのだと、はじめはそう思った。だが、その軋みは部屋の奥から、この部屋の床を鳴らして近づいてくる。
か細い女の声が耳元で囁いた。
「頭が、見つからないの」
若い。声だけでもそれが二十歳前だと思うほどの、愛くるしい声。
「ねえ、頭、見つからないの」
じゅわっ
舌の表面に、吐き気を含んだ酸味が広がった。
見通しの利かない暗がりの中、赤いスニーカーが転がっている。はじめからではなく、血で真っ赤に染まった白い通学用スニーカーが。
こと、と生前の足取りを再現する動きは重たげで、その中にみっしりと詰まった肉を想像するには十分だ。それなのに足首から上がないということは……
「ねえ、頭……」
「俺は知らないっ!」
握り締めていたモバイルの画面をなぞる。
《#オらヌさん》
次々と現れる情報を精査する暇などない。斜めに文字を追いながら探す。
どこかにあるはずだ、この状況に対する対策が。
《#オらヌさん #撃退法》
これだ!
しかし、それを読むことは叶わなかった。
ふわりと香るフルーツ系のコロン、肩に回される細い腕の感触。
「……とても、痛かったの」
次の瞬間に知覚の全てが痛みとも認識できないほどの激痛に埋もれる。コロンの香りは吹き飛び、はっきりとした鉄と重油の匂いが熱風とともに吹きつけた。
(頭、俺の頭)
探すだけ無駄だ。さっきの礫圧で吹っ飛んだのだから。車輪に押しつぶされた四肢もこま肉と化して、汚らしく砂利にへばりついている。
ただ、車体の下に入り込んだ比較的大きな胴の塊は、エンジンの真下に晒されて焦げている。熱い。そして、痛い。
感じる器官である脳はすでに失ったと言うのに、この苦痛はどういうことだ。ああ、そうか。血が流れ尽くし、完全に体温が覚めるまで神経に拠る知覚は死ねないのか……絶望ばかりが失った血液の代わりに流れる。
「ねえ、上を見てごらんよ」
満員の車両の中、たった一人の手元に知覚が上る。薄く笑いながらモバイルをいじっているのは、俺?
「だって! 俺以外にもケータイしてるやつなんか!」
「私の名前を呼んでくれたのは君だけだったから」
名前……俺……いや、私は……三山 優子。オラヌさんの噂は知っていたけど、ツイートしてしまったのは好奇心の方が大きかったからだ。その結果……この線路上に見えない手で貼り付けられている。もうすぐ電車は来るというのに。
頭の下でレールがことん、ことんと鳴っている。早く……この無数の手を退ける呪文を……友人が教えてくれたなぞの文字列を……
「ち……」
一文字目しか、許されなかった。鉄輪に引き込まれた肉体は……




