アドルフィーナのお兄様
友と呼んでも差し支えない相手に、非礼を詫びて怒られに行くというのはなかなか勇気が要るものだ。
実際、クラウスはゲルハルトへの個人的制裁について
「やりすぎだ、馬鹿」
そう言ってアルベルトから一発、手痛い拳を見舞われた。
無論それを行ったのも、甘んじて受けたのも、双方が遺恨を残さないようにするための形式的なものに過ぎなかったのだが、お互いが抱いた怒りを消化するためにも必要な通過儀礼でもあった。
ヘーフェヴァイツェン家で手当を受けたものの、少々赤く腫れた頬で外出するのは憚られる。
そこで、クラウスは商業区よりもやや外れた位置にある平民向けの貸本屋まで馬車で向かうことにした。
『書く』ことに特化したその場所は殆ど工房と呼んでも差し支えなく、正面からではなく裏口に馬車を止め、ひっそりと裏門をくぐる。ノッカーを品良く叩くと、涼やかなドアベルを揺らしながら扉が開かれた。
「はいはい~……って、クラウス様じゃないですか。ご無沙汰して……って、え?! な、なんかお顔が……???」
「ああ、ちょっとな」
「お貴族様がお顔を腫らして『ちょっとな』で済むことあります? と、取り敢えずお入りくださいな」
豊かなブロンドヘアをひっつめた女性がクラウスを招き入れる。クラウスにとって同窓生にあたる彼女は、クラウスが卒業を目前に控えた時期に「卒業した後もどうかそのままで」と頼んだのを受け入れ、学生時代のまま気安い態度を貫いてくれていた。クラウスがなんの駆け引きもなく頼み事をしたのは、後にも先にもそれ一度きりだ。
男爵家の庶子である彼女は、母親の教育だけで読み書きを覚え、平民としての生活の中で計算も身につけた努力の人である。
彼女はリビングにクラウスを通すと、テキパキとティーセットを用意し、もてなした。彼女の作業場は紙が傷まないよう、別で設けてある。
卒業後、彼女がここに居を構え仕事をするようになってから、クラウスは不定期にこの場所を訪れていた。
ただでさえこぢんまりとしたリビングルームの中、彼女一人の体に合わせたテーブルにクラウスの長い足が収まるはずもなく、椅子を斜めにして腰掛けるのも既に見慣れた光景だった。
「それで、今日はそんなお身体で、一体どうなさったんです? 何か火急のご用事でも?」
「なに、大した用事じゃない。オリアナ、君の顔を見にな」
「……本当に、何があったんですか? わたしの顔を見ないといけないほどの何かが?」
オリアナは眉をひそめた。クラウスの顔に残る暴力の痕に、自分が関わっているのかと思ってのことだった。
クラウスは首を振った。
「いや、友人に怒られに行った帰りだ。気持ちが落ち込んだ」
「はあ……。つまり、わたしの顔を見て気分を上げたい……上げられるって事ですか。変わってますね」
「私が書いた論文の感想を、わざわざ対面で言いに来た君ほどではない」
「もうっ。その話はいいでしょう? あの時はあんなものを書いたのが同世代の人だってことに衝撃を受けて、実際に一度どんな人なのか知りたかったんです。それだけ浮かれてたというか……熱が出てるのにはしゃぐ子どもと同じですよ」
二人の出会いは学園でのことだった。
ある日クラウスがテラスの端で読書に勤しんでいた折、突然声を掛けられた。その相手がオリアナだった。
彼女は上気した頬もそのままに、酷く緊張した様子でクラウスがクラウス・ユスティーツブルクであることを確認すると、深く息を吸い込んだあと一気に一本の論文について語り出したのだ。
なんでも、平民向けの講義で論文の書き方の例として見せられたのがクラウスが課題で書いたものだったらしいのだが、彼女は目をきらきらと輝かせてクラウスに自分がそれを読んで何を思ったのかをつらつらと語った。
そして
「わたし、あなたのような立派なことができるような人になりたいです!」
そう言って、周囲の度肝を抜いた。
クラウスはといえば、彼女があまりにも気後れすることなく楽しそうに語って聞かせるので、その表情の一つ一つから目が離せなくなっていた。
知識を貪欲に取り込み、自分の血肉とする。彼女は飢えた獣のようだった。否、獣でも必要以上に食べることはない。『知ること』の快感に支配された中毒者といった方が適切だろう。彼女はよく寝食を疎かにしたので、クラウスは他の女生徒から指導を受けている彼女の姿をよく見かけたものだ。
その後、程なくして『お叱り』を受けている時間さえ惜しいと思ったのか、身だしなみもマナーも良くなったが、クラウスにとってどれほど彼女が磨かれていっても、やはり思い起こされるのは初対面のことだった。
今でも鮮明に思い出せるほど、彼女の瞳の苛烈さと美しさは常軌を逸していた。
オリアナはいつでも楽しそうに学んだ。それを時に遠目に、時に指導を頼まれて直ぐ隣で見てきたのがクラウスだ。
まるで「息をすることってこんなに素晴らしいことなんだ!」と言いたげな彼女の様子は、いつ見てもクラウスの目を惹いた。その顔が曇る事のないよう、男爵家からの口出しを制するため、後見人まがいのことをして静かに手を回したことを、彼女は知らない。
ただ自立心の強い彼女が、文字を、本を、もっと多くの人に届けられたらと、平民向けの言葉や平易な表現に直した本を一冊一冊作ろうとするその背を押した。
彼女が最もやりたいことに関しては表立って手を差し伸べられないが、副業として代筆業を勧め、貴族階級や富裕層の平民から資金を作れるよう計らった。
学生時代だけでなく、卒業後も彼女と親交があることを仄めかせば、中途半端に彼女へ手を出そうとする輩を牽制できる。クラウスが唯一、女性の中で親交を深めたのは彼女だけ。その意味を勝手に推測させた。
今日も、彼女がいつも通りの様子であることがクラウスにとって何よりも重要だった。その姿を少しの間目に留めるだけで、不思議と平静を保つことができたからだ。
腐らずにただ前を見て歩き続ける彼女を、眩しいと思ったのはいつ頃だっただろう。正面から彼女の顔を見ることが躊躇われ始めたのは。
「君は変わらないな」
安堵から出た言葉だったが、オリアナは困ったように眉尻を下げた。
「そうですか? もうおばさんです。そろそろ、母を待たせることもできなくなってきました」
「ご母堂になにかあったのか?」
クラウスの声のトーンは変わらなかったが、その目はつぶさに彼女の変化を見逃すまいとしていた。
そんなクラウスにオリアナは笑い、肩をすくめる。そして僅かに視線を落とした。
「お見合いをすることになりまして。一応、めぼしい方が何人かいるみたいで……。安心させて欲しいって言われちゃいました。今まで好きにさせて貰いましたから、今度はわたしが返していく番だなって……思って……。わたしのやり方で恩返しができなかったのは、心残りですけど」
「その言い方からすると、ここは閉めてしまうのか」
「わかりません。まだ、なにも……。でも、赤ちゃんができて、子育てをして……ってなったら、やっていく余裕はなくなりますね。……そうだ、クラウス様、ここの経営を引き継いでくださるような方にお心当たりはありませんか? クラウス様の思う方なら、悔いなく引き渡せるんですが」
「……そうだな、声を掛けてみることにしよう」
「……」
沈黙が落ちた。ティーカップから立ちのぼる湯気だけが、時間が止まるはずがないことを二人に突きつける。
こんなとき、先に口を開くのはいつもオリアナだった。
「……クラウス様、いい加減、はっきりしましょう」
「なにをだ」
「わたし、平民で、クラウス様の隣に立つなんて、夢を見ることさえできませんでした」
「……」
「でも、クラウス様は今も、誰とも婚約してないって。
それを聞いて、わたし……。わたし、ちゃんとお別れできてない気持ちに気づいてしまったんです」
クラウスの知るオリアナらしからぬ、やや落ち着いた声に、クラウスはじっと聞き入った。
彼女の顔を見ても問題ないはずなのに、どうしてだか、紳士としてみてはいけないような気がして、クラウスは自分の膝に目を落とす。
だが、オリアナの声は真っ直ぐだった。
「どうか、お願いします。クラウス様が今でもお一人なのは、別にわたしのことを望んでいるわけじゃないって言ってください。じゃないと……わたし、いつまでもあなたを探してしまう。
貴族の、それも王様に近い人の側にいる覚悟なんて、どうやってするのか見当もつきません。でも、あなたが望んでくれるなら、わたし、どんな形でもいい。側にいたいって思ったんです。
その気持ちを卒業の時までに捨てることができなくて……お見合いの話が母の口から出たとき、あなたのことが過りました。……それで、わたし、あの頃のまま自分の気持ちが変わってないって気づいてしまったんです」
オリアナは声を震わせた。それ以上は感情が高ぶり、言葉にできない様子だった。
クラウスが盗み見るように確認した彼女は、俯き、硬く瞳を閉ざしていた。まるで罪人が判決を待つかのようだった。異なるのは、その肌がうっすらと赤く染まっていたことくらいのもので。
「……私は、あの時、目を輝かせて論文について語りに来た君から目が離せなかった」
その言葉は、クラウスの口から静かにこぼれ落ちた。
最近は感情を表に出す機会が多いな、と頭の片隅で感じながら、オリアナの笑顔を絶やさないためにできることは何かを考え、行動に移していく。
「今もそうだ。いつも、君の目が輝く瞬間を見逃したくないと思っている。それが私の手が届かない場所であろうとも、君が笑顔でいられるというのなら大体のことはする」
言葉とともに、オリアナは強張った身体をゆるゆると解き、信じられないものを見るような目でクラウスを見た。
「……クラウス様、それ、ほとんどプロポーズですよ」
「君の言葉も似たようなものだっただろう」
「いやでも、クラウス様のは愛の告白……」
「君もな」
呆けたようなオリアナに、クラウスは彼女の淹れた紅茶に口をつける。
オリアナにとっては学生時代から見慣れた姿だった。
しかし、不意にこの場所で毎回、毒味もなく必ずそうするのが何を思ってのことなのか、そのことに思い至ると、彼女は首筋まで真っ赤にして視線を彷徨わせた。
「も、もっとご自分を大事にしてください……」
何よりも雄弁に、分かりやすく彼は示していた。あとは彼女がその胸の中に飛び込む勇気を持つだけだったのだ。
後日、クラウスが当主である父親に手紙で彼女を迎える旨を伝えると、『遅い、この馬鹿者。お前以外の準備は全てできている。式の日取りを決めてから連絡を寄越しなさい。逆算して予定を組む』と速達で返事を寄越され、執務室で目を瞬いた。
「……まだ、妻としてとも、恋人としてとも言ってないはずだが……?」
温かな日差しが庭を照らす、気分の良い午後のことだった。
世話焼きな令嬢による淑女教育は既に完了しており、彼女の養子先の打診も、養子先への彼女の近況報告も何もかも準備済み。知らぬは本人ばかりなり……。