第80話 Red trace
別次元の世界『マギイスト』の侵攻を止めたいと願ったセリア。彼女の話の中でミリアムもその正体を明かしたが、皆は混乱するばかりで、更にはこれを機にとミリアムを議長の座から降ろそうと目論む者達も居て話は纏まらなかった。
今現在は有事の際に招集される位の高い者達だけが議会室に戻り、議論を交わしている。セリアやミリアムを売る様な、罰することは無いだろうが、結論は簡単に出そうになかった。
星団連合本部のラウンジにて議論が終わるのを待っていたジルベルト。彼は一縷の望みを抱きながらある人物に会う事は出来ないかと考えていて、同行していた鳴鳥と久城を先に帰らせた。不安を取り除きたくて待っている時間は長く感じるもので、実際に議論は長引いているのだが、それ以上に長く思える。やっとの事で終わりが見えたのは夕刻を過ぎた頃で、議会室に籠っていた者達は疲れた顔をして出てきた。そのタイミングを見計らって出入り口付近で待っていたジルベルトは目当ての人物、セリアへと近づこうとしたが、やはりと言ってよいのか、警備は厳重で近づくことは叶わず、彼女は早々に立ち去ってしまった。長い時間を待っていてこの結果だというのは落胆もするところだが、彼女と接触できない事は分かっていた為、気落ちはしない。ジルベルトはもう一人の目当ての人物へと声を掛けた。
「やぁ、ジルベルト君。どうしたんだい、こんな所で」
笑顔を向けたが、疲労の色が見えるヘニング。長い議論の後に立て続けで申し訳ないと思う面もあるが、ジルベルトは取り急いで話がしたいと申し出た。基本的に楽をしようと心掛けているヘニングは嫌な顔をするかと思われたが、彼は深く頷いて了承した。
第80話 Red trace
直ぐに特務部の執務室に向かうのかと思われたが、彼は乗り込んだ車にて運転手である秘書官に行き先を告げた。そこは連合軍本部ではなく、繁華街の入り組んだ道の先にある小ぢんまりとした店であった。
「あの…ここは―――」
「ジルベルト君も夕食はまだだろう?」
「確かにそうですが―――」
「この店、良い銘柄のワインを取り揃えているんだよ」
「今は酒を飲むよりも話が―――」
「君、先程も言っただろう。腹が減っていては建設的な意見は出せないと」
「…はぁ」
食後はタクシーを拾うからと秘書官を帰らせてヘニングは店に入る。外見は小さな洋館のようであったが奥行きは割と広く、店内に入るとバーカウンターとピアノにテーブル席が何か所かある。ヘニングはここの常連なのか、やせ形で高身長の老齢のマスターに会釈をし、何時もの席は空いていると言われてエレベーターで三階に上がる。この建物は縦に長いようで、二階部分は吹き抜けになっていて一階と二階は自由席で、三階以降は個室になっているようである。
流されるままに席に着き、そのまま夕食へ。真紅のクロスが敷かれた卓上には魚介のブイヤベースや貝のパスタにパンチェッタのサラダなど、次々と料理が運ばれて、グラスにもワインが注がれる。遠慮せずにどんどん飲んで食べてくれと言われ、戸惑うジルベルトであったが、食事をしなければ話は進まない状況であるようで、礼を言って手を付け始めた。
食にはこだわりがあるヘニングの行きつけだけあってどの料理も美味しいのだが、ジルベルトの今の心境では心から料理を楽しむ事は出来ずにいた。食事を終えた後にご馳走になった礼を再び述べるが、ヘニングは困ったように笑っていた。
「まぁナトリ君の料理に比べたら劣るだろうけどね」
「そんな事はありません。あ、いや、アイツの作る料理も美味しいですけど、これはこれで―――」
「はは、無理に合わせる必要は無いよ。僕としては君が羨ましい位なのだから」
「はぁ…」
ワインを一口飲んだヘニングの顔には既に赤みが差していて、けれども彼は酔った様子ではない。顔には出やすいが、意識はハッキリとしているようだ。ワインの共にチーズを摘まんでいた彼は腹も満たされたからといった風に急にジルベルトへと話題を振り、話とは何かと尋ねてきた。
「…先程の議論は結局どうなりましたか」
「そうだよね、気になる所だよね」
「やはり連合はセリア・ストレイス側に付くのですか?」
「それしかないんだよね、結局の所」
やはりジルベルトの予測通り、星団連合はセリアと共にエルンストらマギイストの脅威に立ち向かう事となった。ミリアムの処遇に関しては保留という形で、後々処分が下されるらしいが、現状は議長の座を下されることは無いらしい。今回は連合でもアストリアに常駐する幹部のみであって、各星の代表者は招かれていない。後日連合議会が開かれ、改めてその場で是非を問い、そして最後は全宇宙に現状を明かすらしい。
「まぁなんだかんだと言ってあのお方は人望があるから。最終的には落ち着くところに落ち着くだろうね」
一先ずセリアもミリアムも身柄の安全は確保された。胸を撫で下ろす所であるが、ジルベルトの本題はそこではない。その事はヘニングも気が付いているようで、遠慮をせずに言いたい事を言うようにと促し、ようやくジルベルトは己が事情を全て明かした。
鳴鳥との事とアリーチェとの事を話し終えたジルベルトは視線を落としていたが、ふと正面を見ると優しげな眼差しをしたヘニングが居た。彼は心の底から労わるように、親身になりジルベルトの置かれた状況に心を痛めているようである。
「それは…大変どころじゃないね」
「はい…。正直なところ、自分でもこれから先どうすればいいのか分からないのです」
「どう転んでも結果は良くないと分かっているからね。それで、この事はナトリ君に話したのかい」
「…いえ。アイツには話せるわけがありません。話せばきっとアイツは自ら身を引いてしまう。その方が良いかもと考えもしましたが、お恥ずかしいことですが、自分は耐えられそうにありません」
「うんうん、分かるよ。手放せない気持ちはわかるけど、この先を考えるとね」
自分だけが辛い思いをするなら一向に構わない。だがこれは相手にも負担が掛かる事であって、本来なら自分一人で決めて良いことではない。だが鳴鳥に全てを明かす訳にはいかない。ならばどうするのか。頼みの綱はセリアが握っていて彼女と接触を果たしたいが、その為の足がかりがジルベルトには無いのであった。
皆まで言わずともヘニングは了解したようで、上に取り次ぐ約束をしてくれた。
「観測装置を作った当人と繋がりがあるならば、何か必ず我々の知らない情報を持っているだろう」
「そうだと良いのですが…」
「君が弱気になってどうする。しっかりとして、彼女を支えなくてはならないだろう?」
「…そう、ですね」
景気づけにとヘニングはジルベルトのグラスにワインを注ぎ、もっと飲むようにと煽り立てる。普通の人ならば酒を浴びるほど飲んで嫌な事を一時的に忘れられるだろうが、ジルベルトはそうもいかない。けれどもヘニングの心遣いは嬉しく思い、彼のお蔭で重くのしかかっていたモノが幾分か軽くなったような気がした。
セリアの話、あの議論を聞いて以降、ジルベルトの様子はますますおかしくなっていた。鳴鳥と久城を先に帰らせた日は夜更けに酒の匂いを漂わせて戻ってきて、翌日も急に用事が出来たと出掛け、また夜遅くに戻ってくる。朝食は何時も通り皆と一緒にとっていて、食欲が無い訳ではなさそうだが、避けられているような気さえする鳴鳥であった。
今の所、鳴鳥はアルヴァルディの皆と同様に待機命令が出されていて、食事の用意をする以外はトレーニングやマリアン達とお茶をする毎日で、夜には自室で休んでいる。皆と居られることは嬉しくもあるが、ここの所ジルベルトは夜遅くに帰ってばかりで、先に休むようにと言われて以前のように二人きりで過ごす時間が全くない。
セリアと共にマギイストの民と戦う事が決まったからか、彼が忙しい理由が思い浮かばない事も無いが、不安は広がりつつあった。
重荷にはなりたくないからと追及する事は出来ずに黙っている鳴鳥。そんな日々が五日過ぎた頃、全宇宙の全ての民へと現状を伝える為の会見が開かれた。
あまりにもスケールが大きい話にミリアムの正体に、ネットワーク回線が一時的に落ちるほどの混乱を招いたが、暴動が起こる事は無かった。それはミリアムのこれまでの行いを皆が知っているからであって、更には会見の場に臨んだ彼女の姿を目にしたからであるだろう。
多くの聴衆の前でミリアムは自身が何者かであるかを明かし、そして罰を受ける覚悟があると示した。けれどもその前に、今現在迫りくる脅威からこの世界を守りたいと、確固たる意志を表した。
「流石といった所っスよね。やっぱりミリアム議長のカリスマ性には皆が抗えないと思っていたっんスよ」
「全くこの子は調子の良い事言っちゃって。この間までどうなるかオロオロとしていたくせに」
「でもミリアム議長に何事もなくてよかったですよね」
昼食後にお茶の時間を過ごしていた鳴鳥とコンラードとマリアンは、ネット上の情勢を見ながら一先ず落ち着いた事に安堵の溜息をもらしていた。
これから先は部隊編成にと忙しくなるだろうが、今の所特務部には何も命が下されず、アルヴァルディの皆は相変わらずの待機状態である。けれどもジルベルト一人だけは今日も出かけており、何やら忙しそうであった。
ジルベルトが何故忙しくしているのかは皆も分かっていないらしく、鳴鳥を放っておいてとマリアンやコンラードは腹を立てているが、何か事情があっての事だろうと鳴鳥は二人を宥めていた。
「もう!船長ったらこんないい子を放っておいて何をしているのかしら」
「そうっスよ。恋人に寂しい思いをさせるとは男の風上に置けないっス」
「誰が男らしくないだと?」
「そりゃ船長に決まって―――ほわっ!?」
コンラードの背後に音もなく現れたのはジルベルトで、彼は眉間に皺を寄せて心底不機嫌そうな面をしていた。連絡もなく急に戻ってきたジルベルトは直ぐにまた用事があると言い、ジャケットにシャツ姿のラフな普段着ではなくキッチリと軍服を着こんで無精ひげを剃り、髪もキッチリ纏めて出掛けて行った。彼には今夜も遅くなると言われて落胆する鳴鳥であったが、心配は掛けまいと気丈に振る舞って見送った。
「誰かお偉いさんと会うのかしら」
「フツーに考えればそうっスよね」
「…ジルベルトさん」
ジルベルトの姿が見えなくなり、肩を落とす鳴鳥。彼女を気遣ってかマリアンとコンラードは明るく振る舞い、また鳴鳥も心配をかけては申し訳ないとそれに応える。
今日もここ最近の日課のように夕食は鳴鳥が料理をする予定であったが、マリアンは予定を変更するようにと提案してきた。
「せっかくだから外食でもどうかしら?私行ってみたい店があったのよね」
「良いっスね。あ、勿論自分としてはナトリさんの作る料理が一番っスけど、たまには手を休めても良いんじゃないっスか」
「え…でも、ジルベルトさんは…」
「遅くなるって言っていたから夕飯は要らないんでしょ。それよりも今日は贅沢にいきましょう!勿論財布係はコンラードで決まりね」
「は!?な、なんでそうなるんっスか!」
「…この間の事、忘れたとは言わせないわよ」
「ひ…っ!それは…その…」
マリアンが言うのはコンラードがアリーチェにジルベルトと鳴鳥の関係をバラしてしまった事だろう。鳴鳥としてはもう過ぎた事であって、いつかは知れる事になったのだと思っていて、コンラードに責は無いのだと言うが、マリアンは未だ納得していないらしい。今日こそは口の軽さを思い知らしめる為に罰を与えると息巻いていて、コンラードは泣く泣く財布を差し出した。
その日の晩は普段より一層賑やかであった。マリアンが予約した店はスタイリッシュな外観であるが、店内には緑に溢れていて、ホールの中央には円柱の水槽があって、生きの良い魚料理と内装も見て楽しめるようであった。テーブルに並べられた料理は華やかでいて味も抜群で、鮮やかな色のカクテルも可愛らしく花が飾ってあったりと、見た目も楽しませてくれた。
本日はコンラードの奢りという事でマリアンはどんどんと料理を頼んで浴びるほど酒を飲み、財布を取り上げられた半泣きのコンラードに絡みながら管を巻いている。コンラードに対して申し訳なく思いなかなか手が付けられずにいた鳴鳥だが、アランに気にしないようにと言われ、スティングに料理が盛り付けられた取り皿を渡されてしまい、手を付けざるを得ない状態になる。
「ナトリさん、自分の事は良いんっス。ナトリさんの為だと思えば、給金の一カ月分や二カ月分、なんてことは無いっスよ」
「あらそうなの?だったら遠慮はしなくて良いわよね。店員さ~んこっちの席にオーダー頼むわ~」
「な!?まだ頼むんっスか?!俺はナトリさんの為だと言った訳でマリアンの為って訳じゃ…。わーーー!それって一番高い酒じゃないっスかっ!!勘弁してください…っ」
ここには鳴鳥にとって居て欲しい者が居ない。けれどもその事を忘れさせるような位に皆は騒ぎ、食べて飲んで…。皆の気持ちが嬉しくて、お酒を飲んだせいもあってか、沈んでいた気持ちは上向いて、アルヴァルディに戻る頃にはすっかりと自然な笑みを浮かべられるくらいに気を取り直していた。
「鳴鳥、足元が覚束ないようだけど大丈夫?」
「はい…っ!全然大丈夫ですよ~!」
すっかりと出来上がってしまった鳴鳥は久城に支えられて自室へと戻る。ちなみにマリアンはスティングが、コンラードはアランがそれぞれ酔っ払いを介抱していた。
流石に室内に立ち入るのはどうかと躊躇った久城であるが、今の鳴鳥はそのまま床で寝てしまわないか心配で、一応断りを入れて立ち入る。赤ら顔でぼうっとした表情の鳴鳥をソファーに座らせた後、久城はグラスに水を注ぎ酔っぱらった彼女へと手渡す。
「ありがとうございます…久城センパイ」
「いや、礼を言われるほどでもないよ。それより本当に大丈夫?」
「大丈夫ですって~…。久城センパイは心配し過ぎですよ」
「心配にもなるさ。だって僕は君の事を―――」
頬を染めてトロンとした目で見つめられ、全くの無防備でいて久城の理性は崩れかけそうになり想いを溢してしまうが、寸での所で踏みとどまって言葉を途切れさせた。何ですかと尋ねるように首を傾げた姿も愛らしいが、彼女の想いは自分に向いていない事を知っている。彼女がここまで酔ってしまったのは嫌な事を忘れる為であって、そうさせているのは彼女の想い人のせいで。そう思い至った久城は腹の底に沸々とした怒りを抱くが、その者の事情も知っているだけにその苛立ちをぶつけることが出来ずにいた。
「久城…センパイ…?どうかしましたか…?」
「…何でもないよ。それよりここで寝ては駄目だよ、ちゃんとベッドで…―――って、鳴鳥…っ、着替えるのはちょっと待って!」
酔っぱらっているせいか、鳴鳥は久城が傍に居るというのに衣服に手を掛けて着替えをしようとしている。慌てて背を向けて立ち上がった彼はそそくさと部屋を後にし、扉が閉まった所で背中を着いて溜息を吐いた。
「(…まだ安心はできないか)」
ジルベルトが相手ならば諦めもついていた。しかしそれは彼が真実を知る前の事であって、今となってはとても大事な者を任せる気にはなれない。鳴鳥から異性として見られていない事は自覚しているが、この先に待ち受けるであろうことを前にもう一度、自分の立ち位置、どんなことがあろうとも鳴鳥を支えるという想いを再確認し、久城は自室へと戻った。
アルヴァルディの皆との楽しかった夕食を終えて戻り、いつの間にか着替えてベッドに身を投げていた鳴鳥。彼女は真夜中に目が覚めてしまい、ゆっくりとした動作で上半身を起こして辺りを見回して首を傾げた。自分がいつこの部屋に戻ってきたのか全く憶えていない彼女は昨晩の事を思い起こそうとするが、アルコールの残った状態ではまともに頭が回らない。取り敢えず水を飲んだが気分は晴れずにいた所、ふとラウンジに二日酔いに効くドリンクがあって、マリアンとコンラードが飲んでいたのを思い出した。
そうと決まれば即行動と言った風に寝間着姿に上着を羽織り、鳴鳥はラウンジに向かう。
「あれ…?」
消灯時間を過ぎたラウンジには常夜灯のみが点いている筈で、誰か人が居ると照明が点くようになっている。こんな時間に誰が居るのだろうかと首を傾げつつ室内に入ると、そこには会いたくてたまらない者が一人ポツンと座っていた。
「…ナトリか」
「ジルベルトさん…」
ぼんやりとした意識は彼の顔を見た途端に吹き飛んでしまい、目もパッチリと冴えてしまう。思わぬところで逢えて、嬉しさにはにかむところだが、ジルベルトの表情が浮かない事に気が付いて駆け寄る足が止まってしまう。
疲れなど感じない体の筈だが、ジルベルトの表情には疲労の色が見えて、それでも鳴鳥の前ではそのような顔を見せたくは無いのだろう。直ぐに口端を上げ、何でもないといった風を装う。
「…あの、ジルベルトさん。何かあったのですか?」
「それはこっちの台詞だ。こんな夜中にどうした」
「わ、私はその…えっと…」
何か悩んでいるような素振りのジルベルトを前にして、お酒に酔っぱらっていましたとは言えずに口ごもる鳴鳥。言い難そうにしている彼女へと椅子から立ち上がり近づいたジルベルトは、微かに香る匂いで大体を察したようで、肩を竦めさせながらも冷蔵庫からドリンクの瓶を取り出して持ってきた。それは鳴鳥がこのラウンジを訪れた理由の物で、恥じらいつつも礼を言い、有難く受け取った。
「…あまり飲み過ぎるなと前から言っているだろう」
「…すみません」
「いや、まぁお前だけが悪いのではない。付き合わせているアイツらの方を締めないと」
「み、皆さんは悪くありませんよ…!私が自分の限界を考えてないだけであって、皆さんは私の事を気遣ってくれての事ですし…」
「…そうか。それならば、回りまわって俺のせいという事になるか」
「…え?そ、そんな事はないですよ。ジルベルトさんも悪くは―――」
「いや、ここの所空けてばかりで済まなかったな」
「それは…。お忙しいのは仕方がない事ですから。だから私は大丈夫です」
寂しくない訳ではなかった。けれども彼は軍人であるからして、色々と忙しくもあるのだろう。詳しい説明が無いのは何時もの事であって、中には説明もしにくいことがあるのだからと鳴鳥は自分を納得させようとした。それでも気にはなり、大丈夫だと気丈に振る舞うが、こうして目の前にすると段々とボロが出てくる。鳴鳥としては笑っているつもりであったが、その瞳に不安の色が滲んでいるのをジルベルトは見逃さなかった。
鳴鳥を不安にさせていることは分かってはいた。けれども今のジルベルトには言葉で謝る事か、心配は要らないと頭を撫でる事くらいしかできなくて、全ての不安を取り除くことが出来ない。そしてそれは今だけでなく、この先も続くのだと思い知らされた。
大丈夫であると言い張る鳴鳥の頭を撫でていたジルベルト。飲み過ぎた気持ち悪さはドリンクのお蔭でスッキリとしたのか、具合は悪そうになく、今では撫でられることで心地よさそうに目を細めている。
「…眠くは無いか?」
「はい…。なんだか目が冴えちゃって」
「そうか。こんな時間になんだが、これから少し時間を良いか」
「は、はい…!喜んで…!」
久しぶりに感じる二人きりの時間。思わず喜びを抑えきれずに食いつき気味になってしまった鳴鳥。そこまで喜ぶ程なのかとジルベルトには驚かれたが、だとしたら彼は嬉しくないのかと不安になる。そんな事は無い、自分も嬉しいのだと言うが、どうしても気持ちの差がある様な気がしてならない。けれどもそれはジルベルトの自室を訪れるまでの事で、扉が閉まった途端、彼は後ろから覆いかぶさるように鳴鳥の身体を抱き締めた。
「ジ、ジルベルトさん…?」
「…ナトリ」
どこかいつもとは違うジルベルト。突然の抱擁に戸惑っていた鳴鳥だが、彼女は更に驚く事となる。どうしたのかと身を捩らせて振り向いた彼女に対し、ジルベルトは一旦回された腕を緩めて、そしてまた背に手を回し引き寄せ、少し身を屈めさせる。
超えてはならない一線。互いを想い合うが故に耐えていた筈だが、それをあっさりと、最初から無かったかのようにジルベルトは鳴鳥に触れる。これまでの軽い触れ合い、手を繋いだり、抱きしめたりするものではなく、もっと親密な行為…唇と唇が重なった。
「ジル…ベルトさん…」
「ナトリ…」
軽く触れただけの口付けの後、再び唇と唇が重なる。今度は長く、激しく、貪るような形でジルベルトは鳴鳥の唇を味わう。突然のことで気が動転した鳴鳥は咄嗟にジルベルトの胸板を押しやり逃れようとした。けれども腰と頭に回された手に込められた力に抗う事は出来なくなっていく。ひとしきり、周りが見えなくなるくらいにその唇の感触に没頭していたジルベルトだが、鳴鳥が抵抗してみせたのに対して申し訳なさそうな、悲しそうな表情でゆっくりと顔を離す。そして手の力を緩めて拘束を解放した。今なら容易く逃げられるのだが、鳴鳥はジルベルトの切なげな瞳から目が離せなくなっていた。
「どうして…?身体は大丈夫なんですか?」
互いに想い合っていても深く愛し合うことができなかった理由。それはジルベルトがARKHEDと契約を交わした際に架せられた枷、だったのだが、彼は今その事が無かったかのように振る舞う。
拒まれたことに動揺を隠せないでいたジルベルトであったが、それは鳴鳥が自分の身を案じてくれての事だと分かり、困ったように眉をハの字にして口端を上げる。
「情けないが、我慢の限界だ。俺はお前が欲しい…。…嫌だったか?」
「な、情けなくなんかないです…!その…突然でびっくりしましたけど、その…嬉しいですし」
「そうか…」
伸ばされた手は鳴鳥の腰に回り、優しく引き寄せられて抱きしめられる。このままずっと、こうしていられたらどれだけ幸せなのだろうかとも思うが、枷に対する不安から安心はできない。
枷によって身体的に傷つくのは鳴鳥だが、何より彼女が怖れるのはジルベルトの心を傷つけてしまうことである。大切に想う者を自らの意思に反して傷つける。そうなってしまえばどんなに鳴鳥が許そうとも、彼は自分を許せないだろう。
彼の身を案じて身を引こうとする鳴鳥であるが、心配はいらないとジルベルトは微笑み、軽く触れるだけのキスを額に落とした。
「今のところ、何も起きてはいない」
「そう…ですけど…。でも…!」
「俺の事は大丈夫だ、心配などいらない。お前の事も絶対に傷つけない。奴ら…クランドやフラヴィオにも乗り越えられたんだ、俺ができない筈がない」
ジルベルトは鳴鳥を抱え上げると寝台へ壊れ物を扱うように優しく下す。そして自らも寝台に上がり、鳴鳥を見下ろすが、その表情はいつになく真剣なものであり、大人しくされるがまま、言葉を待つ。
腰のホルスターから銃を取り出したジルベルトは寝台のすぐ傍にあるサイドテーブルにそれを置いた。
「ここに置いておく。いざとなれば容赦なく撃ってくれ」
「そんな事…私には…」
「制圧用の電撃銃だ。死に至ることはない」
「けど…」
「頼む」
耳元に顔を埋めたジルベルトは何時もより低い声で乞い願う。
「どうしても…今、欲しい」
最初から答えは決まっていた。何度もこうなる事を夜ごと夢に見てもいた。鳴鳥は不安な気持ちを拭いきれないが、自分の気持ちに素直になる。と、言っても恥ずかしさからか、上手く言葉は紡げず、ただ小さく頷くことで返事をした。
「嫌だったら無理をせずに言ってくれ」
「はい……あ、あのっ」
「ん…?何だ?」
「その…ここまで来て言うのも何なのですが…。私…どうすれば良いのかが…」
これまででも赤く染まっていた鳴鳥の頬がより一層赤くなり、両手で顔を隠した。彼女の言わんとしたことを理解したジルベルトはクツクツと笑う。膝立ちになり覆い被さった彼は優しく手を取り払い不安そうな鳴鳥に微笑む。
「知っていた」
「えぇ!?」
目を丸くして何故気づかれていたのだろうかと考えを巡らせる鳴鳥に対し、ジルベルトは肩を震わせて笑う。そこまで笑われてしまうと気恥ずかしさより不満が募るらしく、ムッとした顔で恨めしそうにねめつける。ひとしきり笑って落ち着いたのか、ジルベルトは再びナトリと視線を合わせると、眉間に寄った皺を消すようにキスを落とした。不意打ちとも言えるその仕草に怒りは誤魔化されてしまった。
「すまない」
「ううん…いいです、別に」
「嫌になったか?」
「…ジルベルトさんが意地悪なのは前から知っていますので」
「嫌いになったか?」
「なるわけない…。私はずっと…どんな事があっても…貴方が好きです」
「…俺もだ」
瞳を閉じるとそれが合図であるかのようにジルベルトは唇を重ねる。何度かついばむようなキスを交わしたのち、口内に舌が入り、閉じた歯をなぞる。初めて感じるくすぐったいような心地よさに呆けてゆっくりと閉ざされていた歯と歯を開くと、舌と舌が絡み合う。激しく深いキスに体が強張っていたのが緩まるが、鳴鳥は慣れない行為に息が続かなくなる。苦しがっていたことに気が付いたのか、ジルベルトは名残惜しそうに鳴鳥の唇を解放した。荒く息を上げる二人の間には先程まで繋がっていた証拠である糸が繋がり落ちる。
「すまない、加減ができなくて…。いい歳なのに本当に情けない」
「そ、そんな事ないです。えっと…それだけ求めてくれているって事ですよね?そうだとしたら私、嬉しいですし…」
「ナトリ…。お前は…」
ジルベルトの顔が耳元に近づく。小さな声で「可愛いな」と褒められてこれ以上ない程に頬に熱が集まるのが分かる。耳をペロリと舐められ、耳たぶを甘噛みされると思わず吐息が漏れてしまい、自分から反射的に出た恥ずかしい声に対して咄嗟に手で口を覆うが、ジルベルトはそれを許さない。手を掴んで除けると、軽く唇を重ねた後に呟く。
「もっと聞かせてくれ…、お前の声」
唇は首筋に、ざらつきぬらぬらとした舌が這い、リップ音を立てて吸い付いた跡には紅い痕が残る。キスを交わし、痕を残しつつ、ジルベルトは鳴鳥の衣服に手をかけた。
痛みもあったが、それ以上に心地よく、痺れるような快感も味わった夜。まだ下半身に残る痛みが昨夜の出来事を思い起こさせて、身体全体に感じる気怠さはどれほど愛されたかを物語っていて。しんどくもあるが満たされた想いで鳴鳥は目覚めた。
枷を恐れることは無かったのだと、きっと奇跡が起きて二人で乗り越えられたのだと思っていたが、彼女が目覚めた時、隣には愛しい者が居なかった。先に起きているのかと思い慌てて部屋を見渡すが、彼の姿は無い。また今日も朝から任務でもあるのかと思い至るが、何も言わずに置いて行かれて少し寂しくも感じる。それでも結局は心配など要らないと楽観的に考え、床に落ちていた衣服を纏おうとする。
「…?…これ…何だろう?」
衣服を拾い上げた時に床に落ちたのは青色のカプセル剤で、それは見た事のない薬であった。何故だかそれを捨てられずにいた所、来客を告げる音が鳴り、鳴鳥はビクッと身体を震わせる。
今現在この部屋にはこの部屋を私室としている人物、ジルベルトが居ない。朝方に、自分一人だけという状態でどうしてよいか戸惑う鳴鳥だが、呼び鈴は治まることは無い。冷やかされるのを覚悟して急いで身支度を整えた後に応答すると、そこには焦りを見せるマリアンの姿が在った。
「ああ、ナトリ、やっぱりここに居たのね」
「マリアンさん。その、えっと、これは―――」
「ナトリ、落ち着いて聞いて欲しいことがあるの」
「え…?」
想いを確かめあった夜が明けて、そして訪れたのは辛い現実であった。




