ヘルエスタ王国物語(112)
リゼ・ヘルエスタ、十七歳。
ヘルエスタ王国は実質的にえるが支配していた。
えるがこの二年、リゼを使ってしてきた事といえば王城にいるメンバーの選別だ。ほとんど役にも立たない、寄生しているだけの人間はリゼの王命によって処刑される。この決定には誰も逆らうことが出来ない。
理不尽に処刑された人たちは、メイド、執事を合わせて四十はくだらないだろう。
その中には葉加瀬冬雪と夜見れなもいた。
処刑される直前───二人は王の間で異議を唱えたが、リゼは二人の意見に聞く耳を持たず、最後はフレンの剣で首を斬り落とされ絶命した。
葉加瀬と夜見が処刑されたことを知った加賀美は王城を抜け、おもちゃ屋の権利を売り払い、行方をくらませた。クレアは加賀美の居場所を知っているが、できるだけ連絡を取らないよう気を付けている。
それだけの事をしたにも関わらず、リゼの汚名はヘルエスタ王国に流れることはなかった。噂すら立っていない。
理由は分からないが、推測するに、えるが裏でもみ消したのだろう。
むしろ、クレアが問題視しているのは、レイナがヘルエスタ王国を治めていた頃よりもずっと平和になっている事だった。
レイナが国を治めていた頃は、いつもどこかで問題が起きていて、息をつく暇も、寝る時間も惜しんで働き続けていた。
そんな日々をクレアは楽しんでもいたのだが、だからこそ、返って今のヘルエスタ王国の状況がさらなる厄災の前兆のようにも思えてくる。
しかし、青く澄み渡った空には嵐の気配すら見えない。
誰もが日常を謳歌し、道を歩けば歌が聞こえてくる。
クレアも、そんな平和を堪能しているひとりだった。
ずっと追われていた教会の仕事から離れ、レイナと過ごした記録を資料室から引っ張り出し机の上に並べる。
クレアにとってレイナとの思い出は掛け替えのないものだった。
理解できない部分も多かったが、それでもヘルエスタ王国で彼女と過ごした日々は宝石のように輝いている。
読み進めていくうちに緊張がほぐれ、相変わらずの偉大さで問題を解決していくレイナに、クレアは思わず笑ってしまう。そしていくつかの資料を読み漁り、クレアは彼女の物語にひとつの違和感を覚えた。
これまでたくさんの問題を解決してきたレイナだったが、資料室にはレイナが関わらなかった事件が存在していない。
ヘルエスタ王国で起こった問題のすべてに、レイナは少なからず関わっている。
資料の中にはクレアが知らない記録がいくつもあった。
野良猫の捜索、割れたガラス窓の修理、夜間の見回り───彼女は必ずと言っていいほど問題の中心にいた。
だが、その違和感を言葉にする前に、クレアは急いで資料室を出ることになる。
ヘルエスタ王国を滅ぼす厄災は、すぐそこまで近づいて来ていた。
煉獄の獣に身を堕とした怪物は、地獄の獣たちを従え、黒い炎と絶叫を上げながら地上の大地を腐敗の色で染めていく。
そこに理性はなく、ただ『世界』に与えられた役割を果たすだけの機能しか残されていない。
しかし、例え怪物に成り果てたとしても、彼女は忘れなかった。
リゼ・ヘルエスタを。
アンジュ・カトリーナを。
今度こそ、大切な親友を取り戻す。
その為に生きているすべてを───ヘルエスタ王国を滅ぼすのだ。
クレアが王の間に入ると、えるは窓ガラスに手を置いて、ヘルエスタ王国の悲鳴を見下ろしていた。
玉座には、えるの傀儡となったリゼ・ヘルエスタが無感情のままに座っている。
「クレアさんもこっちに来てください。面白いものが見れますよ」
えるの甘い声に誘われて、クレアも彼女とは別の窓からヘルエスタ王国を眺める。しかし、えるの言った面白いものは見れなかった。黒い炎と逃げ惑う人々。そして北門のすぐ近くで舞い上がる土煙。
今、かつてないほどの惨劇が、ヘルエスタ王国を襲っている。
「クレアさん、お茶でも飲みませんか? 今日は気分がいいですから、特別にえるが用意してあげますよ」
「……───」
クレアから返事をもらえなかったえるは、余裕の表情を浮かべて、再び燃えるヘルエスタ王国に視線を落とす。
対照的に、クレアの心を支配していたのは焦りと恐怖だった。煙の上がる場所は、北側から東と西へ扇状に広がっている。見た事もない怪物たちの手によって、今日までレイナと一緒に築き上げてきたものが壊されているのだ。
だが不思議と、クレアは何も感じなかった。
また作り直せばいい、そう漠然に思っていたのだ。
ふと、煙の向こうに影が見えた。
街の建物とほぼ同じ大きさのその影は、ゆっくりと、だが確実に王城へと進んでいる。
煙が晴れて、影の中から姿を現した怪物の正体に、クレアはぐっと息を呑んだ。
向こうもクレアを視認したのか、進めていた足を止める。
三つ首の獣───ケルベロス。
中央の頭が王城を睨むと、左右にある二つの頭も同じように王城を睨む。
地獄に住んでいるはずのケルベロスが現れたことで、ヘルエスタ王国を襲っている怪物たちはおそらく地獄の獣たちなのだろう。
だが、ヘルエスタ王国を襲っている敵の正体が分かったからといって、その問題が解決したわけではない。
むしろ、逆だ。
ケルベロスを見たせいで、クレアの頭の中はたくさんの疑問で埋め尽くされていた。
───どうしてだろう、似ているような気がする。
ヘルエスタ王国を襲っているケルベロスの顔が、ヘルエスタ王国からいなくなったオッドアイの少女と似ているような気がするのだ。
最初は気のせいだと思った。
そう思いたかった。
だが、いなくなった少女と、顔と声、姿形もなにひとつ違うのにクレアの直感はあの黒い獣を戍亥とこだと信じて疑わない。
窓から見えるケルベロスの右前足が上がる。
そして次の瞬間、その足は宙に浮いていた。
右前足がなくなったケルベロスは残った足で器用に後ろに跳び下がり、王城に向けていた視線を───クレアには豆粒程度の大きさにしか見えなかったが───眼前のフレン・E・ルスタリオに向ける。
ケルベロスの左側にあった首が飛ぶ。次は右。真ん中の首だけになったケルベロスの体は見る見るうちに小さくなっていき、最後は黒煙の中に消えた。
ヘルエスタ王国の国民は、地獄の怪物たちから逃げていた。
教会に助けを求める者もいれば、生きたまま喰われた者もいる。
騎士団は北門から流れ込んでくる怪物たちの相手で手いっぱいで、他の地域に人員を割けていない。かわりにヘルエスタ王国の警備隊や、一般の冒険者などが、群れから外れた怪物たちを片付けていたのだが、それでも人手は足りなかった。
北を除いて、とくに被害を受けたのが西と南の街である。
怪物たちは貧民街を蹂躙したあと、南の街にいる貴族たちを喰い荒らした。人員を西と東に寄せていたせいで怪物たちへの対応に遅れたのだ。結果、ヘルエスタ王国の人口の約六割が、この戦いで散ることになる。
その間、リゼ・ヘルエスタは何もせず、ただ座っているだけだった。
地獄の怪物たちの掃討が終わったのは、フレンがケルベロスを無力化した二時間後のことだった。
「待たせてしまって申し訳ない」
フレンは顔を血で濡らしたまま、えるとクレアのいる王の間に入ってくる。
彼女についている血のほとんどは返り血だった。あれだけ苛烈な戦場にいて、フレンはかすり傷ひとつ負っていない。
フレンは手土産とばかりに、左手に持っていたモノを二人の前に投げる。
「───ッ!?」
クレアは手で口を押えて、ぐっと息を呑んだ。
えるは、王の間に落ちた人影に向かってゆっくり歩み寄る。
「あらあら、お久しぶりですね、戍亥さん」
「リ……ィ……ゼェ……」
えるの声に反応して、戍亥とこの口から掠れきった声が漏れる。そしてクレアはヘルエスタ王国を襲ったケルベロスが彼女だった事を悟った。
全身から血を流し、ぼそぼぞとリゼの名を呼びながら、戍亥は残った左腕を使ってリゼのいる玉座まで這って進もうとしている。
その前に立ち塞がるのが、えるだった。
「いま楽にしてあげますよ」
えるは微笑み、いつの間にか持っていた剣を戍亥に向かって振り下ろす。しかし、その剣が戍亥の首を落とすことはなかった。
次にクレアが聞いたのは、楽器がぶつかり合うような甲高い音。
「フレンさん、これはどういうつもりですか?」
えるは右手首を押え、笑顔のままフレンを睨みつける。対するフレンは、えるの剣を弾き飛ばしたあと、威圧するように、えるに剣を向けた。
「残念だが、彼女を殺すことは許さない」
「血迷ったんですか? 戍亥さんはヘルエスタ王国を襲った立派な敵です。ここで殺しておかなければまたいつ襲ってくるか───」
「貴方の指図は受けない。これはレイナ様の命令だ」
「……レイナ様の?」
確認するように、えるは呟く。
クレアはそんな二人の会話を他所に、這っていく戍亥の背中を眺めていた。
彼女が進んだあとには、カーペットを敷いみたいに赤い血が道を作っている。
現在の自分が置かれている状況が分からない。
夢を見ている気分なのに、目の前にあるのは信じられない現実だけ。
───どうなってるの?
───どうしてとこちゃんは死にかけてるの?
───どうして……どうして……。
───分からない。分からない。
クレアはこの戦いが始まってからずっと、頭の中に浮かんでいる疑問の答えを見つけられないでいた。
もしも、ヘルエスタ王国を抜ける戍亥を止めることが出来ていたなら、こんな悲劇は起こらなかったのだろうか。
もしも、えるの暴走を事前に察知して止める事が出来ていたなら、こんな惨劇を目の当たりにすることも無かったのだろうか。
考えれば考えるほど、分からなくなっていく。
ヘルエスタ王国を守れなかった、戍亥とこに寄り添えなかった、そうやって自分を責め続けなければ今すぐにでも倒れてしまいそうだった。
「……ィ、ゼ……た、けに……」
戍亥はまだリゼに向かって進んでいる。
えるとフレンの話し合いも終わり、這いずる戍亥を一緒に眺めていた。
やがて戍亥は、玉座の前にある小さな階段を上り、リゼの足元に倒れる。
一年ぶりになる二人の再会だが、ここまで無感情に終わる感動が何処にあるのか、とクレアは恐怖に駆られる。
「リ……ェ……」
赤ん坊の頃から、戍亥とリゼは仲が良かった。
彼女がリゼのおむつを替えたり、スプーンでご飯を食べさせたり、クレアは二人が同じ時間を過ごしてきたことを知っている。
新しくアンジュが友達になったあとも、三人の関係は変わらなかった。
それどころか、もっと楽しそうにリゼは笑うようになった。
城の中でしか暮らした事のないリゼにとって、戍亥とアンジュの存在はどれだけ大切だったのだろう。
───知っている。『私』は二人のことが大好きだった。
だが現実は、気が狂いそうになるほどの静寂で満たされている。
リゼの足元で一休みを終えた戍亥は、また這ってリゼに近づき、足首から膝、そして太ももまでの道のりをリゼの名前を呼びながら上っていく。最後は甘えるようにリゼの名前を呼んで肩に顎を乗せた。
戍亥は最後の力を振りしぼり、大きく口を開け、リゼの細い首筋に牙を立てる。
クレアはそっと自身の首に手を置いた。
痛みがあった。噛まれた場所がクレアには分かった。
自分の首から血が流れている。
リゼの体からすべての血が抜けると、再び、クレアの世界は暗転した。
■■はお花畑に座っていた。
ぼーっとしたまま、一度だけ瞬きをする。
すると自分が今日までシスター・クレアとして暮らしきた事、そしてウル・モアに殺され続けた七百年の死痛と三百年の苦悩が■■の全身を貫いた。
その絶望のあとに続くのは■■がこれまでやってきた事───幼い弟の首を絞め上げた感触が指先に残っている。父親の首が落ちるまで何度も振り下ろした剣の重さが腕の筋肉を奪っている。
そして自分の全体重を乗せて、母親の心臓を貫いた。
血で染められた夢は何の苦労もなく、今日までの自分を破壊する。
たった一瞬の出来事だったはずなのに、■■はどれだけ救いを求めたか分からない。
同時に、自分が誰なのかも理解する。
この花畑が七百年前にクレアがいた場所。ここから続く展開を■■はかつての自分が残した記録の中で見た。
■■が後悔の海に沈んでいると、やがて、ひとりのエルフが花畑に入ってくる。
そのエルフの少女は■■の前まで歩み寄り、優しくて、涼やかな笑みを浮かべてこう言うのだ。
「私はウィスティリア・ヘルエスタ。みんなからはリアって呼ばれてる。貴方の名前を教えてくれない?」
■■もまた、自分の名前を口にする。
自分の立場を、自分に言い聞かせるように。
「わたしは……クレアっていいます」
名前を聞いたウィスティリアは静かに頷き、座ったままの■■に手を差し伸べる。
同じだ。
■■の記録にあるウィスティリアの行動と何も変わらない。
「ねえ、クレア。私と一緒に世界を救ってみない?」
「……───」
しばらくの間、■■は自分に向けられたその美しい指先を眺めていた。
もしも、あの悲劇をここからやり直すことが出来るのなら、今度は自分の意思で彼女の手を掴もう。
絶望は『平等』に。
平等は『絶望』に。
これは■■・■■■■■が───世界を救う物語だ。




