第5話 深淵での遭遇と侵食の代償
王都の喧騒から遥か離れた湿地帯に口を開ける、不気味な巨大洞窟――高難易度ダンジョン『黒竜の巣穴』。
その内部は、外界の光が一切届かない漆黒の世界だった。岩肌は黒くぬめり、空気中には魔物が発する毒気と硫黄の臭いが満ちている。
「……クソがっ! なんでこんなに雑魚どもが湧いてくるんだよ!」
暗闇の中、シディスが苛立ちを爆発させながら、襲いかかる巨体のアシッド・スパイダーを切り捨てていた。
本来なら、Sランク冒険者にとってダンジョン道中の雑魚など造作もないはずだった。しかし、今のシディスの動きには明らかにキレがない。
「くっ……痛ぇ……っ!」
一振りのごとに、右肩から腕にかけて激痛が走る。先日のパーティーで爆発した魔力回路のダメージは、表面上の治癒魔法ではまったく治っていなかった。
それどころか、剣を振るうたびに体内で肉が焼き切れるような熱気が広がっている。
「シディス、大丈夫……? 少し休もうよ……」
後ろから怯えた声で声をかけてきたのはエリスだった。彼女の純白だったヒーラー用のドレスは、すでに毒沼の泥と魔物の返り血で酷く汚れている。手入れされたはずの金髪も乱れ、その顔には疲弊と不満が露骨に表れていた。
「休むだと……!? ふざけるな!」
シディスは振り向きざまにエリスを怒鳴りつけた。
「ギルドの連中が僕を陰で笑っているんだぞ!?『あの最年少Sランクは元師匠の功績を盗んだだけだろ』ってな!今すぐこのダンジョンの最深部にいる『黒竜』の首を持ち帰らなきゃ、僕の立場がないんだよ!」
「で、でも……ソロで攻略するなんて無理よ! 私の治癒魔法だって、貴方の右腕にはなぜか効かないし……帰って体制を立て直した方が――」
バシッ!
鈍い音が洞窟内に響いた。
シディスが、手袋をはめた手でエリスの頬を強く張り飛ばしたのだ。
「きゃっ……!?」
エリスは地面に倒れ込み、腫れ上がった頬を押さえて目を見開いた。
「生意気言うな、この女が! 誰のおかげで高級ホテルに泊まり、高いドレスを着れていたと思ってるんだ!? 僕に従えないなら、ここに置いていって魔物の餌にしてやるぞ!!」
「っ……!」
エリスは悔しさと恐怖で涙をこぼしたが、何も言い返せなかった。
かつて自分に優しく接し、レオンから奪い取ってくれた「理想の騎士」の姿はどこにもない。そこにいるのは、プライドを傷つけられて暴走する、哀れな悪魔でしかなかった。
(どうして……どうしてこうなっちゃったの……? レオンといた頃は、こんな怖い思いなんてしたことなかったのに……)
シディスが腰の薬袋から不気味な黒紫色の液体が入った瓶を取り出し、一気に飲み干すのを見て、エリスは思考を打ち切られた。
「ハァ……ハァ……! 効いてきたぞ……!」
それは冒険者ギルドで固く禁止されている、寿命と肉体を削って一時的に能力を跳ね上げる過剰強化ポーション『狂戦士の血』だった。
シディスの目が血走り、瞳孔が収縮する。異常な興奮状態に陥った彼は、右腕の痛みを無理やり脳から遮断し、不気味な笑みを浮かべた。
「行くぞエリス! 黒竜を殺して、僕が『真の英雄』であることを世界に証明してやるんだ!!」
「あ……うん……シディス……」
エリスは怯えながら、狂気にとらわれた男の背中を追うしかなかった。
二人が立ち去った後。
彼らが通り過ぎた暗闇の通路の天井から、すっと二つの影が舞い降りた。黒いローブを纏ったレオンと、その横に浮遊する銀髪の少女シェラだ。
「……酷いものね。恋人を殴りつけ、禁薬に手を染めて強がるなんて。あれが君の育てた『天才弟子』の真の姿なのかしら?」
シェラは呆れたように小さく肩をすくめた。
「……」
レオンは無言で、地面に残されたシディスの血とポーションの液滴を見つめていた。
「シディスの右腕にある『黒蝕の毒』は、あのポーションの成分と混ざり合って、体内でさらに凶悪に活性化している。……もう長くは持たないな」
「クスクス、自暴自棄になって自滅してくれるなら楽でいいけれど……それじゃあ君の復讐としては味気ないでしょう?」
シェラが顔を寄せ、レオンの頬にすり寄る。
「彼らが最高の絶望を味わう舞台……黒竜の最深部で、待ってあげましょうか」
「ああ……地獄の底で再会するのもいいな」
ふたりは気配を消したまま、嘲笑うように暗闇の奥へと消えていった。
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そして――『黒竜の巣穴』最深部、巨大なドーム状の空洞。
「ついに……ついに、着いたぞ……!」
シディスは荒い息を吐きながら、最深部の広場へと足を踏み入れた。広場の中央には、かつて多くのAランク冒険者を噛み殺してきた巨大な黒鱗の魔物『黒竜』が、死んだように横たわっていた。
「な……なに……? 黒竜が、もう倒れてる……!?」
黒竜の巨躯は、まるで内側から腐食したかのように黒い煙を上げて崩れ落ちていた。その強靭な鱗はボロボロに剥がれ落ち、命の灯火は完全に消え去っている。
「嘘だろ……! 誰だ!?誰が僕より先に黒竜を倒したんだ!!」
シディスが怒狂い、剣を振り回して叫んだ。
自分がSランクとしての名誉を取り戻すための「最後の希望」だった獲物が、目の前で無残な死体と化しているのだ。
その時――死んだ黒竜の頭上から、静かな足音が響いた。
「――探したぞ、シディス。エリス」
暗闇の中から、一人の男が姿を現した。
黒いローブを羽織り、右腕に不吉な漆黒の魔力を渦巻かせた男。
シディスとエリスが止まった。
血の気が引き、二人の顔がみるみるうちに蒼白になっていく。
「レ……レオン……!? なんであなたがここに……!?」
エリスが震える声で叫ぶ。
そこに立っていたのは、数日前に自分たちがカフェで嘲笑い、泥を舐めさせ、捨て去ったはずの「出来損ないの元恋人」だった。
しかし、今のレオンから漂う雰囲気は、かつての温厚で誠実な男のそれとは完全に異なっていた。
その瞳には底知れぬ暗黒の憎悪が宿り、纏う魔力は目の前の黒竜すら一瞬で腐らせて殺害するほどの、禍々しい狂気に満ちていた。
「レオン……お前が、黒竜を殺したのか……!?」
シディスは信じられないものを見る目でレオンを睨みつけた。
「そうだ」
レオンは冷ややかに見下ろした。
「お前が求めていた『名誉』の象徴は、俺が叩き潰した。お前に残されたものは……もう何もない」
「ふざけるな……ふざけるなぁぁぁぁっ!!」
シディスの頭の中で、最後の理性の糸がぶちりと切れた。
「僕の……僕の栄光を! 僕の人生を邪魔するなぁぁぁっ! お前みたいなゴミ屑は、僕の足元で泥を舐めていればよかったんだぁぁぁっ!!」
狂乱したシディスが、ポーションで異常強化された脚力で地を蹴った。
死線を超えた凶暴な突進。血走った目で愛剣を大きく上段に構え、レオンの首元目がけて振り下ろす!
──ギィィィィンッ!!
レオンの手元に形成された黒い魔力の刃と、シディスの剣が激しくぶつかり合い、洞窟内に絶叫のような火花が飛び散った。
「……死ね! 死ねぇぇぇっ!!」
シディスがなりふり構わず細身の愛剣を振り回す。右腕の魔力回路が悲鳴を上げ、皮膚の下がドス黒く腫れ上がっているのにもかかわらず、狂戦士の薬で痛みを麻痺させ、力任せに剣を振るう。
「レオン……っ! やっぱりお前だったのか……! あのパーティーでの不調も、僕の腕がおかしくなったのも、全部お前が裏で何か仕組んだんだろ!?」
「気づくのが遅いな、シディス」
レオンはフードの奥から、氷のように冷たい眼光を向けた。
「お前が『自分の才能』だと信じていた剣技の欠陥。それを少し刺激してやっただけだ。お前は慢心し、自分の基礎すら省みなかった。自滅だよ」
「うるさい!! お前みたいな落ちぶれたゴミ屑が、僕に説教するなぁぁぁっ!!」
シディスが左手で腰の短剣を抜き放ち、凄まじい連撃を見せる。薬の異常な筋力強化と死への恐怖が生み出す火事場の馬鹿力。
その攻撃は、かつての精密さを捨て去った代わりに、恐ろしいほどの殺傷能力を帯びていた。
「っ……!?」
レオンは『黒蝕』の魔術壁を展開して防ぐが、想定以上の衝撃に足を滑らせ、大きく後方へ押し込まれた。
(重い……! 薬で無理やり限界を突破しているのか……!)
「シディス、そのまま押し潰して!!」
背後からエリスの叫びが響く。彼女は両手を掲げ、シディスに絶え間なく強化魔法をかけ続けていた。
『聖なる力よ、彼の者に鋼の力を! ホーリー・ブレス』
「……レオン! 貴方みたいな盗作野郎が、シディスに勝てるわけないでしょう? 大人しく死になさい!!」
強化魔法を受けたシディスの全身から、眩いばかりの聖なる気が噴出する。
「見たかレオン!これが僕とエリスの『絆』だ! お前なんかに破れるもんかッ!!」
「絆、だと……? 笑わせるな……!」
レオンは怒りに瞳を燃やし、胸の奥からさらに膨大な『黒蝕』の魔力を引き出そうとした。
――その時だった。
「が……あ……っ!?!?」
突然、全身の痛覚が弾け飛ぶような激痛がレオンを襲った。視界が真っ赤に染まり、膝がガクガクと震える。
レオンの右腕から胸元にかけて、不吉な黒い血管状の紋様が急激に侵食を進め、皮膚を食い破るように血が噴き出していた。
(な……なんだ……これは……!?)
「レオン!?」
頭上で気配を消していたシェラが、悲鳴を上げた。
「ダメよレオン! これ以上急激に『黒蝕』の魔術を練り上げちゃダメ! 君の魔力回路は再構築されたばかりなの! 短期間で負荷をかけすぎると、肉体が魔力の毒に耐えきれずに崩壊するの!!」
これこそが、禁忌の書『黒蝕の書』が求める苛烈な代償。元々破壊されていたレオンの肉体は、黒い毒で無理やり繋ぎ合わされているに過ぎない。
復讐の怒りに任せて一度に大量の黒蝕魔力を解放すれば、その毒はレオン自身の肉体をも内側から腐敗・解体していくのだ。
「……が……っ!!」
口から黒い血が溢れ出る。
魔力の循環が乱れ、展開していた黒い魔術壁がパリンと音を立てて崩壊した。
「……? バカだなぁ!!」
その様子を見たシディスが、腹を抱えて爆笑した。
「なーんだ! 威勢のいいことを言っておいて、そんな怪しげな術の反動で勝手に自滅しかけてるじゃないか。 やっぱりお前は出来損ないのゴミ屑だ」
「シディス! トドメを刺して!」
「言われなくても刺すよ」
シディスは残された左腕で剣を構えた。
強化魔法と薬の毒で極限まで高められたスピード。疾風の如く迫る刃が、身動きの取れないレオンの首元へと肉薄する。
(くそ……動け……!動けっ!!)
「――ッ!!」
シディスの凶刃が振り下ろされた――その瞬間。
「――――させないわ……!」
小さな身体が、疾風のようにレオンの前に割り込んだ。激しい衝撃波が走り、洞窟の天井から岩石が落っこちる。
「ぐっ……!?」
シディスの剣を止めたのは、両手を掲げ、漆黒の結界を必死に展開したシェラだった。
「シェラ……?」
「はあ……はあ……っ レオンに……レオンに気安く触るんじゃないわよ」
シェラの紫の瞳が紅く染まっていた。
だが、シェラもレオンのサポートに力を割いていたため、シディスの一撃を受け止めたことで、身体から血が滲み出ていた。
「チッ……鬱陶しいガキが割り込んでんじゃねえ!」
シディスは力任せに剣を押し込み、シェラの結界にヒビを入れる。
「シェラ……下がるんだ……! お前まで巻き込まれる……!」
血を吐きながら叫ぶレオン。
それでも、シェラは振り返らなかった。血の滲む手で結界を支えながら、叫び返した。
「嫌よ! 下がるわけないでしょう?」
シェラの瞳から涙がこぼれ落ちる。
「私と『約束』したじゃない! 地獄の果てまで付き合ってくれるって! こんなところで、こんな奴らに負けて死ぬなんて許さないわ!!」
シェラは背後のレオンに向かって、自身の純粋な魔力の根源を流し込んだ。
「私の魔力を使いなさい、レオン! 『黒蝕』の毒を私の魔力で中和して、一時的に肉体の崩壊を止めるわ!」
シェラの温かく甘い魔力が、レオンの傷ついた体内に雪崩れ込んでくる。
その魔力は猛威を振るっていた『黒蝕の毒』を包み込み、激痛を劇的に和らげていく。
(シェラが……俺のために、身を挺して……!)
かつてレオンは、誰かを護るために戦い、裏切られた。
だが――今、目の前にいる少女は、自分の身を削ってまで、本気でレオンを護ろうとしている。胸の奥で、黒い炎とは異なる熱く力強い熱量が爆発した。
(守られるだけの男で……終わってたまるか……!!)
「おおおあぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!」
レオンの咆哮が、ダンジョン全体を揺らした。シェラの魔力と合流した『黒蝕』の力が、新たな次元へと昇華する。
──適応したのだ。
レオンの全身から、濃密で禍々しい「漆黒と紫のオーラ」が立ち上った。
「なっ……何だこの魔力は――!?」
シディスの剣が、レオンから放たれた魔術の波動だけで弾き飛ばされた。レオンは立ち上がり、倒れそうになったシェラの小さな身体を、左腕で優しく抱き寄せた。
「ありがとう……よく耐えてくれた、シェラ」
「へへ……格好いいところ、見せなさいよ……レオン」
シェラは疲弊しながらも、嬉しそうに微笑んだ。レオンはシェラを抱いたまま、恐怖でガタガタと震え始めたシディスとエリスへと視線を向けた。




