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第6話「今日は何もしないの!」

頬に、やわらかい光が触れている。


ソファの革の匂い。毛布の重み。それから——焼き林檎(りんご)の、冷めきった甘い残り香。


目を開けると、パピーの書斎の天井が見えた。窓からの光が(まぶ)しくて、目を細める。


昨夜のまま、ここで寝てしまったらしい。テーブルの上には食べかけの焼き林檎が二つ。蜜がすっかり乾いて、皮が少し縮んでいる。


「……んー」


伸びをする。全身がぱきぱき鳴った。ソファで寝るたびに首が痛くなるのに、懲りずにまた寝てしまう。学ばない。


髪がぐちゃぐちゃになっている。白い長髪が顔に張り付いて、寝癖で左側だけが跳ねている。指で()いてみるけど全然まとまらない。


「……まあいいか」


跳ねたまま立ち上がる。


テーブルの焼き林檎に手を伸ばした。冷めきって、蜜も固まっている。でも一口かじると——うん、まだおいしい。蜜花堂のはすごい。冷めても甘い。


もぐもぐしながら書斎を見渡す。


パピーが机に向かっていた。


「おはよう、パピー」


振り返らない。銀色の髪が肩に落ちて、朝の光に白く光っている。机の上の書類は昨夜より増えていた。


「パピー?」


「……おはよう」


振り返った藍色の瞳の下に、薄い(かげ)り。返事までがずいぶん長い。


「寝てないの?」


「森の精霊を見張らせておった。——少し、気になることがあってな」


やっぱり。毛布がわたしの肩までかけ直されている。夜のどこかで一度、わたしの様子を見にきたのだ。


焼き林檎をもう一口かじりながら窓辺に寄ると、朝の森が広がっていた。昨夜の張り詰めた空気は消えて、穏やかだ。


「パピー、昨夜の——あの黒いの、どうなった?」


パピーが机から顔を上げた。


「一晩、精霊に見張らせておった。——弱まっている」


そう言われてみれば——昨夜あれだけ怯えていた精霊たちが、今朝は穏やかに光っている。窓辺の子も、(こずえ)を飛ぶ子も、何事もなかったみたいに。


「……収まりかけておるのか」


自分に言い聞かせるような声。確信はなさそうだった。


焼き林檎を食べ終えて、べとべとの指を布巾(ふきん)で拭いた。もう一つはパピーのぶん。


「おじぃからの返事は? 来た?」


パピーが小さく首を振った。北の窓——霧泉(むせん)の森がある方角に、一瞬だけ目を向ける。


「……父上の結界は、容易には通さぬ。もう少しかかるであろう」


焼き林檎の残りをパピーの方にそっと押した。食べてないでしょ、と目で言う。パピーは一瞬だけ視線を落として——手をつけなかった。でも口元が、ほんの少し緩んでいる。


昨夜の、あの言葉が見つからない顔とは違う。一晩かけて、パピーなりに折り合いをつけたらしい。昨夜は「暇がなさそう」って思ったけど——蓋を開けてみれば、あの黒いのは弱まり、おじぃの返事は待つしかなく、わたしたちにできることは何もなかった。


——待つしかないなら、待てばいい。


「じゃあ今日はお休み!」


パピーが、ゆっくりとこちらを見た。


「……なんと申した?」


「お休みなの! パピーも寝てないでしょ。おじぃの返事が来るまで何もできないし、あの黒いのも弱まってるって言ったし。——今日は何もしないの!」


藍色の瞳が、二度瞬いた。


「お前の『何もしない』は、何かしておる時より厄介であるが」


「やだ! 今日は絶対何もしないの!」


指を振って宣言する。パピーの目元が、ほんの微かに緩んだ。——呆れているのか、安堵しているのか。たぶん両方。


 * * *


自分の部屋に戻る。——扉を開けた瞬間、足元の硝子(がらす)瓶を踏みそうになった。あぶな。中に小さな光る砂が入っている。いつ拾ったんだっけ。


部屋が散らかっている。——いつものこと。侍女には「わたしの部屋は触らないで」と言ってある。どこに何があるか、自分にしか分からない配置だから。侍女は「配置ですか」と言っていたけど、配置なの。


棚の上に石がずらりと並んでいる。光る石、模様のある石、ただ丸いだけの石。虫の標本、変わった形の葉っぱ、人間の街で買った万華鏡やからくり箱——あらゆるものが堆積している。ベッドにも寝巻きと本と干し果物の袋が散乱。


「……そうだ、片づけよ」


思い立つ。たまには。たまにはこういう気分の日もある。だいたい五十年に一回くらい。


棚の前に座り込む。半透明の青い石を手に取って、「これどこで拾ったんだっけ」と精霊に聞く。精霊がくるくると回って、「知らない」と光る。そりゃそうだ、この子とはまだ二百年くらいの付き合い。


並べ直そうとする。青い石、黒い石、白い石——でも置き場所を変えるたびにバランスが崩れて、十分後には最初と全く同じ配置に戻っていた。


「……飽きた」


——うん、今日はここまで。次にやる気になるのはたぶん何十年か先。


精霊が呆れたようにふよふよと浮いている。


「なーに、その顔」


 * * *


部屋の窓辺に座って、棚から取り出した万華鏡を覗いていたら、控えめな叩音(ノック)が響いた。


「ミレーゼ様、お昼のお支度ができております」


「あとでー」


「先ほどから三度目の『あとで』でございます」


「……三回目?」


時間の感覚がない。万華鏡を覗いていたのは一瞬だと思っていたけど、窓から差し込む光がだいぶ高くなっている。


扉が開く。侍女が盆を手に入ってきた。三回断られることを見越して、もう運んできている。


「せめてこれだけでも。ヴェルディナス様にお叱りを受けますので」


薄切りの燻製鹿肉(くんせいしかにく)と木の実のパン、蜂蜜漬けの果実。いつもの軽い昼食。


「パピーを盾にするのずるい」


「事実を申し上げただけでございます」


侍女が何も言わずにベッドを整えていく。散乱していた寝巻きが畳まれ、本が枕元に立てかけられる。手際が良すぎる。


蜂蜜漬けの果実を一切れ口に放り込む。()むたびに蜜がじわりと染み出して、甘い。


「ミレーゼ様、本日のご予定は」


「ないよ! 今日はぐーたらする日!」


「まあ。それはいつもと何が違うのでしょう」


「失礼じゃない!? わたしだって忙しい日はあるんだよ!」


「存じ上げております。先日のお出かけのような」


王都に行ったこと、知ってる。全部知ってて何も言わない。この人はそういう人だ。


「……あのね、おばちゃん元気だったよ。蜜花堂(みつはなどう)の」


「それはようございました」


ほんの少しだけ、侍女の目元が和らぐ。蜜花堂のことは、この人も知っている。


燻製(くんせい)鹿肉をパンに載せて食べる。万華鏡をポケットに突っ込んで立ち上がる。


「じゃ、出かけてくる!」


「お気をつけて」


どこへ行くのか聞かない。引き留めない。


 * * *


靴を履くのが面倒で、裸足(はだし)のまま館を抜けた。(こけ)を踏むとひんやりして気持ちいい。——やっぱり森が好き。


精霊たちがついてくる。三つ、四つ——いつの間にか七つ。呼んでもいないのに勝手に集まる。


「あ、木の実! 取りたい!」


頭上の枝に赤い実がたわわに実っている。手を伸ばしても全然届かない。


「んー……」


ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ、白焔で枝を引き寄せようとした。指先にぽっと白い光を灯して、枝に向かって——


——ぼっ、と枝が燃えた。実ごと。


「ちょ、えっ、うそ!? やだやだやだ消えて!」


赤い実が黒焦げになって落ちる。精霊が慌てて飛んできて煙を消してくれた。


「……ごめんなさい。ごめん。ほんとごめん」


精霊がぱちぱちと光る。呆れている。絶対呆れてる。


「わ、わざとじゃないの! ちょっと力加減を間違えただけ!」


精霊が「知ってる」みたいな光り方をする。


隣の枝にまだ実が残っている。今度は白焔なしで。


「……ちょっと浮かせて? ね?」


渋々、精霊がふわりとわたしを持ち上げてくれた。手でもいで口に入れる。甘酸っぱい。


「ありがとね!」


精霊がふん、と光を消した。——照れてるんだと思う。たぶん。


お気に入りの(かし)の木の根元に寝転がる。苔がふかふかで冷たくて気持ちいい。(こずえ)の隙間から覗く空がどこまでも青い。


精霊が一つ、お腹の上に降りてきた。小さな光がわたしの呼吸に合わせて上下している。


「…………」


目を閉じる。


風の音と葉擦(はず)れ。遠くで鳥が鳴いて、精霊の光がまぶたの裏で淡く揺れている。


——ふんふん、と鼻歌が出た。


何の歌だったかは覚えていない。ずっと昔に聞いた旋律の断片。言葉は忘れたけれど、音だけが体のどこかに残っている。


「ふんふーん、ふふ、ふーん……」


異変に気づいたのは、三小節目。


お腹の上の精霊が跳ねた。ぴくり、と。それからぱぁっと光が強くなって——


周囲の精霊が、集まり始める。三つ、五つ、十——数えきれない。梢の間から、苔の隙間から、光の粒が旋律に引き寄せられるように流れ込んでくる。


「えっ——ちょ、ちょっと」


目を開ける。


光に囲まれていた。何十もの精霊が、わたしの周りで旋律に合わせて脈動(みゃくどう)している。白い光、金の光、薄青い光。全部違う色なのに、拍子に揃って揺れている。


「……なに? どうしたの?」


鼻歌をやめる。精霊たちがふわっと散って——


……あれ。


目を開けて、息が止まった。


(かし)の木の幹に、白い焼け跡が走っている。根元から枝先まで、稲妻のような模様。周囲の木も三、四本、幹の表面が白く変色していた。地面の苔はわたしを中心に円く焼け焦げて、土がむき出しになっている。半径にして——五、六歩分?


ぱらぱらと白い葉が降ってくる。白焔に()かれた葉。雪みたいにきれい——じゃなくて。


「……やっちゃった」


精霊たちが遠巻きにこちらを見ている。鼻歌で精霊を呼んで、集まった精霊が白焔を引き出して、結果——森にクレーターができた。


——パピーの「何もしない方が厄介」って、こういうことだ。


それだけ言って、また目を閉じる。今度は鼻歌なしで。


苔は柔らかく、精霊はあたたかく、風は穏やかで——それだけでよかった。


 * * *


昼寝から目覚めると、日が傾きかけている。お腹の上の精霊はまだいた。光が少しぼんやりと——こちらも寝ていたらしい。


体を起こすと、苔が背中にべったりくっついていた。払おうとして——まあいいか、とやめる。


ポケットの万華鏡に飽きて、思いつく。


「絵、描こ!」


精霊に小枝をもらって、地面の土に描き始める。(こずえ)と木漏れ日と、精霊の光が散らばる午後の森。


ずっと絵が好き。でもずっと下手。木はぐにゃぐにゃだし、精霊はただの丸。——精霊が一つ、絵の上をふわりと通り過ぎた時、その光が丸に重なって、一瞬だけ絵が息をしたように見えた。上手くはないのに、空気だけが線の中に残っている。


枝をぽいっと投げて、立ち上がる。次の雨で消えるけど、べつにいい。描きたかっただけ。


 * * *


日が沈みかけている。


木漏れ日が(だいだい)に染まり、精霊たちの光が少しずつ強くなっていく。夜に向けて、森を照らす準備。


穏やかな一日だった。焼き林檎を食べて、石を並べ替えて結局もとに戻して、木の実をもいで、鼻歌を歌って、昼寝して、絵を描いた。好きなことしかしていない。——完璧な一日。


立ち上がって、伸びをする。帰ろう。パピーがまた寝ていないなら、今度こそ寝かせないと。


ふと、足が止まる。


今朝のことを思い出す。あの黒いのが弱まっていて、精霊も怯えていなかった。パピーは「収まりかけておるのか」と(つぶや)いていた。


弱まった——本当に、そうだろうか。


精霊が怯えなくなったのは、あの黒いのが収まったからなのか。それとも——奥に引っ込んで、見えなくなっただけなのか。


パピーだって知らないって言ってた。知らないものが「弱まった」なんて、分かるわけないのに。


胸の奥で、昨夜の冷たさの残滓(ざんし)がちりっと(うず)く。


「……考えても仕方ないよね! 今日は休みなの!」


声に出して言い聞かせて、館に向かって歩き出す。苔を踏む裸足の感触が気持ちいい。精霊たちが前を飛んで道を照らしてくれる。このまま帰って、パピーを寝かせて、わたしも寝て、明日また考えればいい。


——そう思っていたのに。


足元の精霊が一つ、ぴたりと止まった。道を照らしていた光が固まって、南東の方角をじっと見つめている。


「……どうしたの? なにか気になる?」


精霊が答えない。光がちかちかと不規則に震えていて——でも怯えているのとは違う。昨夜の、あの黒いのを感じた時の怯え方じゃない。困っている。どうしていいか分からない、みたいな光り方。


「ねえ、なにかいるの? 教えて?」


精霊がようやく光った。短く、断片的に——森の辺境に、人間がいる。南東の端、森の境界に近い場所。


「人間? この森に?」


珍しいことじゃない。精霊が霧を出して道を曲げれば、たいていは帰っていく。


「追い返した?」


精霊の光が弱々しく揺れる。全部やった——なのに、あの人間はまだそこにいる。


夕日が森の奥まで長い影を引いている。南東の辺境のどこかに、帰らない人間がいる。


「……ふうん」


気づいたら、館とは逆の方に足が向いていた。南東——辺境の方。


今日は休みの日。やるべきことは何もしないって決めた。でもこれは「やるべきこと」じゃない。ただの好奇心。好奇心は休みの日でもいいでしょ?


「パピーに言わなきゃ。——あとで!」


精霊に向かってそう叫んで、駆け出す。裸足の足が苔を蹴る。夕日が(こずえ)の隙間から差し込んで、走るわたしの影が長く伸びていく。

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