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第4話「見なかったことにできないんだけど?」

東通りを西へ、小走り。大通りに出て北東門を目指す。片腕に紙袋四つ、もう片手にはおばちゃんがサービスしてくれた焼き林檎の残り。ずっしり重い。でもいい匂い。


指先にはまだ、さっきの白焔の熱が残っている。——でも、おばちゃんの焼き林檎の温もりが、少しずつそれを上書きしてくれている。


ひと口。


ぱりっと皮が弾けて、蜜がじわっと広がる。あったかい。胸の底に(おり)のように沈んでいた冷たさが、この甘さに溶かされていく。


……うん。大丈夫。


おばちゃんの笑顔がまだ目に残っている。「また来なよ」って言ってくれた声。初代から受け継がれた、あの深い笑い皺。あの笑顔があるから、わたしはここに来るんだ。


急がなきゃ。


寄り道と昼寝で時間を食いすぎている。このまま北東門を抜けて、森に入って、走れば——パピーが気づく前に帰れる。……帰れるかな。たぶん無理だけど、希望は持ちたい。


四箱分の幸せの重みに腕がきしむ。石畳を小走りに駆ける。フードが揺れる。白い髪が少しはみ出てるけど、午後の通りは人がまばらで、こっちを見ている人はいない。


東通りを抜けて、北東門へ続く大通りに出る。ここまで来れば、あとはまっすぐ。


ふと——


足が止まった。振り返っていた。


理由なんてない。——本当に? 背中がざわついていた。千年の(かん)が、何かを捉えていた。おばちゃんの店がある方を見ておきたかっただけ——のはず、だった。


 * * *


目が、捉えたのは蜜花堂じゃなかった。


もっと遠く——北寄りの空。王宮の尖塔が午後の光を浴びて白く輝いている。明るい景色。通りを歩く人間たちの目には、いつもの王都に見えているはず。


でも。


エルフの目には、はっきりと見える。


王宮を包んでいたはずの精霊結界が——(ほころ)んでいる。


わたしが年に二回、退屈な点検をしていたあの結界。何百年もの間、ぴんと張り詰めていた守りの膜。それが、古い布のようにほつれていく。糸が一本、また一本と抜け落ちて、そこから空気が漏れ出すみたいに——均衡が、崩れかけている。


昨日パピーが「維持を停止する」と言った。たった一日で、もうこんなに。


……おかしい。


精霊の結界は、維持をやめても急には崩れない。何百年もかけて編み上げたものは、糸を引いたくらいでは一日でほつれたりしない。わたしが点検してた時の結界の厚みを思い出す——あれが、たった一日で? まるで内側からも引っ張られているみたいに。


……気のせいかな。


花屋のお姉さんが水を撒いている。荷馬車が角を曲がる。子供が走り回る。——誰も、あの尖塔の周囲の空気が歪んでいることに気づいていない。


陽炎(かげろう)のように輪郭が揺らぐ王宮を、わたしだけが見ている。


——そして。


目を凝らした瞬間、焼き林檎を噛む顎が止まった。


王宮の足元——地下の奥から、何かが(にじ)んでいた。


焔、のようなもの。


黒い。


わたしの白焔(はくえん)とは正反対の——温度のない焔。燃えているのに冷たい。光を放っているのに暗い。地面の下から、()い上がるように立ち昇っている。ゆっくり。ゆっくり。息をするみたいに。


「……なに、これ」


口の中の焼き林檎の味が、消えた。


さっきまで舌の上にあった蜜の甘さが——あの焔を見た瞬間に、奥歯の裏まで冷たくなる。噛み砕いた破片が、砂を噛んだみたいに、ざらつく。


近づいたわけじゃない。大通りの真ん中に立っているだけ。なのに——見えてしまった瞬間から、あの冷たさがここまで届いている。鼻腔の奥で、焼き林檎の甘い匂いが薄れていく。代わりにやって来たのは、何もない匂い。温度のない場所の、何もなさ。


昨夜のことを思い出す。


王宮の方角から戻ってきた精霊の色が()せていた。いつもは金色に光っている子が、白っぽく、くすんで。元気がないとか疲れているとか、そういうのじゃなくて——色を、吸い取られたみたいに。


これか。


この冷たい焔に触れて、精霊たちの色が抜けていたんだ。


足元を見る。隣に浮いていた精霊が——いない。振り返ると、三歩ほど後ろで小さく光っている。わたしの傍を離れたがっているんじゃない。王宮の方角に、一歩も近づけないでいる。


「……怖いの?」


精霊が光を絞った。いつものぷるぷるじゃない。自分の光に潜り込むみたいに、ぎゅっと縮こまっている。——千年の付き合いで、こんな精霊は初めて見る。


焼き林檎の紙袋を、ぎゅっと胸に押しつけた。さっきまであんなに温かかったのに、今は紙越しの温もりがかろうじて指先に届くだけ。——おかしな話。千年生きてきて、お菓子の温もりにしがみつくなんて。


この焔は、空からでも外からでもない。結界が弱まったから湧いたものでもない。王宮の地下、足元のずっと奥深くから——まるで蓋が緩んだみたいに、結界の下から何かが漏れ始めている。


「結界が弱まっただけじゃない。——地下から、何かが這い出してる」


声に出した。自分の声が妙によそよそしく聞こえる。


もっと近づいて確かめたい。あの焔が何なのか。どこから来ているのか。どのくらいの速さで広がっているのか。——好奇心が首をもたげて、同じくらい古い本能が首根っこを掴む。


行くな。


足の裏が、じん、と冷える。石畳越しに、あの温度のなさが伝わってくるような——


その瞬間。


 * * *


ぱっ、と。


目の前に光が飛び込んできた。


小さな、けれど強い光。ティルナの森の方角から、まっすぐわたしに向かって飛んできた火の粉——精霊伝令。金色の、温かい光。あの黒い焔とは正反対の色。


受け取り手の前で一度停止して、くるりと回って、声を再生する。


父の声が、午後の通りに響いた。


「——ミレーゼ。菓子を買いに行ったのだろう。帰ったら話がある」


静かな声。怒鳴ってない。凪いでいる。——凪いでいるのが、一番怖い。


一言目で全部バレてる。精霊に「ミレーゼはどこだ」と聞いて、「王都にいる」と答えが返ってきた瞬間、もう分かったんだ。わたしが王都に行く理由なんて一つしかない。三百年変わらない、焼き林檎への執着。パピーの前では暗号にもならない。


「……あー」


焼き林檎の紙袋を四つ抱えたまま、王都のど真ん中で立ち尽くす。


通りすがりの男が怪訝な顔でこちらを見ている。——そりゃそうだ。フードを目深に被った小柄な子供が、大量の紙袋を抱えて空中に向かって「あー」と言っていれば、変な目で見るに決まってる。


精霊伝令がくるりと回って、光が消える。一方通行。返事は届かない。


……全部お見通しかぁ。


「帰ったら話がある」——パピーの声が、頭の中でもう一度響く。あの凪いだ声。怒鳴ってくれた方がまだ楽なのに。


 * * *


もう一度だけ、王宮の方角を見た。


黒い焔は、まだそこにある。午後の陽の下でも、人間の目には映らない。わたしにだけ見える、静かな異変。地下の奥底から——あの冷たい焔は、わたしが見ている間にも、少しずつ広がっていた。


足元の精霊が、申し訳なさそうについてくる。「ごめんね、喋っちゃった」みたいな光り方。


「いいよ。怒ってないから。——パピーが怒ってるのは、わたしにだもん」


精霊がぷるぷると明滅した。慰めているのか謝っているのか、よく分からない。


北東門をくぐる。城壁の外に出た瞬間、精霊がふわっとこちらに寄ってきた。王都の中ではずっと三歩後ろに下がっていたのに、壁を一枚隔てただけで、頬にくっつくほど近い。あの焔の気配は、城壁の内側——王宮の周りに溜まっている。


門番の兵士がこちらをちらりと見た。フードの奥の白い髪に目を留めて、何か言いかけて——やめた。賢明な判断。今のわたしに声をかけない方がいい。怒ってるわけじゃないけど、いろいろ抱えすぎてて、笑える自信がない。


——ああ、わたしもだ。城壁を出ただけで、呼吸がひとつ楽になっている。城壁の向こうに広がる緑が、目に沁みる。風が違う。石と鉄の匂いじゃなくて、土と草の匂い。精霊が飛び交う空気の匂い。


もう隠れる必要はない。バレてるんだから。


「——帰るよ。飛んで」


精霊に声をかけると、光がぱっと強まった。行きは「気配でバレる」から徒歩で来た。でもパピーにはもう全部バレてる。なら、もたもた歩いて帰る理由がない。


精霊転移。光が身体を包んで、景色が溶ける。王都の石畳が、一瞬で森の緑に変わる。


ティルナ大森林の館の前。焼き林檎の紙袋を抱え直す。精霊転移でも中身は無事。——よかった。


あの黒い焔のことを、パピーに話さなきゃ。精霊が怯えている理由。結界が綻んだだけでは説明がつかない、あの地下からの滲み。パピーは精霊の異変に気づいている——でもあの焔を、直接見てはいない。


怒られるのと報告するの、どっちが先かな。


——たぶん、怒られるのが先。パピーだもん。


でも報告は、絶対にしなきゃいけない。


あの焔は——わたしがここに立っている今も、あの場所で燃えている。人間たちの足元の、すぐ下で。

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