第3話「パピーには内緒ね?」
朝、目を覚ましてまず思ったのは——お菓子のこと。
ぐるん、と寝返りを打って、枕元の精霊をぎゅっと抱き寄せる。ふわふわ温かい。でも温かさじゃ満たされない。
蜜花堂の焼き林檎。外がぱりっ、中がとろっ、砂糖の衣がぱきんと割れるあの感じ。昨日の四箱が最後だなんて、そんなの——やだ。
パピーは言った。「お前は森で、好きに暮らしなさい」って。
好きにしていいのなら、焼き林檎を食べに行くのだって「好き」のうちに入るでしょ?
でもパピーの顔が浮かぶ。あの藍色の瞳が、笑ってない顔。
……入らないんだろうなぁ。パピーの言う「好きに」は「森の中で好きに」って意味だもん。長く生きてれば分かる。
昨日の宴——婚約破棄の瞬間に蜜花堂のお菓子が頭をよぎったのは、ただ呑気だったわけじゃない。パピーが知ったら「もう王都に行くな」って言うの、分かってたの。——勘は当たった。見事に。
「……ちょっと散歩するだけなのに!」
もそもそと起き上がって、寝巻きのまま足をぶらぶらさせる。窓の外では精霊たちが朝の光を浴びてきらきらしている。いつもの朝。平和な朝。
——でも。焼き林檎がない朝は、いつもの朝じゃない。
わたしはベッドから飛び降りた。
* * *
本当なら侍女に着替えさせてもらうんだけど——今日は呼べない。呼んだら行き先を聞かれて、嘘がバレる。
しぶしぶ自分でワンピースに袖を通して、ローブを羽織る。フードを深く被れば尖った耳が隠れる。
これ、大事なの。
わたし、王都では結構怖がられてるから。婚約破棄の夜に王宮の広間をぶっ壊した「白焔の令嬢」。前科もいろいろ——噴水を蒸発させたとか、馬車を溶かしたとか。全部わざとじゃないんだけど。
だからローブは必須。白い髪と琥珀の瞳はごまかせないけど——顔さえ見られなければ、たぶん大丈夫。
枕元の精霊がふわりと浮いて、こちらを見ている。
「ねえ、パピーには内緒ね?」
精霊がぷるぷる震えた。困った光り方。「それはちょっと」って顔をしてる。
「内緒だってば! ちょっと散歩して、お菓子買って、すぐ帰るから!」
ぷるぷるぷる。精霊はパピーに嘘をつけない。聞かれたら正直に答えてしまう。
「じゃあさ、聞かれるまでは黙ってて! それならいいでしょ!」
……ぷる。しぶしぶ、みたいな光り方。精霊たちなりの精一杯の「内緒」。
「よし、いい子!」
部屋を出ると、廊下で侍女と鉢合わせた。
「おはようございます、ミレーゼ様。……外套?」
「散歩!」
「——散歩ですか」
侍女の目が細くなった。ローブと靴を見て全部察したらしい。小さなため息をひとつ。
「……お供いたしましょうか」
「いいの! 一人で行ける!」
侍女が諦めたように頷く。いつものことだ。わたしが「一人で行く」と言ったら、もう止められないとこの人は知っている。
「お気をつけて」
行ってらっしゃいませ、ではなく、お気をつけて。——ついていけないなら、せめてそれだけは、という声。
* * *
ティルナの森を南に歩く。王都まで歩いて数時間。往復して、お菓子買ってすぐ帰れば——パピーが気づく前に戻れる。余裕でしょ!
本気を出せば一瞬で飛べるけど、精霊転移は気配が派手すぎてパピーに即バレする。だから徒歩。地味に、こそこそと。
「……めんどくさい」
三十分で後悔。道端に紅玉苺を見つけて寄り道して、丘の苔がふかふかだったので「五分だけ」と寝転がって——がっつり寝た。
目を覚ますと、空の色が違う。昼を過ぎている。——風の匂いも変わっている。鉄みたいな、硬い匂い。森では嗅いだことのない匂い。
……気のせい。寝ぼけてるだけ。
「やばっ! 日が暮れる前に帰れない!」
丘を駆け下りる。森を抜け、城壁が見えてきた。フードを深く被り直して城門をくぐる。
* * *
足早に東通りを進み、三番目の角を曲がると——蜜花堂。焼き菓子の甘い匂い。おばちゃんがカウンターの向こうで林檎の皮を剥いている。
「いらっしゃい——あらまぁ!」
おばちゃんがわたしの顔を見て、ぱっと笑った。ふっくらした顔に刻まれた笑い皺が深くなる。
「ローブ被ってたって分かるよ。その白い髪は隠しきれないねぇ」
フード深く被って裏通りから来たのに。三百年の常連の顔は、フードくらいじゃ隠せないらしい。
「おばちゃん、来ちゃった!」
「昨日四箱も買ったのにもう来たのかい? ——ああ、大変だったんだろう、昨日は。街じゃ噂でもちきりだよ」
「噂?」
「王太子様を半殺しにしたって。白い炎で王宮ごと吹き飛ばしかけたとか、衛兵が百人がかりで止めたとか」
……半殺しにしてないし、壊したのは広間だけ。噂って怖い。
「してないよ!? ちょっと壁が壊れただけ!」
「ちょっと壁が壊れただけ、ねぇ」
おばちゃんが呆れたように笑う。でも怯えてない。先代からの申し送りのおかげだろうな。
「——焼き林檎の砂糖がけ、ある?」
「あるに決まってるでしょ。あんた来なくても、お客さんはいるんだからね」
カウンターの椅子に腰かけて、焼き林檎を受け取る。ひと口。
皮がぱりっと弾けて、中から蜜がとろりと溢れる。砂糖の衣が歯にぱきんと当たる。
「——おいしい……!」
この味。三百年通って、一度もがっかりしたことがない。
「あんたに言ってもらえると嬉しいよ。——ばあちゃんから聞いてるよ。白い髪のお嬢さんが来たら、焼き林檎を多めに焼けって」
「うん。おばちゃんと目元がそっくりだよ」
初代から十代。わたしはその全部を知っている。「また来るね」って手を振って——次に来た時には、知らない顔がカウンターに立っている。何度も、何度も。
でもこの味と、この目元だけは、ずっと受け継がれている。人間ってすぐいなくなるのに、残すものは残る。
「そう言ってくれるのは嬉しいけどね——最近はちょっと大変でさ」
「大変?」
「王宮の方がなんだかきな臭くてねぇ。昨日から衛兵がばたばた走り回ってるし、貴族の馬車が夜中まで出入りしてたって話だよ。お偉いさんが揉めると税に来るからねぇ。上がらなきゃいいんだけど」
「……ごめんね」
税が上がるかもしれないのは、回り回ってパピーの判断のせい。パピーがそう決めたのは、わたしが侮辱されたから。このおばちゃんにまで、迷惑がかかる。
「あんたが謝ることじゃないよ。——もう一個食べな。サービス」
おばちゃんが焼き林檎をもう一つ、紙に包んで差し出してくれる。
「ありがとう! ——あのね、四箱ちょうだい!」
「四箱!? あんた持って帰れるの?」
「がんばる!」
紙袋を四つ抱えて、店を出る。ずっしり重い。でもいい匂い。幸せの重さ。
* * *
おばちゃんにもらった焼き林檎を片手に齧りながら歩く。もう片方の腕で紙袋四つを抱えて、かなり不格好。でもいいの。焼きたてのうちに食べなきゃ。
ぱりっ。砂糖の衣が割れて、蜜がとろりと唇を伝う。指先まで甘い。幸せ。
北東門に向かって裏通りを歩いていると——前方から、ひらひらした衣装の一団が近づいてきた。
貴族だ。三人。ドレスの裾を揺らした若い女性たちと、その後ろに従者が数人。お茶帰りの令嬢たちだろう、扇を片手にくすくす笑い合っている。
わたしはフードを深く引いて、端に寄った。すれ違うだけ。顔さえ見られなければ——
「——あら」
先頭の女性の足が止まった。宝石をちりばめた髪飾りが陽光にきらめいている。扇の向こうの目が、わたしのフードの縁を見ている。
フードから、白い髪が一房こぼれていた。——しまった。
「その白い髪……。ねえ皆さん、もしかして——白焔の令嬢?」
声が高い。わざと通りに響かせるような声。仲間がいるから、強気なのだろう。
わたしは黙って通り過ぎようとする。急いでるの。焼き林檎が冷めるの。
「あら——やっぱり。白焔の令嬢ですわ」
二人目が扇で口元を隠して笑う。「婚約破棄されたのに、まだ王都にいらっしゃるの?」
三人目が畳みかける。「お菓子を抱えてうろうろなんて、少々みっともなくはなくて?」
三人がかり。集団でいると人間は大胆になる。一人ではこんなことしないくせに。
わたしは焼き林檎を齧った。ぱりっ。
「……べつに。買い物してるだけだけど」
「まあ、エルフの方は図太くていらっしゃいますのね」
三人がくすくす笑う。従者たちも釣られている。通りを行く人たちが何事かとこちらを見始める。
——うるさいなぁ。早く帰りたいのに。
わたしが横をすり抜けようとした瞬間、従者の一人が腕を伸ばした。
「お嬢様方のお通りですよ。道をお空けなさい」
ぐ、と肩を押される。片手に焼き林檎、片腕に紙袋四つ——バランスを崩して、焼き林檎がするりと滑り落ちた。
ぱん、と。
石畳の上で、砂糖の衣が割れる。小さな音。蜜が広がり、砂と埃と混じっていく。
——おばちゃんがサービスしてくれた、焼き林檎。
「あら、ごめんなさい。——でもお菓子ひとつで済んでよかったですわね。殿下のお立場はもっとひどく——」
女性の声が、途切れた。
わたしは笑わない。
笑顔が消える。声が消える。子供っぽさが全部消えて、静寂だけが残る。
「……わたしの焼き林檎」
声が低い。自分でも分かる。いつもの声じゃない。
指先から、白い光が一筋——伸びた。
白焔。音もなく、静かに。蛇のように空を走り、先頭の令嬢の頭上で——ぱちん、と弾ける。
令嬢の髪飾りが、燃えた。
宝石をちりばめた銀細工。陽光にきらめいていたそれが、白い炎に舐められて、一瞬で灰になる。ぱらぱらと銀の粒が石畳に散る。——髪の毛は一本も焦げていない。
三人が凍りつく。
「——え」
先頭の令嬢が頭に手をやる。髪飾りがあった場所に、何もない。指先に灰がつく。
その膝が、がくんと折れる。石畳に手をついて、灰まみれの指を凝視している。声にならない声が漏れる。
二人目が一歩下がり、もう一歩下がり——踵が石畳の段差に引っかかって、尻餅をついた。「は、白焔——白焔の——!」
三人目は動けない。扇を握りしめたまま、顔が真っ白になっている。目だけが見開かれて、わたしの指先の——もう消えかけている白い光を見つめている。
従者が叫ぶ。「お嬢様方、お立ちください——!」
その声で糸が切れたように三人が動き出す。よろめき、押し合い、通りの向こうへ駆けていく。靴が脱げる。扇が落ちる。振り返りもしない。
——通りに、誰もいなくなった。
息を止めていたことに気づく。肺が痛い。ゆっくり吐き出すと、指先の白焔が息と一緒に薄れて、消えた。
しゃがんで、石畳の上の焼き林檎を拾い上げた。砂糖の衣が半分割れて、蜜と砂が混じっている。もう食べられない。
「……もったいない」
おばちゃんが、サービスしてくれたのに。あったかかったのに。
紙に包んで、紙袋の一番上にそっと置いた。——捨てられない。もらったものを捨てるなんて、何百年たってもできない。
「大丈夫かい!?」
背後から声。振り返ると、蜜花堂の前掛けを着けたおばちゃんが、息を切らして走ってきていた。通りの騒ぎを聞いて飛び出してきたらしい。
「おばちゃん……。落としちゃった。おばちゃんがくれたやつ」
おばちゃんがわたしの手元を見て、石畳の蜜の跡を見て、人のいない通りを見て——全部察した顔になる。
「——ったく。待ってな、もう一個持ってくるから!」
駆け戻って、すぐに戻ってきた。紙に包んだ焼き林檎を、ぐい、と差し出す。湯気が立っている。焼きたて。
「ほら。今度は落とすんじゃないよ」
受け取る。あったかい。さっきの白焔の熱とは違う、ちゃんとした温かさ。
「……ありがとう、おばちゃん」
「礼なんかいいよ。——また来な。あんたはうちの一番のお得意さんなんだから」
おばちゃんが笑う。笑い皺が深くなる。先代も、先々代も、きっと同じ笑い方をしていた。
「うん。また来る。——パピーに怒られても」
「怒られるようなことしてるのかい?」
「ちょっとだけ!」
おばちゃんが呆れたように手を振った。
「お気をつけて! まっすぐ帰るんだよ!」
「はーい!」
背を向けて歩き出す。焼きたての林檎にかぶりつく。衣が割れて、蜜がとろり。——うん、やっぱりおいしい。
紙袋は重い。帰り着く頃には日が暮れるだろう。パピーに見つかったら怒られる。
でもいいの。おばちゃんが「また来な」って言ってくれたから。
——指先に、さっきの白焔の熱がまだほんのり残っている。焼き林檎の甘い蜜の温度と、ちょっとだけ混じっている。
……またやっちゃった。
でも、髪飾りだけで止めたのは偉いと思う。前は噴水ごと蒸発させたし。成長してるでしょ?
焼きたての林檎にかぶりつく。ぱりっ。——うん、おいしい。




