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第1話「ババアって言われたんだけど?」

「——俺は本日をもって、ミレーゼ・ファ・アルネスティアとの婚約を破棄する!」


大広間に響いた王太子の声を、わたしはぼんやり聞いていた。


——帰りに蜜花堂(みつはなどう)の焼き林檎、焼き立てに間に合うかな。


ヴァレンティス・フォン・グランリーデン——わたしの婚約者。正確に言うなら、さっきまでの婚約者。金色の髪を振り乱して叫ぶその姿を、わたしは特に何も感じずに眺めていた。


ふーん。婚約破棄かぁ。


数百人の貴族が息を呑んで、わたしとヴァレンティス殿下を交互に見ている。グランリーデン王国の王宮、大広間。殿下の成人を祝う儀式の最中——にしては、ずいぶん物騒な余興だよね?


でもまあ、いいんじゃない?


そもそもこの婚約には最初から興味がなかった。六年前に父のヴェルディナス・ファ・アルネスティア——わたしはパピーって呼んでるけど——が政治的に引き受けたもので、わたしは義務として付き合ってただけ。もともと結界の点検で年に数回は王都に来ていた。婚約もそれに合わせた義務だった。本当の目的はいつだって蜜花堂の焼き菓子だけど。


だから殿下が誰を好きになろうが、婚約を破棄しようが、べつにどうでもいいの。


「——よって俺は、聖女リゼットこそが王妃に相応しいと宣言する!」


殿下が手を差し伸べた先に、少女が一人進み出る。薄桃色の髪、青い瞳。清楚で可憐な——リゼット・フォン・エーデルシュタイン。男爵令嬢で、神聖魔法の使い手。最近宮廷で「聖女」ともてはやされてる子。


殿下の側近たちが拍手する。でも他の貴族たちは——特に上位の人たちは拍手していない。国王ベルンハルト陛下の玉座を横目で見ながら、口を引き結んでいる。


「わたくしは……ただ、殿下のお心に従うだけですの」


リゼット嬢がちらりとこちらを見た。怯えと、かすかな勝ち誇り。


ふぅん。まあ、よかったね。


そもそもわたし、「一緒に住むのはやだ」って別居を条件にしてたし、宮廷行事もしょっちゅう欠席してたし。婚約者としてはかなりひどかったと思う。殿下がリゼット嬢に惹かれるのも——まあ、しょうがないんじゃない?


「エルフの令嬢は魅了の魔法を使っている」なんて噂が流れてたのも知ってた。リゼット嬢の周りの人たちが始めたことでしょ? でもべつに、怒る気にもならない。この手の噂、いつ聞いたかも思い出せないくらい何度も聞いてきたし。人間の俗世の噂話なんて、いつの時代もだいたい同じ。


わたしは小さく首を傾げた。


「うん、わかった! じゃあ——」


「黙れ!」


ヴァレンティス殿下が、わたしを指差した。灰青の瞳が見下すように細まる。


「お前にはまだ言い足りないことがある」


 * * *


殿下は一歩前に出た。大広間が静まり返る。


「千年以上生きた老婆(ババア)を——」


空気が、変わった。


「——未来の王妃として迎え入れるなど、断じてありえん。若い皮を被った化け物め。俺の前から消えろ!」


大広間がどよめいた。さっきの婚約破棄よりも大きなざわめき。どこかでワイングラスが落ちて砕ける音がした。


年配の侯爵が顔を真っ青にしている。エルフとの付き合いが長い貴族ほど、いまの言葉がどれほどの意味を持つか分かっているんだろう。国王陛下が玉座から腰を浮かせかけた——でも、もう遅い。


わたしの中で、何かが止まった。


婚約破棄? どうでもいい。


聖女? 好きにすればいい。


でも——いま、この人間は、なんと言った?


老婆(ババア)


千年以上生きた、老婆(ババア)


わたしは黙った。笑顔が消えた。言葉が失せた。何かを言おうとする気持ちすら、残っていない。


代わりに——足元から、白い光が滲んだ。


「……な」


最初に気づいたのはリゼット嬢だった。目を見開いて、一歩後退る。


わたしの足元の石畳に、白い炎が揺れていた。


熱はない。音もない。ただ白く、静かに、揺れている。——精霊が応えている。わたしの怒りに。


大広間の燭台(しょくだい)の炎が一斉に消えた。


白焔(はくえん)だけが、広間を照らしている。


「な——なんだ、これは」


ヴァレンティス殿下の声が震えた。さっきまでの威勢が嘘のように、顔が青白い。


大地が鳴っていた。低く、ゆっくりと。王宮の床石が微かに振動し、天井の灯架(とうか)が揺れる。大広間の窓の向こうで、王宮庭園の樹々がざわめいている——風もないのに。


貴族たちが悲鳴を上げて後退した。椅子が倒れ、グラスが割れる音が遠くで響く。


わたしはただ立っていた。白い炎を纏って。ただそれだけで、大広間の誰もが動けなくなっている。


「——わたしの生きた時間(・・・・・)を、踏みにじったな」


自分の声じゃないみたい。いつもの声が、どこかへ消えている。


大広間が完全に静まり返った。誰も動けない。白焔の光の中で、わたしの瞳が金色に燃えている。いつもの琥珀色じゃない。——それに呼応するように、精霊たちの気配が膨れ上がっていく。


殿下の足が震えている。膝が笑っている。さっきまで「老婆(ババア)」と呼んだ口が、何も言葉を紡げない。


わたしは何も言わなかった。


白焔が膨らんだ。大広間の柱を舐めるように這い上がり、天井を白く染める。石畳に亀裂が走り、壁の装飾が音を立てて剥がれ落ちる。窓硝子が一枚、また一枚と砕けていく。


言葉なんかいらない。この白焔が、全部伝えている。


「——っ、衛兵! 衛兵を呼べ!」


誰かが叫んだ。でも衛兵は動かない。動けない。本能が、目の前の存在に逆らうことを拒んでいる。


一秒。


二秒。


長い、長い沈黙。


——ふっ、と。


白焔が消えた。


燭台に炎が灯り直し、大広間が元の暖色に戻る。


残されたのは、静寂だけ。


床を走る亀裂。砕けた窓硝子。壁から剥がれ落ちた王家の紋章。天井の灯架がひとつ、金具が外れて床に落ち、乾いた音を立てた。誰もその音に反応できない。


数百人の貴族が詰めかけた大広間が、まるで廃墟みたいになっている。


目を閉じる。——まだ指先がじんじんしてる。白焔の名残。深く息を吐いて、熱を逃がす。


……これ以上は、やめておく。


白焔は消えた。精霊たちが遠ざかっていく。でも——胸の奥で、何かがまだ熱い。小さな焔が、鎮まったふりをして残っている。


目を開ける。まぶたの裏に、白い残像がちらちらしてる。


殿下が地面にへたり込んでいる。リゼット嬢は殿下にしがみついて震えていた。貴族たちは壁際に張りついて、こちらを見ることすらできない。


国王ベルンハルト陛下だけが、玉座に座ったまま——額に手を当てて、深く俯いていた。息子が何をしたか、もう分かっているんだろう。


わたしは殿下を見下ろした。


にっこり笑った。


「——じゃあね、ヴァレンティス」


殿下をつけなかった。もう婚約者じゃないんだから。


その笑顔が——怒りよりもずっと残酷だったことに、この場にいた人間が気づくのは、もう少し先の話。


 * * *


大広間を出たところで、エルフの侍女が待っていた。


彼女の顔は凍りついていた。大広間での一部始終を見ていたんだろう。


「ミレーゼ様——」


「なに?」


「——ヴェルディナス様にご報告いたします」


声のトーンが低い。怒り——でもわたしに向けたものじゃない。あの大広間に向けて。


「うん。好きにして」


「……ミレーゼ様は、お怒りにならないのですか」


怒ってるよ。まだ——熱い。あの言葉が、ずっと。


でもそれを言う代わりに、わたしは笑ってみせた。


「んー、べつに?」


嘘。べつにじゃない。公の場で、あの言葉を。数百人の前で。——それだけは、べつになんかじゃない。


侍女は深く頭を下げた。


「エルフの公爵令嬢を公衆の前で……あの言葉で呼んだこと。アルネスティアの名を侮辱したこと。——ヴェルディナス様は、お知りになるべきです」


侍女の手から、小さな光が放たれた。精霊伝令。ティルナ大森林に向かって飛ぶ、静かな火の粉。


パピーが知ったら——ちょっと怖いなぁ。わたしと同じで、怒ると静かになるタイプだから。


さっきの白い炎で、少しは伝わったかな。でも——足りない。全然足りない。パピーもきっと同じことを言う。


「ねえ、蜜花堂まだやってるかな? 焼き立ての時間に間に合うと思う!?」


侍女は一瞬だけ絶句してから、小さく頷いた。


「……お調べいたします」


「あのね、焼き林檎の砂糖がけがあるの! 外がぱりっとしてて、中がとろっとしてて——!」


侍女の凍った表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


「……存じております。ミレーゼ様が宮廷にいらっしゃるたびに、必ず三箱お買い求めになりますので」


「三箱じゃ足りないの! 今日は四箱にする! パピーのぶんもいるし!」


わたしは侍女の手を引いて、小走りに廊下を駆けていく。さっき王宮を壊しかけた人間と同一人物とは思えないでしょ? でもこれがわたし。千年生きてても、おいしいものはおいしいんだもん。


人間の城の廊下を歩きながら——走りながら、わたしはふと思った。


六年か。この宮廷に通うのも、今日が最後なんだ。


結界の点検も——まあ、パピーが聞いたら、もう面倒を見る気にはならないでしょ。退屈な儀式に出なくてもいい。


蜜花堂のお菓子がもう食べられなくなるのは——ちょっとだけ残念かも。


でも、それ以上に。


消したはずの焔が、まだ揺れている。お菓子を食べても、森に帰っても、きっとこの熱は消えない。


背後で、精霊伝令の光が夕焼けの空に消えていく。


万年を生きるエルフの公爵のもとへ。


人間は忘れるのが早い。


でも——エルフは、忘れない。

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