第9話:ゼタの秘密と、私を守ってくれたもの
メルタナーザに伴われてやってきたのは、半屋外の羊肉の専門店だった。焼肉屋さん、というところだ。炭火の上に乗せられた半球形の鍋で羊肉を焼くというのがこの店の食べ方らしい。見たことのない野菜もふんだんに使う。
ジルは鍋に野菜を敷き詰めながら得意げに解説する。
「これ、元々は遊牧民の料理だったらしいよ」
「へぇ……!」
羊肉は大好物だが、ぶつ切り肉を焼いたものくらいしか食べたことがない。一方で、この店の羊肉はどれも薄く切られていて、なるほど火が通りやすそうだった。
「たくさん食べると思ってね」
メルタナーザさんはワインを飲みながら笑う。私は鍋の上の肉に夢中だ。ジルが手際よく肉を焼いては、その焼けた肉を取ってくれる。私はそれを遠慮なくいただく。
「美味しい!」
「そうだろう?」
「ずっと干し肉ばかりだったから」
私は夢中で肉を食べ続ける。軽く三人前を平らげて、ようやく人心地がついた。ジルはそんな私の姿を見たからなのか、終始大笑いしていた。
「そのちっこい身体のどこにあんなに入るの」
「食える時に食っとかないとっていう本能が……」
「それにしたって」
ジルはケラケラと笑いながら、果実酒を飲んでいた。私も飲みたいと主張したが「子どもには早い」と却下される。
「私、たぶん十六歳だよ? 子どもじゃないし」
「子どもじゃん」
ジルが意地悪な視線を向けてくる。そこにメルタナーザさんが追い打ちをかけてくる。
「ヤギのミルクで我慢なさいな」
「うっ……ま、まぁ、ヤギのミルク大好きだけど」
羊の肉とヤギのミルク。絶望的に食べ合わせが悪い気がする。が、どっちも好きなので良しとする。食べられるだけで満足だ。しかもメルタナーザさんのおごりである。こんなに嬉しいことはない。「他人の金で飯を食う」という経験は初めてだったが、実に良いものだった。
ジルも一人前をペロッと食べ終えたが、メルタナーザさんは野菜を少々つまんだきり、ワインばかりを飲んでいた。
「師匠、三ヶ月で金貨四百五十枚って、可能だと思う?」
「なんだいジル、藪から棒に」
「スカーレットの武具を揃えるのに四百五十枚かかるの」
「どんな高級品を狙っているんだい、それは」
やや呆れた様子のメルタナーザさん。
「でも、その短剣では、精霊の力は引き出しきれないからね。大型の武器の方がいいだろうさ」
「大剣なんですよ、それが」
「そうか、大剣か」
メルタナーザさんは目を細めた。しかし特に驚いたようなそぶりはなかった。
「ま、持ち運べさえすればいいんじゃないかねぇ?」
その点は多分あの剣なら大丈夫。私はミルクを飲みながら頷いた。メルタナーザさんもなぜか頷いた。
「それにしても四百五十枚か。貸してやるのは簡単だけど、まずは三ヶ月頑張ってみると良いよ」
「うん。がんばる」
私はそう言ってから、訊いてみることにした。
「メルタナーザさんは精霊について知っているの?」
「魔女だからねぇ」
メルタナーザさんはその暗黒の瞳で私を見る。赤い炭火がチラチラと反射している。
「精霊っていうのはね、そうさねぇ。うん、いわば絆さ」
「絆?」
「そう。今の人生だけじゃない。そのはるか以前から始まり、はるか以後にまで続く絆」
「この性悪精霊と?」
「ははは!」
メルタナーザさんは豪快に笑う。
「あんたと同じで、精霊もまた、仮の姿なんだろうさ」
「私が仮の姿?」
「この世界でのあんたは、魂の形がまだ不安定なのさ」
魂の形……。
「スカーレット。わたしたちは皆、メビウスから生まれたんだ」
「メビウス?」
聞き覚えがあるような、ないような。
「この世界はメビウスと呼ばれた宇宙から派生した雫のような世界なのさ」
「雫の、世界?」
「メビウスから切り離されて落ちた世界、それが今わたしたちがいる世界なんだよ。と言っても、その真偽の程を説明できるものは何もない。わたしだってただ知っているに過ぎないんだ」
メルタナーザさんはまたお酒を口にした。ジルが果実酒を豪快に煽ってから尋ねた。
「そのメビウスっていう世界はどうなったんですか、師匠?」
「さぁねぇ。だけど、スカーレットがこの世界にいるってことは、あの子たちの願いが、本意ではないにしてもある意味では成就したっていうことでもある。妥協、だろうけどね」
「あの子たちの願い? 妥協?」
口を開けば質問ばかりの私である。
「造物主に恋した女神がいた。その女神は、造物主が自分のものにならないと悟るや、新たな父を創ろうと試みた」
「へ?」
どういうことだ? 私はジルを見る。ジルも「初耳だよぉ」と(炭火で)目をキラキラさせつつ言った。
「しかしいざ父ができてみると、今度は造物主の方の父がいることで、その創った父が贋作であると証明されてしまう」
「ふんふん」
再び肉を頬張りながら聞く私。ジルは「野菜も食べなよー」と言ってくるが、成長期の私には野菜より肉が大事なのだと反論する。
メルタナーザさんはまたワインを飲みつつ、のんびりと話を再開する。
「だから、女神は父なる世界である世界を破壊した。それがあんたたちのいた世界さ」
そこでジルが口を挟んだ。
「それって、師匠。ずいぶん勝手な話じゃないですか?」
「そうだねぇ。愛が拗れたんだねぇ、多分」
メルタナーザさんは店長のおじさんを呼び、何やら高そうなお酒に移行した。ガラスのボトルに入っているというだけで、私には高級品にしか見えない。その中で琥珀色の液体が揺れているのが見える。
「そしてメビウスに在った魂が、この世界に零れ落ちてきた」
「師匠、それにはゼタも含まれますか?」
「ゼタはね」
声を潜めるメルタナーザさん。
「この世界に入れなかった魂たちの姿さ。人間のみならず、獣も、虫も、植物も、この雫の世界に招かれなかった存在たち、転生させてもらえなかった魂たちの姿、それがゼタなんだよ」
「ええ……?」
そんなことがあるの? 私は目を丸くする。
「ゼタはね、あんたに滅ぼされることでこの世界に転生できるんだ。ゼタも本能でそう知っている。だからあんたはゼタを呼ぶ。そういう因果なのさ」
「なんてこった……」
手にした羊肉を食べるのも忘れて、私は呻いた。
「あんたがゼタに対して異常に強いのもそれが所以さ」
「えっと、じゃ、じゃぁ、四歳のときのゼタ大発生のことは知ってる?」
「あんたの暮らしていた街が壊滅した時の話だろう? グラウ神殿があんたを呪われた子とする論拠として挙げてる事件だね」
「うん。その時、どうして私だけが生き残ったの?」
「それはねぇ……」
メルタナーザさんは目を細める。私の背筋を緊張が駆け上がる。
「あんたが守られたから、だよ」
「まも、られた?」
私はジルと顔を見合わせる。
「そうさ。わたしと同様、メビウスからやってきたある人間が、あんたを守ったのさ」
「スカーレットはその時のこと、全然覚えてないの?」
ジルがはらはらした表情で尋ねてくる。私は首を振る。全然覚えてない。というより、ゼタの姿を見た直後に気絶でもしたのか、気付いた時には崩壊した街の中でたった一人だった。
「私を守ってくれた人がいるって……そんなこと信じられない」
「事実だよ、スカーレット。わたしも、あんたも、よーく知ってる人物さ。望めば遠くない未来に会えるはずさね」
「メルタナーザさんも知っている?」
「わたしとてメビウスから流れてきた魂だからねぇ。世界の絡繰の一つや二つくらいは十分に理解しているさ」
夢を見せられているような話だ。
「ま、年寄りの戯言と思ってもらっても構わないけどね、今は」
「戯言なんかだとは思わないけど、でも信じるのも難しい」
「だろう? でもそれでいいのさ。運命というやつは、理解すべき時に理解できるようにできているものだからね」
この世界の前の世界――メビウス。その崩壊の残滓から滴り落ちたこの世界。
「あ……」
時々見る白昼夢。寝てる時もたまに見る夢。今となってはあまり明瞭には覚えていないけど、何かと戦っている夢だ。
私はメルタナーザさんを凝視する。暗黒の瞳に吸い込まれそうになるのをどうにか堪えて、私は唾を飲む。メルタナーザさんはお酒をこくりと飲み込んで、ゆっくりとした口調で言った。
「ゼタはメビウスの記憶を持っている」
「記憶を?」
「そう」
メルタナーザさんは小さく頷いた。
「あんたの隙間を埋めるための記憶をね。だからあんたはゼタを狩らなくちゃならないのさ」
「狩り続けたらメビウスの記憶も戻る?」
「と、思うけどねぇ」
メルタナーザさんにしては少し歯切れが悪い。
「こればかりは、やってみないとわからないってことさ」
「でも確かに、だんだんと白昼夢を見る機会が増えてきたような気はする」
「そうなるだろうねぇ」
私の言葉にメルタナーザさんは頷く。
「ところでスカーレット。あんた、誰にとっての呪われた子だと思う?」
「グラウ神殿?」
「あぁ、そうとも言えるけど。実際の所、あんたを呪っているのは、メビウスを滅ぼした困った女神様とその女神を唆したある男なのさ」
また登場人物が増えた。
少し頭痛がしてきた。だが、同時に得体のしれない寒気がしてくる。
そんな私に気付いたのか、メルタナーザさんは小さく指を鳴らした。途端に、私の中の寒気が仄かな温かさに変わる。
「ま、焦って詰め込むような情報じゃないさ。さっきも言った通り、理解すべき時に理解できるようになる。それが運命の力ってやつだからね」
メルタナーザさんは空になった瓶を店員のお姉さんに手渡し、金貨を三枚支払った。
「金貨三枚!?」
「おや、よく見てたね」
「食べすぎちゃった……?」
「気持ちいい食べっぷりだったよ。おかげでわたしもお腹いっぱいさ」
メルタナーザさんはそう言ってから「半分以上は酒代さ」と片目を瞑って見せてきた。私の横につけたジルが私の肩を抱いた。
「師匠、超お金持ちだから遠慮しなくていいんだよ」
「いや、でも」
「はいはい、他人に甘えることも覚えないとダメだよ、スカーレットは」
「そうさ。他人から好意を受けたら、あんたは別の誰かに好意を渡せばいいだけの話。あんたで好意の流れを断ち切っても、誰も幸せにならないんだよ」
うっ、そう言われると、そうかもしれない。
私は渋々納得して、頷いた。
「それじゃわたしはもう帰るよ」
「おやすみなさい、師匠!」
「おやすみなさい、メルタナーザさん」
ジルにつられて手を振る私に手を振り返し、メルタナーザさんは雑踏の中に消えていった。
「そういえばさ」
「うん?」
「メルタナーザさんってものすごい有名なのに、人だかりとかできないんだね」
「嫌いだからね、そういうの」
「それでも集まる人は集まるもんじゃないの?」
「たぶん――」
ジルは首を傾げる。なんかいま一瞬、すごく可愛いと思った。
「人払いの魔法か何かを使ってるんだと思うよ」
「へええ……」
そんな便利な魔法があるのかと、私は感心する。
「さ、今日は二人で一緒に寝ようよ!」
「ちょ、声が大きいし」
案の定、通りすがりの人に笑われる私たち。
「そんなことより、ジル。私、情報が整理できていないんだよ、まだ」
「いいのいいの。難しいことは寝て起きてから考える。そして、アタシの浮気第一号はキミに決めた! ってこと!」
「う、う、浮気ぃ!?」
いまさらながら、何か色々と危険な気がしてきた。
「減るもんじゃないしぃ、行くよぉ」
「ちょ、ちょっと、こ、心の準備が」
「いざやってみたらたいしたことないって!」
私は為す術もなくジルに引きずられていく。
その華奢な身体のどこにこんな力があるんですか、ジルさん――。
やがて私はすっかりと(色々なことを)諦めたのだった。
引きずられながら、私は煌々たる三日月を見上げる。
――あの時、私は守られたのか。
運命というやつは、理解すべき時に理解できるようにできているものだ――私の脳裏に、メルタナーザさんの言葉がふわりと蘇った。
ジルとの添い寝の夜に訪れた、不穏な夢。銀髪の男が語ったのは、幾億回もの破局と繰り返し、そして「今度こそは特別になり得る世界」だった。
胸に残る言葉の余韻と、消えない疑念。スカーレットは知らず知らずのうちに、避けられぬ運命の核心へと足を踏み入れていく――。
次回、第10話「メビウスでは夫婦か恋人だったのかも――彼女はそう呟いた。」