月下
それはまだ朝まで幾つか時計の針の回りを必要とする時間。
ルルヴァは目を覚ました。
眠りに沈む意識が異変を感じ取った為に。
この場所に突如現れた魔力の波動が心を騒めかすのだ。
それは自分が知っているもので。
ルルヴァは寝巻のまま絨毯の上の靴を履き、入口の幕を開けて外へと出る。
天幕を護る黄金の魔法結界を越える。
肌寒い風に襲われて、身体を包むように腕を掻き抱いた。
夜の闇に浮かぶのは蒼く輝く上弦の月と、無数に瞬く星々。
地上には幾つもの土魔法で作られた建物と、ルルヴァが居たものと同じ民家よりも大きな天幕が立ち並ぶ。
遥か遠くまで続く見覚えの無い平原。
遮る様に浮かぶ影は巨大なパスパ山脈。
結界の外へ出た事で、よりハッキリと魔力の波動を知覚できた。
「……っ」
何処からか、その流れの元が定まった。
全力で走る。
兵士達の誰何を受けるが、無視してひたすらに足を動かす。
建物と天幕が途切れ、大きく開けた場所が現れる。
草は刈られて燃やされ、土が剥き出した地面が広がる。
そこを囲むように横たえられるのは二隻の飛行艦。
煌々と灯るのは魔力で輝く火精石が組み込まれた最新式の照明。
横たえられた幾人もの人と、慌ただしく動く赤円字のゼッケンを着けた数十人の衛生兵。
怒号が飛び交う。
「医療魔術結界起動、隔離領域形成成功。範囲型滅菌装置の作動、問題ありません!」
「負傷者を早く搬送しろ! パムに居る嬢ちゃんからもっと送られて来るぞ!」
「十人! 大人二人、子供四人が重傷です!」
「重傷者は手順通りにフラゴ先生とサメネ先生に回して」
「はいエプスナ先生!」
大柄な熊獣人の男が指揮を執る。
白衣を着たドワーフの女医の腕が黄土色の魔力洸を放つ。
衛生兵とゴーレムが担架を担いで飛行艦との移動を繰り返す。
風に血の臭いが混じっている。
空気は緊迫し、しかし彼らは的確な行動を損なわない。
そして搬送された人々が横たわっていた場所の近くの地面から巨大な土の蕾が現れた。
その百合を模した蕾は垂れるように横たわり、ゆっくりと解けて土の中に消えて行った。
そこには新たに数十人の負傷者達が横たわっていた。
「八十五人! 全員大人、七十二人重傷です!」
「十五人こっちに」
「はい!」
次々と現れる土の百合の蕾。
その中から現れるのはパムの住人だった人々。
人間も、亜人も、そして魔人も。
疲れ憔悴し、傷だらけの身体を晒していた。
「あっ」
その中に見知った人物がいて、ルルヴァは駆け出そうとした。
しかしその腕を背後から掴まれる。
振り解こうともがくルルヴァ。
しかしそれは吸着したように全く離れる事はなかった。
「ルルヴァ様ですね? ここは今緊急の対応を行っています。どうかご自身の天幕へお戻りください」
振り返ったルルヴァが見たのは、執事服を纏った黒い肌の巨漢の男。
左右の側頭部からは竜の角が生え、瞳の瞳孔も竜のそれであった。
その柔和な橙色の目がルルヴァをじっと見つめていた。
「私はリーシェルト公爵家の執事をしております【ボルゴラック・アークバレット】と申します。そしてミカゲ様とリクス様の不在のこの陣を任されている者です」
ルルヴァの掴まれていた腕が離される。
「申し訳ありません。痛くなかったでしょうか?」
「いえ、僕は大丈夫です」
ルルヴァよりも幾分も背の高いボルゴラックを見上げながら気になった事を尋ねる。
「あの、リクスさんがいないとの事ですが、何処に居るんでしょうか?」
ボルゴラックが右手の人差指が差したのは、パスパ山脈を大きく外れた森の先。
淡い月明かりに揺れる木々の影が、ルルヴァの記憶の中の風景と重なる。
故郷であるパムの町。
ルルヴァの脳裏を悪夢の光景が過る。
『できるだけすぐに戻るから。待っててね』
そこに、あの少女の姿が重なる。
冷たい汗が流れ出し始め、それが止まらなくなる。
震え出したルルヴァにボルゴラックが声を掛けた。
「リクス様の御心配は無用です。あの方はとても、そうとてもお強い。例えあそこに竜が居たとしても逆に返り討ちにしてしまわれるでしょう」
太い右手がルルヴァの頭を撫でる。
「それに私も腕に覚えがあります」
ボルゴラックの左手が胸のポケットから一つのメダルを取り出す。
それに刻まれているのは円環とその内に描かれる太陽。
「武剣評価における【心道位】です。開拓者風にいうならS級ですね。その私に流れる魔竜族の血に賭けて、貴方を含め救助された方々は必ず守り通して見せます」
ルルヴァが顔を上げる。
見上げた先で、彫りの深い顔がコクリと頷いた。
その目の光は優しく、そして強かった。
(剣を握れない)
手はまだ震えていた。
それでも。
彼と、そして彼女は自分達の為に戦ってくれている。
(それでも僕は……何もできないままではいたくない!!)
両手を広げる。
そして、パァーンと自分の両頬を力いっぱいに叩いた。
強い痛みを感じて。
身体の震えが止まった。
「何かお手伝いをさせて下さい! お願いします!!」
深く。
深く頭を下げる。
「それは……」
「初級の医術魔法は教わっていて使えます。僕の属性適性は【天】なので【土】以外の属性はカバーできます」
「……」
ボルゴラックは思案する。
魔法及び魔術などの魔力を用いる治療において最も恐れられるのが【属性拒絶】の症状。
希に起こるアレルギー反応の一つであり、非常に致死率の高いそれは特定の属性に対して身体が拒絶反応を起こすものである。
(属性拒絶が理解されていなかった時代の記録には、魔力暴走を起こした患者が爆散した事例もある)
この陣に居るのはリーシェルト公爵家と公立病院(領主もしくはそれ以外の貴族が設立した病院)から派遣された優秀な医師達だ。
彼らは優秀だが、幾つか対応できない属性がある。
【光】や【闇】などの稀有なもの。
そして伝説とさえ謂われる【天】と【地】と【世界】。
魔力属性変換装置もあるが、間に合わせの域を出ない。
万が一を考えると【天】の属性のルルヴァの参加は有難いものであった。
しかし。
ルルヴァはつい数刻前に熾烈な戦闘を行ったばかり。
この場所に保護された時のルルヴァをボルゴラックも見た。
負傷はリクスの医術魔法で治っていたが、精神的な消耗は酷いものだった。
当然だ。
戦ったのがアッパネン王国、いや聖典原理主義者の中でも悪名高い聖典騎士なのだから。
特に戦闘能力に長ける魔竜族の戦士も何十人と【黒狂徒 オヌルス・アムン】によって殺されている。
ボルゴラックが見た所ルルヴァは大分回復しているが、もう少し安静にさせるのが正しい判断のように思える。
『彼は私の夫になる人だから。よろしくね』
従兄弟の娘である少女の悪戯な声が聞こえた気がした。
(ふむ)
ボルゴラックは膝を曲げ腰を屈めて自身の目線をルルヴァに合わせた。
「貴方に一つ質問します。よろしいでしょうか?」
「はい」
巷に溢れる殆どの少女よりも少女らしい可憐な容貌。
しかしその朱の瞳には強い意思の光があるのが見える。
「リクスお嬢様をどう思ってらっしゃいますか?」
「……えっ」
ルルヴァの、自分で叩いて赤くはれた頬がさらに朱く染まる。
「えっと、とても綺麗で、素敵な人だと思います」
「では婚姻を結び夫になりたい、いえ、なろうとする覚悟はありますか?」
もうルルヴァの目と鼻の先にボルゴラックの顔が迫っていた。
瞳の色はガラリと色を変えて猛禽のよう。
静かな重圧の中に殺気と見紛う気迫さえ感じる。
それに押されながら、しかしルルヴァはハッキリと答えた。
「はい」
そう頷いた時になって初めてルルヴァは自分の想いの覚悟を知った。
雁字搦めだった思考と感情が不思議と解けて行った。
(リクスさんが好きになった。だから、僕はもっと生きて思い描く未来に行きたいんだ)
恐怖も、そして怒りもまだルルヴァの中に在る。
それでも、もう負の感情に引きずられる事はない。
そんなルルヴァの姿をボルゴラックは静かに見つめ、見定めていた。
「……わかりました。ルルヴァ様が手伝えるように手配します」
「ありがとうございます!!」
深々とルルヴァは頭を下げた。
「頭をお上げください。これはむしろ私共からお願いするのが筋なのですから」
そう言ってボルゴラックも深く頭を下げた。
「ルルヴァ様。どうか戦いに倒れた方々の為に御力をお貸しください」
そして二人は同時に頭を上げる。
「リーシェルト公爵家には味方も多いが敵も多い。ましてリクスお嬢様は【星の聖女】という運命を背負う方。必然、共に在る者も非常に険しい道を歩む事になるでしょう。敢えて申し上げますが、この程度の事で揺らぐようでは道半ばで倒れるだけです」
ボルゴラックの言葉にルルヴァは強く頷く。
「覚悟です。如何なる困難でも自分の在り方を定める覚悟こそが道を切り開く。その事を忘れないで下さい」
「はい」
「良い顔です。では参りましょう」
* * *
ボルゴラックはかつて人間の男に尋ねた事がある。
『生きる意味は何か』
鍛冶場の横に設えられた小部屋に座り、横に美しいハーフエルフの女を侍らせた彼の答えはこうだった。
『そんなもの、死んだ者だけしか知らんよ』
希代の鍛冶師として東西に名を轟かせ、一振りの剣に小屋程の金貨を積まれた事もあるという。
彼の打った作品の出来は、数多の古今の名剣を上回る。
彼の打った一振りはその前の一振りを超え。
その一振りを次の一振りが超えていく。
さる有名な魔剣とそれより劣る鋼を使った彼の剣。
片や名うてのA級開拓者。
方やD級から上がったばかりのC級開拓者。
それぞれを持った決闘で、彼の剣を持ったC級開拓者が魔剣ごと対戦者のA級開拓者を斬った話は知る人ぞ知る。
そんな時代が産み落とした傑物だからこそ凡人には見えないもの、解き明かせないものでも答えを持っているかもしれない。
答えが無くても、その断片でも持っているかもしれない。
しかしボルゴラックの期待に対するものは、無下なるものだった。
『何かを成す奴はそんなこと一々考えちゃいないっての。お前も才能あるんだからさ、一度の敗北でへばってんじゃないよ』
男は咥えていた葉巻きを外し、灰皿の底で灰を取った。
『前向け前。敗北に執着するのがお前の生き方なら俺は何も言わねえがな。こんな問答寄こした時点でそれは違うだろ?』
『……ああ、そうだな』
『極上の葉巻きや酒、そして佳い女。ついでに俺のガラクタを馬鹿な値段で買う客もいる。こんなに素晴らしい人生だ。後ろを向くのがもったいない。昨日の失敗を考えるなんてアホらしい。酒を出せウキクサ。って俺は考えているがね』
ケラケラと笑う男。
女が瀟洒な棚から出したのは一本のウイスキー。
蓋が取られると、豊潤で甘やかな香りが漂ってきた。
『美味い酒の前に漂うこの香り。う~んたまらん』
女の持つマドラーが杯の氷を回す。
『献上品だからタダだ。遠慮なく飲め』
女が杯をボルゴラックの前に出す。
『どうぞ』
『いただく』
その酒は美味かった。
酒の話には疎いが、とんでも無く値が張る物だろうことは解った。
『図体がデカイ、酒が多く飲める、さあ幸せだ! 前の事は忘れてほら次に行け!』
* * *
後ろを付いて来る少年の事を考える。
あの日の『男』のような事が出来ただろうかと自問する。
(あの日からまた自分は歩き出す事が出来た)
(人格を分類するなら『ろくでなし』になる男だが)
少年は前を向いた。
(『ならば良し』、か)
* * *
闇夜に輝くのは蒼き上弦の月。
月の光でもなお赤く、パムの町の瓦礫を染める血は広く鏤められていた。
二振りの聖銀の小太刀が縦横無尽に刃の軌跡を走らせる。
鎧ごと細切れになったアッパネン王国の兵士達がバラバラの肉塊になって地面に落ちた。
「これでここは片付いたか」
「はい」
ミカゲの問いに答えるエルフの女。
ベルパスパ王国でも屈指の精鋭部隊である忍び装束の彼女は、ミカゲが率いるリーシェルト公爵家のくノ一部隊【華刃衆】の一員である。
パムの町はアッパネン王国によって徹底的に破壊し尽くされていた。
かつては大きな市場があった広場には、アッパネン王国の襲撃から生き延びた住民が集められ、順次リーシェルト公爵家が主体となった救援騎士団の陣地へと送られていた。
宙に浮かぶ魔法の灯りに照らされて見える、生き残ったパムの住人達の姿。
無傷な者はおらず、皆が大なり小なり傷を負っていた。
瞳は活力を失い、一様にひどく憔悴した顔を浮かべている。
「頭領に報告。生命反応、そして魔力反応はもうここ以外には無いです」
「そうか。我が【華刃衆】一の探索者が言うのなら間違いあるまい」
「恐縮です」
見渡す限りの瓦礫の山。
闇の中より立ち込めるのは鉄錆を思わせる濃い血の匂い。
「ミントの言う通りもう生き残りはいないわ。地下の隠し部屋や通路は全て見つけたしね」
ミカゲ達の頭上、破壊された建物に残った梁の上に、月光に照らされてながらリクスが立っていた。
彼女から黄金の魔力が発せられると、地面に散らばっていた死体が土の中に沈むように消える。
リクスの先、町を外れた遠くに見えるのは星を象った無数のシンボル。
どれも地面から伸びる長い杭に支えられ、森よりも高くそびえていた。
それらの影を従えて。
聖銀の槍を抱えるリクスは物憂げな表情で星の瞬く空を見上げている。
「あら機嫌が良さそうねリクス。何かあったの?」
「ふふふ。とても素敵な男の子と出会ったの。可愛くて、でもそれ以上に一生懸命な子。お祖母様には後で紹介するわ」
「そう、期待しているわ」
「ええ」
リクスは聖銀の槍をクルクルと回した。
槍は木製のリュートへと姿を変える。
張られた弦に指を掛けて、リクスは紫の瞳を閉じる。
十五本の弦を繊細な指達が弾く。
優美な少女の声がリュートの曲に乗る。
地面から輝く光の粒子現れ、瞬く星々の世界へと昇って往く。
その一つ一つがリクスの魔法によって土の中へと埋葬された人々の魂。
生き残った住民、その最後の人々が土で出来た百合の蕾に包まれていく。
彼らの祈る姿に応えるように。
星の瞬く月夜の世界に、黄金の魔力と共に清らかな鎮魂歌が流れゆく。
無数の魂の輝きは廃墟となったパムを照らし。
町の終わりへと手向けて去って逝った。
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