#6 危惧
▼危惧
叶のバイトは、午前、午後、共に掛け持ちのバイトである。
朝は、渋谷でレストランのウエイター。夕方からは、新宿歌舞伎町で、ホストという接客を中心にしたアルバイトである。
叶白身、ルックスを生かした仕事を選ぶのは訳ない事であった。その上、人懐っこい性格が、客を呼んでくれるから店自体は簡単にクビにする訳にも行かず、上手く溶け込んでいる。
特に、ホストとしての仕事は正社員にならないかと誘われるまでに、人気を博していた。しかし、叶自身そのつもりは一切ない。ただの呼び込みアルバイトから始まったこの仕事。給料面ではかなり美味しいのである。しかしこの仕事をいつまで続けられるのかは疑問では有るが……
「お疲れ〜今日も一日大変な人気だったな〜」
と、源氏名のユウジはロッカールームで叶に笑いかけてくる。
昔から、女の子に人気があって男友違の少なかった叶にしてみれば、こうやって気軽に話し掛けて来られる事は滅多に無かったが、この仕事を始めて、意外に友人が増えてきた。特に、開放感一杯のこの性格が役に立っているのであろう。別段、他の従業員に羨ましがられる事は無かった。逆に可愛がられている。
「でもよ〜最近入ったあのマサキってやつ?かなり御指名多いやん!今まで、キョウの成績上まわる奴いなかったからさ〜気を抜いてると、追いこされちまうぜ?」
叶は、ここでの源氏名はそのままキョウという。しかしこの話に首を突っ込んで来たサトシは、忠告がてらにそう云う。
「う〜ん。あんま気にしてないわ。お客が誰を指名しようと勝手やん?一時の女性の安らぎを得られるんやったら俺嬉しい想うもん」
欲張るつもりは無い。ちゃんと給料さえ頂ければ何も差し支える事など無いと叶は想っている。
「良い子振るなって!ホントは内心メラメラしてるんじゃん?」
そんな余裕めいた叶に、サトシは少しカチンと来た。でも、敵意があっての事では無く叶の事を想って云ってくれる。だから叶はそんな言葉にいちいち怒る事も無い。
「ほら、来た。噂のマサキ!」
ボソリとサトシは叶に囁く。
「お疲れ様です」
マサキはドアから入って来て、挨拶を交わす。こういう席では、特に新人は先輩後輩の位置付けがはっきりしてるから、無愛想ながらも、整った顔で言葉を掛けてくる。
「お疲れさんやな〜どうや?もう慣れたか?この仕事は?これから軽くみんなで食事でもして行かんか?」
叶は、早く打ち解けられるようにと気配り、気軽く声を掛ける。がしかし、
「あいにく、この後用事がありますので……」
硬派気取りの、マサキは誘われてもニコリともせず上手くかわしてくる。こういう所が、きっと他の社員やバイト生にとって苛つく原因であろうと叶は想った。でも、無理に誘うのも気が引ける。
「そうなんや……残念やな〜ほな、また今度な〜」
「それでは、また」
と、あっさり着替えが終わったマサキは裏ロから出て行った。
「なんだ?あの態度は!」
サトシは、あの鋼鉄の面を壊したいともいわんぼかりに『チッ』と舌打ちする。
「まあまあ、ええやんか。ヒトそれぞれ事情っちゅうもんが有るんやから〜」
周りを気にしながらも、仲間内のこういったいざこざは仕事をやりにくくするだろうと簡単にフォローする事にしている。でも、その内何か度派手な事をやらかさないか心配な所もある。
「ほな、今日は軽くラーメンでも食って帰るか?」
と、今あがったばかりのバイト生を引き連れて近くのラーメン屋へと向うのであった。
それは、十時過ぎの頃の出来事である。
「そんじゃな〜気を付けて帰れよな〜」
夕飯をいつも食べ損なう叶は満腹感をやっと感じながら、JR新宿駅の東ロから渋谷まで出ようとみんなと別れを告げた。
余り遅くなると、電車に間に合わない。それを見越して、急ぎ足でただひたすら駅を目指す。家の鍵は教訓のように持ち出し忘れて無いかポケットを探りながら。
こうして、叶の一日は過ぎて行く。何も変わる事なく……だけど、叶には丁度良い仕事配分ではあった。
終電間近の駅のプラットホームは朝より空いていて開放感を感じる。そして渋谷で井の頭線に乗り換えようと白線の内側で、次やってくるであろう電車を待つ。
渋谷の駅前で買ういつもの夕刊。それを眺めながらいつ来るであろうかと、独り待ちぼうける。
それもいつもの事。慣れた感じで耳をすましていた。
そんな時、アナウンスが流れてくる。
「白線の内側でお持ち下さい。まもなく電車が参ります」
云われなくても、分かっとるわと、新聞を折り畳むと白線ギリギリの所で終点の電車を待つ。それもいつもの事。
しかし、入ってきた電車が目の前に移る時、想わぬ事が起こったのである。
「ドンッ」
緩やかに止まろうとブレーキを掛け始めた電車に向ってプラットホームから思いっきり突き落とされたのであった。
叶自身、何が起こったか分からずに、走り込んでくる電車の線路中央に頭から落ちてしまった。
向ってくる電真。
このままでは電車にぶつかると頭では分かっているものの、どう云う訳か、体が想うように動きが取れない。びくともしない身体を残しつつ、視線は電車を見据えていた。色んな事が脳裏を掠めて行く。でも早くどうにかしなければ……しきりに想いは募るが、まるで突然光を前に立ちすくむ猫のようにビクリとも動かない。
プラットホームの方で何か騒いでいる。
その声を聞きながら、叶の意識は朦朧とした。
そして、意識はその遠退いて行ったのであった。
突然鳴り響く、携帯の着信。
こんな遅くに、携帯が鳴るなんてどう云う事だ?
朔夜は、いつも充電している携帯の充電置き場に足を運んだ。
それは、明後日のサプライズ・パーティーに必要な物を取り繕っている最中の出来事であった。
携帯の蓋を開けると、知らない電話番号からの着信。全く予測が付かないが、鳴り止まない電話の着信音は悪戯電話では無さそうなので、受話器を取り上げる。
するとそれが、救急病院からの電話である事を取り上げてから初めて知り得たのである。
「確かに塚原叶は、僕の家の同居人です。そうですか、わかりました。それでは今からそちらに向います」
朔夜は、冷静に救急病院の名前を聞き終えると、簡単に、戸締まりをし、一気にアパートから駆け出した。
必要な持ち物を取り上げて。
救急病院は、お盆前だというのに混雑していた。
救急看護受付で、叶の移されている病室を聞き出すと、朔夜は足早に歩き始める。そして、病室の扉を静かに開いた。
そこにはベッドにグッタリと横になっている叶の姿と、看護師がいるのが目に入った。
「都住さんですね?」
「はい」
事の次第がイマイチ掴めなかった朔夜は、担当であるその看護師に話を聞く。
「井の頭線の渋谷駅に飛び込んだのか、突き落とされたのかはハッキリ判かりませんが、線路で頭を打ち付けたようでで今、安静に眠っておられます。が、右鎖骨を複雑骨折しているみたいですので今は鎮痛剤を打ち、簡単に処置はしておきました。今日は専門の外科医がお休みなので明日にでも緊急手術をしなければいけない状態です。それにしても、幸いでしたね。周りにいた方々の話だとプラットホームの横に設置されてある穴に最後のカを振り絞って、身を投じたらしく、何とか一命を守る事は出来たようです。彼は運が良かった。脳波を調べて異常が無いようなのですが……念のため一応眠っている時の脳波の方も検査しておきたいと想いますが、宜しいでしょうか?」
こういう事は、家族の承諾も必要なのであるが、叶の生い立ちを考えると今となっては、そう云う訳には行かない。
考えてみれば朔夜は、叶の実家について知っている情報は皆無なのである。
取り敢えず、叔父さん宅へは報告しなければならないであろう。しかし、夜間いたずらに心配を掛ける訳にも行かないかと、今日の所はこのまま連絡を取るのは避けようと想った。そして、眠っている間の脳波検査を承諾した。
「ところで、都住さんと云えば、夢占いに通であるとか?時々雑誌や本に目を通しておりますが……御本人様でしょうか?」
意外な事を聞かれて戸惑う朔夜。
「ええ、そうです……が」
「やはりそうなのですね。いやあ〜こんな所でお目にかかれるとは光栄です。患者さんのスケジュール帳を見て名前と電話番号が控えられていたので、もしかしてそうではないかなと噂していたんです。また論文など出されたら読ませて頂きます。それでは脳波検査の準備も有りますので私はこの辺で失礼します」
そう云うと、静かにその部屋を後にして行く。確かに、朔夜は本名で本を書いている。しかし、こんな所にまで影響をおまぼしているとは想ってもいなかった。
朔夜はそんな中、ベッドに横になり気持ち良く寝息を立てている叶の姿を確認すると、ホッと一安心して持って来た荷物を部屋に預け夜間看護施設のこの病院を、静かに後にしたのである。




