chapter3 絢/カレーの具材がない
「ねぇ、どっか行きたいな」
修司ってば起きてからずっと同じソファの上でちっとも動かない。
いつもと変わらないクッションを抱いて、いつ洗ったのかわからないスウェットを着て、ワイドショーを観ているだけ。
うわっ、黒の短髪、寝癖でナスカの地上絵みたいになっているし。
「ん~」
あーあ、やっぱり。行く気ないな。なんて面倒臭そうな返事。さすがにちょっと勘弁してほしい。
「修司が今日どっか行こうって言ったんだよ?」
とりあえず、ゆっくりとね、落ち着け、自分。私が冷静じゃなきゃ。
「ん~どこ行こっかぁ~」
絢が行きたい所あるなら行ってもいいよ、っていう目をしている。選択権はいつも私。でも選んだのは修司、っていう風に真実をすり変えなきゃいけない。どうしよう、行きたい所なんて特に無いな。
天気も良いし、お花見でもいいけど・・・井の頭公園?う~ん・・・人が多いな、絶対。もうちょっとマイナーな所。無いか?頭、働かせろ。
「代々木公園は?お花見!」
シュール過ぎる?まぁ、都内だったらどこのお花見スポットも人多いだろうけど、井の頭公園よりはマシかも?
「お花見かぁ~今日ちょっと寒いっしょ?」
むむむ。お気に召さなかったらしい。
「でもいつものダウン来て日向にいたら温かいと思うよ。あたしも今日ダウン着て来たし!」
「代々木って人多いんじゃない~?あはは、やっぱりこの芸人ウケるわぁ~」
ヤバイ。このままじゃ一発屋芸人に負けてしまう。テレビに負ける彼女ってどうなのよ?
「若い人は井の頭とかに行くんじゃない?六本木ヒルズとか表参道とか!ウチラはシュールに代々木公園に行くの」
「こいつのツッコミ最高だわ。切れ味がやばい。絢もそう思わない?」
このお笑いオタクめ。だから代々木公園だってば。
「私、久々に修司と居酒屋行きたいよ。お酒飲みたい」
「酒かぁ~昨日仕事の後めっちゃ飲んじゃったんだよね」
撃沈。無理にお酒を勧めるのはあんまりよろしくはない。すねちゃいけない。別に大きな問題じゃないんだから。
「でも、私達って最近あんまり外でデートしてないよ?」
修司の可愛い彼女でなきゃいけない。しかも有望で自立している彼女。連れて歩きたいと思えるような彼女。
「最近仕事で疲れててね~休みの日は何もしたくないんだよね」
本気なの、この人?一昨日の電話で今日の日曜日どっか行こうって言ったのは、紛れもない、この目の前にいる修司なのに!
「絢もここでテレビ観ようよ、はい、クッション」
クッション、ぽんぽんって・・・泣いちゃ駄目。堪えるの。
「そうだよね。最近仕事大変そうだしね」
修司がどっか行こうって電話で言ったのは本心に違いない。ただその時の気分と今の気分が百八十度変わってしまっただけ。とりあえず、修司が用意してくれたクッションを膝の上に置いて抱きつこう。可愛い彼女、可愛い彼女。
あ、もう番組が終わる。十一時七分。
「映画も嫌?」
上目づかいで聞いてみる。神様、お願い。
「なんか観たいやつでもある?」
上目づかいも見やしない。修司の目線はずーっとテレビ。
「ちょっと待ってね。今調べるから」
iPhoneどこやったっけ?あ、ダウンのポケット。映画.comのアプリで映画を調べてみる。
ん?寝息が聞こえる?そんな・・・ソファの上で寝ちゃったよ。
泣いちゃ駄目だってば。疲れているんだから寝かせてあげて。そういえば、もうお昼近い。起きた時に美味しいカレーとかあったら喜ぶかな。あーでもわざと何も作らなかったら、コンビニとかまでなら一緒に行けるかも。とりあえず冷蔵庫の中チェック。納豆、たまご、牛乳、コーラ、ビール、プリン、あ、賞味期限切れている。野菜室にはキャベツと玉ねぎと人参。冷凍庫は?すごい霜の塊。八本入りのチョコレートアイスバーが残り一本。これじゃあ、カレー作れない。
お笑い番組は終わって、正午前のニュースに切り替わった。時間だけが過ぎて行く。私、何してるんだろう?
お昼ごはんなんてどうでもいいや。修司が起きてお腹空いていたら、買い出しに行くかコンビニに行くか考えれば良い。あーあ、私も何だか眠くなってきちゃった。
ピンポーン・・・あ、誰か来た。NHKの受信料かも。
「はい?」
「お届け物でーす」
「あ、今開けます」
ピンポンにも気付かないなんて、修司がっつり寝すぎだろ。そろそろ宅配の人がオートロックのドアから来るはず。
ピンポーン・・・あ、来た来た。
「木下修司様宛に宅配便です」
「あ、妹です。代わりに受取ります」
どうして宅配便の人ってこんなにカッコいいんだろう。単にスポーツ系だから?そういえば、宅配業界の人達と合コンすると、結構がっついた会になるって聞いたことある。
「ありがとうございましたー」
「ご苦労さまです」
送り主・木下典子・・・修司のお母さんからか。品物は、食品、衣類・・・きっとお母さんも心配なんだろうな。鹿児島から出てきたボンボン息子が東京で働いているのは。でも今の時代、地元を離れて都内で仕事する方が多いと思う。というか、むしろ男の子はそうやって荒波に揉まれるべきだと思うし。
そういえば、一度修司の実家に行きそうになったことあったっけ。
大学二年の夏休み、修司の就活が終わった頃。修司の帰省に合わせて、私は観光がてらに鹿児島に行ったんだ。初めての鹿児島。というか、初めての九州。その時、修司は自分の地元や屋久島とか案内してくれた。「指宿」っていうのを初めて「いぶすき」って読むのを知ったり。桜島から本当に灰が降ってくるのにビックリした。お陰でけっこう目がゴロゴロしてたっけ。
「実家に行く?」って聞かれた時は、正直嬉しかった。彼女として認めてもらったみたいで、やっぱり将来に期待しちゃう。
でも、結局修司の実家には行かなかった。渋滞に巻き込まれたりして、どんどん夜遅くなってしまったから、私から「今日は遅いから迷惑でしょ?」って封をしたんだ。チャンスっていうか、タイミングが合わなかったんだ。
修司のベッドで大の字になっちゃえ。枕の匂い。修司の匂い。この枕カバー、最後の洗ったのいつなんだろう。ふふ、気持ち良さそうに寝てる。私が来てまだ二時間くらいしか経ってないのに、もうお昼寝。
私と修司が付き合って、どれくらい経つんだろう。私が大学一年の夏に付き合い始めたから・・・かれこれもう六年目・・・え!もう六年目?凄いなぁ、我ながら自分を誉めてあげたい。テレビうるさい。消そう。
「絢ねぇは結婚しないの?」
この前愛美にそう聞かれたっけ。六年も付き合っていたら、普通結婚って言葉が浮かぶもんだよね。しかもお父さんもお母さんも死んで、仕事も辞めちゃったし。愛美からすると、結婚するから仕事辞めたって思ってるかも。愛美が今の私だったら、一気に結婚にもっていきそうだな。新しい生活を始めて、新しい人生をさっさと始めそう。愛美を見ていると、いかに自分がフェアリーで遠回りばかりしているのかが解る。砂浜でやる棒倒しみたい。周りからちょっとずつ砂を掻き分けてるタイプ。でも本当の問題とか大切なこととかが、何で、どうやってそこまで辿り着けるのかもわかってるくせに、ちょっとずつ、ちょっとずつ砂を掻き分けて行くの。愛美だったら、上から手を伸ばして一気にひょいって棒を取っちゃうんだろうな。
ベッドの上は少し肌寒い。シーツがひんやりする。修司に寄りかかって私も寝よう。ソファの上で仰向けで寝ている修司。修司の胸板を枕にするんだ。
心臓の音が聞こえる。トクトクって。修司はちゃんと生きている。きちんと仕事をして、こうやって疲れて、寝て、食べて・・・ちゃんと人として生きている。自分の肩にそっと修司の腕を置く。こうしていると修司に抱き締められて寝ている気分になる。安心。
陣野香織は本当に反省していると思う。でなきゃ、あんな手紙、気まずくて書けないでしょ。私だったら、遺族にそんな事できないな。逆に反感を買って、「死刑にしてくれ!」なんて言われそう。たとえ、法律上の罪は変わらなくても、遺族が抱く罪の大きさは肥大して行く。
きっと彼女はピュアなんだ。そして今の現代社会の犠牲者でもあるのかもしれない。ピュア過ぎて、相談できる相手もいなかったのかもしれない。仕事して、ストレスを抱えて、一人じゃどうしようもなくて、心療内科に行って、薬はどんどん増えて、更に不安になって・・・そこに幸せそうなお父さんとお母さんの姿。一瞬、自分が人であることなんて忘れて、アクセルを踏んだんだと思う。
たまにあるよ、私にだって。自分が人であることがどうでもよくなるとき。それは特にお父さんとお母さんが死んでからだけど。全てが投げやりっていうか、大切にできないっていうか・・・。
でもピュアだからって、人を殺すまで人間落ちぶれていいなんてわけわかんない!って愛美は言いそう。
愛美は何であんなに頑張ってネイリストになろうとしてるんだろう。自分でも、これじゃ親孝行も出来ない!なんて言ってたくせに。私からすると狂ったように頑張っている気がする。
今の私は愛美の目からすると、ぐうだらな人間に見えているのかもしれない。仕事辞めても、就活もせずにパチャとのほほんと暮らして、こうやって彼氏の家でまったりしている。もう既に軽蔑されているかもしれない。
私、自分も大切にできていない。
どうしっちゃったんだろう。陣野香織に同情するなんて。どうかしている。もっとしっかりしなきゃ。お父さんとお母さんは死んだんだ。絶対にもう戻っては来ない。だからこそ、今腹に力を入れて生きていかなきゃいけないのに。愛美みたいに現実の世界を歩まなきゃいけない。
私、なんでこの部屋にいるんだろう。何しに来たんだろう。テレビを観るため?修司の寝顔を見るため?それって、今の私にどんな付加価値を付けてくれるんだろう。
私、なんで修司と付き合ってるの?
修司の体は温かい。ちゃんと心臓も一定の速度でトクトクしている。肩を抱いている腕の手を握ってみよう。ラブラブなカップルみたいに、指と指を絡ませて。
温かい修司の手、冷たい私の手。修司が遠くに感じる。修司の手から何も感じない。好きだよ、とか、今疲れているよ、とか。前はこうやって手を握ったり、体を触ったり、目を見たりするだけで、以心伝心できたのに。修司が何を考えているのかわからない。
どうしよう。もうわからないよ。修司。ねぇ、起きてよ。何かしゃべってよ。左目から流れた涙が右目に入って、コンタクトがずれちゃって痛い。
修司の腕の中は温かいけど、一人ぼっち。孤独。一人ぼっち。そうか、私、もう一人ぼっちなんだ。お父さんは死んだんだ。
涙が止まらない。泣いちゃ駄目だって。でも勝手に涙が流れてくる。泣くのはあの事件の日以来だ。警察からの電話で、お父さんとお母さんが事故で危険な状態って言われたとき。まさか、という信じられない気持ちと不安が溢れて涙が出てきた。あのとき、警察の人は「危険な状態」って言っていたけど、実はもうお父さんとお母さんはあの時点で既に死んでいたんだと思う。だって、病院に行ったらもう解剖されていたわけだし。きっと、警察の人が気を使って言葉を選んだんだ。私が泣いたのは、その電話を受取ってから病院に行ったときまで。警察署で事故の詳細を聞かされていたときはもう泣いていなかった。今の今日までずっと泣いていない。映画を観ても、ドラマを観ても涙は出なかった。愛美はちょくちょく泣いていたっけ。私は、あぁ、涙が枯れるってこういうことか、ってわかるくらい渇ききった感覚があった。
でも今は涙が止まらないよ。修司の体が、手が温かい程、自分の孤独感がひんやりと身に染みる。修司が変わったの?それとも私?うん、きっと私が変わってしまったんだ。家に帰ろう。ここはもう私が居て良い場所じゃない。修司も私と一緒にいちゃいけない。
パチャの散歩に行こう。目黒川沿いとか散歩がいいかもね。今までありがとう、修司。さようなら。