chapter2 二人ぼっち
絢と愛美は渋谷警察署の一室に呼ばれ、冷たいパイプ椅子に座っていた。婦人警官らしき人がお茶を出してくれた。しかし、絢も愛美も手をぐっと握り締め、太股の上に置いて動かなかった。
即死だった、と警察官が言った。車に引かれ、体がぺちゃんこになっていた、とも言った。
病院に行ったが、司法解剖中で結局義彦と美代子には会えなかったので、渋谷署で事故の経過を聞く事になった。聞く事になった?聞いても理解できるのか、受け止められるのか、絢も愛美にもわからなかった。
その日、義彦と美代子はミュージカルを観に行っていた。美代子はこの日をとても楽しみにしていて、何を着ていこうか毎晩悩んでいた。
「愛美、こっちのワンピースの方がいいかしら?」
「でもそれだけじゃ寒いよ。このストールも持っていったら?」
「でもピンクなんて派手だわぁ・・・」
「サーモンピンクだから大丈夫だよ」
十時三十六分。恵比寿東一丁目交差点。山手線、東急東横線が合わさる如何にも都内といった感じのごちゃごちゃした横断歩道。歩行者用信号が青に変わった。美代子は義彦の左腕に右腕を絡ませ歩き始めた。二人以外に横断歩道を横切っていたのは五名程。赤信号で停止しているはずの軽自動車がいきなり突っ込んできた。はねられたのは義彦と美代子だけだった。
「ひいたのは・・・?」
絢はもう泣いていなかった。あるはずの涙は全て出尽くしてしまっていた。愛美は隣で顔を下にしたまま、ひっくひっくと言いながら泣いていた。止まらないらしい。
「ひいたのは女性で、今違う部屋で取り調べを受けています。どんな理由があるにせよ、お父様とお母様が死んでしまったのは事実ですので、適切な処罰がされることは間違いないですよ」
一瞬にして両親を失くした姉妹に対して、警察が言える事はこういう事務的な台詞しかない。下手に同情されたり励まされても、ただ辛いだけだ。
「そうですか・・・」
絢も事務的な台詞に対して、事務的な返事しか出来なかった。そう、それでいいんだ。というか、それ以外どんな最善の方法がある?
判決の結果、被告人・陣野香織は事件当時、心療内科に通院しており安定剤も服用。それに伴い心神喪失状態であった事から、責任無能力であり無罪とする。
絢も愛美も一度も裁判には行かなかった。絢は行っても両親が戻って来るわけじゃないから無意味だと考えていた。お父さんお母さんを殺した陣野香織って人のこれからの人生がどうなろうと興味が無かった。愛美はこの事件について思い出したくなった。早く過去の思い出になってくれたらいいと時間の経過を望んでいた。裁判に行けば、思い出がぶり返されるだけ。結局、義彦と美代子の互いの親戚が傍聴し、判決を絢と愛美に教えてくれた。
陣野香織は仕事のストレスで鬱病を患っていた。しかし、通院と安定剤を服用しながら仕事は続けていた。事件の日、安定剤の量が増やされた。より強力な安定剤。鬱状態の人間を、一気捻じ曲げるように元気にさせる安定剤。陣野香織はそれを飲んで、車でドライブに出掛けた。しかし、徐々に効いてきた安定剤は彼女の脳味噌をドロドロにし、夢か現実の世界か判断が出来なくさせていた。ハンドルを握っていた手も震え出した。仕事、家族、友人、人生、生きる事、死ぬ事、人生、私の人生・・・
目に映ったのは、笑顔で寄り添いながら前の横断歩道を歩く義彦と美代子の姿だった。
人生、笑顔、私の人生、誰の人生・・・?
気が付くと、陣野香織は思いっきりアクセルを踏んでいた。
ドン!という鈍い音が聞こえた。一瞬の静寂。そしてキャー!という女性の悲鳴。停車した車から陣野香織は男性二人に引きずり降ろされた。
何かを叫んでいた。
あぁ、何て事を!
あんた、正気か!
救急車!早く!
二人になった上野家。赤の他人同士の姉妹。友達にもなれない。時間だけが二人を馬鹿にしたように過ぎていく。生きなさい、二人で頑張って力を合わせて、ほら。そんな風に言われているみたいに。
義彦と美代子が死んでまもなく、絢は会社を退職した。過酷な就職活動、勝ち取った大手インテリア会社の内定、希望部署への配属、ここ数年の人生経過を全て自ら手放した。疲れてしまったわけではない。ただ、強烈な虚無感に襲われていた。人の人生の呆気なさを実感してしまった。あんなに幸せだったお父さんとお母さんの人生は、あっという間に奪われてしまったから。じゃあ、自分の人生も案外呆気なく終わるのかもしれない。そう思うと、もう何もやる気になれなかった。志を高く仕事に打ち込んでも、それが一体何になるのだろう?今日、明日、明後日、死んでしまったら何も残らない。
愛美は毎日スクールに通い詰めていた。残すはあと一級。二級、三級は一発で合格することが出来た。同時にネイルサロンでのアルバイトも探し始めた。実務経験が早く欲しい。でも履歴書の書き方に苦戦している。志望動機がうまくまとまらない。義彦と美代子の死から愛美は忙しい日々を送っていた。それは無理やりに、そして狂気染みたようだった。
事故から半年。秋。日中は残暑が厳しいが、夜は少し肌寒くなってきた。ファッション雑誌にはもう真冬のコートやファーをまとってポーズを決めるカリスマモデル達の表紙が本屋で陳列されていた。
絢は自分の部屋でネットをしていた。じゃらんを見ていた。紅葉が見たかった。今度の週末、彼氏と一緒に行きたいと思っていた。近場なら奥多摩がいいかな。いや、もう一気に日光とかにも行ってみたい。まだニート生活も悪くないな、と思っていた。ゆったりとした暮らし。好きな本、映画、旅行、今まで忙しくて出来なかった事に没頭していた。そう、パチャとの散歩も絢にとっては大切な生活の一部になっていた。
一階でドアの開ける音が聞こえた。愛美が帰って来たらしい。パチャのはしゃぐ爪の音がフローリングに響いている。パタパタとピンクのモコモコのスリッパの音が聞こえる。でもその足音は駆け足のようで異様だった。何をそんなに慌てているんだろう。
「絢ねえ!」
足音が階段を上る音が聞こえたかと思ったら、ガチャッ!と勢いよく愛美がドアを開けた。
絢はビックリして一瞬気分が悪くなった。
「な、何?」
「ねぇ!どうして・・・どうしてお父さんとお母さんは死ななきゃいけなったの?」
愛美は般若のような顔をして泣き叫んだ。マスカラとアイラインが涙と一緒になって、黒い涙になっていた。
「いきなりどうしたの?」
絢はパソコンデスクの椅子から降り、絨毯の上に座った。
「納得できない!なんでお父さんとお母さんなのか!これから頑張って就職して、親孝行しようって思っていたのに!」
愛美も絨毯の上にぺちゃりと座りうな垂れた。
「愛美、大丈夫だって。お父さんとお母さん、天国で愛美の頑張りを見ていてくれているから」
その瞬間、愛美は顔を上げ、キッと絢を睨んだ。
「天国で見てる?ふげけんなよ!死んじゃったら意味ないんだよ!そんな馬鹿みたいな夢話なんかするな!」
「じゃあ、私にどうしろって言うのよ!」
「そんなの知らない!馬鹿!」
愛美は荒々しくドアを閉め出て行った。廊下の向こうで自分の部屋のドアを閉める音が聞こえた。
一階にいるパチャの鳴き声がかすかに聞こえた。




