戦時量産型駆逐艦「松」型の評価と実態 前編
架空戦記創作大会お題③となります。
戦時量産型駆逐艦「松」型の評価と実態 前編
〈 戦時量産型駆逐艦誕生の背景 〉
帝国海軍は、その誕生の時より華々しい艦隊決戦の一本槍であり、地味な船団護衛と言った海上通商路の防衛に対する意識は低かった。全く無関心というわけでは無かったが海軍将兵にとっては然程重要な事柄との認識が無かったことは確かである。
これは、創設以来師と仰ぎ模倣してきた大英帝国が決戦用艦隊と海上護衛用艦隊の二本立てであったことと比較すれば大きな相違といえた。
もちろん、これには理由がある。
まず何より日本には国力が無かった。
少なくとも欧米列強と長期に戦い続けるほどの力は総合的に見て無く、必要に迫られれば短期決戦で切り抜けるしか無いという発想に至った訳である。
故に、長期戦を支えるのに必要の海上通商路の保護と言った思想の出番は無かったのである。
もう一つ、重要な点は日本には海外に植民地を含めた権益がほとんど存在しなかったことにある。
海外領土を持たないのだから、帝国海軍には海上通商路の保護の為の戦力は必要なく、只来寇する敵艦隊を撃滅する為の決戦用艦隊のみを保持すればよかったわけである。例外として満州国を含めた中国大陸には我が帝国は権益を持っていたが、中国大陸や朝鮮半島との距離を考えれば問題にはならない、と考えられていたのである。
もっとも我が帝国には、大英国帝国のような贅沢が許される経済的余裕も無かったのであるが。
但し、それは第一次大戦が終結して南洋方面にあったドイツ帝国植民地であった島々が我が帝国の版図に組み込まれるまでの話であった。
旧ドイツ領であった赤道付近の島々が、我が領土となった以上はそれらの島々と本土を通商路を繋ぐ必要があった。加えて当時想定していた英米などの列強との戦争に於いては南方の資源地帯の支配が必然であり、そのための作戦も策定されていた。
となれば、南洋領土以上にそれらの資源地帯との通商路の確保は重要となるはずであったが、それでも帝国海軍上層はそれらと通商路の保護には消極的であった。
とはいえ海軍上層部は消極的ではあったが無能ではなかった。
対英米開戦が不可避となりつつあった昭和一六年(一九四一年)八月、帝国海軍軍令部は長く伸びた海上通商路の保護を行う為の二個の海上護衛隊を連合艦隊指揮下に設立している。
これは海軍が、通商路保護の重要性を認識したと言うよりも『輸送船団の護衛という(面倒なわりに評価されにくい)雑事に精鋭である連合艦隊の戦力を割かれるのを防ぐ為』と言った側面が強く、要は面倒で評価の低い船団護衛などの任務を押しつける先、下働きの部隊の必要性からの設立と言うやや後ろ向きの理由からであった。
それが証拠に、その設立時の戦力は、旧式の駆逐艦(当時はそれまでの艦名を新造艦に譲り哨戒艇第○号となっていた。)や民間商船を改造した特設艦で占められておりそれもごく少数というお寒い状態であり、それは人員の面に於いても同様であった。
では対する英米海軍、特に直接対峙するは米海軍はどう考えていたのであろうか?
太平洋戦争開戦により敵となった米軍、特に海軍は我が帝国の通商路を戦争遂行を継続するに当たって最大の弱点となると考え、潜水艦を中心とした徹底的な根絶作戦の準備をしてたと後に公開された軍の機密文書には記されていた。
故に、帝国海軍の真珠湾奇襲に始まる大東亜戦争(太平洋戦争)が開戦されると米潜水艦は、次々とほとんど丸腰の我が国の輸送船団に襲いかかってきた。
尤もこれには、主力の多くを真珠湾で失ったい米海軍には潜水艦による通商破壊以外に採れる手段が無かったと言う背に腹は代えられない彼らなりの事情もあった訳だが。
こうして開戦後まもなく始まった米海軍の潜水艦による攻撃は、当初は魚雷の不調などの装備の不備や乗員の練度の低さから我が軍にとって然程の脅威では無かったが、彼らの意図をくみ取った護衛隊の首脳部や連合艦隊の参謀の一部には現状に対する危機感を認識する者がいた。
「米海軍は、潜水艦による通商破壊を目論んでいる。」
彼らは、そう敵の潜水艦の行動からその意図を読み取った。
そこで彼らは、海軍軍令部に対して一刻も早い護衛戦力の拡充を求めた。
しかし、海軍の二戦級戦力と認定された護衛隊にとって戦力の補充は至難の業であった。特に開戦直後は戦果の大きさに隠れて目立たなかったが、連合艦隊はそれなりの損害を受けていて、その戦力の低下の回復が急がれていたのだ、しかも潜水艦による損害は前述の通り米軍側の不備により襲撃回数の割に少なく懸念より、海軍内それも上層部に「米潜水艦恐るるに足りず」との認識を生むこととなり、護衛隊の戦力の戦力補充は先送りにされる結果となった。
それでも護衛隊参謀らは、将来的な戦力拡充のための研究を口実にした海上通商路護衛に必要な艦艇の研究開発を軍令部からもぎ取ることができた。
彼らがこの研究で求めたのは、駆逐艦クラスの対潜対空戦闘能力を持つ水上艦艇で、これまでの水雷戦に特化した艦では無く、汎用性が高く量産が効く艦であった。
彼らが、船団護衛専用の艦艇としなかったのは護衛用艦艇では消極的と見られて軍令部上層の関心を得られないと考えた結果であった。
軍令部より護衛隊の要望を元にした研究命令を伝えられた艦政本部では、駆逐艦の甲型や「睦月」型などの既存の艦艇を基本としたものや新規規格のもの含めて一〇種類あまりの案が検討された結果、全長一〇〇m、基準排水量一二二〇トンと比較的小柄な船体に、備砲を一二、七センチ高角砲とした案と言うこれまでの高速化・高性能化してきた艦とは対照的な建造案を提示することとなった。
また設計を詰める過程で機関を生産性の良い「鴻」型水雷艇のものをシフト配置に搭載する案が盛り込まれ、速力が二七ノット前後と在来艦よりも低下するのを代償とし生産性に優れるともに被弾に強い艦とすることが可能となった。
この艦以降に採用する艦が増えた機関のシフト配置はこれまでのボイラーとタービン機関を一纏めに配置する方式を改め、左舷ボイラー・左舷タービン・右舷ボイラー・右舷タービンと配置する方式で機関部が前後の長くなり工作が複雑になる欠点がある、反面片舷の推進器が損傷を受けても生きている反対側の推進器を用いて生存を図れる利点があった。
また、これまでの帝国海軍駆逐艦に採用されてきた船体の流線構造を改め、加工の容易な平面構造を多用し線形の簡略化を計っている、更には将来的にはこれまでの鋲接から電気溶接やブロック工法の採用も含めた研究が継続課題とされていた。
こうして纏まった研究案を改めて読み返すと、魚雷搭載の有無を除けば「松」型駆逐艦はこの研究案の実行結果であると言うことができた。
この研究案が出されたのが昭和一七年(一九四二年)の一〇月であったから、もしこのまま建造に移されていたなら、遅くとも昭和一八年(一九四三年)中には竣工が可能であったと考えられるから、翌年の昭和一九年(一九四四年)ごろより激化する米潜水艦と航空機の攻撃に対して一定の効果が期待できただけに残念なことである。
結局、研究案が実際に建造の検討対象に至ったのは昭和一七年八月以降の南太平洋周辺での戦闘、特にガダルカナル島を巡る海戦で多くの水雷戦隊の駆逐艦が失われたことに端を発していた。
何より軍令部と連合艦隊司令部が危機感を抱いたのは、彼らに取っては本来の任務とは考えていなかった船団護衛や果てには輸送任務の最中に虎の子の駆逐艦が失われたと言う事実であった。
彼らにとって駆逐艦を中心とした水雷戦隊とは、軍縮条約により制限が掛けられ欧米列強に対し数的に劣勢となった主力艦隊を補う為の、その劈頭に敵艦隊への夜間雷撃戦を仕掛け敵戦力を削ぎ落とす漸減作戦の主役を担う先鋒であった。
それが、艦隊決戦に至る前に精鋭が無為に失われて行くことは容認しえない事態であった。 となれば、ここは早急に駆逐艦を建造し補充する必要があった。
勿論、軍令部も連合艦隊司令部も同様の考えを持ったが、ここで問題となったのはどの様な艦を建造するべきかであった。
理想から言えば、最大速力四〇ノット、一五本の魚雷を同時に発射可能な丙型(「島風」型)か長一〇センチ高角砲を連装四基一六門を搭載する乙型(「秋月」型)の量産が望まれるところであったが、何れも建造に二年から短くても一年半を必要とし資材も良質な物が望まれたことから、これらの艦の量産は適当ではない。
もともと生産性を度外視して量より質を求めてきた結果であった。
ここで必要なのは、そこその性能を持ち安価な資材で大量生産可能な駆逐艦であったが、同時に戦況を鑑みれば対空対潜戦闘能力が高いものが望まれた。
そこで、軍令部が目をつけたのが、昭和一七年の一〇月にその建造案の下書きが出されたものの日の目を見ていなかった護衛隊の要望で作成された量産型駆逐艦の建造案であった。
〈 戦時量産型駆逐艦の建造 〉
先に作成された量産型建造案は、再び艦政本部で見直しが行われほぼそのまま〈F55建造案〉として正式な量産型駆逐艦の建造計画となった。
前述の通り、高角砲を主砲とした備砲やシフト配置の機関などは変更無く唯一の変更点は当初その装備に関して未定であった雷撃装備の実装であった。
当初、護衛隊側は雷装を重量を重くする為に特に必要はないとしていたが正式に駆逐艦として建造される段階で自衛用の名目で搭載が検討され、種々の案が検討された結果六一cm魚雷四連装が実装されることなった。
建造計画は、改⑤計画に追加される形で組み込まれている。
建造は先ず六隻が計画され、二隻ずつ舞鶴海軍工廠、横須賀海軍工廠、藤永田造船所で行われることとなった。
一番艦は舞鶴海軍工廠で行われたが、これは舞鶴の工廠が駆逐艦の建造を中心に担う工廠で、ここで一番艦が建造され建造方法の確認や改善の蓄積が行われそのノウハウを基に他の工廠や造船所が二番艦以降を建造する為であった。
尚、藤永田造船所は大阪に拠点を置く民間造船所ではあったが創業元禄二年(一六八九年)という古い歴史を持ち官民問わず多くの艦船の建造を行った実績を持つ老舗の造船所であった。
本来であれば前述の通り、一番艦の建造でノウハウを得る関係で二番艦の建造は半年から一年の間を置くのだが、建造を急ぐため二番艦は一月の間を開けて建造が開始されそれ以降は半月間隔で建造が開始されている。
一番艦は、舞鶴海軍工廠で昭和一八年二月三日に起工、同年八月八日に進水、昭和一九年一月一〇日に竣工している。
一番艦は「松」と命名されて級名は「松」型となり、一等駆逐艦「松」型或いは丁型駆逐艦と呼ばれることとなった。
海軍に引き渡された「松」は、訓練部隊である第十一水雷戦隊に編入され慣熟錬成が行われ二番艦以降の「竹」「梅」「桃」「桑」「桐」も就航し次第第十一水雷戦隊へ編入され錬成が行われたが、同年の米軍のサイパン島上陸に対抗する上陸作戦に錬成を済ませていた「竹」と共に投入される予定であったが作戦が中止となったため同様に「松」型二艦の初陣も先送りとなった。
建造はその後も五から六隻単位で建造されて行ったが、その過程で多くの改正が行われ「松」がほぼ従来型と同じ工法で建造されたのに対して四番艦の「桃」からは艦橋等の上部構造物に電気溶接が取り入られ、第二次建造分の七番艦(後に「杉」と命名)からは船体も部分的に鋲接から溶接へと切り替えられ造船所側が建造に慣れて来たこともあって起工から竣工までの期間が五ヶ月程度にまで短縮されている。
「松」型は全部で一八隻建造されたが、その後は更に大量建造向けに船体船形の簡素化やブロック工法を取り入れ「橘」型へ移行する。
そして「橘」型(計画番号F55B)では、建造の効率を上げるため船体材料を全て普通鋼とし強度の低下に対応して板厚を増す変更をしている、これは特殊鋼や高張力鋼は強度が高い反面、加工がし難く特に電気溶接で接合すると反りが出やすい問題があった、「松」型では船体を普通鋼で造り上甲板を高張力鋼としていたが全面溶接化に対応する形で変更していた、この変更により板厚が増したことで重量が増えたが性能低下はほとんど無かった。
この「橘」型は「松」型よりもより量産化しやすく造られていたが、この頃から護衛用艦艇の主軸が駆逐艦からより量産化に適した大小の海防艦へと移ったことから一四隻で終了している。
〈 「松」型駆逐艦の特徴と評価 〉
船体
船体は前述の通りそれ以前までの帝国海軍の駆逐艦独特の曲線構造をやめ。平面構造を多用して線形を単純化し生産性の向上を行っている。また駆逐艦としては低速のため、操艦性を考慮して艦幅を全長に対して大きめにしている。このことから用兵側からは「操艦性が良い艦」との評価を得ていた。
艦首は従来のダブルカーブドバウではなく直線艦首とし艦首のシアーやフレアーなどを少なくして外板の曲げ加工を極力少なくし工作の簡素化がなされている。
艦尾の形状も同様に手の掛かる複雑な加工を止め、地上で組み立てるスケグを取り付ける方式に変更している。
更に船体材料も、従来の駆逐艦に採用されていた特殊鋼が板厚を薄くし軽量化できる反面、加工に手間がかかり電気溶接しにくいため板厚が厚くなり重量が増すことを承知の上で溶接加工がしやすく調達の容易な普通鋼(炭素鋼)にしている、なお「松」型では上甲板は強度のある高張力鋼を使用していたが改正型の「橘」型より生産性を考慮して普通鋼に変えている。
材質の変更と船体線形の単純化は、艦の速度が低速であったこともあって特に問題にはならず、用兵側からも特に不満の声は上がっていない。
艦橋
艦橋は操舵室を廃して、羅針盤艦橋へ直接操舵機を置くことで従来艦に比較して一層低い構造になり工事の簡易化と重量軽減することができた。羅針盤艦橋の上には露天の指揮所となっており全面と側面は防弾を兼ねた側板でおおわれていたが、位置さ大きさはその後の戦訓により拡大されている。艦橋の外見も従来の曲面を用いた形から角張った箱形構造物を積み上げたような形となったり工数の低減と作業の簡素化が行われ、その組み立ても陸上で行った後に艦上へ設置するとで作業の簡略化が図られた。
兵装
砲熕兵器 主砲は、従来艦の三年式一二.七cm(五〇口径)がほとんど対空戦闘能力を持たないため、当時の帝国海軍の標準的高角砲である八七式一二.七cm(四〇口径)を「松」型用に新たに開発した単装砲を艦首甲板に一基装備し、艦尾甲板には連装型を一基装備して二基三門を搭載している。基が対空砲であるので対空対艦双方に対応できるが対空照準用の高射装置を持たない為に直接的な効果は期待できなかったが、敵の攻撃に対して牽制などには十分使えるうえ三年式が薬嚢式であったのに対して薬莢式の八七式は対艦戦にも速射性が高い点が用兵側に評価されている(薬嚢式は砲弾と装薬の二度装填が必要なため装填に時間が掛かるのが普通であった)。
その他の対空火器としては、帝国海軍の標準である九六式二五mm機銃が当初は三連装四基一二挺と単装八挺が搭載される計画であり初期建造艦に搭載されたが九六式の威力不足に対応する為、三連装機銃は簿式四〇mm機銃連装型に切り替えられ単装は一六挺にまで増強されている。
簿式四〇mm機銃は、スウェーデンのボフォース社開発製造した六〇口径四〇mm機関砲を国産化した物である。
同砲は米英の連合国側で多用されたのが有名であるが、ドイツに於いても量産・使用された対空機関砲の傑作であった。
我が国の簿式機銃(海軍名称、陸軍では五式四十粍高射機関砲として正式採用)は、太平洋戦争序盤の、マレー半島陥落の際にシンガポール島の軍港へ大英帝国海軍がプリンス・オブ・ウェールズやレパルス等の艦艇の対空戦闘能力向上の為に持ち込んでいたものを鹵獲しその後、ボフォース社の許可無く国産化したものであった。(戦後、ライセンス料・使用料は支払い済み。)
簿式は連装で五トン、四連装では一〇トンと九六式の連装で一.二トン、三連装で三トンと比べると重くなっているが「松」型では対空能力を増強させる為に重量増加には目を瞑って換装している。また、一部の艦では後部連装高角砲一基を撤去して四連装二基に交換した例もあり、極めて高い対空戦闘能力に米航空隊が交戦を避ける例もあったと記録に残っている。しかしながら、帝国海軍の簿式には英米のような機銃指揮装置が欠けていたため射撃は機銃側の射手の技量に依っていたため英米ほどの戦果は挙がってはいなかったとの説もあった。(末期に航空機用ジャイロ照準器一〇一自動照準器を流用した三式改射撃装置が追加されているが効果は明らかでは無い。)
魚雷 「松」型は艦隊決戦用艦艇では無いために雷装は最低限な物になっている。計画では魚雷のサイズや搭載数で複数案が出されたが、標準的な九二式六一cm四連装発射管一基が搭載され魚雷は九三式魚雷四本・予備魚雷なしで落ち着いた。勿論、魚雷戦のための指揮装置も搭載されている。
爆雷 計画では九四式爆雷投射機(通称Y型砲:両舷を同時に攻撃できるように薬室から砲身がYの字状に出ていることからこの名がついた、両舷同時攻撃の斉射と方舷攻撃用の単射の選択が出来る)二基、投下軌道二条、爆雷三六発を搭載する予定で初期の艦はその仕様で竣工している。この量は従来の甲型駆逐艦が投射機一基、爆雷一八発と比較すると大幅に増強されているが、それでも実戦の戦訓から量が十分ではないとして投射機を二基増設し爆雷を六〇発まで増やしている。尚。改良型の「橘」型では当初よりこの量となっている。
搭載した爆雷は当初は二式を搭載した、この機雷は従来の九五式の改良型で米潜水艦の性能向上に合わせて一五〇mまで調定可能にしたものだった。しかし、これでも性能不足であったため従来のドラム缶型から沈下速度が速い流線型の爆弾型弾体の三式爆雷に昭和一九年以降は切り替えられている。
また不確かであるが、一部の艦には艦橋前に八連装の発射機をもつ対潜噴進弾が搭載されていたとの資料もあるが、噴進弾を含めて不明な点が多い。
音波兵器 「松」型には当初は従来艦と同様の九三式水中聴音機と九三式探信儀が搭載されていたが性能不足と言うことで聴音機は四式水中聴音機となり探信儀は三式探信儀へと最新型の装備に変更された。尚、「橘」型では建造当初より新型を使用していた。
電波兵器 「松」型、「橘」型双方とも対空見張り用の一三号電探と対水上見張り用の二二号電探を装備しているが、「橘」型では艦橋後部を延長して電探室を拡張している。
また、各電探の装備位置は建造時期の違いで異なっている。
機関 前述のように機関は生産性を重視し速度の低下には目をつぶる形で「鴻」型水雷艇の機関を流用して二基二軸とした。そして、その機関を左舷と右右舷、ボイラーとタービンと別々に分けて配置する機関のシフト配置が「松」型の最大の特徴と言える。
これは、従来艦が全長を短し被弾し難さを求めて機関を集中して配置する形式を取っていたところ、特に航空機攻撃などで一発の被弾で航行不能となり喪失の主要因となっていたことに対する回答であった。
「松」型では片軸機関を失っても航行が可能な様に、機関のシフト配置を採用し実際に被弾後片舷のみで戦場を離脱し生存できた例が多数発生したことから以後の帝国海軍では電気溶接とブロック建造と並んで艦艇建造の標準となっている。
しかしながら、生産性を重視し低出力の機関を採用したことから速力の低さと足の短さ(航続距離の短さ)は実際に連合艦隊内で艦隊行動するうえでは足枷となる例も多く、概して用兵側に好評である「松」型の数少ない欠点の一つと言えた。
久しぶりの投稿です、今回は論文風にしてみました。
長くなりすぎたので前後半分けてのUPなりますので後編もお楽しみに。
いつも通りですが、誤字脱字ありましたら一報ください。




