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南溟の断証(ゴリアール)  作者: 雅夢
間章Ⅱ クロ ルソンに吠える
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クロ ルソンに吠える

5日も遅れましたが山口多聞さん主催の架空戦記創作大会2023春参加作品です。

前編 帝国陸軍戦車小史


 日本の自動車産業の歴史を語る時必ず出てくるのが、二つの東京オリンピックである。

 一つは昭和三九年(一九六四年)に開催されたアジア初となる第一八回夏季オリンピックであり、同オリンピックはその後に到来する高度経済成長の嚆矢となりモータリゼーションの魁となったのは周知の通りであるが、東京オリンピックにはもう一つ幻と言われる大会があった。


 それは昭和一五年(一九四〇年)に開催予定であった第一二回オリンピックであった。


 昭和一一年(一九三六年)の国際オリンピック委員会(IOC)でこのアジア初となる日本でのオリンピック開催が決定したとの報は世界各国、と言うよりも欧米列強の企業に対して日本へ目を向ける機会となったと言われている。今日ほどでは無いにしろオリンピックの開催は、関連施設の整備や建築等に物資や技術の需要が大量に見込まれるからだ、そして、それらの業界以上に日本に注目していたのが米欧の自動車産業であった。

 当時の日本の自動車産業は米欧に比べて大きく遅れていた、自動車造りの技術もそれに必要な素材や部品に至るまで全ての点で大きく出遅れていたのだ、そして、それは単に自動車だけではなく道路や橋にトンネルなどの交通インフラ全般についても同様であった。

 そこへオリンピックの開催である、但し、鉄鋼や建設などの重厚長大産業は軍事など国策ががからむこともあって日本市場への門戸は決して広くはない、加えて既に日本市場に広く根を張っている米欧の企業あって中々熾烈な戦いを強いられることと成っていたのだが、自動車業界に於いて前述の通りに米欧に比べて遅れていたこともあってそうした障害は少なく比較的容易に日本市場への参入が可能であった。


 実際には、東京オリンピック開催決定を機に本格的な日本市場への進出が行われたが、それ以前より米欧の自動車産業の日本進出は細々とながら行われていた。

 結果的にそうした日本市場進出の動きはモータリゼーションの蠢動とも言えるもので、対象となった財閥系企業などを中心とした国産の自動車企業が有名どころの欧米企業の支援を得て自動車の生産が小規模ながらも行われることとなった。

 勿論問題は山積していた、特に道路など交通インフラの整備の遅れは深刻で自動車を造っても走らすまともな道路が無いのが現状であった、この点に関しては日本政府も問題点として認識していたため、限定的ではあるがオリンピック開催に合わせるように国道の整備が計画されたがこの手の事業には多額の予算が必要であった、当時の帝国政府の予算の多くは軍事費に充てられていて当然ながら道路整備に回す余裕はなかった、従って道路整備は計画倒れに終わるかと予測されたがここで予想外な援軍が現れた、それは最大の金食い虫であった帝国陸海軍であった。彼らは軍事予算の一部を道路整備と港湾整備に使うことを認めたのです。彼ら軍部からすれば、緊急時に軍の輸送の大きな助けになる道路や港湾の整備は間接的な軍事支出の対象と考えるべき事柄だったのだ。

 米欧の企業の目論みは、日本企業との提携協力を主導し日本市場を足場を固めた後にアジアへの進出も予定したと言われている、但し今日の様なアジアの市場と言うよりも当時欧米の植民地へ居留する米欧人に対する供給を考えていたとされている。


 しかしながら、この産業界の希望はやがて訪れた戦争の影によって押しつぶされることで途上で潰えることとなった。

 昭和一三年(一九三八年)、帝国政府は日中戦争の激化などを理由に第一二回オリンピックの開催権を国際オリンピック協会(IOC)へ返上、事実上中止の決定をくだしたのである。同時に欧米列強各国は中国への侵略行為を止めない日本に対しての経済的圧力を強化、日本へ進出していた米欧の自動車メーカーも徹底することと成り、日本と米欧自動車企業との蜜月は五年余りで破局を迎えたのである。


 しかしながら、それでもいくつかその後に無視し得ない成果の副産物は残ったのである。

 元々自動車産業は裾のの広い産業である、エンジン一つとってもその生産に必要な技術はシリンダーやピストン等の本体だけではなく、それに付随するベアリングやガスケット、点火プラグやその配線などに至るまで多岐に渡るのである。

 米欧企業との提携以前の日本の技術水準では、それらの部品を高い精度で均一な品質で量産する事は不可能だった、それがそうした米欧企業との提携によってもたらされた生産技術により多少なりとも可能となっていた。

 当然のことだが、こうした技術は後に軍需産業に転用され太平洋戦争に於いて我が国の兵器の量的・質的向上に一役買う結果となった。勿論、欧米各国も軍用に転用される技術は警戒し高オクタン燃料精製や二〇〇〇hpを超える大出力エンジンの為の技術などの日本への提供は固く禁じていた。しかしながら、それ以前の自動車用の技術程度でも日本の産業水準では大きく技術力向上に寄与する結果となったのは皮肉な結果とう言うべき事柄である。


 話を本来の戦車にもどそう。

 太平洋戦争開戦時の帝国陸軍主力戦車は九七式中戦車、秘匿名称で言うところのチハ車であった。

 開戦初頭の南方侵攻作戦における電撃戦の立役者として有名な同戦車には、大きく分けて四つの形式がある。


 一つは、昭和一一年(一九三六年)より開発が開始された原型である九七式中戦車チハ車で、同タイプの特徴は軽武装と軽装甲で敵歩兵や陣地を攻撃する歩兵の支援が目標の歩兵支援戦車であった。

 チハ車の戦車砲の特徴は約一メートルと言う短砲身の五七ミリ砲であることで、その砲弾は炸薬量が多く歩兵や陣地と言った軟目標に有効な容易な実質的な徹甲榴弾であり砲身の短さもあって取り回しが楽で扱いやすい砲と成っていた、しかしながら、この短榴弾砲とも言える砲は対戦車戦闘は前提とされていない代物であった。

 そして、装甲は最大で二五ミリで、これは開発当時主流であった三七ミリ砲に一五〇メートルで貫通されないものとされていた。

 チハ車の攻撃と防御の諸元がこの様な仕様となったのは、同車が開発された当初想定されていた主戦場が中国大陸であり、そこで相手となる国民党軍や共産ゲリラが帝国陸軍に対抗しうる装甲戦力も充分な対戦車火器を持っていないと見られていたことがに起因していた。


 二つ目の形式は、原型のチハ車の攻撃力と防御力を強化した甲型(九七式中戦車甲・チハ車甲)である。

 チハ車甲が誕生したのは、原型のチハ車が実戦に配備されたのち攻撃力と防御力の双方で不十分なことが明らかに成り、この事実に危機感を抱いた参謀本部が大鉈をふるった結果であった。

 チハ車の防御の基準となったのは帝国陸軍装備の九四式三七ミリ砲であった。チハ車の装甲はその砲撃を一五〇メートルで防げる様に造られていた、筈なのだが国民党軍との戦闘でその倍の三〇〇メートルの距離で彼らが持つ速射砲によって貫通された事例が発生したのである。

 国民党軍が持っていた対戦車砲はドイツ製の三七ミリ砲(PaK 35/36)であったが、相手が何であれ中国大陸に限定してもこれでは防御力は万全とは言えなくなったという訳である。


 そして更に昭和一四年(一九三九年)五月、チハ車にとって実質的な初の対戦車戦となるノモンハン事件ではその主砲の貫通力の欠如が問題となったのである。

 ノモンハン事変に投入されたチハ車は僅か四両であったが、参謀本部はソ連赤軍が有するBT戦車に対して九七式中戦車と八九式中戦車の短五七ミリ砲が有効打を与えられず苦杯を舐めた事を問題視した。

 帝国海軍がアメリカ海軍を仮想敵としていたのと同様に、帝国陸軍はロシヤ・ソ連の陸軍を仮想敵として強く意識していたからである。

 であるならば、その敵の持つ戦車に対しチハ車が勝てない状態は容認できないと言うわけである。

 となれば、武装を強化する以外に手は無い。

 実は、ノモンハン事変の勃発する直前(昭和一四年三月)であるが陸軍が発足させていた戦車開発委員会は、「将来的には対戦車戦を考慮して高初速砲のほ搭載を考慮すべき」との提言を出していて技術本部はその提言に基づき高初速砲とそれを搭載する新型砲塔の試作を始めていた。

 当初、この高初速砲の搭載に関しては参謀本部内に根強い反対意見が有った、それは高初速砲用の砲弾は当然のことながら徹甲弾となる為、炸薬量が少なくなり短五七ミリ砲の様に歩兵支援に適さなくなると言ったものであった。

 しかしながら、その後に勃発した事件での数々の戦闘の結果は戦車開発委員会の提言が正鵠を射ていたことを証明することと成り、結果として反対意見を抑えて提言内容に従った高初速砲の搭載に弾みがつくことと成ったのである。


 新たに戦車砲に選択されたのは開発途中であった試製九七式四七ミリ砲を基に戦車砲を開発、同砲は五七ミリ砲よりも口径は小さくなるが最初から速射砲(帝国陸軍呼称で対戦車砲のこと)として開発された為に距離五〇〇メートルで徹甲弾を使えば六〇ミリまで貫通可能であった。

 この新戦車砲を、大型の砲塔に搭載しこれまで砲手が兼任していた装填手の専任として三人乗りとして継続的な砲撃が可能とした。


 装甲も見直された。

 最大二五ミリであった装甲は倍の五〇ミリまで増強され各部ともほぼ倍の厚みとなって防御力を大幅に上げていた。生産途中もしくは既存の車体は車体や砲塔の前面や側面の様な重要個所に追加装甲として溶接留めし、新規に生産される車体は変更された装甲厚で生産が開始され、それと同時にリベット留めの箇所を溶接に切り替えて装甲の強度向上と重量の軽減が行われた。

 こうして、チハ車甲は攻守ともに大幅な能力向上が行われることと成ったが、問題はそれだけでは終わらなかった。と言うよりも武装と装甲の強化で更に問題が深刻化した言うべきだろう。

 武装の強化と、装甲の強化は当然だが重量の増加を招く。実際、原型のチハ車で一五トンであった重量は、甲型では一七トンを超えるまでになっていた。


 こうした重量の増加は元々低かったチハ車の機動力をさらに削ぎ取る結果となった。

 チハ車の機動力が低い理由は、世界に先駆けて採用した空冷四サイクルディーゼルエンジンにあった。

 チハ車のエンジンは、三菱がスイスのザウラー社の技術支援で開発した社内名称「三菱SA一二二〇〇VD(三菱ザウラー式空冷一二気筒二〇〇馬力V型ディーゼル)」を搭載していた、同エンジンは名称通りであれば二〇〇hpの出力を発揮できるはずであった(それでも排気量を考えると米欧水準から考えれば低かった)が、工作の未熟さや加工精度の低さが災いして安定して稼働させるには圧縮比を下げざるを得なく最大でも一七〇hp定格では一五〇hpが限界の代物と成っていた。

 そこで、技術本部はチハ車甲に新規に新たに開発された一〇〇式統制型ディーゼルエンジンを搭載することにした。

 同エンジンは、帝国陸軍が主導して開発した車両用規格型ディーゼルエンジンであった。その特徴はこれまで各社が様々な米欧企業より技術支援を受けた結果バラバラであったボア(内径)、ストローク(行径)、燃焼室形式を統一した一種のモジュラー構造にしたことに在った、この為気筒数の変更で最大出力を変えることが出来た。更に、部品の共用や仕様の統一なども合わせて行われて生産性と整備性などを向上させ、併せてコストを下げる意図もあって、帝国政府は日本国内のエンジンメーカー各社共通のエンジン規格として制定したのであった。

 チハ車に搭載されたのは、総排気量一八リットル一〇気筒一〇〇式ディーゼルエンジンであった、これは先のSA一二二〇〇VDが一二気筒の二一.七リットルであったことを考えると小排気量となっているが、各部工作精度の向上とガスケットや軸受け金属等の部品の性能向上により圧縮比を上げることが可能となりSA一二二〇〇VDが最大でも一七〇hpであったものが統制型一〇気筒では二五〇hpまで発揮できるまでになっていた。


 こうした性能向上に貢献した技術の多くは、先に記した幻のオリンピック特需の際に米欧メーカーより得た技術的副産物から生まれていた。

 因みに、本来統制型ディーゼルエンジンにV一〇気筒は存在しなかった。

 実は、一二気筒にすると三菱のエンジンと同様の排気量で三〇〇hpを出すことが出来た、ならばそれを載せればよいと考えるのだが、そうした場合はチハ車用の変速機等の駆動系がその出力に耐えることは難しく、新たに三〇〇hpに対応した駆動系の開発が必要であったが変速機やその他の機構の開発の必要もあってチハ車の改装を優先させるために出力をV一〇気筒を採用した訳である、それでも旧エンジンに比べると大幅に出力は向上させられているのだが。


 三つ目の形式は、乙型となる。

 乙型の特徴は、端的に言えば甲型の車体に原型と同じ短五七ミリ砲を搭載したことに在った。これは、甲型では榴弾の威力が小さく歩兵支援に有効に使えないとの意見があったためで、その反面従来のチハ車では敵の対戦車兵器に対抗できなと考えられたことから歩兵支援用の戦車として装甲を強化した車体と従来の短榴弾砲を装備した砲塔を装甲を強化して載せたこの形式が開発されたわけである。

 更に、乙型は後に火力向上の為に甲型の砲塔に七五ミリの四一式山砲を戦車砲にした九九式七五ミリ戦車砲を搭載した乙Ⅱ型も開発されている。

 甲型と乙型の生産は太平洋戦争の開戦を見据えた昭和一五年(一九四〇年)の末ごろから急ピッチで行われた。配備は四両一小隊、三小隊で一二両で一中隊となり初陣はフィリピン攻略戦からで当初は甲一小隊に乙二小隊だったが次第に甲の割合が増えて逆転している。

 因みにであるが、開戦当初のマレー電撃戦で活躍したのは原型のチハ車であったので当然武装と装甲は従来のままであったことから英国軍のオードナンス QF 2ポンド砲(四〇ミリ砲)にしばしば撃破されていた、このことから英国軍はチハ車の装甲は2ポンド砲で対応可能と認識し、友軍である米国側にもその旨を伝えていたことから米軍は対戦車兵器としてM3 三七ミリ砲と同砲を搭載したM3軽戦車を中心に備えていたことから、フィリピン戦で装甲を強化した甲型と乙型に遭遇した米軍はM3では至近でなければ装甲を貫通出来ないことからパニックとなったと伝えられている。


 最後の丙型は、甲型の四七ミリ砲を五七口径(砲身長3255mm)の一式五七ミリ戦車砲に換装した形式で、対戦車戦闘能力の向上させたものだが既に一式や三式の中戦車が配備されており少数が生産されたに止まっている。同砲は、後に砲戦車に流用されている。


 帝国陸軍参謀本部は、太平洋戦争に備えてチハ車を強化したことで一応の対応は完了したと見ていたが、同時にチハ車の強化が既に行くところまで行っているとの認識を持っていた。特に駆動機構や走行装置などは限界が近く、既にチハ車は主力として使い続けることには無理があった。

 故に帝国陸軍は、参謀本部の主導のもとチハ車の次を開発することに注力することと成ったのである。

 新型戦車の試作は昭和一五年(一九四〇年)に開始され、翌年にはモックアップを完成させるなど開発は急ぎ行われていたが、出来上がったモックアップを審査する段階で疑問が出された。

 技術本部が提示した新型戦車の計画によれば、新型戦車・仮称チへ車はチハ車より一回り大きな車体(車重一七トン)にチハ甲型と同様の四七ミリ砲を搭載し最大装甲は五〇ミリ、エンジンはチハ甲のところでもでた一〇〇式V一二気筒統制型ディーゼルエンジン三〇〇hpとしたチハ車の正常進化型と言える車体で対戦車戦闘能力を高めながらも未だ歩兵支援戦車の色を残した戦車であった。

 この仮称チヘ車の審査に立ち会った者たちは、一様に一つの意見を口にした。

「チハ車の甲や乙と何処が違うのか?」と。

 確かに車体は一回り大きくなり、右に寄っていた砲塔は車体中心線上に移っていた、右に寄っていた砲塔は装甲の強化後はバランスが悪く特に甲型では砲撃時に振動が大きいことが問題視されていた。

 それ以外は、チハ車と大きく変わらない、今更チヘ車を生産配備する必要が有るのか?参謀本部にはそういった疑問が多数寄せられることとなった。

 とは言え実際には、車体には多数の変更点が有った。

 最大の変化は最大三〇〇hpの一〇〇式統制型ディーゼルエンジンの駆動力とトルクに耐えられる駆動機構、特に変速機の改善であった。

 チヘ車では、これまでの変速機に代わってシンクロメッシュ式変速機が導入されそれに遊星歯車操縦装置を油圧サーボで駆動する方式を採用してスムーズな操作が出来るように成っていた。

 更に、足回りも大きく代わっていた。

 これまでの日本の戦車ではシーソー式の懸架装置に複数の転輪を配置し複数のそれを一組の緩衝機構で支える所謂平衡式連動懸架装置を採用してきたが、重量が大きくなるに従い機構が複雑になり強度の点で不安があり被弾にも弱いことから、チヘ車では中戦車として始めてスイングアーム式の独立懸架を採用していた。

 これはスイングアームに取り付けられた大型転輪をコイルスプリングとダンパーの組み合わせで支える方式(所謂クリスティー方式)で、少数が生産された八九式軽戦車ケニⅡで採用された方式の進化型であった。

 技術本部からこうした説明を受けた審査員たちは、技術本部に対いて攻撃力のさらなる向上を求めたが、ここで開発の足を引っ張ったのは太平洋戦争の開戦準備であった。

 帝国国内の軍と産業は、開戦に向けてその生産と資源を集中する必要があった、既存の兵器の増産や備蓄、不具合の改善などに全力を注力する為に産業力に乏しい我が国ではこの時期に新兵器の開発は足止めを食うことと成る。

 そして、開戦である。

 戦争がはじまり戦闘が行われれば色々な情報が入ってくる訳で、中でもり米英戦車との戦闘に関する報告は、新戦車開発の行方に大きく影響することとなった。

 それらの報告によれば、旧来のチハ車では格下である軽戦車の米国製M3にすら勝つことは難しいが、対戦車装備を強化したチハ車甲をもって対応すれば問題なく撃破が可能と言う状況であることが判った。

 ここまでは予測の範囲内であったが、M3軽戦車ではチハ甲に勝てない事を認識した米軍はM3中戦車の東南アジアへの配備を開始していて、それが装備する31口径のM275ミリ砲は徹甲弾を使用すれば距離四五〇メートルで厚さ八〇ミリの装甲板を貫通する性能を持っていたことから、然しものチハ甲でも直撃すれば容易に撃破されることとなっていた。

 但し、M3中戦車のM2砲は車体の右前面に搭載されていた為に死角が多いことから機動力に勝るチハ甲は左側面に回り込む事で勝機を得ていたがそれでも難敵には違いなかった。

 更に、友邦ドイツ経由で欧米列強の新型戦車の情報も届いていた。それによれば合衆国とソ連に於いて大口径砲を装備した重装甲の三〇トン級の新型戦車を実戦に投入しつつあることのことであった。

 これらの情報を手に入れた参謀本部は、これらの新型戦車に対抗するために帝国陸軍も従来の歩兵支援戦車から重武装で重装甲の対戦車戦闘を主任務とした戦車を開発する必要があるとの結論に至った。

 そこで参謀本部と技術本部、戦車開発委員会は、チヘ車とは別に本格的な対戦車戦闘用の重武装重装甲の戦車を新規に開発する必要があると結論付けたのである。

 具体的には、現有で量産可能な最も強力な砲を戦車砲とし、前面の最大装甲を八〇ミリとした三〇トン級の車体に搭載すると言う開発案であった。

 更に三〇トンを越える車体でそれなりの機動力を持たせるのであれば、四〇〇hp可能であれば五〇〇hpのエンジンとそれを効率よく伝える駆動装置、さらにそれらを支える懸架装置の開発が必須であがあった。

 これらの多くは現在に於いては研究開発中の物が多く実用化までには相応の時間が必要とされると考えられたが、提示されたこれら破天荒とも言える目標数値に対するメーカー各社の見解は意外なまでに冷静であった。

『多少時間を頂けば実用可能である。』

各メーカーは揃って上記の様に回答したと言われている。

 しかしながら、それでも短期の実戦配備は無理であることが判る。

 と成れば、一時の時間を稼ぐ中継ぎの戦車が必要であった。

 謂わば、暫定新型戦車の生産である。

 この暫定新型は、確実にチハ車甲型を攻守で凌ぎ短期間で生産を開始できる必要があった。

 そんな、都合の良い戦車が造れるのか?誰もがそう考えたが技術本部が出した暫定新型戦車開発計画はその解決方法を示していた。

 技術本部の示した案は、要は開発中であった一式中戦車の主砲を四七ミリ砲から七五ミリ砲へ変更し、車体と砲塔の装甲を前面と側面に限って強化するというアイデアだった。

 武装と装甲の強化で新案の重量は、これまでの一七トンから二四トン程度まで増加すると考えられたが、出力三〇〇hpの新エンジンとそれに対応した駆動装置に足回りを使えば比較的短期間に開発は可能であると、技術本部は結論を出していた。

 やがて、その概念的構想は三菱の設計陣により具体的な姿、モックアップとして審査担当者たちの前に姿を現した。

 新型のチヌ車の性能諸元は次の通りであった。

 戦車砲は、帝国陸軍の砲兵が使用する軽カノン砲である九〇式野砲七五ミリ砲を戦車砲に改造した一式七五ミリ戦車砲を採用、砲身長三八口径(二八五〇ミリ)の同砲が徹甲弾を使用した砲撃の際の貫通力は射距離一〇〇〇メートルで七〇ミリ、五〇〇メートルであれば八〇ミリとされていて、取り敢えずは充分な性能と思われた。

 車体の設計では、装甲は車体正面で五〇ミリ、側面は四〇ミリとし砲塔は正面に六〇ミリ、側面は四〇ミリとしてチヌ車の計画値より若干装甲を厚くし更に車体正面と側面は四五度から三〇度の傾斜を持たせて避弾経始を限定的ながら取り入れていた。

 エンジンは計画通りの一〇〇式統制型ディーゼルエンジンV一二気筒三〇〇hpとなり、駆動装置や変速機、足回りも計画通りの構造を取り入れていた。

 この後、無線機の搭載などの細かい変更が行われ同戦車は、一式中戦車秘匿名称チヘ車として正式に採用され、同時に量産が開始されることと成った。


 暫定新型戦車であるチヘ車は、量産が開始されるとフィリピンへ送られてそこでチハ車からの転換を行い南方各地へとむかった。多くはルソンやサイパンに送られて島嶼拠点の防衛のために配備についた、それ以外では中国大陸の多数が送られチハ車からの転換や練成が行われることと成り、このチヘ車の配備によりこれまで最前線に残っていた原型のチハ車は本土へ送り返されることと成ったが、これらの車体は後には砲戦車となって戦地へ舞い戻っていた。

 実戦に配備されたチヘ車の内、南方に送られた部隊はその後反攻を行う英米軍の新たな主力となったM4シャーマンと各地で砲火を交えることと成り、チハ車の様に一方的にやられることもなくほぼ互角の戦いを繰り広げる結果となったが、流石に数と機械的信頼性の差から次第に劣勢に追い込まれていった。

 暫定新型戦車の一式中戦車チヘが、格上のM4車の互角の戦いを繰り広げている間、帝国国内では新たな戦車の開発が行われてていた。

 チヘ車とは違い全く新しく設計開発される予定の新型戦車は、実質的にはチヘ車の拡大強化型となった。

 戦車砲には、当時量産が開始されたばかりの二式七五ミリ高射砲の五六口径の七五ミリ砲を戦車砲に再設計したものを三式七五ミリ戦車砲として採用していた。

 因みにであるが、三式戦車砲の原型となった二式高射砲(当時は試製であった)は、帝国陸軍が中国大陸で鹵獲したボフォース七五ミリ高射砲の無許可ライセンス品であった、同砲はボフォース名義ではあったがその開発は第一次大戦後に軍備開発を禁止されていたドイツのクルップ社が八八ミリ砲の開発の為の習作として極秘裏に開発した物であり、実質的に八八ミリ高射砲のプロトタイプと言えるものであった、そしてそれ故に対空砲としても対戦車砲としても非常に優秀な砲であった。

 装甲は車体前面で最大七〇ミリ、これもチヘ車同様に六〇度の角度に傾斜さえるなどの工夫がされ各部の装甲が厚みを増したことから重量は三〇トンとなっていた。これら装甲の接続は溶接を全面的に用い砲塔には途中から鋳造製の物に変更して更に防御力を増させていた。

 これを一〇〇式統制型ディーゼルエンジンの容量を三七.七リットルまでに拡大した四式統制型空冷四サイクルディーゼルエンジン五〇〇hpで駆動した。駆動装置や変速機に操縦装置に足回りはチヘ車の拡大強化型で対応していた。

 こうして完成した新型戦車は三式中戦車秘匿名称チヌ車として正式採用され生産が行われたが、同戦車が完成した昭和一九年(一九四四年)は既に容易に海外拠点に戦力を出せる状態ではなく、少数がルソンや硫黄島に沖縄などの絶望的な戦場に送られて最後の煌めきを示したにとどまっている。

 それでも太平洋戦争終盤、不可侵条約を破って満州へと侵攻したソ連赤軍に対しては主力のチヌ車と共に最大の見せ場を作ったことは皆が知ることろである。


 上記の、戦車の歴史とは別に帝国陸軍にはもう一つ別の戦車の系譜が有った。

 一般には砲戦車、或いは自走砲と呼ばれる兵器で特徴は戦車と同じ車体に多くは固定式に野砲又は重砲を搭載していた。

 砲戦車と自走砲の違いは要は使用する兵種の違いで機甲科が使用すれば砲戦車、砲科が使用すれば自走砲になると言う訳で兵器そのものに違いはない。

砲戦車の内名が知られているのは一式砲戦車秘匿名称ホニであろう、同戦車はチヘ車が配備されるまで火力の足らないチハ車の補助として多用されていたが、チヘ車やチヌ車の配備で自走砲に専念する様になっていった。

 しかしながら、太平洋戦争中期以降不足する戦車の補助として再び砲戦車が注目され幾つかの形式の砲戦車が造られて各戦場に送られることとなった。

 こうした砲戦車の内、対戦車戦闘に特化した車両が開発、生産されて配備されたが、こうした対戦車用砲戦車には駆逐砲戦車の形式名が与えられることなった。


随分と久しぶりの投稿となりました。もっと早く投稿できるはずだったのに何故でしょう?


今回の戦車ネタは以前より考えていたことなので文章にできてうれしかったです。

今回の前編は技術系の話ばかりですが、実は私自身は文系なので技術的な話しは理解しがたいところもあって苦労しました、専門知識をお持ちの方には「何だこりゃ?」と言うところもあるかもしれませんが私としては辻褄は合わせたつもりですのでご容赦ください。


と言うことで、感想や意見をくださるとありがたいです。また誤字脱字は感想の方に書いていただくと助かります。

ではなるべく早く投稿する予定の後編でお会いしましょう。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 御参加ありがとうございます。重厚な開発史、ありがとうございます。 [一言] 史実の日本戦車が諸外国に比べて充分な活躍が出来てなかっただけに、この物語のように多少なりと敵戦車と戦えたのは僥倖…
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