第5章 「闇のなかの月明り」⑨
大陸祭の締めくくり。
精歌隊による、精歌の儀式が始まる。
大陸祭の締めくくり。
「精歌隊」による精歌を捧げる儀式が始まった。
満ちた月は白銀の光を放ち、彩虹を闇夜に浮かび上がらせている。星の瞬きすら取り込む強い光は、まるで……己が唯一「孤高」なのだと主張しているようでもあった。
静寂が広がるなかで、ナギが天上の月に向かってゆっくりと腕を持ち上げた。
ナギは男であったが精歌隊において「歌姫」と呼ばれ、また自らを現在の「精霊の巫女」と名乗った。彼は持ち上げた腕の先……掌で降り注ぐ光を掬い上げるような仕草をした。
始まりの合図だ。
微風が吹いてきた……とリルファーナは思った。
しかしすぐに違うと気付く。
――歌だ。
微風だと思った柔らかな感触は「歌」だった。
リルファーナは憶いだす。
『精歌とは、「力」――』
「精歌」とは一般的に、生まれながら精霊の加護を受けた特別な存在……「精霊の愛し子」が、自然の恵みに感謝しさらに豊かな実りがもたらされるよう、精霊へ捧げる「歌」だと認識されている。
だがそれは神髄ではないと今のリルファーナには解る。精歌は「世界の理り」にも通づるものだ。
――「宇宙」という概念がある。
宇宙とは、万物全てに行き届いている大いなる意思だ。
人も、植物も、大地も海も、天上で冴えた光を放っている月も、それらはどんなに離れていても隔絶されているわけではない。大いなる意思のもとに存在している。
さらに人の「魂」も……過去から現在、未来、永劫に渡り繋がれていくもの。
それら全てを内包し存在しているのが「宇宙」だ。もちろん精霊も宇宙の一部だ。
リルファーナは目を閉じて、ナギの歌を全身で感じる。
ナギの歌は「風」だ。淀んでいるものを流していくように、力強く響いてくる。
重なるように「大地」の脈打つ鼓動や、「植物」の漲る生命力と一体となった歌も聴こえてきた。そしてさらに染み込むような歌声が重なると、身体の内側に揺らぎをもたらしていく。
(これは「水」の歌ね……)
「水」の歌は、人間の肉体にとっては癒しの効果がある。肉体とは水を含む鉱物界の要素で成り立っているからだ。
「精歌」は、あらゆるものに宿る精霊と繋がり歌を重ね合わせていくことで、宇宙そのものを体現していく。そこには大いなる意思が働き、正常な循環をもたらす「力」が生まれる。
リルファーナは、呼吸とともに唇を開いた。
――紡いだのは「光」。
天上から地上へ降り注ぐ月光の歌だ。
リルファーナが「精霊の巫女」だった時、朝には太陽の光を、夜には月の光を毎日のように歌っていた。「光」と繋がるのは得意だった。
太陽も月も動いている。
宇宙の意思に則り、星々たちは巡り、それぞれの役割を果たす。
(とくに今日の「月」は、浄化を促している)
生命の誕生から終わり……そして生まれ変わる手前の、真っさらな状態に戻るための領域で「月」は満ちている。それは強烈な浄化と、癒しの力をもたらす。
リルファーナの月光を紡ぐ歌は、微細な癒しの光となり煌めいた。その煌めきをナギの紡ぐ「風」が他の歌とともに押し流し、一部は大地に溶け、一部は水晶塔に吸い込まれていく。
歌が、カナディス大陸全土を満たしていった。
ふたたび、静寂が訪れていた。
本来であれば、精歌隊の儀式はこれで終わる。
だが今夜はもうひとつ、残されていることがある。
ナギが目配せをすると、ランティスが水晶塔を背にして立つ。
傍らにはエルドルの姿も見えた。
「いよいよね……」
いつの間にか、リルファーナの隣にいたクリスティナがそう呟いた。
「姉様は、わたし達のことを、どこまで知っているの……?」
気になっていたことを、リルファーナは訊ねてみる。
だってクリスティナは、リルファーナが精歌を歌えると知っていた。精霊の愛し子だからと言って、精歌はすぐに歌えるものではないのだから。
クリスティナは一言だけ答えた。それだけで充分だった。
「ナギは、霊視の力を持っているわ――」
――そうだ。
ナギはリルファーナが何者であったのか、ランティスがどんなふうに転生を重ねてきたのか、エルドルが魂から希求するものが何であるのか……そういうもの全てを見透せるのだ。
そしてクリスティナはナギの婚約者であり、リルファーナの姉でもある。知っていておかしくない。
ナギが水晶塔を背にして立つランティスの胸に手をかざす。すると水晶塔の淡い光りが凝集し、ランティスの背後から潜り込んだかと思えば、あぶりだすように内側から煌めく紋様を浮かび上がらせる。
(これが、ランティスがつくった浄化の術式……)
美しく緻密な、宇宙を模したような紋様――そうナギは例えていた。
確かに、宇宙を構成するあらゆる要素を象った形が織り重なっている。
精巧な花びらの調和のとれた曲線や、星々の瞬きの断片や、大地の脈打つ力強い熱や、穢れを飲み込もうと口をひらいた雄々しい水の流線や、魂をあるべきところへ誘おうとする空気の動きなど……それら全てがひとつに交わり、闇を消すための力を宿した「形」を成している。
ランティスはこの術式を、時間をかけ、リルファーナの呪いを解くためだけに創りあげた。
(ランティス……)
――あの日。
「精霊の巫女」と呼ばれ、真名を伏せて、神殿で孤独に生きることになった幼い少女の前に、傷付いた心を抱えた曄藍は現れた。
曄藍もまた幼かったが、傷付いた心を優しさと強さに変えて、巫女のそばにいてくれようとした。
(あの日から、今日までずっと……わたしのそばにいてくれた……)
ナギが歌いはじめた。
浄化の術式を扱うために、精霊達の助けを請うための歌だ。
合わせるようにランティスまでもが歌い始めた。
囁くような小さな声ではあったが、リルファーナにははっきりと伝わる。
ランティスの歌は「祈り」だ。
『――どうか……リルファーナが幸せでありますように』
そんな切なる想いが、歌に溶けて響いている。
「……っ、ランティ……ス……ッ」
リルファーナは、堪えきれず嗚咽を漏らした。
ナギは額に玉のような汗を浮かべながら歌っていた。重なったランティスの歌に力を借りながら、美しい形を成した術式に、精霊たちから貰いうけた力を凝集していく。
風が満月を覆い隠すように、低く垂れこめた雲を運んできた。網目のような紫電が雲間に走り、弾けたものが術式に吸い込まれていく。
だがそれも一瞬で、垂れ込めた雲を割り、閃光となった月明りがナギのもとへ降りてくる。
そしてナギは叫んだ。
「――闇よ、去れ!」
術式が変化する。
それは真っ白な一本の矢へと姿を変え、真っ直ぐにエルドルの身体を貫いた。
落雷のような強烈な光が、一瞬、辺りを真昼のように染めあげた。
「エルドル!」
闇を打ち祓う衝撃によろめいたエルドルを、駆け寄ったジューダが支える。
一方、リルファーナにも変化が起きた。
(これが呪い……消えていく……)
内側に潜んでいた澱のような重く張りついていたものが、霧散していくのを感じる。同時に冬を越えた新芽が冷たい土の中から顔を持ち上げるように、リルファーナのなかに生命力が溢れだす。
全身に熱い血潮が駆け巡っている。
左脚の不快感は消えていた。
それだけじゃない――リルファーナの目に見える世界も一変した。
精霊の存在や、息づく生命の魂の在り処までもが、はっきりと目に視える。
そう……精霊の巫女としての力までもが完全に蘇っていた。
「親愛なるカナディス大陸の皆――こんばんは。グランヴェル国放送部、エルドル・フロースト・ラディ・グランヴェルです。今宵はいつもに増して、美しい満月夜ですね。まずはじめに……皆の尽力のおかげで、今年の大陸祭が無事に終わったことを心から感謝します。本当に有難う――」
そう言ったエルドルは、声しか届かない放送で深々と頭をたれた。
円卓を囲んで、なごやかに放送は始まった。
エルドルの両脇には、ジューダとリルファーナが座している。リルファーナの隣にはテンマがいて、さらに少し間をあけた場所にランティスが立っている。
ランティスはカナディス大陸図を円卓に広げ、その上に幾何学模様のように鉱物を並べた水晶魔法陣を展開し、魔力を注いでいる。
「今回の大陸祭は、私にとって一生忘れることのない日になったよ。二人は初めての大陸祭、どうだった?」
エルドルが両脇のジューダとリルファーナを交互に見遣る。
闇から解き放たれたエルドルは、魔力を失い、今はただの美しい一国の王子だ。瞳の奥に佇んでいた禍々しさも消え去り、そのかわりに温かな慈愛をたたえている。
「ノルカディアのジューダだ。大陸祭……思う存分楽しませてもらった。こんなに長時間、外に出たのは初めてかもしれん」
「ふふっ……、ジューダは「ノルカディアの引きこもりの王子」と言われてるからね」
エルドルが微笑を浮かべる。
(わたしも、何か言わなきゃ……!)
「こっ、こんばんはっ! リステリア国放送部のリルファーナ・ルナディアです!」
いつもながら、緊張して声が裏返ってしまう。
隣にいるテンマが『リルファちゃん、どんまい!』と書き付けた紙を滑らせてくる。
リルファーナは恥ずかしさに、顔に熱が集まるのを感じた。
「まずは大陸祭と、放送部にお招き頂き有難うございます! とても楽しかったです。リステリア国放送部の宣伝もさせてもらったり、いろいろな出会いがあったり、美味しいものもたくさん食べました!」
「ああ、確かに……」
ジューダが大きく頷く。
さすが大国だと思った理由のひとつに、多様な「食」が集まっていることだった。
各国の名物や郷土料理などが、露店でたくさん振舞われていた。
「それがグランヴェル国の最大の特色と言っていいかもしれないね。各国の技術や食が集結している国だ。ただそのかわり、グランヴェル国だけの「何か」というのは、あまり無いんだ」
「そうなんですか……?」
「例えばジューダのノルカディア国は、海に面した国だから新鮮な海産物が取れるし、リステリア国では豊かな大地があり鉱物も採れるし、技術者がたくさん生まれる国だよね」
「な……なるほど……」
(リステリアに住んでいるわたしよりも、リステリアに詳しい……)
王族として当たり前なのかもしれないが、エルドルの知識の豊富さに溜息が漏れる。彼は次代の大国の王となる身だ。何かあれば王位継承は妹のコルネリアに転がるだろうが。
「せっかくだから、美味しかったものや、気になったものがあれば紹介して欲しい。きっとその国の人たちは喜ぶだろうし、旅行者の参考にもなるだろうから」
「そうだな――まず、俺が毎日でも食べたいと思ったのは……」
エルドルの提案を受けて、ジューダが喋り始める。
それから三人は大陸祭の思い出話に花を咲かせた。
しばらくして、ランティスが合図を送ってくる。
(半刻って、あっという間だ……)
エルドルがそっと佇まいを直す。
――いよいよだ。
テンマがそっとリルファーナに、紙を手渡す。
(有難う、テンマ)
目線だけで告げると、テンマは大きく頷く。
リルファーナとテンマは、二人だけで「ある事」のために動いていた。主にテンマが儀式の最中から、この放送が始まる直前まで走りまわって調整をしてくれた。
あとはリルファーナが声をあげるだけだ。
(最後に、みんなの為に出来ることがあって良かった……)
エルドルが決意を固めたように口火をきる。
「ここで大陸の皆に、私から大事なお知らせがあります。まず……これまでグランヴェル国の放送を聞いてくれて有難う。いつも放送のたびに感想の手紙を送ってくれたり、様々な情報提供があったお陰で、毎回充実した放送が出来たと思う」
ジューダがそっと瞳を伏せる。
予測していた通り、エルドルは放送部を終わらせようとしている……。
魔力を失った今、普通に考えれば続けていくのは不可能だ。
「今日の放送をしながら、私は、放送部を立ち上げたキッカケを思い出したんだ。
満月の夜だった……。
とても美しい満月でね、時を忘れてずっと部屋の窓から眺めていたよ。
でも……私の隣には誰もいなかった……。
この美しい光景を分かち合える者は、私の隣にはいなかったんだ。
だから……ふと「声」を届けたい思った。
私の独り言になったって構わない。
どこかにいる誰かへ。同じ空を見上げている誰かへ。
ひとりきりで、宵闇を過ごす誰かへ――
……まさか、こんなに長く続けられると思わなかったけど、本当に楽しくて幸せな時間だった。
この放送のお陰で、大切な者と巡り合うことが出来た。だから、今まで本当に有難う」
放送の最初にしたように、エルドルはまた深く頭をたれる。
そしてふたたび顔を上げると、切なげな微笑を浮かべて言う。
「残念だけど、グランヴェル国放送部は今宵を最後に、放送を終了」
「今よ、テンマ!」
「はいっ!」
テンマがエルドルに飛びつき、その口を両手で塞ぐ。
突然のことにランティスはぎょっとし、ジューダは何事かと目を剥いた。
(あとは、わたしが……!)
リルファーナは、テンマが用意してくれた原稿を握りしめる。
「はい、リルファーナ・ルナディアです!
エルドル様にかわりまして、わたしから、大切なお知らせがあります!
ここに【カナディス大陸放送部】を発足することを宣言します!」
心臓が痛いくらいに早鐘を打っている。
リルファーナとテンマ以外、皆が呆気に取られている。
「大切なことなので、もう一度言いますね――ここに【カナディス大陸放送部】を発足しましたので、よろしくお願いします!」
テンマが塞いでいたエルドルの口を解放すると「それはどういうこと?」と、首を傾げて訊いてくる。
リルファーナは説明していく。
「実は……グランヴェル国や、リステリア国の他にも、放送部はあったんです。だけど魔力量の問題から大陸全体に向けてではなくて、国内だけや王都だけなど、限られた地域の範囲でしか放送ができないという現実がありました。
でも本当は、みんな大陸全体に向けて声を届けたいと思っているんです。
なので! 自由参加の放送部を作りました! あ、もちろんエルドル様は参加することが決まっているので、よろしくお願いしますね」
「ちょ……ちょっと待ってリルファーナ姫。事情はわかった。けれど肝心の魔力の件はどうするつもり?」
「それはご安心を。――破格値で精歌隊の水晶塔をお借りできることになったので、微々たる魔力でも放送は可能になります」
「破格値……だと?」
これまで黙っていたランティスだったが、とうとう口を挟む。
水晶塔の価値は「貴石の魔術師」と呼ばれているランティスが一番良く分かっているだろう。
これからずっと放送をするとなると、経費の不安は出てくる。
「大丈夫デス。「大陸祭のたびにランティス殿下が手伝ってくれるなら」という条件をのんだら、快く貸してくれることになりました!」
「手伝い……だと……!」
「精歌隊の皆さんも、放送をしてみたいと仰っていました。楽しみデスね!」
困惑しているランティスと、嬉しそうに話しているテンマ。
その様子がおかしくて、リルファーナはつい笑ってしまう。
「バナシール国放送部のジェフさんも、カナディス大陸放送部への参加を表明されました。この機会にノルカディアもいかがですか?」
リルファーナが、ジューダに視線を送る。
「そうだな。そういうことならば、是非ノルカディアも参加したい」
「良かったです。……将来的には、毎日どこかの国や地域から放送があれば、素敵ですよね!」
どうやら【カナディス大陸放送部】の案は受け入れられたようで、リルファーナは安堵する。
「では私は、これからも放送が続けられるんだね……」
きっと今一番嬉しいのはエルドルに違いない。
誰よりも放送部へ思い入れが強いのだから。
「あ、お時間ですね。では最後に、エルドル様からお願いします!」
「有難うリルファーナ姫。こんなに素晴らしい日は今まで無かったというくらい、とても嬉しい。また大陸の皆と放送を通して交流ができるね。グランヴェル国放送部は今宵で終わるけれど、次はカナディス大陸放送部のエルドルとして、皆に会いにくるよ。
では……次の満月にお会いしましょう。おやすみ、良い夢を――」
エルドルが喋り終えると、ランティスが水晶魔法陣への魔力供給を止める。
放送は終わった……。
リルファーナはひとり、立ち上がった。行くべき所があった。
第5章ラスト。
お付き合いくださり、本当に有難うございます!
次回より、終章が始まります。
次回。
精霊の巫女としての力が目醒めたリルファーナが向かった場所は……。