酔いどれ夫人のチーズ(前編)
異世界生活2日目、わたしはけたたましい鐘の音で目を覚ましました。まだ仄暗さを含む光が窓から差し込む夜明け真っ盛りです。まだ早い…と二度寝しようと毛布を頭まで被ろうとすると、がばっとアンジェリカに剥ぎ取られました。
「起きなさい。牛乳を買いに行くんでしょ」
この街では、夜が明ける時間に時計台の鐘を鳴らします。電気ポットサイズの目覚まし時計は存在するものの、高価で一般市民への普及はまだまだです。時計職人は秘密主義の人が多いらしく、個人で購入するにはコネが重要だそうです。
アンジェリカが夕食後すぐに寝た理由がわかりました。強制的に起こされるので早く寝ないと寝不足になるのです。まったくもって健康的な生活ですが、不健康で自堕落な生活がちょっと恋しくなります。
これまた値が張りそうな櫛で髪を梳く手つきに気品を感じます。大口開けて欠伸をするわたしと大違いです。
「ヘンリーさんだっけ?どんな人?」
「歳はりぼんより少し上かしら。だいたいの日は噴水の側にいるわ。牛乳桶を荷車に積んでる男の人がそうよ」
牛乳とチーズを入れる木製の小さな蓋つきボウルを二つ重ねて持って宿を出ました。なんだか朝に出来立ての豆腐を買いに行く昭和みたいで、レトロで新鮮な体験です。
朝の市場は想像よりもはるかに活気に満ち満ちていました。買い物かごがぱんぱんに膨らんだおばさんや、野菜を箱ごと買って荷台に積む、仕入れに来たおじさん、そして焼きたてのパンの匂いがお腹を鳴らします。この街の人は朝から元気いっぱいです。眩しいです。
そんな中、ゆるい雰囲気のお兄さんが噴水の縁に腰かけています。荷台に大きな水桶を積んだあの人がきっとヘンリーさんでしょう。
「どうも〜…。ヘンリーさんってあなたですか?」
「ああ、そうだよ。お姉さん見ない顔だね。旅の人?」
「い、いえ、最近こちらに来ました。ヘンリーさんから牛乳と『酔いどれ夫人?のチーズ』を買うように言われまして」
「おっ、まいどあり。ちょっと待ってくれな」
わたしが渡したボウルに牛乳をあふれんばかりに注いでくれました。
「あのう…失礼ですが、チーズを触らせていただいてもいいですか?」
「少しなら構わねえが…どうしてだい?」
ヘンリーさんは意外そうに言いました。初めて言われたって感じの顔してます。
「表面が濡れているか確認するように言われまして。ほどほどに濡れているのがいいんですよね?」
「え?聞いたことねえけどな…。本当にこれを触るのか?臭い嗅いでみ?」
ヘンリーさんが蓋を開けた木箱に顔を近づけてみました。
「くっさ!」
臭い!アンモニア臭が、アンモニア臭がひっどい!う◯こだよう◯こ!…と思わず叫びそうになり、鼻と口を手で塞いで全力で我慢しました。




