第二章 曖昧模糊
あれは、今から九年前のこと。エレノアが七歳の時だ。
当時のエレノアは、父である公王と離れ、病気がちな母と地方の屋敷で暮らしていた。静養のためと聞かされていたが、母は体調のよい日にも王城へ戻ろうとせず、屋敷の裏にある森の様子をしきりに尋ねていた。
母を休ませるため、エレノアは一人で遊ぶことが多かった。ある日、屋敷の裏の泉へ行くと、先客がいた。自分より二つ年上の男の子で、小さな獣へ木の実を差し出していた。
エレノアも隣に座った。獣は逃げたが、男の子は笑って、次は静かに近づくようにと教えてくれた。
それから二人で遊ぶようになった。屋敷では止められる木登りも、水に足を浸して歩くことも、その子は面白がって一緒にやった。
森の奥で、洞窟を見つけた日もそうだった。
「宝があるかも」
「嫌です。ここ、変な感じがします」
「じゃあ、入口で待ってて。すぐ戻るから」
男の子は、もう中を覗いていた。
洞窟の口からは、夏だというのに冷たい風が吹き出していた。湿った土と苔の匂いに混じり、かすかに甘い花のような香りもする。その香りを吸い込むたび、胸の奥がざわついた。
森の見回りをする父を手伝っている少年は、この辺りなら何でも知っていると話していた。返事を待たずに暗がりへ入っていく。
「私も行きます…っ」
エレノアもスカートの裾を持ち上げ、その背中を追った。
洞窟の内部は思ったほど暗くなかった。壁のところどころに生えた青白い苔が、星明かりのような淡い光を放っていたからだ。足下には細い水の流れがあり、二人が進むたびに水音が洞内へ長く響いた。
「ほら、きれいだろ?」
「きれいですけど……。ナイ、あまり先へ行かないでください」
男の子――ナイは、ようやく歩みを緩めた。
出会って、ひと月。公女と知らずエレンと呼ぶナイは、彼女が転べば笑い、怒れば言い返した。危ない場所へ行かないでほしいとエレノアが注意しても、ナイは翌朝にはまた泉へやって来て、彼女を森の探検に誘った。そんな少年だった。
やがて洞窟は下向きに傾斜し、二人は円形の広間へ出た。その中央には、人の背丈の倍ほどもある黒い巨石が立っていた。巨石には古い亀裂があり、その縁は長い間、水に削られて丸くなっていた。表面には、二羽の鳥が互いの尾をくわえ、ひとつの環となったような紋様が刻まれている。陽の光が届かないというのに、その周囲には白い小花が咲いていた。
「やっぱり、宝があった」
ナイは得意そうに胸を張ったが、エレノアは答えられなかった。
巨石の向こうで、誰かがエレンと呼んだ。母の声に似ていた。振り返ってもナイは石を見ているだけで、呼び声には気づいていないようだった。
近づいてはいけない。そう思いながらも、エレノアの足は巨石へ向かっていた。導かれるまま紋様へ指を触れると、冷たいはずの石は生き物の肌のように温かく、その奥で何かが脈打っていた。
――見つけた。
聞き覚えのない声がした。
次の瞬間、白い花が一斉に開き、巨石に刻まれた二羽の鳥が銀色に輝いた。エレノアの身体から急速に力が失われ、その力が指先を通して石の中へ吸い込まれていく。
「エレン、離れろ!」
異変に気づいたナイが、エレノアの腕をつかんだ。その瞬間、巨石から弾けた光が二人を呑み込んだ。
目を開けると、エレノアは何もない暗闇に立っていた。
先ほどまで光っていた苔も、隣にいたはずのナイの姿もない。声を上げても返事はなく、自分の声だけが闇の中へ吸い込まれていった。
暗闇の中で、エレノアは母の寝台のそばにいた医師たちの囁きを思い出した。身体が衰弱しておられる。今夜が峠かもしれない。どうか姫様には悟られぬように――。
母の具合が目立って悪くなったのは、エレノアが生まれた頃からだと聞いていた。そのため幼い彼女は、自分が母を苦しませているのではないかと恐れていた。医師に尋ねても、あなたのせいではない、と言われるばかりであった。
『おまえには、何も守れない』
闇が、エレノアの心を読んだように囁いた。
闇の中に、黒い影に捕らえられたナイが見えた。
『呼んでも来ないだろう。言うことを聞かせればいい。母親も、この子も、おまえのそばを離れなくなる』
エレノアは手を伸ばした。ナイがこちらを向き、屋敷の従者のように頭を下げた。
『ほら。もう、置いていかれない』
「そんなの、ナイじゃない」
声が震えた。言い返せば拗ねるし、待ってと言っても走っていく。意地悪だと思うこともある。それでも、こんな顔で頷く子ではなかった。
エレノアは伸ばしていた手を胸に引き寄せた。
「ナイ、どこ? 返事をして」
右手が、誰かに引かれた。見えない指を、必死につかみ返した。
同じころ、ナイもまた異なる幻の中にいた。
彼の前には、炎に包まれた森と、剣を手にして戦う父の姿があった。父はかつて冒険者として各地を巡り、今は森の見回りを生業としていた。普段は多くを語らない人であったが、剣を教えるときだけは、弱い者を守れる人間になれと繰り返した。
しかし、幻の中のナイは一歩も動けなかった。炎の向こうには助けを求めるエレンもいる。どちらへ手を伸ばしても間に合わないのだと、姿の見えない何かが嘲笑っていた。
黒い剣が、ナイの前へ現れた。
『これを持てば、おまえの代わりに選んでやる。次に何をするか、もう迷わずに済む』
柄へ手を伸ばしたとき、エレンの声がした。
『ナイ、どこ?』
剣を取れと、声は重ねた。あの子を助けたいのだろう、と。
「うるさい。今、呼んでるんだ」
ナイは剣を押しのけた。助ける方法など分からなかった。ただ、返事もせず、あの子を一人にしておきたくなかった。
「ここだ! そっちへ行くから!」
二人の意思が重なった瞬間、暗闇を銀色の光が切り裂いた。
エレノアとナイは、巨石の前で同時に目を覚ました。
二人は互いの手を固く握っていた。それぞれの掌には、巨石に彫られていた環の半分を思わせる紋様が浮かんでいる。二つの手を重ねたときだけ、二羽の鳥がひとつの環となるようであった。
けれども、二人がその不思議な印について考える余裕はなかった。
巨石の表面に大きな亀裂が走り、洞窟全体が低く揺れ始めた。亀裂の奥から黒い霧が溢れ出し、次第に角を持つ人影のような形を成していく。人間とも獣とも違うその姿を、二人はもちろん見たことがなかった。
『ようやく、開いた』
黒い人影は、喜びとも憎しみともつかない声を響かせた。
ナイはとっさにエレノアを背後へかばった。武器も持たない子供に何ができるはずもない。それでも彼は逃げず、巨石から現れようとするものを睨みつけた。
黒い腕が伸びた、そのときだった。
洞窟の入口から飛来した短剣が、影の腕を壁へ縫い止めた。続いて、一人の男が広間へ駆け込んでくる。
「父さん!」
それは帰りの遅い息子を捜し、森の奥まで追ってきたナイの父だった。父はナイの声掛けには答えず、腰の剣を抜いて黒い影と対峙した。そして巨石を見るなり、表情を険しくした。
「その石から離れろ。それは悪しきものを閉じ込めるための封印だ」
黒い影は短剣を弾き飛ばし、広間を覆うほどに膨れ上がった。だが、完全には巨石から抜け出せないらしい。下半身は霧となり、亀裂の奥へつながっていた。
ナイの父は、二人に出口へ向かうよう伝え、自らは影の前へ立ちはだかった。冒険者として幾度も危地を切り抜けてきたその剣は、黒い霧を何度も押し戻した。しかし、刃で霧を断っても、影はすぐに元の形を取り戻してしまう。
ただ戦うだけではこの霧は倒せないと察したナイの父は、なんとか状況を打開しようと、巨石の周囲へ視線を走らせた。すると、二人の掌に浮かぶ半円の印に気づいた。
「二人で、その石に手を触れろ!」
エレノアには、その意味が分からなかった。それでも、ナイの父の切迫した声を信じ、ナイとともに巨石へ手を当てた。
二つの半円が重なると、銀色の環が完成した。
エレノアには、壁や床を巡る光が見えた。巨石の前で途切れ、黒い影がそこを押し広げている。
「あそこ、切れてる!」
ナイの父は、エレノアが示した場所へ剣を突き立てた。銀色の光が刃へ集まり、途切れた線を結んでいく。
『その印……。なぜ、今になって……!』
黒い影が初めて動揺を示した。
巨石の亀裂が閉じ始める。影は必死に抵抗したが、父が剣を支え、エレノアとナイが互いの手を離さずにいるかぎり、銀色の光は少しずつ封印を取り戻していった。
やがて影は巨石の中へ引き戻され、洞窟は静けさを取り戻した。
封印が閉じる寸前、亀裂からこぼれた煤のようなものが、岩の隙間へ吸い込まれていった。二人は父の剣に気を取られ、それには気づかなかった。
封印は守られたものの、ナイの父は戦いの際に黒い霧を受けていた。
ナイの父は二人を連れて洞窟を脱出したが、森を抜けるころには歩くことも難しくなっていた。エレノアの屋敷から捜索に出ていた者たちが三人を発見し、すぐに屋敷へ運んだものの、治癒魔法も薬も、ナイの父の身体へ入り込んだ黒い力には効かなかった。
ナイは父の寝台のそばを離れようとしなかった。自分が洞窟へ入ったせいだと何度も謝ったが、父は息子を責めなかった。
「あの場で、逃げずに女の子を守った。それで十分だ」
父はそう言い、ナイの頭に手を置いた。
そしてエレノアには、息子が今日のことを一人で背負い込まないよう、そばで見ていてほしいと頼んだ。それが男の残した最後の願いとなった。
翌朝、ナイの父は静かに息を引き取った。
父と二人で暮らしていたナイには、引き取ってくれる近しい親族がいなかった。村の家へ預ける話も出たが、ナイはそれを拒み、父の剣だけを持って森を去ろうとした。
その話を聞いたエレノアは、まだ本調子ではない身体で寝台を抜け出し、屋敷の門まで彼を追った。
「どこへ行くのですか」
「分からない。でも、ここにはいられない」
ナイは父の剣を抱えたまま、門を見ていた。エレノアには、その肩に何と声をかければいいか分からなかった。
「……ここにいては、駄目ですか」
「いつまで。俺、何もできない」
「剣が、使えるでしょう」
言ってから、エレノアは母の部屋に来る騎士を思い出した。あの人たちなら、剣を習う子供を預かってくれるかもしれない。
「騎士になれませんか。私から父上に頼みます。あなたがお父様から習った剣を、もっと使えるようにしてもらえるかも」
「そんなこと、勝手に決められないだろ。それにエレンは……」
そこで初めて、ナイは目の前の少女が公王の娘であると知らされた。言葉を失った彼に、エレノアは右手を差し出した。
「今は、ここにいて。私は、ナイにいてほしいです」
ナイはしばらく迷ったあと、エレノアの手を取った。重ねられた二人の掌で、半円の紋様が微かに熱を帯びた。
エレノアは母へ、洞窟で起きたことを話した。母は黙って聞いたあと、その話を外でしないよう言った。石を捜しに来る者があれば、また誰かが危険に遭う、と。
話を聞いた母は、寝台から身を起こし、娘の掌を両手で包んだ。その袖が落ち、手首に薄い鳥の印が見えた。エレノアが尋ねる前に、母は自分の袖を直した。
「石のひびは、閉じたのですね」
頷くと、母は長く息を吐いた。その晩は久しぶりに、寝台ではなく窓辺の椅子で食事を取った。エレノアは母の具合がよくなったことが嬉しく、あの印をもう一度見せてほしいとは言わなかった。
公王は初め、少年を騎士の道へ進ませることに難色を示した。それでもエレノアは手紙を書き続けた。父親の公国への貢献も認められ、ナイは騎士の従士となった。のちに、その騎士が彼を養子に迎えた。
洞窟の半円も消えなかった。離れて眠っていても、二人はときどき、同じ森の夢を見た。
朝の鐘で、エレノアは目を覚ました。
王都の公爵邸だった。公国郊外の森も、母の寝台も、もう目の前にはない。
エレノアは右手を見た。普段は隠れている半円が、今日はわずかに温かい。
母は、古い守りの術に触れたのだろうとだけ話していた。以来、ナイリューの危機を感じることはあったが、何が見え、何が伝わるのか、二人にも確かめきれていない。
今日、神殿で交わす誓約とは、別のつながりだ。簡単には解けぬ魔法の約束を、自分たちの意思で、これから結ぶ。
そんなことを考えていると扉を叩く音がした。
「エレン、起きてるか?」
ナイリューの声と同時に、右手の紋様が少しだけ熱を増した。
支度を整えて階下へ降りると、広間にはナイリューとクリマルが待っていた。
ナイリューは板金鎧ではなく、動きやすい革の胴衣を着ていた。腰の剣も外している。誓約の儀には武器を持ち込めず、適合を確かめる試練に必要なものは儀式の術式によって用意されるためである。
一方のクリマルは、いつもの魔術師の礼服の上に深い藍色の外套を重ね、胸元には銀の小枝を模した魔術師の証をつけていた。彼はエレノアの顔を見ると、よく眠れましたかと尋ねた。
「昔の夢を見ました。ナイリューと、あの洞窟へ入った日の夢です」
その言葉を聞いたナイリューは、わずかに表情を曇らせた。彼にとっては、父を失った日の記憶でもある。エレノアは無神経なことを言ってしまったかと後悔したが、ナイリューは自分の左手を見つめたあと、静かに首を振った。
「父さんのことを思い出すのはつらい。でも、忘れたいとは思わない」
エレノアは頷いた。自分も、夢の中の母に会えたことまで悲しいとは言いたくなかった。
クリマルが、朝食の卓へ儀式の書面を置いた。
「今日は通常の誓約を結ぶことが先です。洞窟の印に異変があれば、隠さず祭司へ申告してください」
「危険と判断されたら?」
「出場を止められます。そうならぬために申し上げています」
エレノアは書面を受け取った。窓の外では、神判の旗が運ばれていた。
三人は簡単な朝食を済ませ、屋敷を出た。
王都は朝霧に包まれていた。石畳の両側には石造りの家々が並び、街の中央を流れる川の向こうに王城と大神殿の尖塔が浮かんでいる。
誓約の儀が行われるのは大神殿ではなく、王都が築かれるよりも以前から存在する古い祭殿であった。石段を上るにつれて街の喧騒は遠ざかり、代わりに木々を渡る風の音が近づいてくる。
石段の頂上には、白い石を環状に並べた祭殿があった。壁も屋根もなく、中央には水を湛えた石の器と、枝を大きく広げた一本の樹が立っている。
樹の下では、灰色の祭服をまとった老女が待っていた。杖も冠も持たない質素な姿であったが、こちらを見つめる瞳には、国王とはまた異なる威厳があった。
「エレノア=クレセント元公女。そして、その騎士ナイリュー。誓約の儀を望む者よ、環の内へ進みなさい」
クリマルは石環の手前で足を止め、ここから先は二人だけだと告げた。
エレノアとナイリューが環を越えると、周囲を薄い霧が覆った。街も空もクリマルの姿も遠ざかり、聞こえるのは樹の葉が擦れ合う音と、二人の呼吸だけとなる。
老女に促され、二人は石の器を挟んで向かい合い、右手を水へ浸した。水面に淡い光が生まれ、それぞれの腕へ細い光の筋が伸びていく。
これは騎士と婦人が誓約を結ぶ際に生じる、ごく普通の現象であるはずだった。
ところが、エレノアの右の掌に、普段は隠れている半円の紋様が浮かび上がった。ナイリューも、水へ浸していない左手に熱を感じた。その掌を器へ近づけると、二つの印がひとつの環を描き、水面から銀色の光が噴き上がった。
老女が初めて驚きを見せた。
「これは誓約の印ではない。すでに別のもので結ばれているのですか」
エレノアは、幼い日に洞窟で起きたことを簡潔に説明した。ただし、封印の存在については母妃との約束どおり伏せ、古い巨石に触れたときに同じ紋様が現れたとだけ伝えた。
老女は二人の手を順に確かめ、どちらが引こうとしても水の光が妨げないことを見届けた。
「儀式は続けます。ただし異変があれば、すぐ私に告げなさい」
老女はナイリューに誓いを求めた。彼は一度、エレノアを見た。
「騎士ナイリューよ。あなたは己が愛をこの婦人へ預け、その愛を信じ、正しく剣を振るうことを誓いますか」
「誓う。でも、姫が無茶をしたら止めます」
「そこで付け足しますか」
「生涯の誓いとも言うから、先に」
老女が咳払いをした。二人は慌てて姿勢を正した。老女はエレノアへも同じように誓いを求めた。エレノアはナイリューを見つめた。
ナイリューが、落ち着かない様子で肩を動かした。自分の緊張も、彼には伝わっているだろうか。エレノアは水へ浸した指を伸ばした。
「誓います。私の力を、騎士ナイリューへ預けます」
二人が答え終えると、水面から伸びていた光が結ばれ、正式な誓約が成立した。
淡い金の光が、二人の手首を結ぶ。ナイリューが指を動かすと、その道を通じて使われた魔力の量まで、エレノアには分かった。
洞窟の印も光った。エレノアの右の掌と、ナイリューの左の掌にある半円から、銀の光が互いへ伸びている。
金の道と銀の道は、重ならずに並んだ。けれど、互いを押し広げるように脈打ち、祭殿の樹が大きくざわめいた。
「古い道に、新しい誓約が重なったのですね」
老女は石の器へ両手を添えた。
「強い〈霊力共鳴〉です。これを扱えるか、確かめましょう。試練を越えれば神判へ出られます。越えられなくても、今交わした誓約は残ります」
祭殿を覆う霧が渦を巻いた。
石の器から溢れた光が地面へ広がり、銀色の円陣を描いていく。ナイリューの手には光で形作られた剣が現れ、エレノアの前には見慣れた錫杖が浮かび上がった。
そして、二人を囲む霧の中から、甲冑をまとった三つの影が歩み出た。
ナイリューは光の剣を構えたが、すぐには飛び出さなかった。彼の目が影の動きを追い、その呼吸が誓約を通じてエレノアへ伝わる。エレノアも錫杖を手に取り、三体の間に流れる魔力を探った。
エレノアは、光剣の先を見た。父親の剣の陰にいた少年が、今度は一人で前に立っている。
「行きましょう、ナイリュー」
「ああ。公国を取り戻す、最初の一歩だ」
中央の影が、真っ先に地を蹴った。全身を重い甲冑で覆い、両手で大剣を構えている。巨体に似合わぬ速さで間合いを詰めると、ナイリューへ向かって剣を振り下ろした。
ナイリューは光の剣で受けようとしたが、その寸前で横へ跳んだ。大剣が地面を打ち、銀色の円陣にひびのような光が走る。まともに受ければ、光の剣ごと押し切られていただろう。
続いて左右の影も動いた。一体は細身の剣を持ち、ナイリューの退路を塞ぐように回り込む。もう一体は武器を持たず、甲冑の手をエレノアへ向けていた。
その掌に赤い光が集まるのを見て、エレノアは反射的に錫杖を振るった。
「――集え、不可視なる障壁!」
短い詠唱とともに透明な壁が生じ、放たれた炎を受け止めた。火勢は想像以上に強く、障壁の表面へたちまち亀裂が広がっていく。
重装の影が押し、細身の影が退路を塞ぐ。その奥で、術士が次の火を作っていた。倒しやすい相手から狙おうにも、すぐ別の一体が割り込んでくる。
エレノアが障壁を保つために魔力を注ぐと、淡い金の道を通じ、その力の一部がナイリューへ流れ込んだ。光の剣が急に輝きを増し、振るわれる速度まで上がる。
だが、その傍らを走る銀の道までが、金の光に引かれて太くなった。ナイリューが求めた以上の力が二つの道から押し寄せ、光剣の形を押し広げていく。
ナイリューは迫っていた剣士の影を一撃で退けたが、自分でも予想しなかった力に姿勢を崩した。
そこへ重装の影が大剣を横薙ぎに振るう。
ナイリューは身を低くして避けたものの、直後に光の剣が大きくぶれた。
「エレン、少し抑えてくれ!」
「抑えようとしているのですが……!」
術士の影が再び炎を放った。エレノアは障壁を重ねてこれを防いだが、そのたびにナイリューの光剣は不安定さを増していく。やがて剣先から漏れた力が地面を走り、ナイリュー自身の腕を弾いた。
三体の影はその隙を逃さなかった。剣士の影がナイリューを正面へ引きつけ、重装の影が側面から迫る。術士の影は、逃げ道を塞ぐように炎の壁を生じさせた。
炎に囲まれたナイリューが、退く場所を失った。その姿に、洞窟で見た幻が重なった。エレノアの掌で、印が熱を帯びた。
膨大な魔力が、一気にナイリューへ流れ込んだ。
ナイリューの光剣が二倍近い長さに伸び、彼を取り囲んでいた二体の影をまとめて薙ぎ払った。あまりの威力に、重装の影さえ数歩後退する。
だが、ナイリューもまた膝をついた。
光剣を握る腕が震えていた。力を増やすたび、ナイリューの動きは遅くなる。
「もう、いい。今は、増やさないでくれ」
止めなければ。そう思うほど、敵の大剣が恐ろしかった。自分が力を引いた、その瞬間に彼が倒れたら。
エレノアは唇を噛み、彼の手前で魔力をせき止めた。
「必要な分だけ……私から魔力を引き出せますか?」
ナイリューが呼吸を整え、集中を始める。剣を保つだけの力が、少しずつ引き出され、刃は元の長さへ戻った。
次の踏み込みに、腕の震えはなかった。エレノアはまだ杖を握り締めたまま、その背中を追った。
重装の影が近づくと、また力を押し込みたくなった。手を止める。ナイリューが引き出すのを待つ。この一度うまくいったからといって、次も待てるとは思えなかった。
剣士の影が踏み込む。
ナイリューはその刃を受けず、わずかに身体をずらして通り過ぎた。直後に柄で相手の腕を打ち、剣を落とさせる。重装の影が大剣を振り上げると、今度は攻撃の届く直前まで引きつけ、鎧の継ぎ目へ光剣を滑り込ませた。
二体がよろめいた隙に、術士の影が頭上へ火球を作った。
ナイリューは敵の頭上ではなく、足元を見ている。エレノアも視線を落とした。三体の背から伸びた光の糸が、円陣の一点へ集まっていた。
彼女はその一点へ杖を向けた。術士が自分を狙われたと思い、障壁を張る。頭上の火球が止まった。
ナイリューは重装の影の肩を踏み台にして跳び上がり、術士の影へ迫った。相手は障壁の向きを変えようとしたが、エレノアが光を放つほうが早かった。
放たれた光は術士ではなく、地面の円陣へ突き刺さった。魔力の糸が一瞬だけ目に見えるほど明瞭になる。
ナイリューの剣が、その三本の糸をまとめて断った。頭上の火球が消え、三体の影が同時に動きを止めた。甲冑の内側から光が漏れ、やがて細かな粒となって霧の中へ消えていく。
消える糸の跡を、エレノアは目で追った。三体で力を分けるあの仕組みを、もう一度見たかった。
静けさを取り戻した祭殿で、エレノアは大きく息を吐いた。ナイリューも剣を下ろしたが、その足取りはまだ危うい。エレノアが近づくと、彼は大丈夫だと示すように片手を上げた。
「最初から、ああやって使えれば楽だったんだけどな」
「私たちは、今日初めて誓約を結んだのですよ」
「分かってる。次はもっとうまくやる」
ナイリューは消えた光剣をもう一度握るように、指を曲げた。
老女が二人の前へ進み出た。
「試練は終わりました。二人が誓約の力を扱えることを認め、神判への出場を許可します」
しかし、老女の表情は晴れなかった。彼女は二人の掌を順に確かめ、そこに薄く残る環の印を見つめた。
「二本の道を、常に同時に使う必要はありません。片方が揺れたときに、もう片方まで引かれぬよう気をつけなさい」
老女は鳥の印の写しを取った。
「古い記録を調べましょう。それまでは、人前でこの印を見せすぎぬことです」
エレノアはナイリューと顔を見合わせた。
エレノアは袖を引いた。神判で追い詰められたとき、この印を隠したままでいられるだろうか。
二人は老女へ礼を述べ、石の環を出た。
祭殿の外では、クリマルが待っていた。
儀式の報告を聞いたクリマルは、歩きながら二人の掌を見た。
「公爵位を争っている者たちに、印の話まで教える必要はありません。何を使うか、どう隠すかも勝負です」
エレノアは袖で掌を隠した。ナイリューは自分の印を見たまま、なかなか手を下ろさなかった。
「使わずに負けても、同じじゃないか」
「見せれば、勝っても厄介なことになります」
クリマルの答えに、ナイリューは何も言わなかった。石段を下り始めるとき、エレノアへだけ、この力が必要になったら言ってくれ、と言った。
三人が石段を半ばまで下りたところで、下方から一行が上ってきた。先頭にいるのは、エレノアと同じくらいの年頃の青年であった。淡い金色の髪を整え、王家の紋章を刺繍した白い外套を身につけている。華美な服装ではないが、その立ち居振る舞いから高い身分にあることは一目で分かった。
ケーセル第二王子である。
その一歩後ろには、銀髪の騎士ジェラルド=モーリスが続いていた。彼は近衛騎士の礼装をまとい、穏やかな微笑を浮かべている。その隣には、深い紫色の祭服を着た若い女性がいた。
女性はリーゼ=アーデン。王立魔法院に籍を置く十九歳の術士だった。ジェラルドの婦人として、以前から誓約を結んでいる。
彼が歩調を変えると、リーゼも迷いなく揃えた。だが、階段で足を取られぬようにと差し出されたジェラルドの手を、リーゼは取らない。
「支えていただかなくても大丈夫です。あなたこそお気をつけて」
ジェラルドは手を引いた。気まずそうな顔さえしない。
ケーセルが代理に選んだのは、この一組だった。
エレノアが道を譲って礼を取ろうとすると、ケーセルは自ら足を止めた。
「堅苦しい挨拶はよい。ベルティネのことは聞いた。まずは、君が無事だったことを喜ばせてほしい」
その言葉に作為は感じられなかった。
ケーセルとは、幼いころより王宮の行事で何度も顔を合わせている。両家の間で婚約が検討された時期もあったが、当人同士の意思が問われるより先に立ち消えとなった。その後も険悪な関係になったわけではなく、親しい親族に近い距離を保っていた。
「ありがとうございます。殿下も神判の出場確認に?」
「ああ。王族である以上、候補から逃げることはできないらしい」
ケーセルはわずかに苦笑した。
公爵位を望んでいる者の顔ではなかった。だが、第二王子である彼には、自分の望みだけで立場を選ぶ自由もないのだろう。
「もし君が勝ったなら、僕はその結果を支持する。だが、初めから勝ちを譲ることもできない。王家の者が神判を軽んじれば、君が勝った場合にまで疑いを向けられるからね」
「正々堂々と、お相手いたします」
「そう言うと思っていた」
ケーセルは安堵したように笑った。
そのやり取りを見守っていたジェラルドが、そこで初めて口を開いた。
「誓約の儀を終えられたばかりとお見受けします。結果をお尋ねしても?」
「無事、誓約と神判の参加を認められました」
「それは何より。ベルティネ公女殿下がどの騎士を選ばれるか、宮廷でも話題になっておりました」
ジェラルドの視線がナイリューへ移った。平民出身の若い騎士を見下す様子はない。むしろ、その立ち方や手の位置から実力を測っているようだった。
「鳳凰騎士団のナイリューと申します」
「名は聞いている。ベルティネでは、若くして並ぶ者のない剣士だそうだな」
「公国の外では、まだ何も証明していません」
ナイリューがそう答えると、ジェラルドの笑みがわずかに深くなった。
「それならば、この神判はよい機会になる」
礼儀正しい言葉でありながら、そこには明らかな挑戦の響きがあった。
一行が祭殿へ上っていく。振り返ったエレノアは、リーゼと目が合った。彼女が見ていたのは、袖から覗く銀色の半円だった。
エレノアは手を隠し、その自分の仕草をジェラルドにも見られたと気づいた。
午後になると、神判への出場を認められた者たちが王城の演武場へ集められた。
今回の候補者は八名。翌朝から勝ち抜き形式で戦い、決勝はその翌日に行う。出場者には、審判が戦闘不能と判定した相手への追撃や、観客席を危険にさらす術は失格になると、改めて注意があった。
組み合わせは、国王と法王の名のもとで封じられた籤によって決められた。
エレノアは第一神判。対戦相手は王国西部に領地を持つ王家に連なる老侯爵の孫であり、代理騎士には歴戦の人物が選ばれていた。
一方、ケーセルは反対側の組へ入った。双方が勝ち続けた場合、顔を合わせるのは決勝となる。
組み合わせが読み上げられると、会場の各所で安堵や落胆の声が起こった。誰もが最初からジェラルドと当たることを避けたがっていたのである。
ナイリューは掲示された組み合わせを眺め、短く息を吐いた。
「三回勝てば、エレンの手で公国を取り戻すために動き出せる」
「簡単に言わないでください。どの相手も、領内で最も優れた騎士を連れてきています」
「簡単だとは思ってない。でも、何をすればいいかは分かった」
迷いのない言葉だった。
「では、まず明日の一勝です」
「ああ」
二人が演武場を出ようとすると、背後からジェラルドの声が届いた。
「決勝で会えることを期待している」
彼はケーセルの隣に立ち、穏やかな笑みを浮かべていた。
ナイリューは一度だけ振り返り、頷いた。ジェラルドはそれを見届けると、もう次の書類へ目を移していた。
2026/09/23 軽微な修正をしました
2026/09/27 大幅な加筆・修正




