井戸のある中庭
「君は……? いや、うん、見覚えがある。あの夜、トールと一緒に歩いてた娘さんだよね?」
イレーネの頬に笑みが浮かび、次の瞬間、彼女は少しだけバツの悪そうな表情になった。
「あの時は済まなかった。僕のほうこそ、仲良くしてほしい……確か、ええと」
名を思い出そうとして視線が宙にさまよう。我が寛大なる女主人は、彼女に助け船を出してくれた。
「フリーダ。フリーダ・シグヴァルズドッティル(シグヴァルドの娘)よ」
「よろしく、フリーダ」
イレーネが差し出されたフリーダの手を包み込むように握った。
「あら……手のひら、堅いのね」
フリーダがちょっと驚いた顔になる。それは俺が夏に味わった驚きでもあった。彼女の手は剣を掴み手綱をとる、武人の手なのだ。
「ふふ。春からはそちらの村で暮らすことになる。トールと一緒に何でもするよ」
「心強いわ。イレーネさん、機織りはできるかしら? 糸巻き棒(※)使える?」
(※吊り下げて使う紡錘のこと。英語ではドロップ・スピンドルとも)
「機織りは母上がやるのを見たことがあるだけだし、紡いだこともまだないなあ。教えてくれる?」
不安そうに眉をよせたイレーネに、フリーダは満面の笑顔で肯った。
「もちろん!」
「俺の着るものは、しばらくは仕立て直した古着かな、こりゃあ」
おどけて首をひねるとフリーダがこちらを向いてとがめた。
「贅沢言うんじゃないわよ」
「ぬ、縫い物は何とかなるよ。ほら、夏に作ったあの黒いやつ。覚えてるだろ?」
「あれか。そういえば、どこにやったっけな……」
イレーネが言うのは、ウェアハム修道院に潜り込むために俺たちが着込んだ、ポンチョ風の黒い外套のことだ。
四人揃いのその姿は、20世紀中葉に世界的大人気を博したポップミュージックバンドの、とあるアルバムジャケットを連想させる物だった。
「ああ。たぶん今この城にある。君が着たやつは僕の荷物に入れたからね」
「ふむ……あとで出しておいてくれないか」
何気なく口にしたことだったが、イレーネは鋭敏に反応した。
「ん? なにかあったのかい」
「いや――何もなければいいなと思ってるんだけど、ちょっとな……」
沿道に目を戻すと、ピーテルの一隊は小休止を終えてゆっくりと動き出し、アンスヘイムの男たちよりやや前方へと出つつあった。どうやら、やはりブリュッヘの城塞に入るらしい。
(そうそう、滅多なことも起きないだろうが……やっぱり気になる)
今の時点で大きな騒ぎにするのはまずいだろうと思えた。ピーテルを監視するなら、ことを荒立てずにこっそりとやったほうがいい。
俺はイレーネと軽く唇を重ねると、身を離して彼女にエクウスの鞍を示した。
「イレーネ、俺たちはこの荷物を運び込まなきゃならない。後でまた会おう」
「分かった。僕はいつかの、あのローマ壁画の部屋でずっと寝起きしてる。フランドル伯へのお目通りを準備しておくよ」
「ああ。あの部屋だな」
夏に泊まった部屋だ。レーワルデンからほとんど寝ずに航海し、くたくたになった体をイレーネの膝枕で休めた思い出がよみがえる。
城へ向かって駆け去るイレーネを見送って頬を緩めていると、すぐ後ろに少年たちがやってきた。
「え、今のお姉さん誰!?」
「すげー美人だった!」
目を丸くして騒ぎ立てている。小僧ども、可愛いところあるじゃないか。
「俺の嫁さんになる人だよ。村に来たらよろしくな」
「えーっ! そうなの!?」
「いいなあ! トールいいなあ!」
「そしたら俺、トールの家に毎日遊びにいくよ!」
オーズが宴会の話をするときと同じような顔になった。イレーネの手料理にありつこうというつもりなのか。
「ははは、毎日は勘弁してくれよ」
笑いながら荷車のところへ戻る。列は再びゆっくりと動き出し、俺も汗だくになって車を押した。ずっと前方でピーテルの一隊が城門を通過するのが見えた。
城門で再びオウェイン卿に迎えられ、行列は人々の好奇の視線を受けながら城壁の内側へと進む。城内は夏とは比べ物にならないほどにごった返していた。
丸々と太った豚が何頭も、農夫たちに追い立てられていく。羊も見かけた。荷車ごと贈り物の鋼を引き渡し、俺たちはボールドウィンの謁見までしばし休息をとることになった。
中庭の日当たりのいい草地の上に、男たちが車座になって座る。これから行われるであろう収穫祭と宴会への期待に皆が上機嫌で冗談を言いはじめる中、俺はそっと立ち上がってその円から離れた。
「トール、どこへ行くの?」
フリーダの声が背中を追いかける。
「ちょっと気になることがあるんで、中庭をうろついてくる。謁見までには戻るよ」
――はは、トールめ、困った奴だ。
――イレーネ殿とはあとでいくらでも睦み合えように。
勝手な推測をしてヴァジとグンナルが笑いあっている。イレーネのことを思い浮かべると身内に滾るものがあったが、俺はその思いを噛み殺しながら、中庭の混雑をあらためて一瞥した。
「ひどいな、こりゃあ」
思わず日本語で口に出す。背負った皮袋をおろし、中のウードごとフリーダに差し出した。
「いつも済まないな、ちょっと預かっててくれ。持ったままだと潰されてしまいそうだ」
フリーダは少し顔をしかめて瞬きをし、こちらを見上げた。まだ少しだけ赤い腫脹が残っているが、顔のニキビはもうほとんど消えていた。
「そんなに気になるのに私達には言いたくない事……? よくわからないけど難しい成り行きみたいね。本当に困ったことになる前には、知らせてよ?」
「誤魔化せないもんだな。わかったよ、ヨルグにこう伝えてくれ。『ピーテルがいた。お前の斧が必要かもしれない。連絡を待て』」
「なにそれ!? よほど物騒そうじゃないの!」
俺たちの立っている場所は仲間たちからはやや離れていた。まだ会話を皆に聞かれる気づかいはない。
「確証がないんだ。思い過ごしかもしれない段階で手を下したら、えらいことになる。とにかく行ってくるから」
「……気を付けてね」
フリーダはしぶしぶといった様子でうなずき、俺を送り出してくれた。
俺の身長は180cm。実のところヴァイキングたちの中にあっても頭一つ出るくらいだが、戦士たちの放つ威圧感というかオーラ的なもののせいで相対的に目立たないですむ。
だが、ここフランドルの人々は、兵士たちなどを除けばどちらかといえば大人しい農民でキリスト教徒だ。
灰色や茶色の地味な服で行き来する群衆の中で、青いコートを着込んだ俺の姿は相当に目立つらしく、いたるところで好奇の目が追いかけてくる。
そして忙しげに走り回る男女があちこちで俺にぶつかって、悲鳴と罵声を浴びせた。
ワイン樽の荷車を探して歩くうちに、井戸端へ差し掛かった。石材で組まれた大きな洗い場には見覚えがあった。夏に、馬の汗でべたべたになったジーンズを洗ってもらった場所だ。
幾分年齢のいった女たちが集まって何か仕事をしている。がらがらと大きな音を立てて、銅や鉄の大きな鍋や釜が転がされてきていた。
「Hey jyo!」
不意に生温かい手に手首をつかまれ、ぐい、と引き寄せられた。
「うわっ!?」
「 Ik doe gewont、hilp wilde.」
俺の手を掴んでいたのは、えらく横幅と厚みのある、老婆というにはまだ早いといった年齢のおばちゃんだった。言葉はよくわからない。たぶんこの近辺の方言だろう。
「あ、あのえっと、何ですか!? 俺は用事が……」
「ああ、ああ。あんだデーンのお人けぇ。最近はこの辺にもよく見かけンね。ま一度いうけど、ぶっらぶらスてるんだったら、じょいと手伝ってけぇよ」
おばちゃんは訝しげにこっちを見ていたが、どうやら俺の言葉がどこのものか察してくれたらしかった。酷く訛って所々音韻がおかしいが、ノルド語らしきものに切りかえてくれた。
この時代のゲルマン系言語がたがいによく似てるとはいえ、一介の農婦がこれとは侮れない。
「いや、俺はそれどころじゃ……」
「あや、いっちょぐ前に剣っだら提げて。まあ、役に立づとも思えんけんど、大方食いづンめてお祭り目当でに来たっちゃろ?」
一人で納得しつつ、ぐいぐいと引っ張る。俺がつい遠慮して抵抗が鈍いせいもあるが、すごい力だ。
やがて、俺は洗い場にたむろした同様のおばちゃんたちに取り巻かれ、桶にいっぱいの粉末になった白粘土と、馬に使うものに似たブラシを手渡された。
目の前には、あちこちに汁ものを焦げ付かせたまま放置されていたと思しい、大きな鉄鍋がある。
「そら、これば洗ろてけぇよ。済んだれば飯コ食わすっちゃで」
「ええっ……参ったな」
ちょうど間の悪いことに、港から10㎞の道のりを荷車を押して歩いてきた俺の腹が、盛大に鳴った。
おばちゃんたちの哄笑があたりに響き渡る。いつの間にやら、俺はいやおうもなく鍋洗いをやらされる羽目になってしまっていた。
おばちゃんがしゃべる訛った言葉は適当にでっち上げてます。特にモデルにした方言はありません。