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祝祭への前奏曲

「すごい宴会だったねぇ」

 オーズがまだどこか夢見るような表情でため息を漏らした。


「春の航海の時はもっとすごかったぞ。こんな――」

 俺は両手を広げ、以前に王の夜宴で供された腿肉の大きさを示した。


「大きな豚の腿肉の薫製が出されたんだ」


「ちぇー、ずるいや」

 少年たち三人は明らかな羨望の色をにじませ、俺に向かって頬を膨らませる。



 とはいえ出航前夜の宴会は、予定されたよりははるかに盛大なものになった。一つには、ホルガーとグロリアンドがいうなれば『結婚を前提の交際(おつきあい)』に至ったためだ。

 また、俺たちが得た戦利品の鋼はその五分の四がハラルド王に献上され、その返礼としての意味もあった。ちなみに残りはアンスヘイムの鍛冶場で使われる。


 グロリアンドには例の元奴隷の女二人がつけられ、恢復までの間世話をすることになった。ホルガーと彼女の『婚約(厳密には違うが、俺はより適切な言葉をここに当てはめることができない)』は宮廷の一同に披露され、異議を唱えるものは現れなかった。



 その翌朝、俺たちは――奇しくも俺が思案した通り――マチルダが指揮するバーディング船に移乗してブリュッヘに向かうことになった。


 大山羊号には琥珀が満載され、ふいご付き揚水ポンプなどという怪しげであまり他所の人間に見せたくないものが載っている。

 様々なリスクと荷役作業の労力を勘案して、大山羊号で不用意に長距離の航海をすることは避けるべし、という判断だった。


「こうしてあの海岸を見てると、なあ」

 俺の反対舷に腰掛け、ヨルグがため息交じりにそう言った。何を言いたいかは、俺にもよくわかった。


「うん。夏の航海を思い出すよな」


 船の進行方向に背を向けてオールについた俺の、右手の方角。つまり左舷にはフリースラントの海岸が見えていた。


 日差しを受けて銀色に光る岸辺の浅瀬を見ていると、夏に見たあのウェアハムの沼のたたずまいが二重写しになるような気がする。この夏のヴァイキング行で起こった様々な出来事がまぶたに浮かんでは消えた。


 風が吼えるフリースラントの低地をひた歩き、時に野宿。王侯の居城で宴席に加わったかと思えば丘陵地に死者の墓を掘る――ありとあらゆることが皆の肩の上に積み上げられた夏だった。

 

「考えもしなかったな。俺たち、今度は正式にハラルド王からフランドル伯への使節も兼ねてるんだぜ?」

 ヴァジがおどけた声を上げた。使節が運ぶその手土産は、オウッタルの目の前でヴァジ自身が選んだ、最上質の鋼だ。

「オウッタルの奴め、こういう処は実に無駄がないな」

マストの側に立ったアルノルが、甲板を足で踏み鳴らした。


 数日かけて北海を横断し、俺たちはブリュッヘに近づいていた。途中、エムデンと呼ばれる大きな集落にほど近い海岸で、あの元漁師だったという男が船を下りた。元兵士のほうはその前日に、イェファーの近辺で別れている。


「あの人、無事に帰れるといいねえ」

 銀貨の重みに少しよろよろしながら歩いていく男を見送って、ヘイムダルがしみじみと言った。


「帰った家に家族がみんな健在だと、なおいいがな」

 

 推測するに多分二か月か、三か月。父親のいない家で子供たちが送った生活を思うと、心が冷えた。だがこれ以上関わるわけにもいくまい。とにかく、彼は帰ることを選んだのだ。




 季節は十月半ば。秋口に収穫されたブドウの発酵が進み、その年の新酒が試飲される――そんな季節になっていた。

 バーディング船『白鷲』号は、この前よりはいくらか建設の進んだ港に無事に翼を休めた。

 港からブリュッヘへ向かう沿道には、住民たちが集まり商人たちが荷車やロバを引き連れてひしめいていた。


 名前のわからない白い花を編んで冠よろしく頭上に頂いた、化粧っ気のない素朴な娘たちが、なにか踊りの練習らしきことをしている。どこかから、パンを焼く匂いが風に乗って流れてきていた。


 やがて丘の上に築かれた城壁と、四角いキープが見えてくる。ほんの四カ月ほど前に数日を過ごした、フランドル伯の城だ。


 着飾った俺たちの行列を目指して、城から物見の騎兵が駆け出してきた。

港から守備隊の出した伝令が、早馬で伝えたのかもしれない。


 先頭にいたマチルダとホルガーに気づくと、騎兵は大きな声で呼ばわった。

「これはホルガー殿! それに、そちらはオウッタル殿の……」


 声には聞き覚えがあった。小型のクナル船『アイルの信女』号で、俺たちをイングランドまで送ってくれた、オウェイン卿だ。


 ホルガーたちと何事か言い交した後、彼は俺のところへやってきた。

「やあやあ、お久しぶりですな楽師殿! 丁度明日から秋の収穫祭です。このところ二週間ほどというもの、イレーネ殿がすっかり待ちくたびれておられましたぞ。今日はトールが来るか、明日はトールが来るか、と!」


 騎士の大きな手が俺の肩をバシバシ叩いた。


「俺も早く来たかったですよ。いろいろありましてね」

 オウェインの直情的な好意に、俺もなんだかうれしくなった。精一杯の笑顔を作って彼の手を握る。

「うむ。面白そうな話はまた後ほどゆっくり聞かせてもらいますぞ。楽師殿の歌も交えて……どれ、こうしてはおれん。拙者さっそく貴殿らの到来を、殿とお子達、それにイレーネ殿に伝えて参りましょう」

 深々と礼をした後再び馬首をひるがえし、オウェインが駆け去っていく。


(ああ……帰ってきたんだなあ。それにイレーネのやつ、周囲から慕われてるみたいだ)

 何やら故郷に帰ってきたような温もりが胸の中に広がる。


 雨の多いというこの地の空も、今日は爽やかに晴れ渡っていた。

 間もなく城につく。あの豪放な領主、『鉄腕』ボールドウィンやその可愛らしい息子たちが、イレーネとともに俺を迎えてくれるだろう。


 安らぎを覚えながらぐるりと沿道の風景を見まわす。その時、ふと何か俺の心に引っかかるものがあった。


(何だ?)

 周囲をゆっくりと移動していく人々の中に、何かを見たような――


「あ」


 思わず声を放っていた。左斜め前方10mほど、家畜用の水飲み場がしつらえられ足元がぬかるんだ井戸の側に、見覚えのある人影があったのだ。

 三十がらみの若い男と、彼がくつわを執る馬に乗った、金髪の小柄な女。

 どこかフリーダを連想させる気の強そうなその横顔こそ、真っ先に俺の目に入ったものだ。


 二人に会ったのは一度きりだが、鮮明に覚えていた。フリースラントの旅の途中、立ち寄ったザンデの村で俺たちにボート(フェーリング)『ローセブッド』を売ってくれた男――行商人ピーテルとその兄嫁がそこにいた。

 彼らはロバや馬に引かせた数台の荷車を従え、ワイン樽らしきものをそれぞれに積んでいた。


(あいつか! こんなところで再会するとは……)


 正直、あまり良い印象がない。兄嫁を見る目がどこか(よこしま)に感じたし、そも兄が死んだ原因がムール貝の貝毒による中毒死だ。

 ピーテル自身の口からそのいきさつを聞いたときには、俺はそれを彼の手による意図的な毒殺、と推測していた。


(ブリュッヘにワインを売りに来たのか……単に商売だけならいいんだが)


 嫌なときに嫌な人物を見かけたものだ。晴れやかな祝祭の空気の中に、黒いインクを一滴ぽとりと落としたような薄気味悪さが広がっていく。


 だが、城のほうから風のように駆けてきた白い影が、その暗い想念を吹き払った――


「トール! トール!」


 愛馬エクウスの馬上で俺の名を呼ぶ、その姿。見忘れようはずもない。


「イレーネ―ッ!」

 たまらず駆け出す。


――こらあ、トール! 持ち場を離れるな!

 鋼を積んだ荷車を一緒に押していた男たちから、咎める叫びと、続いて笑い声が上がった。


――ああ、イレーネ殿か……これは仕方なし。

――いやはや、このところ、祝い事続きだの。


 彼女はレーワルデンで再会した時によく似た、マジャール騎兵風のモールつき胴着と長靴下(ショース)を身に着けていた。腰にはもちろんあの真っ直ぐな長剣(スパタ)

 肘を張るようにして手綱を引き絞り、エクウスを急停止させる。鐙の上に立ち上がった状態から、彼女がなだれ落ちる様に俺の腕の中に飛び込んできた。


 大陸を横断して運ばれる高価なスパイス、丁子(クローブ)の甘い香りが彼女の髪の匂いと混ざって俺の鼻をくすぐる。

 心地よい温もりと重みが俺の腕に与えられた。


「会いたかったよ……僕の英雄!」

「俺もさ……俺の、ミクラガルドの騎士」

 イレーネが俺の肩に顔をうずめた。頬がこすれ合う。


「なんだい、それ……前にも聞いた気がするけど、僕の二つ名なのかい」

 すっと体を離してこちらをわずかに見上げた。

「気に入らないか?」

「ううん……とても素敵だ」

 そのままイレーネが俺の唇を奪った。肩と腰に腕を回し、溶け合わんばかりに抱きしめる。

「ん。少し太ったかな」

 息苦しくなってお互いに腕を緩める。イレーネの体はわずかに肉付きを増し、柔らかくなっているように思えた。

「ひどい奴だな! 女にそれを言うのかい……まあ認めるよ。旅をしていたころに比べると、食事がやっぱりいくらか上等でね。油断してたらちょっとだけ」


 恥ずかしそうに声を詰まらせるイレーネに、俺は意地悪く笑って見せた。

「少し運動するか?」


 言外の意味を察したのか、イレーネの頬がさっと赤くなった。


「いやらしい……まったくもう。運動ならしてるさ、収穫祭では軽業を見せるって約束だからね」

 服の上から触れる彼女の腕や背中は、確かにうっすらと脂肪が増えている。だが筋肉は依然としてしなやかで引き締まっていた。

「今くらいがちょうどいいかもな。前はちょっと頬骨が目立ってた」

 桃の実のようなうぶ毛のある頬を、人差し指の第二関節あたりでそっとなぞると、イレーネは猫か何かのように、その指をパクリと噛んだ。


「いてッ」


「あははは、参ったか」

「勘弁してくれ。ウードが弾けなくなる」


 そんな莫迦丸出しのやり取りをする間、俺たちの行列はすっかり足を停めてこの痴態を堪能しているらしかった。


「イレーネさんね。えっと……お久しぶり、かな」

 後ろから声がする。


 フリーダだった。彼女は俺とイレーネを交互に見比べると、にっこりと笑ってイレーネにむかって手を差し出した。

「トールをよろしくね。私とも仲良くしてくれると嬉しいわ」


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