裂け目を跳んで
「誰かホルガーを探しに行け。三、四人いたほうがいいな。松明も要る」
宿舎にあてられた館の戸口で、アルノルが男たちに指示を飛ばす。
「よし、そいつは俺に任せろ!」
スノッリが真っ先に名乗りを上げる。アースグリムと他に三人の男がそれに続いた。
秋の終わりにふさわしく陽はあっという間に西の山間に隠れ、空は銀砂のような星をちりばめた青い薄明りの幕となっていた。
その憂愁を誘う青を背景に、男たちのシルエットが馬蹄の響きとともに駆けだして行く。
次第に濃くなる闇の中に、赤い火明かりとたなびく黒い煙が遠ざかっていった。
トンスベルクにもオウッタルの商館はもちろんあった。俺たちは元奴隷の男女、合わせて五名を伴ってそこへ向かった。
オウッタルはちょうど、黒羊号の積荷の鋼をヴァジとともに値踏みしているところだった。鍛冶屋の息子が俺たちに向かって手を振った。
「よぅ。どうしたんだ、こんな刻限に。王の宴会はまだだと思ったが」
言いながら、オウッタルのほうを見てにやりと笑う。彼がここに腰を落ち着けている限りは、慌てずとも乾杯に遅れることはない、そういうつもりらしい。
「これは実に素晴らしい鋼だ……面倒くさい鍛接を繰り返さずとも、叩き延ばすだけで良い剣になるぞ」
鋼を検分するヴァジの眼はぎらぎらと輝いていた。鋼の塊を手に、その重さに酔っているかのようだ。
「ああ、この鋼を持ち帰れば、剣だけでなく素晴らしい斧や犂、鍬が作れるだろうな」
俺はインゴルフのあの青い斧を思い出した。
「だが、その話はあとだ。オウッタルさん、ちょっと知恵を借りたい」
オウッタルは少し表情を曇らせた。
「その人たちは? 見たところ奴隷のように見えますが」
「ちょっと前まではそうだった。だが……」
俺はかいつまんでオウッタルにこれまでのいきさつを説明した。
「なるほど、例のスヴェーア商人たちの」
オウッタルは首をひねった。
「売買契約はデンマーク国内で結ばれているようだし、その当事者が死亡、もしくは今回のように法の保護を脱している場合……ふむ、難しい」
そういいながらも、オウッタルは口元に笑みを浮かべる。次の瞬間、そこにはオウッタルではなく美髪のハラルドがいた。
「単なる奴隷商人ならいざ知らず、彼らにはどうも陰謀の影がちらついて見える。その点では私も君たちと同じ意見だ。入念に吟味せねばならんところだが、その間この者たちを放置するわけにもいくまいな」
真のハラルド王は、手を上げて元奴隷たちを差し招いた。
「こちらへ来るがいい。その方たちの事情を一人一人訊かせてもらおうか」
アルノルの通訳で伝えられる彼らの境遇は、何とも同情を誘うものではあった。
五人のうち、男一人と女二人が村を丸ごと滅ぼされ縁者を失う憂き目にあっている。もう一人の男は戦争捕虜だ。そして、俺たちが取り押さえた元漁師。
「運がよかったな、その方たち。奴隷商人の船を襲ったからと言って皆が皆その積荷を解放するわけではない。今回のことはひとえに族長ホルガーの侠気から出たことだろう」
オウッタルはそう言いながら彼ら一人一人の肩に手を置いた。
「そちらの漁師と元兵士は、トールたちが送ってやるといい。どちらの故郷もブリュッヘへ行く途中にあたる。秋も深いことだし家族とともに冬を越せるくらいの贈り物はしてやるとしよう」
――そこまでしてやるとは。
思いもかけない親身な言葉に、元奴隷たちもアンスヘイムの男たちも目を瞠った。
「帰る場所のないものは、どうすればよいかな……私には一つ案がないでもないが――」
そこまで言いかけたところで、オウッタルの言葉は表通りの物音でさえぎられた。
――アンスヘイムの衆よ、見つけたぞ! ホルガーが帰ってきた!
俺たちを探して触れ回る声は、アースグリムのものだ。アルノルがため息をつきながら口髭の端をひねって笑いを浮かべた。
「どうやら帰ってきたか。心配させやがるぜ」
「とにかく、行ってみよう――すみません、すぐに戻ります」
オウッタルに一礼して館を後にする。
アースグリムの馬のあとを追って宿舎に戻ると、ちょうどホルガーが馬から降り立つところだった。腕にグロリアンドを抱えている。彼女はやや青ざめた顔をして、まぶたを伏せたままだった。
「や、ホルガーのやつめ。俺たちの心配を無駄にしてくれたかな?」
少し嬉しそうにアルノルが囁く。だが、その期待はホルガーの威勢のいい声に吹っ飛ばされた。
「すまん、手を貸してくれ! グロリアンドが落馬した……フリーダを呼んでくれると助かる」
「え、おい?」
「何があった……?」
「駆けていくうちに道が途切れてしまってな。一旦戻ろうとしたのだが薄暗いせいで段差を飛び越え損ねたのだ。グロリアンドは足をくじいただけのようだが、彼女の馬のほうは駄目かもしれん」
「そいつは災難だったな……まあ、あんたが無事でよかった」
アルノルの安堵の声に、ホルガーが不機嫌そうに応える。
「逃げた男はトールが見つけたそうだな。我らの遠駆けは無駄、いやむしろあだになったか」
「済みません、私のせいで……」
額に汗を浮かべてグロリアンドが苦しそうに詫びる。
血相を変えて駆け付けたフリーダに支えられ、彼女は館の奥へと引き取られていった。
「ホルガー、あんたちょっとこっちへ来い」
アルノルが族長の袖を引っ張った。
「何をする、アルノル――」
抗議の声を上げるホルガーに構わず、ケントマントは曳き船よろしく友を戸外へ引っ立てる。
「トールも来てくれ」
アルノルはどうやら、グロリアンドの件を直接ホルガーに問いただすつもりらしい。
周りから言われて考えるのでは、ますます自分の気持ちに素直になれないのではないか――ふとそんなことを考えたが、さりとて俺自身にいい考えがあるわけでもない。
仕方なく俺は二人の後を追った。
戸外は少し風が強くなり始めていた。北から吹き付ける冷たい風。空を見上げると先ほどまでなかった雲が、ゆっくりと流れて横切っていくのがわかった。
この様子なら、明日の出航時には良い風に恵まれるだろうか。いや、そもそも明日出発できるのかどうか?
「この際だ。はっきり聞かせてくれ、ホルガー。あの娘をどうするつもりなんだ?」
アルノルが真正面から斬りこむ。
「何のことだ」
「とぼけるんじゃない。あんたがグロリアンドのことを気にかけているのは、見ていて丸わかりだぜ。苛々するよ、何をぐずぐずためらってるんだ……知恵なら貸すぜ、いつかの約束を持ち出すまでもなく、な」
「むふう」
戸口に立てられたランプの明かりで、ホルガーの顔が奇妙な形の影に縁どられた。彼はひどく戸惑っているらしかった。
「俺は、自分の嫁取りについては、然るべき時になれば近隣の領主との間で縁談が持ち上がることになるだろうと、そう思っておった」
「ああ――まあ、普通はそうなるだろうな」
アルノルは優しい声でそう言った。
「あの娘のことは確かに気になるのだ、アルノル。荒れ地に立つ丈高な樅の木か、フィヨルドに切り立つ岩のように頭をもたげて、真っ直ぐに俺を見返しおる。だが、俺の目には時々、彼女が水辺の葦のように儚げに見える」
「驚いたな、ホルガー。あんたいつから詩人になった」
「……あんな女を見るのは初めてだ。母上とも、フリーダとも違う。強いて言えば、トールの妻女にどこか似ていなくもないが」
「なら、『いい女』ってことじゃないか。欲しいならモノにしろよ、誰も反対しないだろう」
いい女の例に挙げられて、俺の想像の中でイレーネが得意そうに胸を反らせる。だがここぞと焚き付け煽るアルノルに、ホルガーは憂鬱そうにかぶりを振った。
「どうにも分らんのだ。側に居て欲しいような、遠くから見ていたいような……世間の習いでいえば、嫁にするのが妥当なのだろうな。だが本当にそれでいいのか、俺が望んでいるのはそういうことなのかどうか」
「ずいぶん近代的な悩みだな」
「近代的? それはどういう意味だ」
またノルド語以外の語彙を使ってしまったことに気づき、俺は舌打ちして斜め下へ顔をそむけた。
「あー、えっとな、世の中が複雑になるといろいろ面倒くさいってことさ」
「まったく面倒くさいぜ。あの娘だって、あんたに望まれれば嫌とは言うまい」
アルノルはなおも楽観的に後押しをしようとする。この男、もしかして色恋沙汰にはあまり知恵が回らないのではないか。
「そう思うか?」
「訊いてみりゃいいじゃないか」
「訊いてしまったら後戻りができんな……どうしたことか、俺はそれが怖いと見える」
「重症だなあ」
「幸い、時間はある。グロリアンドのあの足では、しばらくこの町にとどまらざるを得んからな。予定通り明日出航しよう。その間に俺は自分の頭を整理したい」
その言葉を聞いて、俺は頭の中で何かがカチンと切り替わる音を聞いたように感じた。
「ホルガー、それじゃあ駄目だ。今言わないと。今あんたが気持ちをはっきりさせないと、そいつは永く続く恋のままで終わる」
ホルガーはこのままでは駄目だ。そして、もしかすると俺自身も一つ方針を切り替えるべきかもしれない。
「永く続く、恋か」
ホルガーが重ったるい口調で俺の言葉を反芻する。
「ああ。言っちゃあ何だが、あんたが母君に抱いてる気持ちと、たぶんよく似たやつだ。清らかで無心で、いつまでも変わらない宝物のような優しい気持ちだが、それじゃ駄目なんだよ。多分な」
なぜか、忘れつつあったはずのケイコの顔が脳裏に浮かぶ。
ホルガーが目を大きく見開いて、わずかに震えた。
「ハハッ……! 要するに好きなんじゃねえか。安心しろよホルガー、男と女のことは理屈じゃない。家の釣合いとかお互いの立場とか、出会ってからの年月とかそんなことは全部無視していいときがあるんだぜ。そうだな、例えばトール達だ。こいつのだらしなく緩んだ幸せそうな顔を見ろよ。これはな、余計なことを考えない、莫迦な正直者だけが勝ち取れるもんなんだ」
立て板に水よろしくアルノルが言い下した。俺はたまらず、彼のほうへ向きなおる。
「だらしなく緩んだとは何だ、ひどいよアルノル」
「鏡見てみろよ」
「言ってくれるなあ。そんなににやけてるか、俺」
ここに鏡はない。ノルウェーのヴァイキングたちは比較的身だしなみに気を使う性質だが、旅先とあっては流石に万全というわけにいかず、互いに髪や髭を刈りこんだ後はフリーダに鏡を借りて細部をあらためている。
「鏡見るならフリーダに言わないと――」
「待て」
黙り込んでいたホルガーが不意に口を開いた。
「俺を差し置いてお前たちが女部屋に行くのは許さん……ついて来い」
腕を一本ずつ掴まれ、引きずられるようについていきながら俺たちは顔を見合わせた。
(これは……もしかするともしかするか?)
(薬が効きすぎたかもしれんが、悪い方には転がらない気がする)
一塊になって宿舎の奥の女部屋に踏み込む。その薄暗い一角では炉に火が焚かれ、むっとするような暖かさと、膏薬にするために煮られる薬草の匂いで満たされていた。
少し高くなった床の上に毛皮を敷き、頭を高くした姿勢でグロリアンドが横たわる。足元にうずくまっていたフリーダがこちらへ向かって顔を持ち上げ、闖入者に抗議の声を上げた。
「ちょっと、兄さんたち! 駄目よ、入ってきちゃ。靴を脱がせて添え木を当てたところなんだから」
グロリアンドの白いくるぶしが薄暗がりの中にぼうっと浮かび上がって見え、それをフリーダが慌てて毛皮で覆った。
「済まぬ。だがフリーダよ、俺はグロリアンドにはっきり伝えねばならん」
「え」
兄の声色から何かを感じ取ったらしい。フリーダはすっと脇へ退いた。俺はひょいと彼女の横へ移動し、耳元に囁いた。
(なあ、鏡あるか?)
(何よ、今それどころじゃないみたいじゃない)
固唾をのんで見守る俺たちの前で、ホルガーがグロリアンドの枕元に屈みこんだ。
「グロリアンドよ。我らはそれ、そこにいる楽師の婚礼のために、ブリュッヘまで行かねばならぬが……お主のその足では連れて行けぬ。だが、足が治ったら、その……」
ホルガーは言葉に詰まって咳ばらいをした。グロリアンドは顔をわずかに回して、じっとホルガーの目を見つめていた。
「俺の村に、一緒に来てくれぬか」
グロリアンドはわずかに笑みを浮かべ、目を閉じる。
「随分と、性急なのですね。先ほどの遠駆けを思い出したわ。速度を緩めもせず、小川や土手を飛び越えていこうとする……あなたについていくのは大変でした」
「す、すまぬ」
武勇自慢の大男がまるで母親にしかられた子供のように、肩をすくめて小さく縮こまった。
娘は再び目を開いた。今度は彼女の唇と眉と目が、はっきりと笑顔を形作っていた。
「航海の間、ずっともどかしかったわ。私のことを、見たこともないような強いまなざしで見てるのだもの。今までに富豪の娘とみて求婚してきた、どこの誰よりも真剣な目だった。そのくせ何も言わないから、私をどうするつもりなのかとても不安でした」
グロリアンドはくすくすと声を立てて笑った。
「はっきり言って、時間が足りないわ。あなたのことを私はまだ全然知らない。でも、考えてみましょう……どこへ行く当てもないのだし、だからと言って、幸せになるのをあきらめるにはまだ早すぎるもの」
「兄さん……」
フリーダの顔がばら色に染まって笑み割れた。
「おお、グロリアンド。俺にもまだ時間が足りぬ。だが時が過ぎ去った後で後悔するよりは、俺は性急を選ぶ」
ホルガーがグロリアンドの手を取って、自分の額に押し当てた。
「お主に、側に居てほしい」
「おかしな人……ええ、そうね。あなたが私に幸せをくれる人であることを祈っています」
案ずるより産むがやすし。どうやらこの冬、アンスヘイムには少なくとも住人が一人増えるのだ。俺はグロリアンドに向かって親指を立ててみせた。
「そいつは、俺が保証するよ」
「おめでとう、兄さん!」
フリーダが駆け寄って二人の肩と頭を一抱えに抱きしめた。