棘のある果実
「逃げた奴隷って、どこにいるのかな?」
歩きながらギルベルトが耳を澄ますようなそぶりであたりを見まわす。自分たちで捕まえようとでも思っているらしい。
「奴隷じゃないんだが、だからこそ厄介だな」
逃亡者は自分の身の上を危ぶみ、緊張しているに違いない。絶望と言ってもいい。
ひとたび奴隷の身と定められればそこにはある種の諦めが生じるし、自分を買い戻して這い上がる前向きさも生まれるだろうが――堕ちまいとする人間のあがきは必死なだけに見境がなくなるものだ。
(静かに!)
不意に、三人の中で一番耳が鋭く狩りの得意なギルベルトが、声を低くして叫んだ。
――ガサッ。
どこかで薮をかき分ける音がした。ほぼ同時に、一瞬息をのむ音も。
(聞こえたよね? 近くの薮に何かいる)
(ああ、俺にも聞こえた。獣じゃないな)
少年たちにうなずきながら、俺もあたりに目を配った。
そこは東西に伸びた細い道だった。ちょうど並木が途切れて、次の立木までは30mほどの距離がある。
荷車の車輪に踏み固められた地面は大きく陥没し、道の真ん中にだけ枯草を戴いた土手状の部分が残っている。アンスヘイムの村周辺でもよく見かける風景だ。
その北側、物音が聞こえたと思える方角には、てらてら光る橙色の実をびっしりと付けた、棘の多い灌木が密生していた。
「何かいたような気がしたが、ウサギか何かかな」
一瞬止まった足を、再び前に進める。
少年たちが驚きを顔に浮かべてこちらを見上げる。俺は口の端だけを吊り上げて笑い、首を横に振った。
(普通に歩け。油断させるんだ)
(ええ? 逃げちゃうよ)
(逃がしゃしないさ。次の立木の陰から、薮の中に入って追い立てろ。棘に気を付けろよ)
「ウサギ? 弓を持ってくればよかったな」
「オーズの腕じゃ射止めるのは無理さ。早く帰って腸詰を茹でてもらおうよ」
少年たちは少し大きめの声で無邪気な風の会話を続け、小走りに駆けだす。彼らの機転と対応力に俺は舌を巻いた。
(……教えもしないのに、よくもまあ即興でついてくるもんだ)
フリーズラントの旅のさなか、イェファーの門前で旅の木こりを演じて見せた、ヨルグの芸達者ぶりを思い出す。
少年たちはあの挿話を聞かされているが、もとより彼らにとって頭の回転の速さは生得の物なのかもしれない。この厳しい風土にあっては、愚鈍では生きていけないのだから。
「おいおい、そんなに走ると、転ぶぞー」
わざと間の抜けた声を出し、俺も20mほど駆けた。逃げた元奴隷が本当にノルド語を解さないかどうか、それは定かでない。
だが、自分の経験と感覚に照らせば、近い系統の言語だけに、理解はできないとしても声の調子で雰囲気くらいは察されようというものだ。
少年たちは俺の間抜け声を合図にしたように、立木の陰から道に沿った草むらへ入り込んだ。俺はそのあたりまで来ると体を低くかがみこませ、橙色の漿果をつけた例の灌木で体を隠しながら、じりじりと逆戻りした。
(可哀想だが、だれかに危害を加える前に捕まえないと、もっと可哀想なことになる……)
自分に言い聞かせながら状況が動くのを待つ。少年たちは多分、草むらの中を北へ大きく迂回して、道路のほうへ戻る形で包囲を狭めているはずだった。
1分ほどの間があって、不意に喚声が上がった。
「いたぞー!」
「捕まえろー!」
がさっと大きな音がして、大人がこちらへ走ってくる気配がした。荒い息遣いと、重い足音。惑乱した叫び声。
「あ、あああああああぁ!?」
顔を起こして声の方角を見る。短く刈り込まれた黒髪の、三十がらみの男のようだった。
男の足は草やぶにひっかりながらも、なお少年たちよりは速かった。歩幅の差だ。だが、急ぎ過ぎた。
「ヒィ、アウッ!」
最短距離で道路に出ようとした男は、俺が潜んだ場所から数メートルの位置で、灌木のど真ん中に足を踏み込んでしまったのだ。
痛みに飛び上り、バランスを失って倒れる――窮地にあえぐ男は事態を打開するきっかけを探してあたりを見まわし、俺と視線が合った。
「!」
声にならない声を上げて飛び起き、逃れようとする。
「待てッ、こら! 事態をややこしくすんな!」
俺は桶をその場に置いたまま、ダッシュして足にタックルした。骨ばった白い足を二本まとめて抱え込む。無様だが、とにかく捕まえた!
「ギルベルト! アルノルを呼んで来い、彼ならこいつの言葉がわかる! あとの二人は手伝え!」
必死に足をばたつかせる男をうつ伏せにひっくり返し、押さえこむ。ろくなものを食わされていないのか、彼の力は弱く抵抗はさして効果を上げなかった。
しばらく揉み合っているうちに、彼は疲れたのか目に諦めの表情を浮かべ、大人しくなった。喉から嗚咽が漏れる。
俺も何だか泣きたくなった。
ヘイムダルにオーズを加えた三人で、逃亡者を押さえこんで待つことしばし。トンスベルクの方角から、また馬が駆けてきた。
「おおい、トール!」
アルノルだ。鞍の後ろにギルベルトを乗せている。我らがケントマントは手綱を引き絞り、馬をひどく手荒く走らせていた。
「アルノル! 待ちくたびれたぜ。通訳を頼む。こいつ、フリジア語しか喋れないらしいんだ」
「何が起きてるんだ、全く! ホルガーが見当たらないと思ったらそういうことか。あいつ、俺たちに何も知らせずに出かけやがった……どれどれ」
アルノルは何事か囁いて男を落ち着かせると、むき出しの地面の上に差し向かいで座り込んだ。
「ヘイムダル、いい加減に手を放してやれ。今こいつに『お前は今後奴隷としては扱われない』と保証してやったところだ」
「わかった」
ヘイムダルが恐る恐る、男の足を掴んだ手を放す。男は先ほどよりは落ち着いた様子だが、相変わらず目から涙をぽろぽろとこぼしながら、アルノルの質問に答えた。
「ふん、ふん、なるほど……トール。こいつはフリースラントの漁師でな。海に出てたところを海賊にとっ捕まって、売られてきたそうだ。家にはまだ年取ったお袋さんと、死んだ女房が残した三歳と五歳のガキがいるとさ」
アルノルが酢をのんだような顔で俺に告げた。
「そりゃあ気の毒だな。逃げ出したくなる気持ちもわかる……これは、全員を同じ扱いにするんじゃなくて、各人の事情を聴いて処遇を個別に決めるべきかな」
首を傾げた俺に、ケントマントはうなずいた。彼らの処遇についてホルガーがグロリアンドに伝えていないことを話すと、アルノルはさらに顔をしかめた。
「オウッタルが何食わぬ顔で昨晩の宴席にいただろ、やつに裁可を願うとしよう。蓬髪のほうよりは美髪のハラルドのほうが、お優しい方策を考えてくれるだろうて」
アルノルがフリジア語でまた何事か男に伝えると、男は顔をくしゃくしゃにして、何度も何度も十字を切った。
帰り道、アルノルは馬に乗らず轡をとって歩いた。どうしたのかと訊くと、不機嫌そうに答えた。
「俺はな、実は馬に乗るのがあんまり得意じゃないんだ……ひどい目にあったぜ」
「それで手綱をあんなに締め上げっぱなしだったのか。馬のほうもひどい目にあったもんだな」
「俺にだって、できない事くらいある……それにしてもトール。ホルガーのことだが……」
不意にアルノルが妙な方向に話を振った。
「何だ?」
「どうにも、見てて苛々するんだ。気づいてるだろ? あいつ、あのグロリアンドとかいう娘に惚れたに違いない。だが多分、自分で自分の気持ちがよくわかってないんだ」
「なるほど、アルノルはフリーダと同じ意見ってわけだ」
見るものが見ればわかるという事だろうか。
少年たちは例の男がまた逃げ出すのを警戒して、彼の少し後ろを固めるようにしてついてきている。俺とアルノルの話は彼らには聞かれる気遣いはなかった。
「だがアルノル、なぜ急にそんな話を?」
「解らんか……? 同じなんだよ。こいつらは自分の先行きがどうなるか分からんから逃げ出す。ホルガーは自分の気持ちが分からんから踏み出せない」
こいつら、というときアルノルは後ろの逃亡者をちら、と盗み見た。
「……グロリアンドは?」
言ってしまってから、俺は間抜けな質問をしたと気が付いた。
「お前も大概だな、トール。さらわれて売り飛ばされ、下手すれば殺されるところを助けられたんだ。ホルガーに何か求められたら拒絶できる状況じゃない、グロリアンドは多分そう思ってるはずだ。見てりゃわかるだろ。いつ何を言われるかと身構えてるぞ、あの娘」
「それもそうか。そういうもんか」
してみると、ホルガーとグロリアンドの関係は、俺とイレーネにやはり似ているのだ。
ただし俺とイレーネは、俺が一方的にイレーネに恩を売りポイントを上げた状態で別れることで、彼女に強い印象と思慕の情を刻み付けることになってしまった。
それが結果的にかなりタチの悪い所業であったことは、かつてブレーメンの宿屋でザラに指摘された通りだ。
「トールよ。俺はな、一年前、お前を拾うちょっと前に、ホルガーから頼まれた。『俺が嫁をとるときには、知恵を貸せ』とな。今がその時じゃないかと思うんだ。あの二人はあと一押しすればくっつくと思うが……」
「ふむ。そういう事なら俺も一役買いたいとこだが」
「ここからどうすればいいのか見当がつかん。大体あの二人、誇り高すぎる。ホルガーは『助けた恩にかこつけて女に迫るなど……』とか言い出しかねんし、あの娘は女の側から意を伝えるのはどうか、などと思っていそうだぞ」
ああ、その面倒くささはよく理解できる。実に難易度が高い。
「なあアルノル、あんた確か妻帯してなかったか? あんたの時はどうだったんだ」
一縷の救いを求めて知恵者にすがるが、その期待は見事に裏切られた。アルノルは肩を落として俺にこう言ったのだ。
「……すまん。俺のとこは、早々と親同士が許嫁を決めて、俺たちはそれに従ったんだ。参考になるまい」
あまりにも当たり前と言えば当たり前な答え。俺は自分と彼の間で、常識の内容に千年の隔たりがあるのを痛感した。
「まあ、それが普通だよな……」
それが普通のはずだ、この時代では。劇的な出会いから始まる運命的な恋など、それこそ吟遊詩人が語る物語の中のことだ。
俺たちはほどなく、逃亡者を連れてトンスベルクに帰り着いた。だが、ホルガーたちはまだ帰ってきていなかった。




