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ばいめた!~楽師トールの物語(サガ)~  作者: 冴吹稔
海に出るつもりは無かった
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商人オウッタル

 何かを諦めたような表情のホルガーは、満面に笑みを浮かべるオウッタルと杯をぶつけ合い、契約の成立を確認した。オウッタルたちはここからやや北西にある群島まで、そこに営巣中のセイウチの群れを狩りに行く。目当てはセイウチの牙だ。アンスヘイムの男たちがそれを手伝う。


「明日にでも、使い手を選抜して出航の準備をさせよう。我らは鎖蛇号で行く」

「よろしい、私たちは船団から川獺カワウソ号を分遣しよう」

オウッタルの船団はクナル三隻で構成されている。万が一の喪失を考え、ここまで運んできた積荷はほか二隻の船に移すのだろう。

 広間に集まった男たちは、思い思いに隣り合った席の者と、軽口を交えながらセイウチ狩りと、村にもたらされる帆布について、楽観的に談笑していた。


「なあアルノル、帆布一枚ってのはそんなにすごい報酬なのか」

そう訊ねると、彼の表情が一瞬こわばるのが感じられた。何かひどく非常識な言葉を耳にしたが信じられない、そんな様子だ。

「ああ……トールには説明しないと解らんか。帆布はな、買えば船そのものより高いぜ」


 布を織るための織機は各家庭にある。重厚な木材を四角い枠に組んだ巨大なもので、壁に立てかけるようにして使うが、出来上がる布は、高さも幅もせいぜい人間の身長を超えない程度のものだ。帆にするにはそれを何枚もつなぎ合わせて使う。

 一枚の布を織るには糸をそれだけの長さ紡がねばならず、糸を紡ぐには羊毛が要る――長いところでおおよそ30cmのフリースを産する、あの野性味たっぷりな羊の毛が。


「まあ、亜麻で織った布を使うこともあるが、それも手間がかかるのは変わらん。そこは想像がつくだろう。で、帆があるということは船を一隻作れるということだ。軍船スケイドにして掠奪を二隻でやってもいいし、クナルを仕立てて遠方に交易に行っても良い」

 なるほど、そういうことか。帆布一枚は船一隻の新造を可能にし、それは村に更なる富を約束するのだ。SFでいえば恒星間宇宙船用のエンジンをまるごと貰うようなものだ。


「そう言われると豪勢だな、確かに。セイウチの牙はそれだけの儲けになるってことか」

「ずっと南にはゾウって怪物がいてな。牙を細工物に使うんだが、爺さんの代ぐらいからまるで流通しなくなった。それで性状の良く似たセイウチの牙が、高価で取引されるようになったのさ」


 象牙か。ギターのナット(上駒)になる。あとペグ(糸巻)にも。


 性懲りも無くギターのことを連想する自分に呆れはするが、半ば開き直りに近い心境になる。質のいいスプルース(トウヒ)、メープル(カエデ)などの木材も手に入るなら、いずれギターを作ってみたい。象牙は無理だろうが、セイウチ牙のナットを使うというのもちょっと素敵だと思えた。


「お話中に失礼。一献いかがです?」

気がつくと、目の前にオウッタル本人がやってきていた。差し出された角杯をうろたえ気味に受け取る。

「喜んで。俺のようなものにもお気遣いを頂き、その、感謝する」

いささか礼を失した所作になった気がするが、オウッタルは鷹揚に流してくれた。

「商売柄広く旅をしてきたが、貴方のような顔立ちの方を見るのは、この辺りでは珍しい。異国の珍しい話でもあればぜひ聞かせてください」


「こいつはトールといってな。フィンの地のずっと東の果てから来た公子だそうだ」

アルノルが早速出来たての設定を開陳する。余計なことをしやがって!

「それは素晴らしい。マジャールの地より東でしょうか?あちらには良い馬が産すると聞いています」

「良馬というとフェルガナあたりかな。俺の国はもっと東で玩具のような小馬ばかりです。お恥ずかしい」

世界史の授業をかろうじて思い出し、もっともらしい返答を返すが内心は冷や汗ものだ。


「フェルガナ?聞いたことが無い。いやあ、世界はまだまだ広いと見える」

心底嬉しそうに目をきらきらさせながら、オウッタルは「ちょっと失礼」、とサーミ風の刺繍で飾られたふち無し帽を脱いだ。丁寧にくしけずられた長い金髪が、輝く滝のように流れ落ちる。周囲の何人かが息を飲んだ。

「いや失礼。少々興奮して暑くなってしまいましてね」


「シフの黄金のようだな。そいつは売らないのかね」

アルノルが俺から見てもかなり際どいジョークを飛ばした。

「シフがまた髪を失う事があれば、売り込んでみますかねえ」

オウッタルがさらりと返す。なんだよこのやり取り。ああクソ、ダメだ我慢できねえ。


「その時は代価に櫛を渡されないように、祈らないといけませんね」

アルノルとオウッタルが蜜酒を吹いて笑ってくれた。ウケて良かった。そしてオー・ヘンリー先生すみません、すみません。

「いや、面白い人だ。そういえば先ほど象牙の話をなさってたようですが」

「ええ、聞いておられたんですか」


「これも身についた習慣でね、酒の席で交わされる話にはつい耳を傾けてしまう……象牙が南からこなくなった理由、ご存知ですか?」いや、と答えると彼は声を潜めてさも重要そうに打ち明けた。

「サラセン人ですよ……フランクの民が崇めるキリストの聖地を占領して、今も広がり続けるムハンマドの使徒の国。その版図に遮られて、産地との交通が断たれているのです」


ギクリ。


俺の中で、ここ数ヶ月意識の片隅に追いやっていた疑問が、頭をもたげた音がしたように感じた。イスラム教が成立した後であるとして、今は西暦何年なのだ。

「キリストね、最近は信じるものがこの地にも増えてきたとか。そういえば、キリストだかの生誕から何年でしたっけ」さりげなく聞こえるように付け足した。

「妙なことを気にされますね。今年は確か、876年目のはずです」部下の中に信者がいてね、とオウッタル。


 876年か。といっても何が起きた年か、までは思い出せない。だが覚えておくに越したことは無いだろう。Turisasというバンドのアルバムで、ビザンチン帝国に仕えた北方人の傭兵団であるヴァリャーギ親衛隊をテーマにしたものがあったが、ヴァリャーギがキエフ大公国からコンスタンチノープルに送られたのは988年だった。そのおよそ100年前だ。


 話題もそこそこ出尽くし、角杯を数回取り替えたところで、アルノルがぽつりとオウッタルに訊ねた。

「なあお客人。あんたの名前、本名じゃないよな?」

「もちろんですよ、商売上、覚えやすい名前を使ってるだけです。なにせフレイア女神の愛人と同じですからね。実に通りがいい」オウッタルがクスクスと笑いながら答えた。

潮時と見てか、彼は優雅に席を立った。

「トール、良かったら貴方も是非、セイウチ狩りに同行してください。私の船で。行き帰りの航海中、退屈しないで済みそうだ」俺のほうに軽く向き直り、赤らんだ頬を輝かせながらそう言う。

「俺は投げ槍は使えないが」

構いません、と手を振りながら、オウッタルはホルガーの隣の席へ戻っていった。




 蜂蜜酒は翌朝まで残る。頭痛に眉をしかめながら起きると、この数日の雪模様とは打って変わって、空はからりと晴れ上がっていた。軒から垂れた氷柱が光を受けて輝き、春が近いと感じさせる。家の周りの立ち木には、そろそろ小さな緑色の芽がふくらんでいた。


「想像したほど寒くは無かったけど、やっぱり北欧の冬は暗いなあ。それに長かった」

思わず声に出す。日本語で。

くしゃみが出たのであわてて母屋へ戻る。だいぶ垢じみた毛織のシャツを着込んで床炉の前に行くと、フリーダが食事を用意してくれていた。茹でて戻した塩漬けのタラと玉ねぎを煮込んだ熱いスープ、それにオーツ麦の粥だ。


「セイウチ狩りに行くんですって?」フリーダが訊いて来た。

「うん、なんだかオウッタルさんに気に入られたみたいだ」


「よその船に一人で乗るなんて、度胸あるわね。連れ去られて奴隷にされないように気をつけなさいよ。あなたなんて私が教えないと何にも分からないんだから」


(一人だけ分離されて奴隷!そういうのもあるのか)

さすが油断ならない。あな恐ろしやヴァイキング、というかさらっとそんな発想をするこの少女が怖い。

「また貸してあげるわ。持って行きなさい」

フリーダがいつぞやの大きなナイフを俺に渡す。相変わらず手に吸い付くような素晴らしい感触だ。もういっそ、くれればいいのに。

 そのことを口に出すと、彼女は俺の図々しい思いをぴしゃりと叩き伏せた。

「ダメ。それはお爺様の作った私の守り刀なんだから。あなたが骨になっても、そのナイフは私に返しに来なさいね」

じゃあ貸すなよ、と言いたくなるが、そこは年頃の娘の複雑な心理があるのだろう。


「セイウチが群れる場所はいろいろあるが、氷の上にいるやつには迂闊に近づくなよ」

インゴルフがそう言いながら、奥の物置めいた場所からのそりと出てきた。一抱えの衣類と、使い込まれた斧を持っている。


セイウチが営巣する氷は、たいてい陸地から張り出して棚のようになっていて、冬の終わりのこんな時期には、下手に大勢で踏み込むと割れる事があるというのだった。その下は深く暗い氷の海だ。落ちたらまず助からない。



「外套はいいのを持ってるようだからな、こいつを持っていくがいい」

狼の毛皮を張ったマント、分厚いアザラシ皮の紐で足にくくりつけるブーツカバー。ウサギか何かの柔らかい毛皮で出来た防寒帽。斧には持ち運び時に怪我をしないよう、皮製の丈夫なカバーを刃にかぶせるようになっていた。それと丈夫そうな盾が俺の前に並べられた。

「有難うございます」

「斧はわしが若い頃に使ったもんだ。いい鉄でな、刃こぼれもほとんどせなんだ」

刃のカバーを取ると、青みを帯びた酸化膜が錆止め油を塗られて鈍く輝く。手にずっしりとした重みを感じるが、釣り合いが絶妙で実際よりも軽く感じられた。すごい斧だ。


「慣れん内は剣よりも余程扱いやすい。わしがそうだったように、お前さんにも武運があるようにな」

「セイウチを投げ槍で仕留める狩りに、同行するだけですよ?」

「今ぐらいの時期だと、秋に食いだめをし損ねた白熊がな、腹を空かせて起き出して来てセイウチを狙うんじゃ」

さらっと恐ろしいことをのたまうインゴルフに、さすがに俺も真剣にならざるをえない。

俺と同じ名前の神に、この村に来て初めて祈りたくなった。





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