花盛りの乙女たち
村の桟橋に、フリーダの姿がなかった。
これは奇妙なことらしい。というのは、従姪の姿が見えないのをいぶかしんで、ホルガーがしきりに首をひねっていたからだ。
「確か、俺が村に連れてこられたときは、あの子は人ごみから少し離れてあんたを待ってたよな」
「うむ。いつもならそれ、そのあたりに立っているはずなのだが」
族長が指差したあたりは、ちょうどすり切れたじゅうたんのように草がまばらになり、踏み固められて黒土がむき出しになっていた。
これまで何年もの間、フリーダは鎖蛇号が出かけるとき、そして戻ってくるときにここでホルガーを見送り、あるいは出迎えたのだろう。
(どうしたんだろう? 加減でも悪いのか)
気になるが仕方がない。俺は右肩の上に塩の袋、左の小脇に蜂蜜の壺を抱えて、すっかりご無沙汰だった村の木道を、インゴルフの家まで歩き出した。
途中、ロルフの家の前を通りかかるとちょうどシグリが髪を梳りながら戸口から駆けだしてくるところで、危うく俺は彼女とぶつかりそうになった。
「おおっと!」
よろけながらもどうにかバランスを維持する。壺を落としたら大ごとだ。
「トール! ごめん! ……ヨルグは帰ってるの?」
微笑みを向けながら黙ってうなずくと、シグリの顔がさっと光が差したように明るいものになった。
「ありがとう、また後でね!」
満面の笑顔で手を振り、木道を踏み鳴らして彼女は港へ駆けて行く。
シグリが精一杯の盛装を凝らしていることに気づいて、俺は何とも言えない暖かい気持ちになった。あれはたぶんヨルグのための装いなのだろう。
(そういえばシグリのやつ、ずいぶん背が伸びたようだな)
今は秋のとば口だが、人にはまた別の四季が巡るもののようだ。彼女はいままさに、春を思う季節を迎えるところらしい。
フリースラントとイングランドでの風変わりなヴァイキング行を終え、俺たちは8月終わりの小雨の降る午後に、村へ帰ってきた。
鎖蛇号はイングランドで手に入れた財宝と、その一部を購入費に充てた大量の塩や蜂蜜、オリーブ油や各種の染料といった生活必需品を満載して、宴席で羽目を外し過ぎた客よろしく、幾分よたよたした足取りでノルウェーまでの航路をたどったのだった。
ドーレスタットで俺が買ったものといえば、小ざっぱりしたリネンのシーツを洗い替え含めて六枚程と、煮炊きにつかう鍋とか、そういった所帯じみた道具類が主だった。来年の秋くらいから始まるはずのイレーネとの新生活に備えて、早々と揃え始めたわけだ。
妻帯している男たちがここぞとばかりに俺の買い物を冷やかすのには閉口したが、彼らは実のところ面白がっているだけだった。
ありがたいことに鍬や鋤といった畑仕事の道具は冬の間にヴァジが修業がてら打ってくれるというし、織機やベッドなどの大掛かりな木工製品も、家を建てるときに男たちが物のついでで作ってくれる約束になった。そうした重いものは船に積むのに不適当なので、村で作る方が安全でもあった。
さて、インゴルフの家――つまり、ここ半年ほどの俺の家につくと、俺は戸口にかさばる物をいったん下ろし、明かりの消えた薄暗い家の中を覗き込んだ。
「帰ったぜ――」
応えがない。奥の暗がりのむこうにぽっかりと、羊の膀胱を薄膜にしたものを張った明り取りの窓が見え、そこから差し込む曇り日のぼんやりとした光が、家の中を妙に寒々しく見せた。
先程桟橋で俺たちを出迎えた村人の中に、インゴルフはたしかにいた。今この家にはフリーダが一人でいるか、さもなくば誰もいないはずだ。
いや、誰もいないはずはなかった。なぜなら――
「ヘックチュ!」
圧し殺した、小さな小さなくしゃみの音が聞こえた。破裂した呼気の音にわずかにまつわりついた、声帯の振動と口腔内の共鳴の具合、つまり声色は、俺の小さな女主人――この家を取り仕切るおませな主婦のそれだった。
「あー……えへん」
ひどくわざとらしい咳ばらいが漏れた。その途端、幾重かの壁や間仕切りを隔てた向こうで、キュッと固まったような気配がする。
俺は苦笑しながら呼びかけた。
「フリーダお嬢様。それ、トールめが無事帰参いたしましたよ。とりあえず塩と蜂蜜を抱えてきたんで、運び込む指示を下さいませんかね」
いつもの調子でおどけて見せる。だが反応は芳しくなかった。フリーダは毛布でもかぶっているのか、くぐもった小さな声で答えたのだ。
「お帰りなさい……荷物はその辺において、外に出てて」
「……加減でも悪いのか?」
忠僕風の装いはたちまち俺の言葉から脱げ落ちた。インゴルフは桟橋では何も言っていなかったのだが、当人がこれでは却っておかしな方に想像が転がるではないか。
「何でもないわ! 誰にも会いたくないの! 出て行って! ……出てけったら!」
フリーダの声は次第にヒステリックな金切り声になった。
うん、これはさすがにおかしい。一瞬彼女のところへ踏み込みそうになったが、はたと思い直した。
彼女は確か14歳。今年中に歳を重ねたとして15。難しい年頃ではある。
俺自身の14、15歳の頃を思い出してみるに、とにかくはたからは訳のわからないような悩みや不安で、外出や親と顔を合わせることすら億劫になったり、誰からも離れて一人になったりしたくなったではないか。
この時代、子供だからと言って甘える余地がないことはまあ確かだが、かつて自分がむかっ腹を立てた両親のような、デリカシーの欠如や鈍感さを発揮してよいわけでもあるまい。
「わかった。じゃあ塩と蜂蜜は炉の前のテーブルに乗せておくよ……夜までには機嫌を直してくれよな。話さなきゃならないことや、話したいことが山ほどあるんだ」
「そう……」
フリーダはそう言ったきり、黙ってしまった。何かわからないがこれは本当に重症らしい。
(シグリに訊いてみるか……)
餅は餅屋という。女の子の悩みは女の子が知っているかもしれない。もしシグリも知らないようならいよいよもってお手上げだが、いずれにしてもあの調子では困るのだ。
桟橋へ向かって逆戻りに歩いていると、農具小屋へ向かう小道への入り口あたりで、シグリとヨルグが古い切り株に腰を下ろして話し込んでいるのが目に入った。
「……それでな、トールのやつが帰ってきたのは日が高くなってからだった。お姫さんも一緒で、なんだか二人してべったりくっついてたな」
「いいなー。でも、つまり何があったの?」
……ヨルグ先生、子供に何の話してくれてるのだ。何があったかってそりゃあ、ナニだよナニ。
「ヨルグ。そこまでだ。シグリにはまだちょっと早い」
「おぅ、トールか。……まずかったかな?」
「まずいとまでは言わないが」
シグリが早々と男女のことに興味を持ったら、いろいろと頭悩ますことになるのは多分お前だぞ、ヨルグ。
「トール! お姫様と仲良くなれてよかったわね」
シグリが俺に、無邪気そのものの笑顔を向けてくる。
「ああ、ありがとう」
「連れてこなかったの?」
「あー、うん。ええと、まあ彼女を呼んで一緒に暮らすにはいろいろと準備しとかないといけないからな」
どうにも、奥歯にものの挟まったような口調になってしまう。
「結婚するってこと?」
「そうだな。村に住むのは来年の秋くらいからになるが、シグリも仲良くしてやってくれ」
「うん!」
シグリが目を輝かせる。春に大山羊号の上で見せたような暗いものではなく、本来の年齢相応な、共感と喜びをたたえた輝きだ。そのことが俺にはひどくうれしかった。
それから少しばかり、夏のヴァイキング行での出来事をぽつぽつと話した後、俺はシグリに肝心の質問をぶつけることにした。
「なあ、シグリ。フリーダが家から出てこようとしないし、俺に姿を見せたがらないんだ。俺たちはずっと遠征に出てたから、怒らせたわけはないと思うんだが、さっぱり訳が分からん」
「フリーダが?」
意外だ、という風な表情をする。だが、シグリの態度はどうも、何かを知っていて隠しているようにも思えた。ちょっと一押ししてみるか。
「どんな小さなことでもいいんだ。知ってたら教えてくれないか。何か悪い病気だったりしたら大変なことになる」
「病気!?」
シグリの顔色が変わる。少し青ざめた頬と対照的に、泣き出しそうに赤らんだ目のふちが痛々しい。
「どうしよう……あのね、少し前から、フリーダが変なの。顔に真っ赤なブツブツができてるのよ……あごの周りとか鼻の横とかてっぺんに。黄色い膿を持っちゃってるところもあって」
おろおろするシグリをよそに、俺とヨルグは思わず顔を見合わせ、噴き出していた。
俺は再び、先ほどより幾分薄暗さを増した家へと取って返した。戸口をものも言わずにくぐる。
炉に火がともっている。その明かりを受けて、何やら見慣れない姿がそこにあった。火にかけた鍋をかき回しながら、時々戸口を警戒するように振り返る――その目が、俺の視線とかち合った。
「ひぎっ」
聞き覚えのある、妙に非人間的な悲鳴がもれた。そして、こちらをまじまじと見つめる青みを帯びたグレーの瞳。フリーダだ。その顔には確かに、赤らんでところどころに膿をもった、おびただしい吹き出物があった。
「い、いやあああああああ!!」
絶叫とともに彼女は腰に手挟んでいたナイフの鞘を払ってこちらへ向けた。インゴルフ手製の守り刀――俺が狼と戦った時に借りたが使いこなせなかった、あれだ。
「見たわね! 私のこの無残な姿を見たわね!」
彼女がサクスの切っ先を俺に向けたものか、手っ取り早く自分の喉を突くべきかと迷うようにさ迷わせているのを見て取って、俺は自分でも驚いたことに一足飛びに間合いを詰めて彼女の手首をつかんでいた。
「落ち着け、この莫迦! 物騒なものをさっさとしまえ」
「ト……トール、あなたいつからそんな」
「いいか、その顔の出来物は面皰だ。俺の国でもそうだが、君くらいの年の子供はたいていそいつに悩まされる。原因はホルモンバランスの変化による皮脂の分泌増加。普通は軽症で済むが、しばしば不十分な洗顔と不潔な手指での素人治療で悪化する」
「何語なのよ!?」
まくしたてる俺に彼女が抗議の声を上げるが、俺はさらに手首を締め上げてサクスを床に落とさせた。
「いいから、落ち着け。いや落ち着いてくださいフリーダお嬢様!」
自尊心とかもろもろの精神的なよりどころとなっていたナイフが指を離れ、彼女の抵抗は急激に衰えた。俺の目のすぐ前に自分の顔があることを意識したためか、がっくりとうなだれてぽろぽろと大粒の涙をこぼし始める。
「見ないで……」
「泣くなよ、もう。そんなもの、ちゃんと治療をすれば治るさ」
「治るの……?」
目を見開いてこちらを見上げるフリーダに、俺は力強くうなずいて見せた。そして先ほど彼女をみて「見覚えがない」と感じた理由を理解した。
130cm台だった身長がこの数か月の間に伸びたらしく、150cm前後になっていたのだ。肉付きが薄く抱きしめれば折れそうだった肩もふっくらと丸みを帯びて、何よりも申し訳程度だった胸が明らかな隆起を見せていた。
「……背が伸びたな、フリーダ。きれいになったじゃないか」
「からかわないでよぉ」
涙声を残したまま、彼女は消え入るようにうつむいた。
「にきびはあとで治療法を検討しよう。とりあえずは晩飯の支度を頼む。いや、もしかするとホルガーの家に行った方がいいかもな」
「大叔母様のところに?」
「ああ」
イングランドで得た財宝のことやシグルズの遺族への説明などもあって、今夜はホルガーが長館で宴会を開くかもしれないのだ。当然、フリーダも含め村の主だった女たちは料理の支度に駆り出される。
「その様子だと、まさかしばらく家から出てないのか……運動不足は便秘になる。肌にはてきめんに良くないぞ」
次の瞬間、一言多すぎた俺の頭上に、炉に投じるはずだった薪の一本が鈍い音とともに見舞われた。
* * * * * * *
「痛ってえなあ、もう」
その夜、ずきずきと痛むコブをさすりながら、俺は村の一番大きな長館の広間で宴席に座っていた。異例に長くなったこの夏のヴァイキング行の顛末をウードの伴奏とともに歌い語り、シグルズの最期には特に力を込めた。
――雄々しくも、その身を矢の雨にさらし
シグルズは立ったまま 息を引き取ったり
そこまで歌い終えたところで、乾いた異音が鋭く響き渡った。ウードの胴部に共鳴して、不快な響きが広間に反響する。
最も細い、高音部1コースの弦が一本切れていた。
一瞬狼狽したが、21世紀にいた頃も含めてこれまでにもこういうことは何度かあったのだ。俺はすかさず、アドリブで言葉を継いだ。
さよう、あたかもこの弦が切れる如く――
「シグルズのために乾杯しよう。彼のヴァルハラへの旅に幸多からんことを!」
ホルガーがいいタイミングで乾杯の音頭をとる。ありがたい。どこまで意識していたかは測りがたいが、彼らの執拗に繰り返す乾杯のおかげで、何とか俺は1弦を張り直し、喧噪のなかでチューニングを合わせることができた。冷や汗ものだ。
ポケットの中を改めると、1弦はいま張ったもので最後だったことが分かった。他にも、6弦があと1本、2弦と3弦は2本づつあるが、かなり心許ない。
(そういえば、ムスタファに頼まれた琥珀の件があったっけなあ)
へーゼビューでこのウードを売ってくれた、アラビアの楽器商との約束を思い出した。楽器に塗るニスに添加する琥珀を調達すれば、ガット弦の製法を教えてくれると言うあれだ。
イレーネとの婚礼のためにブリュッヘを再訪する前に、俺にはまだいくつか、やらなければならない用事が残っているようだった。