876年8月、エクセター
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エクセター周辺の地域がウェセックス王国に服属したのは、ここ百年程度の間のことだという。グソルムとその一党がこの地に入り要塞を制圧して陣取ったことは、土地のブリトン人の目には好機と映ったらしかった。
彼ら『ケルトの末裔』は、たとえるなら畑の地中にしぶとく残った雑草の根や種のように、息を潜めあるいは巧妙にサクソン人の社会に溶け込みながら、失地回復の機会を待っていたのだ。
「グソルムについた所で、アルフレッドに納めるよりも税が軽くなるとは限るまいにな! それ、左手からまた来たぞ!」
「おう、任せとけ!」
敵の接近を目ざとく発見したアルノルが警告の叫びを上げ、スノッリの弓が木立の隙間を縫って矢を飛ばした。
簡素な革鎧を着けた若い戦士が、手首の辺りに矢を受けてひるみ、動きが止まる。その隙をグンナルの槍が襲った。
絶命したブリトン人を振り返りもせず、俺たちは再び数十メートルの距離を稼いで後退する。『ペヴリルの穂先』での惨禍とヤンの死をろくに咀嚼する暇も無く、鎖蛇号の仲間たちは新たな状況の中で駆けずり回っていた。
「まさかこんな所であんたに再会するとはな!」
「それはあたしが言いたいわねえ」
鞍の上に低く身を伏せ、ミルドレッドは俺に向かって苦笑した。彼女をここまで馬の後ろに乗せて連れてきた兵士は、やつれた馬のくつわを執って俺のすぐ前を走っている。
ウェセックス軍の野営地近くに姿を現し始めた、ブリトン人の偵察隊に対処するために、俺たちは三班ほどに分かれて一帯を巡回に出た。その最中に、ブリトン人の一団に襲われる一組の人馬を発見して救助にかかった。それがつい昼過ぎのことだ。
襲撃者達を背後からの不意打ちで蹴散らし、襲われていた男女を助けてみれば――というわけだった。
「もうちょっとでウェセックス陣営だが……呼び込んじまったら全滅させるしかなくなるな」
ウェセックス軍は現在、もっぱらその所在を隠蔽することに心血を注いでいる。俺が持ち込んだ生齧りの戦術思想が影響を与えているのだが、有効なのは確かだ。
「やれやれ、もったいないがあれを使うか」
ヴァジが肩をすくめ、皮製のカバンから奇妙な形の物体を取り出した。ピンポン玉サイズの木片から、頂点が正四面体を構成するように突き出した鉄の棘。つまり、やや大きめの撒き菱だ。
薪にする木材を適当に切り出して古釘を4本打ち込み、釘の頭をタガネで切り飛ばしただけの不細工な代物だが、製作コストの安さでは本格的な細工のものに立ち勝る。
走り続ける一団の最後尾へ移動すると、ヴァジは撒き菱を数個ずつ不規則に間隔をあけて地面に落としはじめた。
「URRRRRRRGH!」
先頭を走るブリトン人が悲鳴を上げる。どうやら靴かサンダルの薄い底を突き破って、鉄棘が足の裏に刺さったようだ。たちまち彼らは混乱に陥った。
下生えの中に潜んだ凶器が足を食い破る痛みは想像に難くない。何が起きたのか察したところで、他の撒き菱はどこにあるとも知れないのだ。
地雷と同じだ。被害そのものは軽微でも、肉に食い込んで容易に取り除けない棘は、負傷者を救助しようとする仲間をも長時間拘束するし、周りのものにも恐怖が伝染する。
「思った以上の効き目だ。トールの頭を絞ると色々出てくるもんだな」
「いやな言い方をするなよ……撒き菱なんぞローマ時代からあるだろう」
「へえ?」
怪訝そうな顔になるヴァジには知らぬ顔を決め込む。負傷者を放置してなおも追いすがる数人を矢と投槍で片付け、俺たちは宿営地へ向かって走った。
大筋では仕方ないと思いつつも、穴の開いた鍋から漏れる水のようにじわじわと増えていく死者の数は、やはり厭わしい。ロルフが楽園から閉め出されるなら、それは俺たちも同様だ。
ミルドレッドと伝令の兵士は野営地で心温まる歓迎を受けた。薄着のまま馬上で風に吹かれるままだった肩には毛布がかけられ、暖かい粥と肉、少量のワインが振舞われる。俺たちも同じテントで遅い昼食をとった。
「ありがたい、ようやく人心地がつきました」
頬に赤みを取り戻した兵士が少し涙目になってため息をつく。気の毒なことに彼の伝令としての仕事は、ことアルフレッド王への連絡に関してはほぼ徒労といってよかった。
デーン艦隊の来寇については、俺たちが一日早く伝えていたからだ。おまけにその艦隊は嵐で全滅している。いかな駿馬であろうとも陸路を行く以上、海路を船で運ばれる情報には速度と距離の双方で追いつかない。
「なに、まあ伝令の任務と言うものは、こういうことも少なくありません。デーン人の新手など上陸せずに消えてくれればそれに越したことはないですよ」
兵士はそれでもやや残念そうだ。
「マラトンの戦勝を伝えた兵士よりは、きっと恵まれてるだろうね」
イレーネが兵士と俺たちの椀に粥を注ぎ足しながら、そう請合う。彼女はこのところ、俺たち皆の食事に際してかいがいしく世話を焼くようになっていた。
「マラトンの伝令は、戦勝伝えてその場で事切れちまうからなあ」
「事切れるのはご免をこうむりたいです」
兵士が苦笑した。彼の頑張りにはもちろん意義がある。ウェアハムとその周辺の人々には万が一の事態に対する備えの機会が与えられたし、ミルドレッドもここまで来ることが出来た。兵士の分限に即してではあれ、彼には何がしかの褒賞が追って与えられるに違いない。
ミルドレッドとの謁見を終え、幕舎の外にアルフレッドが姿を現した。西日を浴びてなお、その顔は青ざめて見える。
「陛下! お顔色が……」
「よい、私に構うな――」
だが王の言葉は途中で重苦しく濁り、食いしばった歯の間からか細い息と共に漏れる、苦悶のうめきに変わった。そのまま崩れるようにへたり込む。
「陛下!?」
「いかん、フィカスの発作だ!」
折りよく側にいたウィリアムが王に駆け寄り、舌を噛まぬように丸めた布を口に押し込む。
幕舎の入り口からは、ちょうどミルドレッドが心ここに有らぬといった態で歩み出てきていた。
「ああっ、王様!?」
アルフレッドの異変を目の当たりにして、混乱と驚愕が頬を塗りつぶす。駆け寄る彼女を何と間違えたか、王はミルドレッドの腕を掴み引き寄せて告げた。
「ウェ……全軍を召集……姉上を奪い返……!」
そのままがっくりと顔を左へ落とし、王は気絶して草の上に倒れた。
「ミルドレッド……一体、王に何を伝えたんだ?」
思わず詰問口調になってしまう。王国の命運を担うアルフレッドを、こうも激昂させるような話なら、持ち出すタイミングには慎重になるべきだ。
「――エ、エセルスリス様の伝言を。『修道女を辞めてグソルムに嫁ぎ、デーン人たちの内側から主の教えを広め伝える』って」
「なんという事を……」
俺は頭を抱えた。長らく修道院長の任にあった女性の発想だということがどうにも信じられない。
「あたしはエセルスリス様のご決心をどう判断していいのかわからなくて、とにかく王様にご相談したかっただけなのに……まさか、こんな」
「アルフレッド王には今の状況だけで精一杯だと思うぜ」
あるいは俺の歌が効き過ぎたのか。
考えてみれば、俗世と縁遠い精神生活を送ってきた人間にとって、世のしがらみ一切をすっ飛ばした理想論はこの上なく危険な毒になりかねないのだ。
「俺は異教徒でよくわからないが……修道女が還俗するには、それなりの手続きが必要じゃないのか?」
「ええ……エセルスリス様のお立場なら、本来は聖座(ローマ教皇庁)への申請が必要よ」
なるほど。入会して日の浅い見習い修道女ならいざ知らず、修道院長ともなれば少なくとも、修道会総長や大司教といった上位者の承認は必要だろう――混乱の真っ只中にあるこの辺境の島国であってもだ。
だとすれば、本人が自覚しているかどうかはともかく、エセルスリスはいささか迷走気味の境地にある。
アルフレッドの容態は朝までにはいくらかましになった。フォカスの指導の下、ヤナギの樹皮を適切な濃度で煮出すことが出来ていたためだ。だが彼の気持ちが落ち込むのばかりは、どうしようもなかった。
日が昇ってしばらくするとちょっとした騒動が持ち上がった。エクス川河口に、ウルフェルの艦隊が到着したのだ。それだけならばどうと言うことも無いのだが、彼の艦隊にはいささか風変わりな物が加わっていた。
『ペヴリルの穂先』に散らばる廃材を集めたものらしい筏。その上には、ハールブダンの戦艦から取り外した巨大な竜頭があった。
筏は二隻の軍船に曳航され、クナルが臨時に先頭を航行している。風を受けて南から河口へと進入してくる様は、傍目からはいかにも、戦勝の大々的なデモンストレーションにふさわしく見えた。
くすんだ赤と黒の顔料で彩られた竜頭は、半ば横倒しに筏の上に固縛されていて、ちょうど頭を垂れて慈悲を請う捕虜を思わせる。
「なるほど。ウルフェルのやつもなかなか上手いことを考えたものだ」
ホルガーが木立の間から水路を見下ろして、そう評した。俺たちはちょうど朝食後の腹ごなしがてら、その日最初の巡回に出ていたのだ。
「あれを見れば、グソルムも少しは動揺するかもしれんな」
アルノルが珍しくどちらの髭にも手をかけずに、竜頭を凝視している。
海戦の勝利を内外に喧伝するという、ウルフェルのアイデアは概ね肯定的に受け入れられた。艦隊の停泊する地点の対岸から、こちらをうかがうブリトン人が確認された時点で、俺たちは川岸に集まり、エクセターへ向けて進軍を開始することになったのだ。巨大な戦艦の残骸と、意気上がるウェセックス軍の姿を、せいぜい見せてやればいい。
未だ青ざめた顔のまま、アルフレッドが陣頭に立つ。太鼓が打ち鳴らされ、かき集められたホルンとバグパイプが遠方まで鳴り響いて、王の親征を高らかに告げた。
「ハールブダンの艦隊は潰滅した! エクセターに援軍は届かない!」
――ハールブダンの艦隊は潰滅した!
ホルガー初め数人の、良く通る大きな声の持ち主達がリードし、こだまのように全軍が同じ叫びを上げる。
「アルフレッド王に栄光あれ! ウェセックスに勝利を!」
――ウェセックスに勝利を!
ウェセックス軍はまだまだ小規模な編成だったが、逆にアルフレッドはそれを最大限利用した。こちらには長蛇の大軍にはない機動力がある。数時間でエクセターの間近まで展開し、木々の陰に潜んで夜を待つ。その間に、人数に数倍する松明が作られた。油の半分ほどは鎖蛇号が運んだ積荷だ。
日が暮れるとそれらは一斉に灯された。要塞からは雲霞のごとくエクセターを包囲する軍勢がいるかのように見えたことだろう。
「なんだか、このところ全然斧を振り回す機会が無いな」
かがり火の下でヨルグが不満そうに呟いた。彼の得意な両手斧は、流石に馬上では使えない。合戦の中で使うとすれば、盾壁を築いた敵の槍ぶすまを刈り取り、突破口を開けるといったあたりだろう。
ウェセックス軍はここに至るまでずっと、寡兵に悩んで直接的な会戦を回避しているし、ましてや今は城を囲んでいる状況だ。徒歩での乱戦はまず起こらないだろう。
「多分、今は俺たちの出番じゃないんだろうな。それはそうと、ロルフの様子はどうだ?」
「叔父貴はなんだか苦しそうだ。ヤンを殺して以来、ずっと」
「そうか」
あのあと夜営での静かな時間、少しだけ彼と話せた。フリースラントで『交易も人を殺す』事について話をしてからというもの、彼の心には改宗によって目の前に開けたキリスト教的な慈悲と寛容の世界と、力と名誉を重んじる北方人の世界との間での葛藤があったようだ。
「キリスト教徒も現実には人を殺すし、殺すより悪いことだってやらかす。ロルフにはそれが我慢ならなかったのかもな」
「かといって、叔父貴は村の連中との間にも一本、線を引いちまったからな……なあトール、俺、早く村に帰りたいよ」
俺も同感だった。やむにやまれぬ事情でとはいえ、ずいぶんと無茶苦茶な状況に巻き込まれてきたのだ。その中で得た幸せもあったが、いろいろと疲れたことは否定できない。
「叔母上や息子のエギル、それにシグリが一緒なら、叔父貴もいつもの自分に戻れると思うんだ」
「そうだな。俺のほうは久しぶりに、フリーダのお小言を頂戴したくなってる」
「……変わった趣味だな。だが、うん、俺もトールに賛成だ」
それっきり俺たちの言葉は途切れた。アンスヘイムは小さな村だが、静かで落ち着ける場所だ。貧しくても最低限、生きていけるだけの物は何とか手に入るし、世間のごたごたともこれまでは無縁でいられた。
だが来年は、オウッタル――美髪王ハラルドのノルウェー統一戦争に巻き込まれる。ほぼ確実にだ。出来ることなら今のこの経験を活かして、ノルウェーの戦を少しでも早く終わらせたい――不確かな心細い未来への苛立ち。
無言だったが、ヨルグも多分、同じ気持ちだっただろう。
レンガ状に切り出された石灰岩を整然と積み上げた城壁が、エクス川を隔てた対岸に連なっていた。川幅はこの辺りで約50mくらいだろうか。
石はどれもローマ崩壊以来の歴史を物語るように黒ずみ、ところどころで巨人に齧られたように毀たれた、でこぼこなラインを形づくっていた。その上には板囲いの櫓が並び、尖らせた丸太が外向きに突き出されている。
対陣はアルフレッド自らエクセターへ呼びかける声で、幕を開けた。要塞の門を見通せる空き地に、ハールブダン艦隊の竜頭が据えられる。
「聞くがいい、裏切りと反目をこととするデーンの者達よ! 余は腕輪にかけて汝らと誓いあった。余からは耕地と定住の保障を、汝らは修道女達の解放を。だが、汝らは誓いを破った!」
「なに、ウェアハムからは手を引いたではないか」
あざ笑うような応えが要塞から返ってくる。多分グソルム本人の声だ。だが、アルフレッドはそれに構わず続けた。
「破られた誓いの報いはまず、ハールブダンの艦隊に降り注いだのだ! 三日前の嵐を忘れはすまい。この上の背信を繰り返すのならば、次こそは汝らが海に沈み、あるいは野に倒れるだろう! 見よ、この竜頭を。これは汝らの明日の姿だ!」
エクセターの防壁のあちこちから、押し殺したうめきが上がる。デーン人たちの幾ばくかはその竜頭を知っていたようだ。
「門を開き降伏せよ、グソルム。余は多くを望まぬ。無用の殺戮も、理不尽な隷従も必要ない」
心中の苦しみを押し隠しての、あまりにも寛容な呼びかけ――その最後に、俺は彼の小さな、悲鳴に似た呟きを聞き取った。
(姉上を、返してくれ……)
ふと、城門の上の人垣が乱れた。簡素な白いドレスに身を包んだ、女の姿が現れたのだ。背筋を伸ばした端正な立ち姿のためか、実際の身長よりずっと大きく見える。
(エセルスリス様……!)
少し離れて立っていたミルドレッドが、服の胸元をきつく握り締めて息を呑んだ。