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閉ざされる楽園

「こちらもウェセックスの旗を揚げろ。向こうは戦闘態勢をとろうとしているぞ!」

 ホルガーが叫び、数人が我先にと揚げ索に跳び付いた。

 するすると赤い布がマストを這い登り、軍船の上で安堵のため息があがるのがこちらまで聞こえたように思えた。


 船団は次第にこちらに接近し、乗っている人間の顔まで見分けられるようになってきた。

「おお、どこの船かと思えばあんたらか!」

 聞き覚えのある声が先頭の船から上がる。アッシュダウン号の艦長だったフリースラント人、レーワルデンのウルフェルだ。

「お主か。妙なところで遭うものだな」

 ホルガーが冷ややかに応えた。およそ五日間にわたって監禁拘束された恨みは、やはりそう簡単には消えないと見える。


「レーワルデンに戻って部下を再編成し、どうにか軍船を取り揃えてサウサンプトンへ戻るところだったのだが……このおびただしい残骸は、もしや?」

 舳先に立って海面を見渡すウルフェルに、ホルガーがうなずいた。

「ああ、見ての通り。デーン艦隊の成れの果てだ。昨晩の嵐でな」

「そうか……」


 ウルフェルは急に体から力が抜けてしまったように、へなへなと舷側に手をついて肩を落とした。

「ありがたい……ウェセックスは救われたのだな。主よ、感謝します」

 しばし祈りを捧げるウルフェルを、俺はなんとなくすっきりしない気持ちで見守った。

これが神の御業だと言うならば、その神は事あれば自分の上にも同様の災禍をぶちまけるのではないかと何故疑わないのか?

 ありていに言ってしまえばこれはただ、時ならぬ悪天候を予測しえたものと予測できなかったものが辿った運命の差に過ぎない。まあ無論解釈は自由だが。


 ウルフェルの軍船と鎖蛇号はしばし舷縁を接して停船し、手短な情報交換と協議を行った。ウェアハムでの顛末がかいつまんで伝えられ、ウルフェル側の事情も明かされた。彼らはポータスの口沖合いでデーン艦隊に出くわし、急を知らせるために入港して早馬を走らせ、再び追跡に移ったと言う。

「ところが途中であの嵐だ。ワイト島の海岸に上陸してやり過ごしたが、正直もう、ウェセックスは終わりだと諦めかけていたところだった」

「ざっと120隻はあったろうな、あの艦隊は」

 ホルガーが仲間のほうを振り返って誰にともなくそういった。皆どこか沈んだ表情で、それにうなずいた。


「あんたらに一つ、頼みがある。この惨劇のことは、王には伝えて構わない。だがウェセックスの国民には漏らさずに置いてくれんか」

「何故だ」

 妙なことを言い出したウルフェルに、俺は思わずホルガーを通さずに反応してしまっていた。


「アルフレッド王陛下は、アッシュダウンの戦いで勝利を収めた。今聞いた話の通りならウェアハムでは寛大にもデーン人に降伏を促し、グソルムもそれを受け入れたわけだ……だがデーン人との戦いはまだ続くだろう」

「ああ、それは仕方ないんだろうな。だがそれでなぜ、この嵐の仕業を人々に伏せる?」

 ウルフェルはおかしなことを訊かれた、とでもいいたげな表情で俺を見た。

「判らないか? 王にはもっともっと勝利が必要なんだ。内外にでっかく喧伝できる勝利がな」


「――それでその勝利の立役者はお主が演じようと言うわけだな? まあ、よかろう。好きにするがいい。我々はもう出発させてもらう」

 ホルガーはわずかな蔑みの色を浮べてウルフェルを見た。


 ホルガーの推測が当たっているとして、艦長の気持ちもわからないことはない。アッシュダウンの喪失といい、俺たちと関わって以来何だかんだで彼にはいい事がろくになかったはずだ。王に復命するのにそのくらいの手土産は欲しいということだろう。


 俺たちには財物、ウルフェルには誉れと言うわけだ。それはそれで構わないと思った。だが、それならばなおの事、デーン人たちは戦死者として敬意を以って葬られるべきだ。ウルフェルにその事を念押ししようと思った、その時。


「ハハッ、デーン人どもめ! ざまァ見やがれ!」

 そう叫んで、軍船の乗組員が一人、木片を除けるために手にしたオールで、手近に浮いていた死体をしたたかに打ち据えはじめた。打擲ちょうちゃくの音に混ざって何度か、死者の骨が砕けるくぐもった破砕音が響いた。

「おい、何をする!」

 見咎めた別の船員が彼を止めようとする。だがその男は仲間を突き飛ばし、執拗に死体を辱め続けた。ウルフェルは呆然として、本来発するべき静止の声をかけあぐねていた。


「こいつは、死んだ兄貴の分だ! これは、足をなくした親父の分だ!」

 ああ、その男の顔にはまたしても見覚えがあった。

 ヤン船長だ。どうやらあのあと、ウルフェルの指揮下に入ってこの船の乗組員になったらしい。少し身に着けたものが上質なところをみると、下士官、ひょっとするとウルフェルの副官くらいの待遇かもしれなかった。


「止せ、船長! あんたの恨みはわかるが、死者を相手に……」

 俺がそう叫んだとほぼ同時だった――押し黙っていたロルフが一瞬ぶるっと身を震わせ、丸めていた背中をばね仕掛けのように伸ばし舷縁を乗り越えてヤンに走りよったのだ。

 俺は見た。ロルフの手に握られたその刃。フリースラントの街道で盗賊の命を奪った、あの恐ろしく鋭利な片刃のサクスを。


「ロルフ!」

 それはいけない。あんたはそれをやっちゃいけない。


 だが、誰一人として彼を止めることができなかった。ロルフはヤンの左半身に斜め下からへばりつくようにもぐりこみ、ヤンの肋骨の間にその輝く氷柱を打ち込んでいた。

「がッ……」

 ヤンの喉から押し殺したうめきが漏れる。その耳元で、ロルフが静かに告げた。

「俺たちがあんたと関わったのは、つまるところ俺の責任だ。だから、あんたを殺すこの罪は俺が背負おう」

「トマス……!」

 ヤンはロルフの洗礼名を呼んだ。キリスト教徒なのに――そう言いたかったのだろうか?

「俺もこれで結局は、キリストの所へはいけないんだろうな。だがあんたは戦士がやっちゃならんことをやった。それは殺しそのものよりも悪い……俺を許せとは言うまい。休め、ヤン」

「畜生……」

 それきり手足の力を失い事切れたヤンの身体を、ロルフは静かに甲板に横たえた。

「ウルフェル艦長、見てのとおりだ。俺を斬るなり縛るなり好きにしてくれ」

「叔父貴!」

 ヨルグが咆哮を揚げた。両手斧を構え、すぐにでも向こうの船に飛び込む体勢だ。



「いや、あんたは自分の船に帰れ。こんなところで同じ旗を掲げた同士が争うわけにはいかん」

 ウルフェルが悲しげな、だが冷徹でしたたかな表情を浮べてそう告げた。

「俺にだって死者をどう遇すべきかはわかってる。ヤンは――結局」

 それ以上は言葉に出されなかった。



 ウルフェルは混乱しかけた部下達をよく統率した。船団は二つに別れ、俺たちは彼らを後に残してペヴリルの穂先を越え、さらに南西へ向かった。後方で三隻の船が遺体の収容に動き回っているのが見えている間、ロルフは虚脱した様子で舷縁にもたれて顔を伏せていた。


「解かれぬ恨みは、結局命もろとも断ち切るしかないのかも知れん」

 フォカスが、俺とイレーネの横でぼそりとそう呟いた。

「そうかもしれない。だけど、それは最後の選択だ。最後でなくちゃだめなんだ」

 俺はフォカスから顔を背けたまま、そう答えた。

「その『最後』が、来ることが無いように俺たちは生きていかなきゃならないんだ」

 そのはずなのだ。


 デーン人の漂う死体を見て、ヤンは相反する感情に襲われたのだろう。恨み重なる敵が破滅の手に刈り取られた様をみる歓喜と、おのれの手でその刈り入れを行えなかった事への怒りと失望。強すぎる復讐の念は、結局人間を焼き切ってしまうのかもしれない。


 だが、ロルフの心中は俺には推し量れなかった。

 ヤンはどの途、ウルフェルの下でも厄介者になっただろう。彼の怨念はアルフレッドの望む理想の王国とは相反するものだ。

 だがそれは結果論だ。ロルフが手を下す必要はなかったはずではないのか。

 ああいう具合に、衝動的に取り返しのつかないことをしでかした挙句自暴自棄になることは、普段が穏やかな人間にこそ多い。

 普段は言葉少なに押し黙っている彼の内側に、どれだけの怒りや苦しみ、激情が渦巻いていたのかと思うと、俺はなんともいたたまれなく申し訳ない気持ちを拭いきれなかった。



 嵐の名残の風を受けて船はひた走り、夕暮れ前にエクス川の河口にたどり着いた。

 オレンジ色の夕焼けの中、黒々と影をなした沿岸の木立を背に、合図の松明が三度振られた。アルフレッドが派遣した連絡の兵だ。

 俺たちの到着は伝令によってアルフレッドに伝えられ、日没のしばらくあとで補給物資は無事、彼の騎兵部隊に引き渡された。


「そうですか。120隻ものデーン艦隊が……」

陣営のテントの中、灯油ランプの投げかける明かりの下で、アルフレッドは引きつった顔で俺たちの報告を聞いた。

「僥倖でした。そんな数のデーン軍がウェアハムあるいはこのエクセターに来たら、とても手に負えない」

 深いため息をついた彼の顔は、苦笑いに塗りつぶされていた。

「私は運がいい。そう思うべきなのかもしれませんね。だが事態はおよそ最悪なものになっています……昨晩の嵐で我々も足止めを食いました。グソルムの軍は、その間にエクセターに立て籠もってしまった。」

「じゃあ……」

「またしても手詰まりですよ。向こうに海からの援軍が来ないのならぼろ負けはしないが、かといって勝つのも難しい」

 テントの中で俺たちは顔を見合わせた。思いつくような奇策の類はウェアハムで出し尽くした感がある。エクセターの要塞はローマ時代に積み上げられた石組みを誇示して、月明かりの下、蛇行するエクス川の上流にそびえていた。


 グソルムの軍はおおよそ騎兵二百騎と徒歩の戦士百名前後。こちらは百騎をわずかに超える騎兵と、鎖蛇号の三十余名。時間を置けば増援を呼ぶことは可能だが、要塞にこもった相手に対しては圧倒的に不足している。野戦に持ち込めても現時点では勝利を期し難い。


「周辺の噂を探らせたところ、どうもエクセターでは土地のブリトン人も、グソルムに肩入れして参陣しているようです」

 後の世まで続くウェールズとその周辺の民族問題が、ここでも噴出していた。



        * * * * * * *



「申し訳ありません、修道女様。さすがに二人乗せてはこの馬も、速駆けできませぬ」

「焦らなくていいわ。とにかくこの子を乗りつぶさずに、エクセターまでお願い」


 ミルドレッドは目の前の背中に向かってそう叫んだ。嵐のおかげでどうやらハムワーへはデーン艦隊は来なかった。だがエクセターでは何が起きているか知れない。

 朝の雨上がりを待って彼女は宿営地を走り回り、昨日の兵士を探し出して、くたびれた馬に二人乗りでハムワーを出たのだった。

 離反組のデーン人たちと、守備に残ったわずかなウェセックスの兵士達にも、事情は伝えてある。おっつけ動けるものからエクセターへ駆けつけてくれるかもしれない。

 だが、今動けているのは彼女達だけだ。ハムワーでは代えの馬も見つからなかった。

「王様に伝えなきゃ。一刻も早く、なんとしても。あなたが託された報せとエセルスリス様の真意を」

「エセルスリス様の……」

兵士はたまたま知っていた。それが王の不幸な姉の名であると。


「エセルスリス様は、デーン人たちの魂のために修道の生活を捨てるおつもりなのよ……」

 ばかげている、そう思う。だが一方で長年使えた女主人のある種強烈な性格を思えば、どこか納得している自分にも気づいていた。


 なんといってもエセルスリスは、あの王の姉なのだ。

 

 ロルフの衝動的殺人には賛否あることと思います。彼は結局ヴァイキングであることから脱却できなかった、ともいえます。彼のための救いはまだ残されているのでしょうか。

 そして伝令の兵士と共に緑深い街道を走るミルドレッド。イングランド編はいよいよ終幕を迎えます。

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― 新着の感想 ―
[一言] キリスト教に改宗したから、はいキリスト教徒の精神になりました、とはなりませんよね。ロルフの骨身に染み込んだバイキング的価値観は、ずっとどこかに残り続けるだろうと思います。
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