実を結ぶもの
腹の底から苦く酸っぱいものがこみ上げ、俺はその場に胃の内容物を吐いた。汚れた口元をぬぐいながら、アルノルが和議の夜にかがり火を見つめながら漏らした言葉を思い出す。
腕輪の授与に眉をしかめた、あの顔。
「……アルノル、教えてくれ! あんたは何か分ってる筈だ。何がいけなかった? デーン人たちは何故こんなことをしたんだ!」
闇の中に浮かぶ松明の列から、一本がすっと離れてこちらへ動いた。黄色い髪の知恵者はいつもの人を見透かすような目の輝きをいくらか弱め、顔を俯けて俺の前に立った。
「俺もこんなひどいことになるとまでは、思わなかったんだ」
「……なあアルノル。俺は、やはり大莫迦なのか?」
俺のその問いにアルノルは答えなかった。
「……腕輪は、確かに尊ばれる贈り物、豪勢な褒賞だ。だがな、アルフレッドははっきりと意識してなかったようだが、あれは俺達北方人にとって、主従の契約の確認を意味するものでもあるんだ」
「ああ……」
俺はそのときようやく理解した。なぜオウッタルの不在をアルノルが難じたのかを。オウッタルはアルフレッドに助言を出来る立場にいながら、肝心のところでそれを放棄して立ち去ってしまったのだ。
アルフレッドは彼なりに北方人の慣わしを尊重し、それにしたがってあのような和議のセレモニーを演じた。
だが、彼はもっと深く理解しておくべきだった。腕輪を贈るものと贈られるものの関係はすなわち、主従の間の確固とした上下関係をも意味するのだ、と言うことを。
「デンマークは小さな領地を治める王が何人も並び立つ、縦の繋がりがゆるい国だ。グソルムの地位はあの軍団の中では十分に強大なものだが……アルフレッドが考えたほどではなかった。そういうことなんだろう」
アルノルは続けて推測を口にした。
「アルフレッドはグソルムから配下の首領たちへ腕輪を与えさせるのではなく、重さの違いはあっても全員に同じように手渡した。あれも多分よくなかったな。奴らは自分たちの地位が上がったように感じて、結果的にグソルムを侮ったんだ」
ああ、後はなんとなく想像がつく。相対的に地に落ちてしまった権威。それを取り戻すために、グソルムは極度に果断な行動に出ざるをえなかった。その結果が――
「その結果がこれか」
目の前には依然、恨めしげに虚空へ向けられた修道女の瞳があった。名前も知らない、交差しなかった一つの人生の主役。最後に目に焼きついたであろう殺人者を永遠に見据えて、ぽっかりと瞳孔を開いたままの、女の目。
彼女の頭のすぐそばには、俺の広げた小間物が酸っぱい臭いを放っている。
(あんたの最後の褥を汚してしまって、済まん)
簡素な修道服の心臓の辺りに大きな赤黒い染みをつけたその亡骸を、俺は悲痛な思いで抱き上げ、見開いたままの目を閉ざしてやった。
「……嘆くなトール。お前の歌はいいもんだ、俺も感じ入ったよ。だが王様だの神様だのを相手にするときには、もう二、三本くらいは剣なり策略なり、用意しておかなきゃならんらしいな」
「ああ」
悔しさに噛み締め続けて、やっとのことで開いた口から、それだけを搾り出す。アルノルも口髭を噛みながらぼそりと呟いた。
「俺にも、いい薬になったぜ。だがこいつはちと、苦過ぎる」
デーン人の死者が150人ほど。修道女が63人。朝までにそれだけの犠牲者が発見された。生存者は一人も居ない。身分の高い人質は流石に、生きたまま同行させられたらしい。
「数が合わないな……幾らかは騎馬隊の後について徒歩で出たんだろうが、それでもおかしい気がする」
死者の数が少なすぎることをいぶかしみながら、ウェセックス軍と俺達はウェアハム東側の空き地に墓穴を掘った。この事件が忘れられた後の世にもこの修道院が残るとしたら、多分ここが付属の墓地になったりするのだろう。
全ての遺体は身長ほどの深さの穴の底に、審判の日に復活することを信じてそのまま埋められ、土をかけられた。俺も木製の短いシャベルを手に、作業に加わっていた。
俺が発見した修道女の亡骸が今、目の前にある。その傍らに、白っぽく崩れやすい白亜層を穿って作られた、彼女のための安息所がぽっかりと口を開けていく。
イレーネが朝食を運んできてくれたが、今朝はまだ彼女と何も話せていない。
「……トール。食べないと体に毒だよ」
堪りかねたのか、とうとうイレーネが声を上げた。
「無理だ」
「じゃあせめて休んで……」
「アルフレッド王でさえ穴を掘っているときに、俺一人が休んでられるわけ無いだろう」
「そんなに――」
何を言おうとしたのかその言葉の語尾は、彼女と俺の視線が合った瞬間に掻き消えた。
イレーネは昨晩の捜索には加わっていなかったが、何が起きたかは既にアンスヘイム勢の誰かから聞き知っているらしい。
思い返せば俺はいつもこうだった。ちょっと何か良い兆しがあると、すぐにのぼせ上がってその時点で頭に浮かんだ解決策しか考えられなくなる。実際にはその兆しと言うのは思い違いだったり、さほどのことも無いしょっぱい話だったりすると言うのに。
どうして、もっと地に足のついたやり方を選んで、きつい道のりを消化していくと言う誰でも当たり前にやっていることが出来ないのか。
夜通し駆けずり回って疲れ果てた体を無理やりに動かし、やっとのこと俺は修道女の墓穴を掘り終えた。穴の底に彼女を下ろし、土をかける。屍衣も副葬品もろくに無い無情な葬送だ。
少し離れた草地の上にはソフトケースに収まったコメットが横たわっている。だが今の俺には、彼女のために讃美歌を奏でることすら厭わしかった。
「音楽なんぞ……」
俺がそう、吐き捨てかけたその時だった。
「トール、あれを……!」
イレーネがなにやら驚愕の色を浮べた顔で、俺の背後を指差した。つられて振り返る。彼女が指差した物が俺にも見えた。
ウェアハムの南。日の出から三時間、次第に天高く上っていく太陽の光を受けて鮮やかな緑に輝く林の中から、下生えをかきわけて姿を現し、こちらへと歩み寄ってくるいくつもの人影があった。
「あれは……?」
次第にはっきりと見えてくるそれは、明らかにデーン人の風体をした男達と、彼らに寄り添い、あるいは手を取り合って歩く、修道女達らしかった。何人かのウェセックス兵が、彼らを守るように歩いている。
その集団を追い越すように走ってきたウェセックスの騎兵を、俺は呼び止めた。アルフレッドがウェアハムの周辺にまで手を広げて派遣した捜索隊の一人だ。
「おい、教えてくれ、何が起きた?」
20mほど駆け去ったところで、彼は馬を止まらせ、こちらを振り返って叫んだ。
「生存者だ! 修道女達を守ってデーン人の一部がウェアハムから森へ避難したらしい。今朝見つけた!」
そのままアルフレッドの軍旗のある方向へ、再び駆けていく。
こちらへ向かう列の先頭近くに、俺はすらりとした長身の修道女の黄色い髪と頭巾を見つけた。ミルドレッドだ。彼女はひょろりとした体つきをした若いデーン人に肩を貸し、二人でなにやら喋りながらやってくる。
生存者たちは、こちらを認めると初めはばらばらに、やがて声をそろえて何か歌を歌い始めた。
……我らは故郷を 求める仲間
眼差し交わし 手を伸ばす
言葉も肌も 似つかぬが
食らうは等しく パンと酒――
「ああ……」
俺の歌。分かち合う歌。つい一週間足らず前に、全身全霊を傾けて歌った『Let's Share our Lack and Life』が、あの時聴衆だった者達の唇を震わせている。
「お前の求める幸せを 俺にも隣で見せてくれ――」
小川に張った氷が融けるように、俺の喉から歌がほとばしった。イレーネが即座にそれに応える。
「――路傍に凍える孤児を 抱き上げ歌おうこの歌を」
(進め兄弟 いざ帆を上げて
船にはまだまだ席がある
彼方に見える あの大地
肩を並べて 降り立とう)
草地をはさんで二つの集団が同じ歌を歌い交わし、それはやがて一つになった。
「届いていたんだね、君の歌は」
「そうみたいだな」
イレーネが優しく俺の手を取った。グソルムたちの裏切りにこわばり冷えた俺の心は、それだけで救われた。
少なくとも、今目の前にいる彼らは俺の歌を受け止めて、新たな可能性を選んでくれたのだ。多分そうだ。
「俺はどうやら、大莫迦で終わらずにすむらしい」
「何を言ってる。君は奇跡を起こしたんだ、莫迦なものか」
いつの間にか、俺達のそばにアルノルがやってきていた。彼はひときわ強く顎鬚を捻り上げ、俺の背中をどやしつけた。
「トール! 前に言ったな? 物狂いじみた理想を追い求め夢見る人間を、肯定的に表現する言葉がひとつだけあると」
「……ああ」
「今こそ告げよう、その言葉をお前に」
「心して聞くよ」
アルノルは静かに、そして満足げに俺に告げた。
「フィンの楽師、トールよ。お前こそ英雄だ」
その瞬間、俺はがくりとその場に膝からへたり込み、そのままうずくまって泣き出していた。
*2月22日 7時50分
ちょっと舌足らずだった部分を修正。