腕輪の誓い
ウェアハムの東側、海に面した草地の上でかがり火が燃えていた。全身を鎖鎧と兜で覆った高位の戦士から、厚手の服に盾を持っただけの者までがずらりと並び、足元に武器を横たえてひざまずく。揺らめく炎が彼らの頬を照らし、身につけた金属に反射する。
この地に侵入したデーン人千人のうち、五体満足に命ながらえた者はほぼ全てこの場に集まり、眼前の状況全て、何一つ見逃すまいと目を見開き、固唾を呑んでこの夜の底にいる。
かがり火を背に、アルフレッドが彼らの前に進み出た。その一瞬、風が巻き起こり火の粉が吹き上がる。
炭化してもろくなった薪の何本かが崩れ落ち、別の薪にぶつかって、カン、と金属質の音を立てた。
「デーンの者達よ、武器を腰に収めて立つが良い。汝らは今日よりわが友だ」
アルフレッドの柔らかな声が響く。どよめきがさざ波のように広まり、デーンの戦士たちはゆっくりと身を起こした。
「汝らにその証を贈ろう。……腕輪をこれへ」
脇に控えた臣下に向かってわずかに首をめぐらし、指示を与える。
やがて、美しく織り上げられた絹の覆いがかけられた、銅の盆が王の前へ運ばれて来た。
「デンマーク王グソルムよ。前へ進まれよ」
降伏勧告を受け入れた身ながら、グソルムは昂然と顔を上げて堂々と進む。彼が目の前まで来ると、アルフレッドは覆いを取り払った盆の上から、黄金と琥珀をちりばめた、この上なく見事な腕輪を持ち上げた。傍目に分る、豪奢で重量感のある品だ。人垣のどこかから、押し殺したようなため息が漏れるのが聞こえた。
「この腕輪の贈り物にかけて、改めて誓おう。汝らがこの神聖な地より退去し、隣人を害さぬ平和な暮らしに入るならば、余は汝らに耕地を与え、その暮らしを全きものとなすことを」
そう宣言して、王は手ずからその腕輪をグソルムに与え、彼の腕に飾った。
「……この結構な贈り物にかけて誓う。我らは修道女達を解放し、イングランド王の指示に従ってしかるべき地へと向かおう」
グソルムが注意深く言葉を選んで応える。
「見よ、お前達全てが証人だ! 我らこの誓いを破ること有らば、海は逆巻き、吹き荒れる暴風の中に我らを滅ぼすであろう!」
両陣営の男達が歓声を上げる中、二人の王は抱擁を交わした。つづいてデーンの主だった首領たちに、グソルムのものほどではないにせよ、贅を尽くした腕輪が贈られる。彼らは至極無邪気に、豪勢な装身具を互いに自慢し合って得意げだった。
「――腕輪か」
アルノルが少し不機嫌そうに鼻を鳴らすのが聞こえた。
「この和議、長くは保たないかも知れんな」
「なぜだ?」
俺の問いには直接答えず、アルノルはここに今いない男の名を口にした。
「オウッタルのやつめ。早々とハムワーからサウサンプトンへ引っ込みやがった」
和議を前提に休戦が取り決められるとすぐに、オウッタル――美髪王ハラルドはウェアハムを離れてしまっていた。
表向きは、アルフレッドの軍への補給物資をサウサンプトンから運ぶため――実のところはおそらく、レーワルデンで別行動を取ったマチルダと合流するためだろうと思われた。
無論、推測でしかない。
ここはアルフレッドの国だ。美髪王ハラルドにとっては「既に役割は終わった」といったところかもしれない。
東の海上へと去ったエイリークの動向も気になるところだ。ちょうどマチルダがバーディング船で向かったという方向と一致する。双方が接触すれば余り面白いことにはならないだろう。
推測ばかりでもどかしいが、このときの状況はもはや俺の手を遠く離れていたのだった。
その後の数日は、慌しさの中で過ぎて行った。捕虜や人質の交換が両軍の間で行われ、ウェアハムの防壁の内側にあふれた混沌としたあれやこれやも次第に取り片付けられていく。
俺とブライアン、それにウィリアムが捕らえたあの戦士も――名前はアースグリムとか何とか言った――縁者たちによって請け戻され、居心地悪そうな様子でデーン陣営に帰っていった。
「よく働きそうな男だったが、惜しいことをしましたかな」
ブライアンが頭をウェアハムのほうへ、目線だけをわずかに俺のほうへ向けながら、そう言って笑った。
「俺は奴隷をもつ気はないよ」
「異国の方ゆえ、もしや、とも思いましたが」
「村へ帰ったら畑を拓いて耕すつもりでいるが……うん、奴隷は要らないな」
そもそもアンスヘイム周辺の耕作可能地はそれほど広くないし、イレーネと二人ならとりあえずは手が足りないことはあるまい。ああ、フォカスも居るんだった。
俺とフォカスで耕し、イレーネが紡ぐ、そんな日々を思い浮かべた。その絵の中に、奴隷など必要ない。
「まあ、我々も褒賞を陛下から賜りましたし、奴隷は要りませんな。三人で切り分けるわけにも行きませんゆえ」
ウィリアムがまだ包帯の残る腹の傷をさすりながら笑った。
ウェセックス軍は、ウェアハムの外縁部を取り囲むように天幕を張って、デーン人たちの動静に油断なく目を向けていた。修道女たちはいまだ防壁の内側にいる。
やむを得ずデーン人の枕席に侍らざるを得なかった者もいないとは限らない。不名誉な出来事の痕跡が余人の目に触れないように、という配慮で、撤収作業はデーン人たちと修道女たちによって進められ、ウェセックスの兵は立ち入りを控えていた。
「楽師殿。偵察の折に見た、あのさらわれた娘は、陛下からの見舞いの品を受け取ってつつがなく村に戻ったそうですよ」
「……それは、いい報せだ」
少しだけ鼻の奥がつんとした。あの娘が修道院の中で具体的にどのような苦難にあったかは、取りざたすまい。無事に帰れるならそれで十分だ。
あの娘には、俺の歌はどう聞こえたのだろうか。
忌まわしい異変が起きたのは、明日はデーン人たちがウェアハムを出る、と言うその夜のことだ。
そのとき俺は、歩哨の任務を済ませてくつろぐ何人かの兵士達やアンスヘイムの男達と共に、ウェセックス側の大きな天幕に居た。
「明日、ハムワーへ鎖蛇号を回航して来るそうだ」
ロルフが顔をほころばせてそう告げた。彼はキリスト教徒ということで、ウェセックス軍の情報を、比較的容易に聞きだすことが出来る立場を占めつつある。一座が喜ばしげなざわめきに包まれた。
「やっとか」
「おかしなところにロープを取り付けられていたりしたら、とりあえず笑うか」
「我らへの報酬をついでに積み込んであると手間が省けるが」
皆口々に勝手なことを言っている。
そんな中で、スノッリが突然険しい顔になった。
「皆、静かに。なにか妙な音が聞こえないか」
そういって天幕の外の闇のほうへ耳をそばだてる様子だ。俺には何も聞こえなかったが、何人かの男達は、そのかすかな音を敏感に聞き取ったらしかった。彼らの表情が緊張したものになる。
「金属のぶつかる音……多分、剣だ。それに悲鳴と馬蹄の響きが混ざっているように思える」
スノッリがそう言いながら、足元の剣と弓矢をおもむろに手元へ引き寄せた。
「まさか……」
そこへ馬蹄の音が接近してきた。悍馬のいななきが間近に迫り、やがて蹄の音が途絶えると、緊張が走る天幕の内側へウィリアムが転がり込んできた。
「アンスヘイムのご一同、それに楽師殿! 一大事ですぞ!」
荒い息をついて、我らがパーカッション奏者は俺達を見回し、眼をカッと見開いて叫ぶ。
「何事だ?」
誰からともなく声が上がる。
一息大きく吸い込むと、ウィリアムは満身の憤怒をこめた面持ちで告げた。
「デーン人どもめ。陛下のご沙汰無きままにウェアハムを脱け出しおった! 街道を固めていた仲間の兵士が数多、斬り死に申した」
「何でだよ!」
俺は思わず叫んでいた。
あの歌は彼らに届いたのではなかったのか? 俺は甘かったのか?
ああそうだとも、まともな頭で考えれば、歌一つで戦が収まるなどと期待するほうがおかしい。では、何故グソルムはあのとき門より歩み出てアルフレッドに膝を屈して見せたのか。
怒りと混乱でなかば茫然自失の態をなしていた俺をよそに、男達はウィリアムを落ち着かせ、詳細な聞き取りを開始していた。
「どちらへ向かったか分るか?」
「皆目……奴らはウェアハムに養われていた馬に鞍をおき、騎馬隊となって駆け抜けたのです」
「なるほど……その騎馬隊は何騎ほどに?」
「夜のこととて分りませんが……仲間の話などから推測するに、少なくとも二百騎ほどはいたのではないかと」
「二百騎となると、莫迦にならん戦力だな」
アルノルが口髭を捻り上げた。
「デーン側に居た負傷者や、修道女たち、それにウェセックス側から和議の保証にと出されていた人質は?」
ウィリアムの表情がずん、と暗くなる。
「分りません……朝を待って検分に行くべきかと」
その次の瞬間、俺は自分でも思いもしなかった言葉を口にしていた。
「朝じゃダメだ。今行こう」
俺は半ば確信していたのかもしれない。デーン人たちの遁走の際に混乱あるいは争いが生じ、犠牲者が出たに違いない、と。
知らせを受けて駆けつけたアルフレッドらをも交えて、俺達はウェアハムの防壁内へとなだれ込み、松明を掲げて奔走した。
見渡す限りの血の海、などと言うものを目の当たりにしたわけではない。ウェアハムの内部はそれなりに広いため、面積に比してみればまばらなものだった――倒れている死体は。
「こいつも駄目だ。事切れてる」
横たわる死体の一つを、オーラブが槍先でひっくり返した。デーン人の一人らしい。ここしばらく何度かの衝突の際に負傷したらしく、右の肩口には粗末な包帯が巻かれている。近くにはぼろぼろになった盾が取り残されていて、剣を取れないまま、身を守ろうと懸命の努力をした事が窺われた。
絶望感がこみ上げる。俺は周囲の闇を透かし見た。600m四方の区画は夜の帳の下でほとんど見通せない。この黒々とした迷路のどこかで、誰かまだ命のある者が救いの手を待っていたとしても、このままでは。
「アルフレッド王! 陛下! 増員を。これではまるっきり目と手が足りない」
「いかにも。心得ました」
そう叫ぶと王は馬首を返して陣営のほうへと駆け戻った。
(畜生……)
膝の力が抜けて、がっくりとしゃがみ込み、手がぬかるんだ土に触れたその時。
左手の松明が作ったオレンジ色の視界の中に、まだ年若い修道女の恐怖で引きゆがんだまま固まった顔と輝きを失ったうつろな目が、こちらを見上げていた。
 




