闇の中の導火線
「松明とロープ、それに農家数軒分の食卓を用意するぞ。なに、質素なもので構わん」
アルノルの指図で、俺達は未明からサンドフォードに移動して作業を進めた。
前に述べたとおり、集落はウェアハムからやや北東、緩やかな丘陵の斜面を見上げた位置にある。夜中に見張りがふと視線を上げると、稜線に黄色く灯りが浮かんで見えるわけだ。
間違いなく、デーン人たちは偵察を出すだろう。最初は少人数で。彼らが着く頃を見計らって松明の灯りを消して持ち去ると、後には闇に包まれた村が残り……テーブルには冷めた食事が用意されている、という流れだ。なかなか趣味が悪い。
「そういえば、俺を泊めた修道女。姉君の侍女だとか」
「ああ、やはりそうだったのか。あの黄色い髪には見覚えがあった……『のっぽのミルドレッド』だ」
松明用の材木にぼろ布を巻きつける作業をしながら、俺はアルフレッドとそんな話をしていた。
「姉は庶子でしたから、侍女といっても非公式なものです。長兄の死後、姉は後々の諍いを防ぐため修道院に送られたのですが、ミルドレッドはいやな顔一つせずについていった――」
長兄と言うのはアルフレッドの2代前の国王。つまり、エセルバルド王のことだ。後にフランドル伯の妻となったジュディス王妃との婚姻で、物議をかもした人物である。
アルフレッドが即位するまでのウェセックス王国は、決して磐石な国ではなかった。庶出の娘が生んだ子が継承権者として担ぎ出される、そんな事態も決して杞憂ではなかったのだろう。
「ずいぶん明るくて陽気な女人でしたよ。前夜から食事抜きだといって笑っていた」
「そうですか……ウェアハムを解放できたら、彼女にはとりわけて報いたいものですね」
ウィリアムが運んできた新しい魚油の壷に松明を浸しながら、アルフレッドはため息をついた。
* * * * * * *
「夜に走り回るのは気がすすまねえなあ」
『鋸歯の』スヴェルケルは今夜三回目の愚痴をこぼした。自分が軽輩であることは良く知っている。だが、ただの五人しか指揮下に回されないとはどういうことか。
(二度手間だろうが……)
苦々しい思いで、スヴェルケルは背後のウェアハムを振り返った。
「丘の上の集落に灯りが点った」
見張りがそんな報せをよこしてきたのは日没のしばらく後だった。問題の集落は、ケンブリッジから行軍してくる間に一度通った場所だ。
あの時はどうしためぐり合わせか、住民はいち早くこちらの接近を察知したらしく、集落に到着したときはもぬけの殻だった。わずかな穀物や逃がしきれなかった家畜を接収出来ただけで、それも千人からの口を養うには気休めにもなりはしない。
グソルムとその幕僚は紛糾した。住民が戻ってきたのだろうというのが大方の意見だったが、幾人かはそれに異を唱えた。
「昨日訪れた楽師の四人組。あまりに派手で馬鹿馬鹿しいのでまさかとは思ったが、奴らは案外ウェセックスの密偵だったかも知れん」
「わしもそんな気がする。何か罠を仕掛けているのではないか」
「騒ぐな、住民だろうとウェセックス軍だろうと同じことだ。目で見て確かめ、敵ならば叩き潰せばいい、獲物ならば一網打尽にすればよかろう」
グソルムはそう吼えて一座を黙らせ、スヴェルケルに偵察を命じたのだ。
(面倒くせえ。大人数で来れば敵がいてもその場で殺せるし、帰りはそのまま獲物や女を持って帰れるじゃねえか)
そんな思いを巡らしながらスヴェルケルと配下4人は丘の斜面を登った。半分ほど欠けた月が西に沈もうとしている。
その明かりの中、進路のずっと脇をふさいだ木立の奥で何かがキラリと輝いたように思えた。
「何だ?」
そちらへ目を凝らす。だが光はそれっきり現れず、丘の上にぼうっと浮かぶ黄色い灯火ばかりが、誘うように彼らを見つめていた。
(気に食わんな……)
「おい、スキョルド。お前ちょっと見て来い」
駆け足の早いことで二つ名のある若者に、スヴェルケルが促した。明らかに怯えを見せたスキョルドだったが、しかし唇を噛んで踏みとどまる。腰抜けと嘲られることは彼らの社会において死ぬことよりも忌まわしいのだ。
「大丈夫だ、おめえの足なら何かあっても駆け戻ってこられるさ。なあ『脱兎の』スキョルド」
「ひでえや、せめて『飛び靴』の方にしてくれ……行ってくるよ」
ぱきぱきと枯れ枝を踏み鳴らしながら進む若者を、スヴェルケルはいささか苦々しい思いで見送った。
(足音を消す算段ぐらいしやがれってんだ)
村の周辺部、一番距離の近い家屋に踏み込んだスキョルドは、呼吸三回ほどの後でばたばたと飛び出してきた。
「お、おい!!」
(莫迦野郎が……)スヴェルケルは心中で舌打ちした。これでは偵察もなにもあったものではない。
「どうしたってんだ、間抜け野郎」
「め、飯がある!」
「はあ、飯だぁ?」
「だ、誰もいないのに、飯だけ……麦と乳の粥に、焼いた豚のあばら。それにエールも」
「そんなことばかり事細かに見極めやがって! 人はいねえのか?」
スキョルドは暗闇も忘れてガクガクと首を縦に振る。背後の民家の灯りが、彼の頭の動きに従ってぱかぱかと点滅して見え、それで若者の応答はどうにか仲間に判別できた。
「仕方ねえな。まあいい、飯があるってんなら頂こうじゃねえか」
ふと、子供のころに祖父から聞かされた怪談を思い出す。
『鷹の城』と呼ばれる無人の館に迷い込んだ娘。夜毎知らぬ間にテーブルには食事が並べられ――
(ええい、やめだやめだ! 爺の与太話なんぞ今思い出してる場合か)
己を無意識に鼓舞しながらスヴェルケルとその部下達三人は軒をくぐった。村のほかの家の明かりが消えたその瞬間は、彼らには見えていなかった。
スキョルドは家の中へ歩み入った四人を呆然と見ていたが、明かりが消えた瞬間、警告の叫びを上げようとした。だがほぼ同時に何か硬いもので後頭部を一撃され、そのまま意識を失っていた。
* * * * * * *
「ほい、一丁上がり」
気を失ったまま縄を打たれたデーン人が四人、引きずられてきた。彼らが時ならぬ宴席とばかりに座ったベンチの下には、人捕り網が民家の梁から吊り下げる形で埋められていたのである。
わざとごろごろとした感触が際立つように麦の切り株をおりまぜた敷き藁で、その存在は巧妙に隠蔽されていた。
「残念ながら、豚のあばら身は床に落ちちまった」
「だから豚なんかもったいないって言ったんだ」
軽口を叩いて笑いあう男達に、アルノルが号令した。
「よし、いったん野営地まで退くぞ」
灯りが遠くから視認できないよう、金属製の鍋などで覆いをした松明を掲げて、俺達は足早に移動を開始した。暗がりの中で殴り倒されたデーン人が一人、村に残っていたらしいが意識が戻ったときにはもはや何がなんだか分るまい。
「この男達、どうするんだ?」
「集落の入り口に死体を吊るすというのも考えたが、余りうまみがないな」
ちょうどアルノルがそう答えたときに捕虜の一人が目を覚まし、さるぐつわを噛まされた口で押し殺した悲鳴を上げた。
「おやおや、可哀想にこんなに怯えて」
「まあ生かしておいてやれ。面倒だが後日、人質交換に使えるだろう」
ホルガーが鷹揚にうなずいた。
俺達が引き払う時点で、村の中はほぼトラップゾーンに変化していた。踏み固め道はあえて荒らさずに残し、井戸の周りや家屋内のドア、納屋の入り口といった、虚をついた場所に落とし穴や引っ掛け綱、鉄菱といった設置型の罠を仕掛けて置いたのだ。
さて、その後二日ほど、アンスヘイムの男達はまるきり悪魔のような仕事振りを見せた。
サンドフォードで仕掛けたのと大同小異の罠を森の中やいくつかの廃村に仕掛け、夜ともなれば松明やランプを巧妙に配置して、ありもしない村落を宵闇の中に現出せしめたのである。
現場を見回ったスノッリたちの報告では、20人ほどが罠にかかって死んだらしかった。負傷者はその数倍はいるだろう。生きて捕らえられたものがさらに数名。
二回ほど、デーンの物見と鉢合わせしかけるケースもあったのだが、ウィリアムやブライアンのような地元出身の兵士を必ずつけていたのが幸いし、事なきを得た。あたかも子供のころから親しんだ町の路地をたどるように、彼ら地元出身者はヴァイキングたちを導いて、薄暗い森の獣道を抜け清流のほとりをたどって、デーン人の裏をかき目を掠め、そのつど拠点まで生還させた。
さすがに事態を把握したグソルムが200人程度の部隊を派遣して、暗躍する敵を狩り出しにかかったときには、既に俺達はサンドフォードを離れて南東の港町ハムワーに入っていたのだった。
「なかなかの働きだった、心から感謝する」
アルフレッドの音頭で皆がいっせいに杯を交わした。
「なに、まだこんなものではないわ、そろそろうちの楽師とケントマントが、何か新しい悪企みを思いつく頃合だろうて」
ホルガーが仔牛の肋骨から肉をそぎとりながら笑う。買いかぶられて悪い気はしないが、正直なところ、俺は唇をてからせて脂ぎった肉を腹に詰め込み、強めのエールに酔いしれて、まともなことは考えられない状態だった。そろそろ呂律も怪しい。
「トールはきっと今、イレーネ殿との閨のことしか考えておるまい」
「失敬な! ……もっろ先まれ考えれる。子供は三人以上……炉辺れ二人して孫に囲まれれるところまれ妄そ――」
「ねえ、人が同席してるときに臆面もなくそういう話をするのはやめてくれないかな。ヴァジさんもトールも」
イレーネが眉をしかめて俺とヴァジをつねった。
「痛い痛い! 千切れる!」
指弾で男の小指の骨をへし折る、謎の修練を積んだ指でつねられてはたまった物ではない。
アルフレッドは俺達のためにハムワーで宴席を張った。もっとも、これは俺達だけでなく、東アングリアからようやく舞い戻って集結した、ウェセックス軍の将兵をねぎらうためのものでもある。
宴席に連なった隊長クラスの兵士達は、俺達の様子をなにやら恐ろしいものでも見るように、呆然と眺めていた。
「のう、拙者にはあれはデーン人のように見えるのだが」
「さにあらず。あれはノース人だそうな」
「ははあ、ではオウッタル殿の朋輩か」
そんな会話が聞こえてくる。
「ウェセックス軍の増員は、ざっと300人強といったところか。ウェアハムを押し包んで落とすにはまだ足りんな」
宴もあらかた終わり、緩やかにそこ此処でそぞろ歩きながらの歓談が繰り広げられる中。アルノルが天幕の外の兵士達を遠目に眺めながら、そう評した。
デーン人の士気はこの二日の俺達の行動で、少なくとも乱れているはずだ。集落に点った明かりを頼りに近づいてみれば陰険な罠の数々が、間引くように仲間をすり減らす。糧食は心細く、捕らえた女達は信仰を堅持して彼らになびかず、負傷者は増えていく。効果は上がっているのだが――
「あまり奴らをいらだたせると、修道女達に危害が及ぶかも知れんしなあ」
「他所の神に仕える女なんぞ、あまり細かく気にしないほうがいいと思うんだが」
アルノルが合理性に裏打ちされた冷たさを露にする。
「そうも行かない。アルフレッドは修道女、ことに腹違いの姉が無事かどうかで、報酬を加減すると思う。それに――」
イレーネが幸せそうにしているのを見ると、何か不公平なことが放置されているような気分になるのだ。彼女だって、アンスヘイムの使節団がヘーゼビューに居合わせる偶然と幸運がなかったら、ハザール騎兵に連れ戻されて悲劇的な事件の渦中にいたことだろう。
「関わったものが窮状にあれば手を差し伸べたくなる」
ヘーゼビューで司教リンベルトは俺の性格を評してそう表現した。全くその通りだ。
自分の腹の中を吟味するに、俺は間違いなく、修道女達――その言葉は脳裏でミルドレッドの逞しくも快活な笑顔と結びついた――を助け出したいと願っている。
そして、出来ることなら彼女達が、彼女達に限らず誰もが、俺とイレーネが育みつつあるような手ごたえのある幸せを勝ち取る、そのチャンスくらいは与えられてしかるべきだと、不遜にも考えているのだ……驚くべきことに。
ノルド語の表現に苦心しながらその考えを言葉にすると、アルノルは一瞬理解に苦しんだような表情をした。そして数秒後にはじけたように笑い出した。その笑い方は、彼の親戚のあのゴルム翁を思い出させた。
「うわはははは! 莫迦だ! 本物の大莫迦だ! トール、そいつは王侯はおろか、アスガルドの神々でも持て余すような途方もない理想だぞ。水鳥の羽と蝋で翼を作って空を飛ぼうとした、鍛冶師ウェールンドよりも物狂いじみている」
はあはあと息をついてようやく笑いの発作をおさめると、アルノルは俺の目を覗き込んだ。
「だが悪くない。なあ、そういうことを夢想する人間を、肯定的に表現する言葉も一つだけあるにはあるんだぜ……とりあえず俺はウェアハムからデーン人を釣り出す奥の手を、一つ思いついている。お前はどうだ? なにか頭の中に妙案はあるか?」
「ある。さっきの考えと同じくらい狂った代物だけどな」
「じゃあそいつを話し合おうじゃないか」
アルノルは天幕の外の宵闇の中に、俺と肩を組んだまま歩き出した。
ウェアハム編、クライマックス間近。