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ばいめた!~楽師トールの物語(サガ)~  作者: 冴吹稔
ブリテンの夏空に、雲は疾く流れ
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朽ちた太陽と山羊の歌

 時間的余裕は余りなかった。俺たちはその日、昼前にはサウサンプトンの町を発つことになったのだ。港湾責任者のリュックマンが結局、ポータスの口まで件の士官を呼びにやったと知ったためだ。

 正直なところ、リュックマンに悪意はない。ただ、アルフレッドが極めて厳正に論功行賞を行う君主であるため、保身のためにも諸事手を抜けないのだ。


 

「全く……お二人とも無茶をしすぎで困る。まあ、お気持ちは分りますが。応急的にずれは直しておきますが、姫は明後日まで長い距離を歩くこと、罷りなりませんぞ」

フォカスはイレーネの膝を掴んで引っ張り、捻りながらそう言った。

「むきゅ」

 イレーネが小さな悲鳴を上げる。微妙に脱臼しかけた股関節を入れなおしたのだ。

 ありがたいことに俺も、ふくらはぎや土踏まずの親指側など負担のかかった部分に、フォカスの入念な施術を受けたのだった。痛さに悲鳴を上げたものの、そのあとは実に快調だ。

「湯浴みをなさったのは良い判断でした。おかげでお二人への施術にはさほど労力が要らなかった」

 按摩や指圧で疲れた手指を湯で洗い、会心の笑みを浮べたフォカスは、イレーネの体を毛布で包み栗毛のほうの馬に横座の姿勢で相乗りさせて、自分の体に数本の革帯で固定した。こっちの馬の名は「カバルス」。これまたラテン語で「馬」の意味らしい。この主従も大概であった。

 白馬「エクウス」のほうに乗れればよかったのだが、俺は乗馬は出来ない。馬のくつわを取って沙悟浄よろしく歩くだけだ。

「締まらないなあ、これは」

「僕だって君に抱えられて乗りたかったよ。早く乗馬を覚えたまえ。いつか、遠乗りをしよう」

「そりゃあ、楽しそうだな」

 一緒に歩くだけでも馬はそれなりに慣れてくれる、とイレーネは言うのだった。遊牧民の馬術を身につけた彼女にはついていくのも一苦労だろうが、それでも遠乗りの誘いは心躍るものがある。

 レーワルデンの広場での再会を思い出す。まぶたの裏に浮かぶ騎乗姿のイレーネは、この上なく美しい。彼女と馬を並べて――フランドルやデンマークのなだらかな丘を駆け巡る空想に、頬が緩んだ。



 アルフレッド王の住まうウィンチェスターまで、20km少々――彼らの使う単位で言えば2ラスト(Rast:註1)の距離の移動となる。男たちのほとんどは徒歩。鎖蛇号から取り戻した荷物のうち、煮炊き用の鍋やランプ、その他のかさばる什器を小荷駄にまとめ、二頭ほどの小馬がその荷車を牽く。

 隊列の準備が整うと、ホルガーが号令を発した。

「出発だ! スノッリは進路を確認、後は準備の出来たものから進め!」

「心得た!」

 軽装のスノッリが、弓を背に50mほど先行する。舗装された街道があるわけではなく、せいぜい馬が踏み固めた道、それも馴染みのない土地だ。彼のような山林での活動に優れたメンバーが露払いを務めるのは皆の安全のために必要なことだ。


 先に動き出して隊列に加わる男たちが、ことごとく俺の肩を笑顔で叩き、あるいはくしゃくしゃと揺さぶって通るのには閉口させられた。

「良かったな、トール!」

「なんとも良い娘だて。あやかりたいものだ!」

「ハッ、すっきりした顔してやがるぜ!」

「その娘を裏切ったら、腐り落ちると思え」

 イレーネとの成就を祝ってくれているのは分るのだが、ごつい連中30人分ちょっとである。肩が砕けそうだ。


 サウサンプトンからウィンチェスターまでのルートは、ほぼ川沿いに丘陵の間を抜ける形になるらしかった。夏といっても日差しは穏やかで、木々の梢の間に覗く空をときおりちぎれ雲が通り過ぎていく。

 荷車の上の金物がからからと音を立て、それに驚いたウサギが草むらを飛び出して一散に斜面を駆けてどこかへ消える。そんな光景を楽しみながら俺たちは北微東へと歩を進めた。



 午後半ば。急に日が翳り、雲が頭上を覆った。ぱらぱらと雨粒が顔にかかる。

「参ったな、通り雨か?」

皆口々に悪態をつきながら、近くの木立の下へと駆け込んだ。それほど酷い雨ではなく、木の下にいれば濡れずにしのげる程度のものだったが、気温が急速に下がり始めた。視界が見渡す限り白い霧に覆われる。

「ええい、不吉な。こんなところで霧か!」

 誰かが吼える。俺はといえばこの時代に飛ばされたときの、あの霧をわけもなく思い出してぞくりと震えた。今は守るもの、執着するものがあるのだ。失いたくない。


 幸い何もそれ以上の変化はなく、どうやら普通の霧らしいと思えた。それにしてもこれでは方角すら分らなくなりそうだ。

太陽石サン・ストーンを使うか」ホルガーがそう言って、懐に手を入れた。


 その表情が驚愕に歪んだ。慌てたように着衣のあちこちをまさぐり、最後にもう一度懐に手を突っ込んで、息を荒げて小さな皮袋を取り出す。

「どうした、ホルガー」

そばにいたアルノルが不審そうに声をかけた。

「やはり、この袋だ……おかしい、太陽石がない」

「なんだって!?」

 騒ぎが気になり、俺はフォカスにエクウスの手綱を預けて族長たちのところへ駆け寄った。

「太陽石がなくなったって?」

「うむ、この皮袋に入れていたのだが……手ごたえがないのだ」

どういうことだ?

「アッシュダウンの上でウルフェルから取り返したときは、有ったのか?」

「ああ、あの時は中身まで見て確認した」

はて。皮袋は狂ったように揉みしだくホルガーの手の中でぐにゃぐにゃと形を変えたが、どうも何か不定形のものが中にあるような、わずかなふくらみが見て取れた。


「……開けてみろよ」

「うむ」

袋が開けられた。何か湿ったように変色した裏皮と、その底に押し固まった白い粉末が見えた。

「何だ、これは……」

 はっと思い当たる。炎上するアッシュダウンを脱出するとき、ホルガーとウルフェルは飲料用ワインの樽にぶつかって、中身を浴びていた。アレは確か、変質して酢になっていたのではなかったか。


 太陽石の正体は方解石の結晶だ。つまり、炭酸カルシウム。


「ホルガー……アッシュダウンで酢をかぶったあと、懐でシュワシュワしなかったか」

「しゅわしゅわ?」

「エールが泡を立てるみたいな感じ」

「そういえば……」

 やはり、そうか。炭酸カルシウムと酢酸の反応で二酸化炭素を吐き出し、太陽石は溶けてしまったのだ。その成れの果てがこの湿っぽい粉末。おそらく、酢酸カルシウムだ。


「これは何が起こったのだ、トール」

ホルガーが絶望を顔に張り付かせて俺を見た。

「……分りにくい説明になるが、太陽石は多分、卵の殻や骨と同じもので出来ているんだ。

酢漬けにした魚は骨が柔らかくなって、食いやすくなるだろう? それと同じことが皮袋の中で起こったんだよ」

「……信じられんが、お前が言うのならそうなのだろうな」

「その粉は特に何の役にも立たないし、もとに戻すのも無理だ。捨てるしかない」

「何と言うことだ。父上が牛10頭を出して購った秘宝だというに……アルノルよ、俺はいよいよ族長を続ける自信がなくなった。船を奪われ、シグルズを死なせ、挙句にこのざまだ」

ホルガーは右腰のベルト上に吊ったサクスを静かに抜いた。

「後は頼む、アルノル。フリーダの花嫁姿が見られんのだけが心残りよ」


 すんでのところで、アルノルはホルガーの右手をとどめた。

「莫迦かあんた。おい、トール手伝え。ホルガーを押さえろ」

「俺だけじゃあだめだ。力が足らん……オーラヴ! ヴァジ!」

 力自慢が次々と駆け寄ってきて、ホルガーに組み付いた。さしもの豪傑も、これだけの人数に押さえられては愚かなことは出来まい。


「落ち着けよ、ホルガー。俺は確かにあんたより知恵が廻ると自負してはいるが、この荒くれどもをまとめて一つところに向かわせるほどの、度胸も人望も持ち合わせちゃいない! サムセー島沖で海賊に追いかけられたときは、それこそ死ぬかと思ったぜ、度胸の搾りだしすぎでなぁ」

アルノルが珍しく激情をあらわにして、ホルガーの襟首を掴み揚げて叫んでいた。


「あんたに自信がなくなろうが、幸運が尽きようが、あんたには俺たちをまとめ上げて国へ帰す責任があるんだよ! 船を奪われたら取り返せばいい、仲間が死んだら仇を討てばいい。俺達に一言、『やれ』と言って先頭に立ってくれりゃあいいんだ。それがあんたが持つべき責任ってヤツだぜ。それが出来るのはあんただけなんだ、ええ、膝砕きのホルガー、ホルガー・シグルザルソンよお!」


(ショック療法だな)

 秘宝を喪失して無力感と不安、絶望にさいなまれるホルガーに、誇張された感情を怒声とともに叩きつけ、内側へと向かう彼の精神に活を入れる。うまいやり方だ。


 俺はホルガーの耳元に口を寄せた。一瞬、騎士オウェインやウルフェルの耳元に甘言をささやく(いや、見た限りまだそこまでひどい訳ではないが)オウッタルの姿を連想するが、そのイメージは心から追い出した。


「ホルガー。太陽石はアイスランドに産すると聞いている。この旅が片付いたら採りに行けばいい。あんたは俺にイレーネと暮らす家をくれる、と言った。請合ったからには簡単に放り出さないでくれよ」

「う、うお、む」

 ホルガーはもぐもぐと唸ると、サクスを鞘に収め、立ち上がった。その動きに引きずられるように、手足を押さえていた男たちが離れていく。

 歯を食いしばって両の足を踏ンまえ立ちつくしたホルガーは、次の瞬間、鞘音と共に大剣を抜き放っていた。


「スルズモルズ(巨人殺し)よ!」

叫びと共にカッと目を見開き、小道の反対側、前方の立ち木へと駆ける。

「ぬおおおおおおお!」

狂おしく叫びながら、彼は二度、三度と電柱ほどもある太さの幹へ斬りつけた。そして再び剣を納めると、向き直ってこちらへゆっくりと歩き始める。


 その後ろで、大木がゆっくりと倒れた。



「落ち着いたか?」

「うむ」

 己の力をもっともシンプルな形で再確認して、どうにかホルガーは精神の平衡を取り戻したらしい。

「まあ、これは案外何かの予兆かも知れん……警告かな? 己を過信して霧の中を押して進むような真似をするな、とでもいった」

アルノルが口ひげを捻りながら思案顔で呟いた。


 鳥の羽ばたきが聞こえた。ハトかムクドリか、それほど大きくない鳥が数羽、霧の中を突っ切って飛来し梢の間を駆け抜ける。一瞬の後、違和感が沸き起こった。

(こんな霧の中で、昼の鳥がわざわざ飛び立って騒ぐ? さっきのホルガーの激発には静まり返ったままだった鳥たちが)


「おい、何かおかしいぞ!」

小声で叫びながら周りを見回して見れば、すでに数人が剣や斧を手に取っていた。


 やがて、前方からぱきぱきと枯れ枝を踏む音。聞き誤りようもない。ようやく薄れ始めた霧が西日を受けて薄桃色に染まる中、青ざめたシルエットが複数、木々の足元に浮かび上がった。


「ノルド語が聞こえたようだったが、誰かいるのか」

前方の青い影が声を上げた。少なくとも人間らしい。

「何者か!」オウッタルが叫び返し、横にいたハーコンとグンナルに押さえつけられた。


「デンマークの首領グソルムに仕える戦士、オスムンドとその一党だ! 訛りを聞くに、ぬしらはデーンのものではないようだな」

「何でえ。本隊に追いついたと思ったのによ」

 港から道案内に同道していた兵士が、小さな悲鳴をあげた。

(王都からこんな近くに異教徒軍が!?)

その恐怖心が伝染したのか、荷車の小馬二頭がいなないた。


「馬がいるのか。ありがたい、貰い受けるとしよう――かかれ!」

 姿勢を低くして伏せていたのだろう。背後の青いシルエットが一気に増殖し、膨れ上がった。そのままこちらへ殺到する足音にあわせて、霧の中から滲み出すように、濡れそぼったデーンの戦士たちが現れる。


盾の壁(スキャルドボルグ)だ!」

 ホルガーの号令一下、彼の周りに集まった男たちがいっせいに円盾を掲げ、噛み合せた。

「トールはいい、妻女を守ってやれ! そして歌え!」

 ホルガーが俺を促し、顎でイレーネたちの方向を指した。

「わかった!」

まだ妻ではない。厳密にはまだだ。だが、ホルガーの心遣いが嬉しかった。


 歌ってやる。俺の歌で彼らが奮い立ち、劣勢をものともせず戦えるというなら、俺は全身全霊を傾けて歌うとも。

 遭遇戦の喧騒にびくともせず、嘶きもなく端然と立つ二頭の馬と、その前に身を挺して立つフォカス。その奥に、毛布に包まって俺を見つめるイレーネ。


 ウード『コメット』をケースから引き出し、吊り帯で肩から提げて俺は叫んだ。

「ゴートカウンター! ゴートカウンター・ソング!」

 アンスヘイムの男たちから歓声が上がった。彼らにとって音楽と歌は、戦場にあって魔術と同義だ。ヘーゼビューや水門での勝利の体験が、熱狂と確信を加速する。

 ヨルグが叫ぶ。ヴァジが叫ぶ。

「ゴートカウンター・ソング! ゴートカウンター・ソング!」


「ミクラガルドの騎士イレーネが、俺に勇気と力をくれた! 

今こそ百の鉄の喉、千の鉄の舌で歌おう――ウェセックスの兵士よ、コメットのにあわせ鍋を叩け!

傍若無人な略奪者の魂と肝をからめとって奪い、手足を萎え凍えさせる俺の歌を聞け! 

ゴートカウンター・ソング! スキャルドボルグ・エディション!」


 恥ずかしさや気後れなどイレーネの膝の間に置いてきた。ノルド語の中に21世紀の英語を交えて支離滅裂だが、気にするものか!

 もともとの歌は減り往く仲間を数え、ジリ貧の戦いを己を鼓舞して斬り進む老兵の歌だ。彼らヴァイキングに捧げるには、どこか無情で敗残の悲しみが漂う、ふさわしからぬ物だった。


 だから、今日歌うこの歌は、彼らのために若干の変更を加えた――



 がっちりと目の前に展開された盾の壁を前に、敵もひとまず盾の壁で対抗することにしたらしい。じりじりと近づく二つの壁の上に、兵士が叩く鍋の金属音が響く。


(ガン ガン  ガンガンガン)


いいリズムだ。素晴らしい。



 高い岩棚を蹄でつかみ 切り立つ裂け目を飛び越えて


 山羊は岩山を往く わずかな草のため


 一頭、二頭 そして三頭


(四頭目が踏み切れぬ)


 下を見るなよ兄弟  お前ならきっと跳べる


 四頭、五頭、そして六頭


(七頭目が遅れている)


 歩けるものは見捨てるな! お前ならきっと救える



 驚いたことに、商人然とした衣を脱ぎ捨てて、オウッタルが隊列の一番右にいた。そこは本来右半身を守れないためもっとも忌避される、真の強者だけがよく守りうる位置なのだが。



 盲目の羊たちを導いて 狼どもの窺う中を


 山羊は高原を往く 豊かなる塩の岩場へ


 一頭、二頭、そして三頭


(後に続くものはまだいるか?)

(ここに、ここにいるぞ!)

かしらの示す道の先 それが明日だ)



 迷信深いデーン人たちに、俺はいかにも危険な魔術師と見えたのだろう。数本の矢が俺をめがけて飛来した。だが、その全てはフォカスの掲げた盾に、吸い込まれるように突き立ち、遮られていた。


「矢も剣も、私が通さぬ。心置きなく歌え――息子よ」

「ありがとう」

フォカスの情愛が胸にしみた。


註1:Rast

北欧で古来使われた距離の単位。大体10km前後とお考えください。語義的には「残り」移動したあと一休みを入れるのに適切な距離、といったことらしいです。

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