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ばいめた!~楽師トールの物語(サガ)~  作者: 冴吹稔
ブリテンの夏空に、雲は疾く流れ
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初めての共同作業~分かち合う歌~

 泥のような、だが心地よい疲労感に全身を包まれて目覚めた。厚手の亜麻布の下に感じるぱりぱりとした藁の感触。

 右腕を下に向け、横向きに寝そべる俺の腕の中に同じ姿勢のイレーネがいる。二人とも生まれたままの一糸まとわぬ姿だ。肩までを深く覆った毛布の下で、俺は彼女の形の良い胸をぼんやりと愛撫し、不思議な安心感を覚えながら再び眠りに落ちかけた。

「……トール」

イレーネの声にはっと目が覚める。

「いつまでしがみついてるのさ。まるでカブトムシみたいだ」

「ああ」

「離れるよ。いいかい?」

「もうちょっとこのままで」

 何といったらよいのか。


 月並みな表現だが、まるで二人の体と存在が溶け合ってひとつになったような体験だった。愛し合うとはこういう事なのか。肉体のみならず魂までも、その奥底でつながって循環するような感覚。

 無論、幻だ。朝の光が差し込み冷たい新鮮な空気がベッドに流れ込めば、それは消えてしまう。だが今は、そのごく当たり前の事実が厭わしい。


「どうしたの?」

「怖いんだ。君が俺の腕から抜け出して、他者に戻るのが。さっきまで一つに成れたと信じていたのに、空間を隔てて視線を向け合い、言葉で――不完全極まりない『言葉』でお互いを定義しあいながら対峙するものに、戻るのが怖い」

「情けないことをまあよくも小難しい言葉で……君、いくつだっけ」

「このあいだ30になった」

年の話はいろいろと堪える。俺はしぶしぶ自分の年齢を明かした。


「そうか、意外と年長なんだな。あの族長より若いかと思ってた……僕は20だ。ねえ、お互いつまらない格好付けをするような年頃じゃないだろう? もっと率直に語るといいよ。ブリュッヘでも同じような会話をした気がするけど」

「……要するにあれだ、その……恥ずかしい」


 話している間にすっかり俺の腕から抜け出していたイレーネが、こちらを向いて少し目元を赤らめ、肩をすくめて俺をなじった。

「もう。莫迦だなあ君は。どこまで莫迦なんだ。恥ずかしいも何も、もう恥ずかしいことなら両手で数え切れない程、し尽くした後じゃないか。何をいまさら」

 ベッドの上に座り込み、素っ裸で向き合っていると、昨晩相手に要求したことや要求されたことの数々が思い起こされた。死ぬ。

「まあでも、実際僕も恥ずかしいよ。恥ずかしくて死にそうだ。だからさ……分け合おう。悦びも恥ずかしさも。希望も、悩みも、全部」

 差し出された彼女の手が俺の手を捉え、指が絡み合う。


 俺は自分の誤りを自覚した。いまさらに、昨日交わした会話を思い出す。人も社会も、それ自体のみで存在していては歪むのだ。

「そうだな。分け合おう。他者が、異物が存在するからこそ互いに学び、愛し合うことも戦うことも、許しあうことも出来るんだ。そういうことだよな?」

「そうだとも!」

 彼女は誇らしげななんともいえない笑みを浮べると、ベッドの脇の椅子にかけられた薄いガウンを羽織り、やや歩きにくそうに部屋を出た。


 ……5分もすると戻ってきた。ああ、そういうことか。

「お察しの通り、小用だよ。そんなに見つめないで」

 流石に顔を背ける。


 そして、彼女は背けた顔をおずおずと戻し、こちらを見上げながら小さな声で尋ねた。

「……もう一回、抱き合いたい?」

「それも悪くないが、それよりも宿の主人に頼んで風呂を沸かしてもらおう」

「お風呂か、いいね」

 流石に体が汚れているのは否めないし、結構な無茶もやらかした。膀胱炎でも起こしたら手がつけられない。お互いを洗い清めよう。温めて、清潔に。赤子に産湯を使わせるように、優しく細心に。



 ありがたい事に、この宿には近隣でとれる大理石をくりぬいた、大きな浴槽があった。清潔な湯がたっぷりと湛えられた風呂に二人で身を沈める。

「これはいいねえ。普通の湯浴みとは比べ物にならない」

「ふぅーっ、生き返る」

 体からじわりと疲れと汚れが滲み出し、湯が濁って行くのがわかる。まあどうせ石鹸もない。上がるときに体をすすぐ為のお湯を少し、別に用意してもらうとしよう。

しるしがなかったの、気にしてる?」

イレーネが俺の肩に頭を持たせかけたまま、そう尋ねた。しるし? ああ、あのことか。

「そういえば、別に出血はなかったな」

「誓っていうけど、君が初めてだ。多分、幼い頃から馬術や武芸の鍛錬を重ねてきた所為だと思う」

なるほど。そういえばスポーツ選手にはその種の損傷は珍しくないはずだ。

「そんなことを気にしてたのか。可愛いな、君は……俺の国じゃ最近は、そんなことに綿々と固執する男は物笑いの種さ」

「へえぇ。ずいぶん大らかなんだな」

「まあね」

 初めてだというならそれでいい。有り難く勿体なくて恐縮するばかりだ。疑ったところで何の得る所もないし、イレーネが嘘を言うとも思わない。


(中世なんだよな、ここ)

 イレーネの示した懸念は、いかにも中世らしい価値観に拠っている。俺はいまさらながらに、彼女と結ばれたことの不思議さを感じた。「出会ったことが奇跡」などと言うフレーズはプロからアマチュアまで、そこらじゅうの歌謡曲やその他のポップミュージックにあふれかえる陳腐なものだが、今体験しているこれこそはまさに奇跡そのものだ。

 俺たちは本来出会うはずのなかった一組カップル。それが今こうしてここにいる。

(生きていくんだ。この時代で、この人と生きていこう)

 21世紀では惨めな敗残者、落伍者だった俺だが、ここではやる事がある。できる事がある。俺の知識とヴァイキングたちの技術で再現できる便利な道具や物品を作り、暮らしを豊かにし、ひいては村を戦争や災害から守る取り組み。

 美しく聡明で武芸に巧みな、可愛らしいイレーネが俺と結ばれて傍らにいる。豪放で頼もしく、謹厳で時に冷徹、時に快い男たちが、俺を仲間と認め肩を並べてくれる。


 何と言う素晴らしい人生だろう。


 このありがたさ、暖かさ。美しさ。思わず満面に笑みがあふれ、こぼれていた。知らず、肩が震え笑い声が漏れる。

「大丈夫かい、トール。急に笑い出して……なんだかすごく気持ち悪い顔だ」

「ほっとけ。俺は今すごく、すごく幸せなんだ。奇跡なんてこんな簡単なことなんだな」

「僕もそんな気分だよ。でも人間に出来ることはごく小さい。無理はしないでね」

「そうだな。君はたまたま高貴な血筋でお姫様だが――人間にとって幸せなのは、ほんの片田舎で木こりや畑仕事でもして平和に平凡に暮らすことだろうと思う。それが一番だ」

「ああ、僕もそういうのがいい」

 俺はこのときまだ本当に実感してはいなかったが、実のところそれを実現する事こそが、真の奇跡なのだ。


 この幸せはどこから来たのか。どこから始まったのか。たぶん、アンスヘイムでインゴルフの家に迎えられ、食事を振舞われたあの瞬間。あの時彼らから食事と共に生命を、幸福を、分けてもらったのだ。きっとそうだ――



 俺は故郷をなくした男


 貧しく 飢えて 寄る辺なし……



 新しい歌の断片が生まれた。誰にも頼れず一人で生きる辛さ、厳しさ。誰かと与え合い分かち合うことで、それは癒されていく。


「歌かい?」

「歌さ。今ここで、生まれた」



 俺には足りないものがある


 余っているなら分けてくれ


 このフレーズには、問答形式で対比されるパートが必要だ――理想を言えば、野太い男声のコーラスで。

 風呂場の反響を利用し、多くの人間が歌っているような雰囲気を作りながら、低くかすかな声で歌ってみる。


(お前に足りないものがある


 余りはないが 分け合おう)


 まだまだフレーズが、モチーフが足りない。と、黙って俺を見ていたイレーネが、良く響くアルトで歌い始めた。


 私は故郷に戻れぬ女


 孤独に 疲れて 老いていく


 佇む人妻 その腕に 眠る嬰児に眼をそらす――



「……そんな思いをしてたのか?」

「全然ないわけじゃなかったな。容色が衰えた寵姫が後宮を出て行く姿は何度も目にしたし。否定したいけど、女が女であることで勝負できる期間は、やっぱり限られてるんだ」

「世知辛いなあ」

「ヘーゼビューに着くまでは本当に、このまま逃げ回りながら老いていくかどこかで悪人の手に落ちる運命かと、絶望しかけてたよ」


 イレーネが提示したフレーズには、ちょうど良く俺がまだ掴みあぐねていた展開があった。そこにあのフリースラントで遭遇した盗賊たちの、不運と窮状を思い出しながら、言葉をつむぐ。


 行き交う人のありふれた 荷物が俺の目を奪う


 お前の持ってるその宝 俺によこせよ必要なんだ


 焚き火の上で焼ける肉 貰い受けるぞこの剣で!


「怖い怖い! それじゃあ山賊じゃないか」

「安心しろ。そこからはさっきのコーラスが――」



 俺が野垂れ死なず、盗賊や追いはぎにもならずにすんだのは、ホルガーたちヴァイキングのおかげだ。

 ところで、70年代に活躍したバンド「キャメル」の曲の中には、人類が生存し続けるために必要な余地のことを、「ルーム」と言う言葉で表現している歌詞がある(註1)。これは、語源的にヴァイキングたちが船の漕ぎ手座席を数える時の言葉だ。転じて、ルームの数が船の大きさも表す。


 だから、この歌の「俺」がヴァイキングに出会って、その窮状をにじませながら宝や肉を請うたならば。彼らはきっと、こう答えるだろう。


 (待てよ兄弟 その手を下ろせ


  船にはまだまだ席がある


  乗れよ 行こうぜあの海へ


  肩を並べて 漕ぎ出そう)


「おお。これは漂泊者と北方人たちの出会いを描いた、問答歌なんだね」

「その通り」

「じゃあ『故郷に戻れぬ私』がこう歌ったら、彼らは何と答えてくれるかな」



 私が求める幸せは 誰かが書いた本の中


 囚われ朽ちる定めなら 終わりにしよう、この剣で!



「自殺はいかん! だったら『俺』がヴァイキングを代表しよう」

 しばし、黙考。やがて、新たなフレーズが立ち現れる。


 (待てよ姉妹よ その手を下ろせ


  この世はまだまだ楽しめる


  遠くを見るのに 疲れても


  隣の誰かに 気づくはず)



「隣の誰かって、つまり君か」

「そう、俺だ」

「ふふ、君かあ。じゃあこれは?」



 私に足りないものがある


 余っているなら少しだけ――




「なんだなんだ、遠慮するな。 俺の取り分からだけでいいのなら、こうだよ」



 (お前に足りないものがある


  余りはないが全部取れ!)



 ばしゃっと水音を立てて、イレーネが躍り上がり、俺の首を折れんばかりに横から抱きすくめた。


「トール……大好き」

「折れる折れる、曲がる」

何とかたしなめてもぎはなした頃には、湯が幾分冷めてしまっていた。

「こりゃあいかん、風邪を引いてしまう」

 慌てふためいてかかり湯をすませ、乾いた布で頭や体をこすりながら、着替えを取りに戻る。二人とも肩から羽織った腰までの薄いガウンのほかはすっぽんぽんだ。


 廊下から食堂まで戻ると、そこにフォカスがいた。

 仰天して立ち尽くす俺達に無言でつかつかと歩み寄り、彼は裸の俺とイレーネを包み込むように抱きしめた。



 月桂樹が、娘に戻った日だった。後にフォカスはそう語る。



註1:キャメルの曲

73年のデビューアルバム「Camel」収録の「Never let go」のこと。聴くならば78年の「ライヴ・ファンタジア」収録ヴァージョンがお勧め。

間奏でのメル・コリンズによるサックスのテクニカルで奔放なプレイが絶品。歌詞のほうも最高でございます。興味をもたれましたら是非お楽しみください。



歌が生まれる過程。


もっとエロイ内容を期待した人は心が汚れていますよ。

風呂にでも入ってくるといいです。


フォカスにとってはイレーネはいわば血のつながらない娘。トールは彼の息子になったようなものですね。泥臭いと感じる方もあるでしょうけれど、血縁や婚姻で結ばれる人間の情誼、情愛。この世で何よりも大切で、美しいものだと私は思います。



もげろ。


お暇ありましたら割烹のほうもお楽しみください。没パート掲載中

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[一言] 素晴らしいシーンと歌でした!
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