鎖蛇号(の手荷物)奪還作戦・準備編
出航までには実のところ、ボールドウィンとの間のさまざまな取り決めの確認と文書化、イングランドへ渡航したがる子供たちを思いとどまらせる、などなどいろいろとややこしい段取りがあったようなのだが、一行のうちほぼオウッタル以外は、――少なくとも俺はブリュッヘ城での二日目をほぼ眠って過ごした。
徹夜明けに半端な時間眠ると、目が覚めた後再度襲ってくる眠気は更にひどいものになる。自分がもうそれほど若くないということが痛感されるレベルで。
そしてうかつに起きていると、ボールドウィンの息子たち二人が宿舎にいる俺のところまで押しかけ、俺を吟遊詩人と見て演奏や物語をせがむのだ。
幸いと言うべきか、21世紀の日本に暮らした身として物語をでっち上げるネタは幾らでもあったが、イェファーでの西遊記ライブに5時間かかったことを思い出し、俺は極力自重した。
だが、眠かったのがとにかく拙かった。
「『バラ科ですごくおいしい実をつける木』の騎士様、騎士様。鞍袋に入っているうまそうな匂いのものは何ですか」
(トール殿! 騎士の名前変わってませんか)
「男は細かいことにこだわるな……『尻みたいな形の甘い実』の騎士オズワルドは答えました。『これは』……」
瞬間に襲う意識の混濁。
「これは燻製ニシンのスキールあ……オエエ」
(トール殿!?)
持続的だが浅い意識の混濁――
「その後いろいろとあっていろいろとありました。
『よし、この饅頭はお前らの好きにしろ!』
『皮を剥くとぐちゃぐちゃになってお客に出せない実』の騎士オズワルドは、部下になった二人の巨人に戦利品を下賜するのでした。
『オズワルド様って戦場での掠奪で(蓄財して)出世したんだ……よし、俺だって!』
『あの、俺は出来ればそっちのでかい饅頭がいいです』
『これは戦利品ではない、捕虜だ』『ゆっゆっ』
諸葛孔明が饅頭を発明していけにえの風習を改めさせたのには、この地の住民が頭だけの」
ポクッ、と音がして後頭部を殴打された。
「もう休みたまえ。話してる内容が寝言と遜色なくなってるじゃないか。……寝言に返事して会話を続けさせると死ぬって話を知らないのかい」
つまりあなたはこういいたいのですね? 『寝言は寝て言え!』と。
「……ぽこぽこ殴られたほうが手っ取り早く死ぬ気がするんだが」
「とにかく死なれたら僕が困るんだよ!……だから寝て?」
目顔で子供たちに退出を促し、イレーネが俺の頭を膝に乗せた。
意識が暗転した。
そんなわけで、俺とイレーネの仲は出航までの間、まるで進展がなかったわけだ。まあそのことはとりあえず今、割とどうでもよくなっていた。
滑るように進む流線型のクナル。頬をなぶる潮風。いつの間にか俺は海が大好きになっている。見渡す限りの空と海、力仕事は辛く、髪や顔はべたべたするがこの解放感はどうだ。
舷縁のところまでやってきて、イレーネが俺の横に並んだ。
「気持ちがいいねえ」
「晴れて、それでいて風がある。船旅には最高の天気だな」
ただ生きているだけで口元に笑みが浮かんで止まらない。そんな気分だった。
「秋まであの城で安楽に過ごせばよかったろうに。ついてくるとは意外だった」
「考えないではなかったけどさ」
イレーネはくるりと身を翻して、舷縁に背を向けてもたれかかった。白いマントが少々タールで汚れるのが見えたが、俺は指摘するのを思いとどまる。
「城にいれば、毎日のように芸の披露を求められるよね。出し物も無限にあるわけじゃないし、繰り返し見てれば飽きも来る。芸人は安売りしないのが長持ちの秘訣だよ」
「なるほどな」
全くその通りだ。旅芸人といいロックアーティストと言い旅がつき物なのは、一つには一箇所に長くとどまることが好ましくないからだろう。
「冬が思いやられるな」
「風邪を引いたことにして寝込もうかな」
くすくすと笑うが、そう言いながらも手はしきりに自分の腕や肩を揉む様に動き、筋肉や腱のコンディションを確認している様子だった。
「そんなことをしたら手足の力が抜けて、戻るまで大変だからねえ」
イレーネといえば彼女は今、いささか奇妙な格好をしていた。腰までを覆う、小さめの輪で編まれ目の詰んだ上質の鎖鎧。頭頂部に補強のためのリブが一条走る、スカルキャップ――頭の上半分だけ覆う方式の兜。フランドル伯が出立の際にイレーネに贈った物だ。兜に翼の形の装飾でも取り付ければ、まるきり北欧神話のヴァルキューレだ。
「似合うな、それ」
「ああ、この格好かい? 何で鎧なんだろうね……婚礼衣装だったら良かったのに」
「いや、流石にそれを贈るのは息子の嫁とかの場合だろう」
「それもそうか」
まあ、武人なりの心づくしなのだろう。俺はフランドル伯の覆いかぶさったまぶたの奥にあった眼光と、袖口から覗いた荒縄を巻いたような腕にしばし思いをはせた。案外あの領主は、冬の間中フォカスを相手にして武芸の話に花を咲かせるかもしれない。
「君は俺なんかとちがって武芸に秀でた戦士だ。その鎧と兜は当を得た贈り物だと思うぞ」
「使う機会はないに越したことはないけれどね」
船はウェセックス王国が押さえる軍港の一つ、サウサンプトンへと向かっていた。水先案内を務めるのは例の「騎士」オウェインだ。有能で主君からの信頼も厚いのだがフットワークが軽いというか、腰が軽いというか、いろいろと便利に使われすぎて人材がほかにいないようにすら思える。
彼の部下がマストの上から叫んだ。
「おーい、甲板! 岸壁が見えまぁーす! あれはワイト島でぇーす!」
「おお、では進路に間違い無しだ。おのおの方、船は真っ直ぐにサウサンプトンへと進んでござる」
彼の部下たちから歓声が上がる。ヴァイキングたちも控えめに声を上げ、オウェインたちを称賛した。そんな中、アルノルとロルフは舵手の近くに陣取って、抜け目なく洋上の風景と舵手や水夫の動きを観察していた。
「いや、お見事! ノルウェーでもこれほど正確な航路をとれる者は多くない」
オウッタルがオウェインをここぞと持ち上げる。
次第に行く手に膨れ上がってくる、白い岸壁と緑の丘。俺はこみ上げる感慨に浸った――ワイト島はイギリスの有名な観光地、保養地となるのだが、特筆すべきは1970年前後に大きなロックフェスティバルが開催される事なのだ。
(くわああああ上陸してえ)
だが、ある一定の距離まで近づいた後、「アイルの信女」号は緩やかに舵を切って北西へ向かい、島から遠ざかり始めた。
「ああ……」
恩赦で都へ帰る仲間の船を見送る俊寛僧都もかくや、という気分で俺は遠ざかるワイト島を振り仰いだ。ジミ・ヘンドリックスが、マイルス・デイヴィスが、ジェスロ・タルが、あの島で――
「どうしたのだ、トール。あの島に何かあったのか」
知らぬ間にそばまで来ていたホルガーが、俺を感傷から呼び戻す。
「ああ。いやなんでもない。いうなればパックツアーにお目当ての観光スポットが入っていなかったのに出発後に気づいたとか、そういう感じだ」
9世紀にふさわしく言い換える努力を放棄した。反省はしている。
「お前と話していると珍しくない事だが、さっぱりわからん」
「うむ、すまん。簡単に言うとあの島は俺にとって……聖地なんだ」
「そうか。船を取り戻したあと余裕があれば、寄っても良いが……今はちょっとな」
そう言うと、彼はちらりとイレーネの方へ視線を泳がせた。
「オウェインはウルフェルよりは与しやすい相手だが、それでも聞かせたくない話はいろいろとあってな。今のうちに話しておきたいことがある。そして、知恵を借りたい」
「ああ。僕は少し離れていようか?」
ホルガーの言葉を聞きとがめて、イレーネが気を使う様子を見せた。
「いや、大丈夫だ。人払いをすることも少し考えたが、女だてらにトールが背中を預ける相手のようだし、むしろそなたの知恵もあてにさせてもらおうか」
「有難う」
族長は俺たち二人をまとめて仲間として遇する腹らしい。やたらといろいろなニュアンスを併せ持った一言で感謝の意を表すと、ホルガーは胸中の懸案について、トーンを抑えた低い声で話し始めた。
この船がサウサンプトンへ向かうのは、理由がある。と言うよりは必然性だ。北海から北仏沿岸にかけたブリテン島の沿岸には大小数多くの港があるが、現在その多くはイングランドの東半分を征圧した、デーン人の支配下にあるのだ。
「当初はどこの港に鎖蛇号を持ち込まれたものか、見当もつかなかったが、情勢から判断すればウェセックス王国の軍港であるサウサンプトンが最も可能性が高い、と言う結論に落ち着いたわけだ。オウッタルのそばにボールドウィンがいないときを見計らうのが大変だったがな」
「なるほど」
「が、問題はまさに、持ち込まれた先がサウサンプトンだ、と言うことにある」
「何故だ? 確実にそこにあるならどうにかなるんじゃないのか」
「あ、待って……判ったぞ。東ローマやイタリアあたりの海軍でも良くあることだ。沢山の兵を乗せられる、つまり軍用に向いた船を海軍の若い士官が港に持ち込んだら、軍が報奨金を出す形でその船を買い取るんだよ」
「聡いな。まさにその通り。悪いことには回航を命じられた士官は、鎖蛇号を『ノースの海賊船』として報告することになっていた。これはウルフェルにも以前に確認済みだ」
「なるほど……そりゃ頭が痛いな」
もし買い入れが済んでいれば、船は名義上ウェセックス国王の所有物となる。いくらオウッタルがウェセックスのアルフレッドと取引があり、ハラルド蓬髪王の使節だと名乗ろうとも、軍港の責任者としてはその一存で船をこちらに返還するわけには行かなくなるのだ。そして、そもそもあの船が俺たちのものだとは直接に主張できない、この状況。
「……鎖蛇号にはみんなの私物が載ってる。あちこちへ払い下げられでもしたらことだ」
「そういえば叔父上の青い斧、お前が借り出していたな」ホルガーが唸る。
「アルノルはあの通り、ケントマントとして水路を把握するのに手一杯だ。今話しかけるとこの先、知恵を貸してくれなくなりかねんからなあ」
言外に『お前が頼りだ』と宣言されたわけだ。
船を持ち込んだ士官は多分、まだレーワルデンでアッシュダウン号が失われたことを知らず、「ノースの海賊」が牢を破ったことも知るまい。通信の未発達な時代ならではの情報の遅延が生じている。付け込むならそこだ。
「その士官とホルガーたちが会うことがないように気をつけなきゃならんが……ウルフェルがレーワルデンで船を調達して戻ってくる前に、何とか口実を考えて荷物だけでも取り戻そう」
「口実はどうする?」
「ちょっと考える。あと、船はどうせオウッタルがウェセックス王に会うんだ。そのときに何とかならないかな」
「なるほど」ホルガーは満足そうに頷いた。
「ところでな、もう一つ問題がある」
「何だ?」
「ロルフがな、キリスト教に改宗した、というのだ」
「ああ」
なるほど、フリースラントを旅する間、ロルフが時折不安そうな顔で悩んでいたが、あれは改宗することそのものへの不安よりも、周囲からどう扱われるかの不安だったのかもしれない。
「元々、交易でキリスト教徒と接することは多いし、こちらもトール神の護符を十字架に偽装したりはするが……」
「仲間内に抱えるとなるとどう扱っていいか判らない、って所かな」
「そうなのだ。ロルフは俺から見れば年長だし、村では貴重な靴職人だ。アルノルには及ばぬまでも、ケントマントも勤まる。重要な男だ。だが、キリストの教えは俺たちの戦いの習わしと、あちこちで矛盾するのだ……戦士の心には二本の舵があってはならん。それは自分も仲間も危険に晒す」
ホルガーは眉根にわずかに皺を寄せ、フリーダのものに良く似た青みがかった瞳でワイト島の方角を見つめた。
「ロルフもその辺は気にしてた。息子の教育をヨルグに頼んでたくらいだ。交易でしか村を出ないようにしたい、とも言っていたな」
「そうか。判ってはいるのだな。彼とじっくり話す機会がなくて焦っていたが、お前がずっとロルフと一緒にいてくれて良かった」
舷縁の内側に視線を戻し、ほっとしたような表情でホルガーはそう言った。
「彼には俺もずいぶん助けられたよ」
ホルガーはそれ以上言葉に出さず、ただ、イレーネに「邪魔した」とだけ声をかけて離れていった。後は自分で黙考して結論を出すつもりなのだろう……また話し合うこともあるかもしれないが。
「そんなに難しい問題じゃないんだけどな」
イレーネがぽつりと呟いた。
「イティルの町の広場には、キリスト教とユダヤ教とイスラム教、それにオーディンはじめゲルマンの神、カスピ海より東の騎馬民族が奉じる天空の神の神殿や祠、他にもいろいろ、一つところに並んでたよ。特に争いもなくね。裁判なんかもそれぞれの教えに従ってやってた」
「すごいな。だが、それでうまくいくものなのか……裁判とか特に」
「実際に関わったことがないからわからないけど……余り変な話は聞かなかったね。人間が罪と考えること、罰として適切だと思うことって、本来はそんなに変わらないんじゃない? 一つの教えで凝り固まってる地域のほうが、極端な制度を作りそうだね」
「確かに、そうだな」
21世紀でも人間のやることは大して変わらない。極度の女性蔑視が横行する国や、自分の子供を簡単に殺してしまう親が後を絶たない社会のことを思い浮かべた。そして、大体においてそれらは自分の目線の届く地平線の内側しか知らないことで引き起こされるのだ。
「うん。認め合えばお互いを尊重してやっていけるものだよ」
ロルフの問題はアンスヘイムの村にしばらく波紋を起こすことだろう。だがどの途、ハラルド王の統一事業やイングランドへのデーン人の侵入と定住は、北方人たちの社会と経済のあり方を変えて行く。キリスト教の流布もその一つだ。
いずれ、ロルフはノルウェーでの布教における先駆者の一人となっていくのだろう。
船はゆっくりと北上し、前方には再び、ワイト島によく似た白い岸壁が迫ってきた。進路の先には、ノルウェーのフィヨルドを連想させる、切り立った谷に囲まれた湾が見える。
水深は深く、非ヴァイキング型の船舶にとっては良港の条件を備えた地形だ。
さて、ここで一つ、皆に周知すべきことがある。俺はホルガーとの立ち話が終わったあとからずっと、頭の片隅で鎖蛇号、あるいは鎖蛇号の私物奪還のための方策を練っていたのだった。
ホルガーのところまで歩いて行き彼に指示を伝える。それは舷縁に、マスト下に、船尾に佇みあるいは作業にいそしむ男たちの間へ密やかに申し送られ、船内を駆け巡った。
曰く――
〈鎖蛇号を確認したら騒げ。ただし、自分たちの船を襲い積荷を奪った仇敵にまみえた、そういう心持で。あと、当面鬨の声では――アンスヘイム禁止〉
ウェセックス軍との追いかけっこと攻防において、彼らが例によって村の名前を叫んだことは想像がつく。(後に確認したところ実際アァアアンスヘインッムしていた)だが俺たちは現在、徹底して「ノルウェーの使節」を演じなければならないのだ。
徹夜明けって辛いですよね。実際寝たいときに寝れないくらい辛いこともあまりない。ホーンブロワーとかよく眠る暇もないような作戦に従事してたけど、焦がしたパンの耳を煎じた代用コーヒーなんかで、どうやって眠気を覚ましたのやら。あったかいだけジャン、あれ。