振り向けば白き砂糖の柱
総合評価ポイント5000突破を謝し、本来週1のペースを大幅に前倒ししての更新でございます。
いくばくかの時間が過ぎ、館中に振れ回る従僕の声で俺は目覚めを余儀なくさせられた。
「晩餐の時間でございます! 晩餐の時間でございます! お客人方、お子様方、皆様広間にお集まりくださいませ!」
イレーネは既に枕元に居なかった。適当な衣装を荷物から引っ張り出すか、あるいは借りに行ったのだろう。
(さて、俺はどうするかねえ)
おそらく公式な会食ではない。平服で出たところでさほど違和感はないだろう。ヴァイキングたちにいたっては、毛皮飾りのついたマントなどを別にすれば後は鎖鎧と兜、その下に着ているのは、水牢で水浸しになった状態からじわじわと乾いた平服か鎧下だ。
だが俺にだって虚栄心はある。イレーネが例によって中性的なスタイルをセンスよく決めてくるだろうと思えば、自分とて何がしかキマったコーディネートをしたくもなろうというものだ。
しばし黙考した俺は、土ぼこりをかぶって白っぽくなったダッフルコートを入念にはたいた。もともとのダークブルーがだいぶ戻って来る。夏場にこんな物を着ているのも狂気の沙汰だが、防具に雨具にとずいぶん助けられてきたものだ。
いつもは腰から右腿にかけて下げて、斧の柄が当たるのを防いできた狼の毛皮を、コートの右肩に革紐で止める。フロントのトグルは全部はずして、内側に着込んだ亜麻のシャツをさらけ出す。インゴルフから下げ渡された古着で、純白と言うわけには行かないがこの時代の水準からいえば十分に贅沢な物だ。
懐の銀貨を、包んだ布ごと引っ張り出して携行向けにループがロウ付けされたものを選び出す。当然ながら、あらかたが北方で流通するディルハム銀貨になった。大きく分厚くてよく目立つ。それを適当な紐に通して即席の首飾りをこしらえた。首と肩の間にゆったりと掛けると、アメリカの人気ドラマシリーズに登場するアフリカ系のキャラクターを思わせる。王様だって殴って見せる感じだ。気が進まないが。
仕上げにイレーネの短剣を腹の上にぶら下げた。鏡などはないが、自分の出で立ちを脳内で想像してみる。
……そんなに酷くはないはずだ! 明らかに定住民ではなく放浪者のそれだが、精一杯の富と武勇を誇示してる感じに――
「うん、ダメだダメだ。普通にしよう」
毛皮と銀貨を元通りにしまいこみ、短剣だけをそのまま残して俺は広間へ向かった。髭の薄い日本人にそんな脂っこい扮装は似合いやしない。
晩餐が始まった。広間の奥の上座にフランドル伯が座し、子供たちの乳母兼教育係だという地味な女性が女主人役としてその隣に座った。反対側にはホルガーがノルウェー王の使節代表として席に着き、その横にはオウッタルが意味ありげな笑みを浮べている。
壁に面した両側に、来賓である俺たちと、対面にはフランドル伯の家臣のうちの主だった者たちが着席。末席ながら俺はまんまとイレーネの隣に席を占め、彼女とフォカスに挟まれる形となった。
賓客が紹介されていくうちに、ちょっとした一幕が持ちあがった。客の名を読み上げる係の廷臣が、イレーネを男装時のままの名、「イレネウス」で呼んだのだ。
立ち上がった彼女の清楚な――ワインの細いビンを思わせるカットの――ドレス姿に、広間にざわめきが起きた。
「ああ、申し遅れました。アモリアのイレネウスと言うのは旅の途上、身を守るための偽り。改めてご挨拶します、フランドル伯。僕はアモリアのイレーネ……以後もお変わりなく良しなに」
対面に並ぶ家臣たちが、顔を見合わせて訝しんだ。
「殿の仰せでは旅芸人と言うことだが――」
「アモリアといえば――ビザンツの皇帝の家名では?」
家臣たちの中に、妙に外国の事情に詳しい者が居るようだ。
「あー。静まれ静まれ、諸卿らよ。とにかくイレネウス、いやイレーネ殿は余の客人だ。秋の収穫祭にはまた大いにその技の巧みなるを見せてくれるだろう。彼女に無用の詮索や無礼はならんぞ」
「イレーネ殿に不埒なことをすると、お隣の楽師殿がただで置きませんよ!」
小ボールドウィンがこれはおそらく、心からの善意でそう言い添えたのだが全くもって余計なお世話だ。
大人同士の会話に口を挟む無作法に、乳母がこつんと少年の頭を指の関節部分で叩き、周囲に失笑が飛び交った。
やがてそのざわめきは俺に向けられた物へと変わる。
「楽師とな」
「はてさて。北方人とも違う異相なれど、いずこより参ったものか?」
「イレーネ殿とはいかなる関わりであろうな?」
いいたいことや疑問があれば直接俺に訊けば良いものを。こう見えても最近ではゲルマン系の言語はある程度耳で聞いて大意くらいは理解できるんだぞ。……我ながら空恐ろしいがフリーダの特訓の賜物だろうか。もっとも慌しい戦闘中は流石に無理だが。
「これこれ、宴席での不明瞭な会話はよさぬか。ちょうど次は楽師殿の番ぞ」
領主の鶴の一声に、静まり返った広間。そこへ俺の名が仰々しく読み上げられる。
「フィンの楽師、トール・クマクラ殿。ノルウェー使節団、ホルガー・シグルザルソン殿の客分」
俺はゆっくりと立ち上がり、ウードを左手に掲げたまま開いた両腕を頭の高さに揚げて、ぐるりと宴席を見回した。
「私のような者を宴席にお招きいただき、感謝に堪えません。フィンの地の遥か東の方に横たわる島国より参りました。トール・クマクラと申します」
ノルド語だが、大方は通じている。何せすぐ目と鼻の先にはロリックの王国があり、フランク王国にはデーン人が足しげく出入りしているのである。
「ずいぶんと遠いところから参ったのだな。見れば珍しい楽器も持参しておる様子。後ほど必ずや、一曲披露して聴かせよ」
「承りましてございます」
一礼して着席しようとしたとき、ボールドウィンがしげしげと俺を見ながら言った。
「余も気になるのだが、イレーネ殿とはどういった関係なのかね」
あ、訊くんだ。
ちらりと目をやると、イレーネは謎めいた微笑を満面に湛え、俺に向かって頷いた。
(これは、好きなように答えていいってことなのか?)
ああもう。腹を決めよう。
「我らは奇縁有りて出会い、ブレーメンの司教リンベルト師の立会いの下に、互いの来歴を詳らかにいたしました。私はイレーネを愛し、守り、慈しまんと欲します」
すっとイレーネが立ち上がり、俺の右腕を胸に抱いた。
「旅の空に遠く離れても、我らは再び巡り会い、孤独な魂を暖める灯火を、お互いの中に見出しました。僕はトールを愛し、理解し、寄り添わんと欲します」
ボールドウィンは一瞬絶句し、ややあって息苦しそうに笑い始めた。
「これは呆れた! ノルウェーの使節を迎える晩餐のはずが、いつの間に披露宴になった」
「殿、披露宴なら城の庭を開放し、領民にも振舞わねばなりますまいが」
家臣の一人、昼間城まで先触れに走った兵士(というより騎士だったわけだが)オウェインが慣習の要求するところを指摘する。
「そうだな。秋の祭りにあわせて披露するか。楽師殿も是非、秋にはまた」
ボールドウィンが俺のスケジュールを勝手に変更してくれた。
「奥と知り初めた時分を思い出すのう」
領主の目に光る物があるのを俺は見た。
「よくぞやりおった、トールめ」
「果報者だな。まあ、やつにはそれだけの値打ちがあると俺は思うがね」
「これは、俺もそろそろという気にさせられるな」
アンスヘイムの男たちの好意的な野次が小声で飛び交い、宮廷人たちは大いに不明瞭な会話を繰り広げる。紹介はフォカスへと続き、やがて陪食者全員の紹介が終わると酒と料理が運ばれてきた。
期待に反して、料理そのものは平凡だった。茹でてあぶった大量の肉と、パイ皮や湯でこねたパンに包まれたナッツや干し果物、あるいはこれまた肉。いかにも後に中世盛期の宴会へと発展する途上を思わせるコースだ。
俺にとってはそんなことはもはやどうでもよく、右側に座ったドレス姿のイレーネのために料理を取り分け、彼女のためにと切った肉が予想に反して俺の口へと運ばれる多幸感に酔いしれるばかりだった。
聞いてみれば彼女も結局、いろいろと凝った衣装を選んで決めあぐねた挙句、居館の衣服係からこのドレスを借りたという。お互いの顛末を話し合って、俺たちは顔を見合わせて笑った。
酒はなかなかのものだった。西フランクから運ばれたらしい芳醇なワインや、ハーブ類を使って香りをつけた独特のエールが飲み交わされる。
ふと気づくと俺の左側で、フォカスがかなりの酒量をすごしていた。岩か古木のような彼の額が、今は茹でたように赤い。
「フォカス、少し呑み過ぎじゃないか?」
「何の、この程度でこのフォカス、つぶれはせんよ……私は今、心の底から幸せなのだ。手塩にかけて育て上げた弟子で、皇女の愛娘であるイレーネ様が、国を出るときには諦めた女の幸せに、手を届かせようとしているのだからなあ」
「既に成就したこととして祝わないのが、あんたらしいな」
「幸福は移ろいやすいもの……神々は意地悪く、そこらじゅうに落とし穴を仕掛けおる。トール殿……姫様を頼む。くれぐれも」
言い終わるとフォカスは実に気持ちよさそうに、目を閉じてテーブルの上に突っ伏してしまった。
「神々は意地が悪い、か。……ギリシャの神々なんだろうな、フォカスの頭にあるのは」
「だろうね」
苦笑するイレーネがフォカスを見る眼差しは、やはり世間で娘が父に向けるものと同じに思えた。手近の給仕を呼んで、フォカスの肩に厚手の布を掛けさせている。
「ギリシャか。行ったことも無いが、言葉が難しいと聞く……君との間でノルド語が通じる事が嬉しいよ」
「うん」
イレーネはそれ以上何も言わず、ただ俺にもたれかかって目を伏せた。
無事に村に帰れたら、改めてフリーダに礼を言おう……多分礼を言うまもなく質問攻めにされるだろうが。
森の奥にひっそりと 佇む小さな料理店
料理長は年ふる灰色の 毛皮まとった狼親分
ズボンのベルトに牛刀を 手挟みながら一思案
さても今夜の仕込には
ちいっとばかり足りぬぞ、肉が!
しからば仕入れにいかねばならぬ
一体どこへ出かけたものか
農夫のエリクの目を盗み
鶏小屋を荒らしたものか
それとも囲いで草をはむ
太った牝牛が良いだろか
そうだ東の丘の上
群れてさざめく羊ども
いずれも良家の娘だが
一頭くらいは気づかれまい――
宴もたけなわ、いい加減一座に酔いが廻り口もほぐれてきたところで、ボールドウィンから歌を所望された俺は、あらかじめ「いかがわしい歌です」と断って、例のフロルローグ王の「羊肉の歌」を歌っていた。あの宴席を途中で辞してはいたが、残りの部分についてはクラウスたちから聞き出してあったのだ。
ありていに言えばグリムの赤頭巾説話に近い、婦女子誘拐の内容を含んだ猥歌だ。途中で雲行きの怪しさを感じ取ったボールドウィンは、乳母役の女性に命じた。
「あー、これは子供に聞かせるには不適切な歌よな。ユーライア、せがれ達二人を連れて、子供部屋に引き取らせてくれ」
「かしこまりました……その後は聴きに戻っても?」
「……うむぅ、好きにいたせ」
――あわやのところで羊飼い 棍棒片手に躍りこみ
親分慌ててエプロン抱え 後をも見ずに逃げ出した
「怪我などないか、愛し子よ おかしな事をされてはおらぬか」
子羊ほんのり頬をそめ 毛皮を身につけこう言った
「うん、大丈夫だよ大丈夫。……明日もお料理されに行こう」
「ひどい歌だ! これはひどい!」
「旋法が細緻で演奏が巧みなだけに、歌詞のひどさが際立ちますな!」
歌い終わると惜しみない拍手と呆れ半分の罵声が浴びせられた。顔はみな酒に緩み上機嫌でにやけている。
「トール。君、照れ隠しにしてももうちょっと」
イレーネは眉根を押さえて顔をしかめた。この歌をはじめて聞いたとき、俺がしたのとそっくりの動作だ。
「わかった、もうちょっとましな物をもう一曲歌おう」
「あいや、皆様方。子羊が『僕』と自分を呼ぶのがイレーネの不興を買いましたので、埋め合わせにもう一曲歌います」
「ちょっと!」
思わぬ反撃にイレーネが顔色を変え、すぐに笑み崩れた。
霧深き暗い夜の海に
今も響く声
団居の夢の中に俺を呼ぶ
古き友の声
我らは常に共にありき
緑萌える春の喜びの日も
我らは常に共にありき
骨噛み血飛沫く戦の中も
だが その日
俺は見たのだ
血糊に濡れ滑る指に
鋼の剣とりて
並ぶ盾の只中へ
一人駆けて往く友の姿を――
悲壮で荘重な曲調に座の雰囲気が一変し、特にアンスヘイムの男たちの目に、新たに強い光が宿った。
日本にいたときに作りかけていた、正調ともいうべきヴァイキングメタル風の楽曲のための歌詞が元だ。だが、この曲が本来の形で完成することはもはやあるまい。
今この歌をステージに掛けたのは、自分がシグルズの悲運を忘れていないこと、この奇妙な旅路の目的地がまだ遠いことを、皆と確認し共有したいという想いからだ。それは彼らに確と伝わった。
だが、俺にとってはもう一つの意味がある。それはかつて愛し憧れ、この胸を焦がした女、共に音楽の道を進むのだと俺に錯覚させ、不慮の死を以って俺を突き放した、懐かしくも愛憎半ばする女への、訣別だった。
さようならだ、ケイコ。俺はいまや、イレーネを見出した。
二日の後、俺たちはボールドウィンに小型のクナル「アイルの信女」号を借り受け、再び洋上に出た。俺の傍らにはイレーネが、片時も離れぬといった面持ちで寄り添っていた。
自作厨二ソング二編収録でお送りしました。
振り向けば宴席に累々と横たわるき白き砂糖の柱。振り仰げば行く手に広がるアルビオンの白き断崖。白く光る物全てが砂糖には有らず。酢に交われば形なくなる。