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ばいめた!~楽師トールの物語(サガ)~  作者: 冴吹稔
ブリテンの夏空に、雲は疾く流れ
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子供たちをシメないで

 忘れがちなことだが、馬という生き物は走ると大量の汗をかく。走らずとも6月も終わりの晴天下、城塞につく頃にはデニムが馬の汗でぐしょ濡れになった。

「うう、何だこりゃ。気持ち悪い」

 水分と塩分だけでなく、なにか特有の成分があるらしい。太腿とこすれた部分が泡立っているし、なんだかぬるぬるする。

「ああ馬の汗か。城に着いたら着替えて、その脚衣は洗ったほうがいいね」

「そうしよう。大きさのあう古着でもあることを祈るか」

 さらっと口にしたものの、その空虚さにぞっとした。もともと神仏を真剣に信じるほうではないし、幾許かでも加護を与えてくれそうな日本の寺社仏閣は地球の裏側だ。こんな時の果ての麦畑を渡る風の下で、一体何に祈ったものか――オーディンは日本人の俺にとって、いささか酷薄すぎる。


「馬には余り乗ったことが無いのかい?」

 イレーネが不思議そうに聞いてくる。出身をフィンの東方の奥地と説明しているので、そのイメージにそぐわないのだろう。

「俺の故郷は山がちなところでね。それに、平地では何十人も乗れる大きなコガネムシみたいな車が街道沿いを往復してて、それに賃料を払って乗せてもらうのさ」

 実際には近代以前、日本の山地でも馬は普通に使われた。だが21世紀日本の交通事情などまともに説明しても理解は得られまい。

「へえ。想像もつかないなあ。何にしても馬の汗で音を上げてるようじゃ、君は遊牧民にはなれそうにもないね」

「ヴァイキングになるのとどっちが近道だろうな」

 正直なところを言えば馬の生温かい体と筋肉の律動、それにこの濡れた感触のせいでいささか身体的に危険な感じになってきていた。そしてイレーネの髪の匂い。これはまずい。

 心中に懸念と遠慮がわき起こり、彼女の腰に回した腕からふっと力が抜ける。ちょうどその時、馬が地面の小さな隆起を踏み越え、俺は馬の上でバランスを崩した。

「あっ……」

「危ない! 何やってるんだ」

落馬しかけた俺を、イレーネがものすごい力で引き戻す。

「しっかり捕まってて、って言ったじゃないか。落馬は命に関わるよ。それに背中の楽器も取り返しのつかないことになる」

「す、すまん」

「……降りて。城塞はもう目の前だ――僕にも配慮が足りてなかったみたいだね」

 彼女は俺を馬から降ろし、苦笑と悔恨の入り混じった顔でこちらを見た。そのまま歩み去る彼女の背をしばし見送る。なんだか惨めな気分だ。


 城に着いて先ず最初に、フランドル伯に着替えを所望した。使用人の前で服を脱ぐのがいささか気恥ずかしかったが、代わりに与えられたズボン様のものは亜麻と羊毛の混紡で通気性がよく、なかなか快適で大いに人心地がついた。

 間近で見ると、城塞のあちこち、塔の基礎部分や城壁の角といった場所に、明らかに人為的に切り出された石材や、しっかりしたアーチの痕跡が見て取れる。どうやらローマ時代辺りに築かれた城塞の遺構を、かなりの部分で再利用してあるらしい。


 晩餐までいくらか時間があると言うことだったので、俺はアンスヘイムの男たちに与えられた宿舎の一室に荷物を置いて、ウードだけ背負って中庭に出た。遅い午後の日差しが城壁ごしに差し込み、白っぽい色の石材に淡いブルーの影を落とす。

 不意に酷い眠気が襲ってきた。考えてみればレーワルデンに入港して以来、まるまる24時間以上、眠っていない。

(少し眠るか……)

 どこか風が入らず、体重を預けられる物体があって静かな場所。そう念じながらよさそうな物陰はないかと物色して歩いていると、大きな厩舎と、その前でエクウスの体にブラシをかけてやっているイレーネが目に入った。

 眠くないのか、と不思議に思いながら、足はついそちらへ向かう。近づいてみると、男装を解いてやや薄着になった彼女の傍らには、なにやら10歳かそこらの、ほっそりした少年がまつわりつくように侍っていた。

「ご好意は嬉しいけど、君ねえ。僕はしがない旅芸人だし、異教徒だよ」

「身分の差なんかどうってことはありません! 父上だって――」

なかなかややこしい事になっているらしい。俺はわざとらしく声をかけて自分の存在を主張した。

「やあ、ここに居たのか、イレーネ」


たちまちすがるような視線が俺へ向けられた。

「ああ、トール。ちょうどいい、助けてくれ。こちらの若様――小ボールドウィンが僕をお気に召したらしいんだが――」

「おい」

 思わずドスの効いた声を出してしまった。小ボールドウィンと紹介されたその少年は、年齢にしてはいささか広すぎて見える明るい額をこちらに向け、気圧された風を見せながらも果敢に――いや、むしろずうずうしく矛先を向けて来る。

「む。……イレーネ殿が頼りにするからには近しいお方と見受けました。いずこの何とおっしゃる方か、お名前をうかがいましょう。もしその権限がおありなら、彼女との交際をお許し願いたいのです」

ちょっと何言ってるか良く分りませんねえ。無茶苦茶だ。

「俺はトール・クマクラ。楽師だ。彼女とは知り合って日が浅いが、大変仲良くさせてもらっている。大変仲良くだ、意味は分るか?」

 どう取られても別に構わない。より踏み込んだ意味に取られたとしても将来事実になる可能性があるし、俺はそうなりたいのだ。


「た、大変仲が良いのですか……」

どこまで理解したのか分らないが、自分にとっての障害であるとは判断できたらしい。

「そうだ。そして悪いが俺には交際を許可する権利はない。そして権利があったとしても許可したくない」

「むむ……仕方がないです。世俗的権力を恃んであなたを排除しようとすれば、僕はイレーネ殿のわずかな好意も失うことでしょうね?」

「当たり前だ。なかなか良くわかってるじゃないか」


「済みませんでした。こんな美しく魅力的な女人を見た事がなかったので、ここに運命が決まった物かと」

 小ボールドウィンは見るも哀れに意気消沈して、しおしおと肩を落とした。それにしても、よくもこう歯の浮くような賛辞がすらすらと出てくるものだ。

「気持ちは嬉しいし分らなくもないけど、そんなにがっつく物じゃあないよ」

イレーネが妙に嬉しそうでにやにや笑いが止まらない風なのが、腹立たしい。


 何にしてもその語彙と言い、ずいぶんと背伸びをしたがる子供だ。俺は彼のそばにかがみこんで、声のトーンを幾分柔らかく変えて話しかけた。

「なあ坊ちゃん。お前さんまだ見たところ10歳か11歳、そんなところだろう? 何故そんなに必死で嫁が欲しいんだ」


「良くぞ聞いて下さいました。僕、お爺様に似てるらしくて……父上からいつも『お前は爺さんにそっくりだ。早く妻を娶らないと禿げてしまうな』といわれるんです」

 うわあひどい。爺さんと言うとウルフェル艦長が言っていた、シャルル禿頭王か。

「あー、うん。確かにその額は将来を予感させるものがあるなあ。しかしなんだ、親父さんは爺さんと仲が悪いのか」

 言ってしまってから思い当たる。ウルフェルの談ではボールドウィンとその妻は駆け落ちだったという話だった。そりゃ仲も悪かろう。

「両親の結婚にローマ教皇からお墨付きを頂くまでは、お爺様が執拗に書状で行く先々の領主や司教に妨害を命じたり、追捕のために手勢を差し向けたりと、なかなか大変だったみたいです」

 子供に聞かせるなよそんな話。まあこいつが生まれて、禿頭王は自分に面差しの似た孫に態度を軟化させ、ボールドウィンはいつも義父に似た顔がそばにあって内心穏やかならず、と言うところなのだろう。

「なあ坊ちゃん。親父さんは何だかんだ言ってもお前さんが可愛いんだろうさ。将来のことを気にしてくれてそう言うんだろうからな」

「そ、そうでしょうか」

少しほっとした顔の少年に、俺は意地悪く追い討ちをかける。

「だが、自分でも分ってると思うが、好きあった男女を自分の都合のために引き裂こうとするのは、権力者のするべきことじゃないぞ。親父さんと爺さんという実例がすぐそばにあるのならなおさらだ」

「はい……」

 小ボールドウィンは広すぎる額以外は可愛らしく整ったその顔を、恥ずかしそうに伏せて俯いた。思ったよりも素直だ。

「安心しろ! 男が女に好かれるかどうかに髪の毛の有無はあまり関係ない。むしろ場合によってはハゲの方がモテる!」

「ほ、本当ですか!?」

「俺の国にはこんな言葉がある……『ハゲはセクシー』」

「むむむ! セクシーと言う言葉の意味は良くわかりませんが、希望がわいてきました! いや、それでも禿げたくはないですけど」


 俺はおもむろに背中の袋からウードを取り出した。はじめて見る異国の華美な楽器に、小ボールドウィンの眼が輝く。

「何ですかこれ! すごく綺麗だ」

「遠くアラビアからもたらされた、ウードって楽器だよ。コメット(彗星)って名をつけて呼んでいる」

「演奏してくれるの!?」

小ボールドウィンは激しく興味を示している。

「うむ。ではお粗末ながら――」

 頼りないガット弦を優しく掻き鳴らし、軽快なカッティングを交えて、3連ノリの跳ねたリズムで即興の曲を歌い始めた。



 男の頭が禿げるのは 胸に燃えたつ火の所為だ


 激情が時に身を焼いて 総身の知恵を滾らせる


 おかげですっかり髪は煮え 見渡す限りの焦土だが


 前髪気にする男より 大きな事を成し遂げる



 眉目麗しい娘さん 毛のない男を嫌うなよ


 闇の中になお照り映える そいつの頭を追っていけ


 禿げはセクシー とてもセクシー



 ユリウス・カエサルは頑張った


 ジャン=リュック・ピカードも頑張った


 ルイ=ニコラ・ダヴーも頑張った


 ドレイク・ルフトも頑張った――



 そこまで歌ったとき、厩舎の前庭に新たな来訪者があった。6歳くらいの可愛らしい子供だ。小ボールドウィンとサイズこそ違え、同様の仕立ての良い服を身に着けている。


「兄様、ここでしたかー。お客人に会いにいかれたと――」

「あ、ラウル。こちらは――」

小ボールドウィンの返事を待たず、ラウルと呼ばれた子供は真っ直ぐにイレーネの足元へと走り、彼女の膝に抱きついた。

「新しい母上ですか!? 僕、ラウルといいます。仲良くしてくださいね!」

期待に満ちた眼でイレーネを見上げる。

「こらあ! その人は俺が――」

俺は思わず演奏を止めて叫んでいた。……もうやだこの一家。



 ラウルの後を追いかけてきたボールドウィンに平謝りされるという椿事を経て、俺は居館の奥まった場所の一室に仮ごしらえのベッドを得て、寝そべっていた。

 長時間の断眠を経験した事があれば分ると思うが、いったん体のサイクルが狂ってしまうと、寝入るのには結構時間がかかったりする。

 枕元にはイレーネが俺の顔を覗き込むように肘を立ててもたれかかり、ささやくような会話が続いていた。

「ああ……このまま晩餐をすっぽかして朝まで寝ても、俺は構わない――」

「これだけの人数をもてなすんだ、準備にはまだ時間がかかるさ。お仲間も宿舎で交代で寝てるよ」

「流石に皆用心深いな」

オウッタルが巧みにボールドウィンを謀ってはいるが、本質的にはここは依然敵地だ。


「ねえ、さっきラウルに何て言いかけたの?」

「ん」

「『その人は俺が』の後さ」

「いろいろと想いが膨れ上がって、一言にまとまらなんだわ」


 イレーネが噴出す口元を押さえ、やがて耐え切れずにけたたましく声を上げて笑った。

「止してくれ、せっかくそこまで来た眠りが逃げていってしまう」

「あはは、ごめんごめん。それにしても――はじめて会ったときはまさかこんな風になるなんて想像もつかなかったね」

「ああ、まあ――およそ男女の出会いとしては最低に近かったかもな」

 夜道での追いはぎ。反撃で気絶したイレーネを背負って、ハザールの騎兵たちから身を隠し教会の庭へ。

「お互い酷かったよね」

「いきなり剣を突きつけるわ、組み敷いて口にシャツを押し込むわ、だからな」

 あのシャツに俺の唾液その他がべっとり滲みこんでいた事は出来るだけ伏せておこう。


「でも、今思えばあの中庭で組み敷かれたときが始まりだった気がする――殺されるか、もっとひどいことをされると思って身が震えたけど、後で思い出すたびにあの時のどきどきが甘い物になっていったよ」

「すまん、そりゃあ『吊橋効果』だ」

「何だい、それは」

「生命の危険を感じさせるような非日常的な場面をともにした男女は、その緊張と興奮を恋愛感情と錯覚するという話があるんだ。高所にかかった今にも切れそうな吊橋を一緒にキャーキャー言いながら渡るとか」

「ああ、なんだか分る気がする。母様が愛好した演劇にもそんな場面がよく出てきたよ。してみると、この気持ちは錯覚なのかな? 君はどうだい?」


「吊橋効果がきっかけだと、ついつい相手に対してフェアじゃないような気になりはするが……きっかけなんか案外どこでもつまらないものだ。落とした小物を拾ってもらったり、ミサで席が隣同士だったりな。吊橋効果が起こるほどのきっかけなら、むしろお得かもしれない」

「回りくどいなあ君は。もっと簡単に言ってみてよ」

「君が好きだ。この言葉に偽りはない」

イレーネはそれっきり黙りこんでしまった。


 この部屋の暖炉の上には、果たして本当にローマ時代に描かれた物かは分らないが、後世にポンペイで発見された物によく似た、フレスコ技法の壁画が一部欠損した状態で残っていた。もしかしたら再利用した石材にもともと描かれていたのだろうか。


 夫婦者らしい男女の姿。庶民らしく着ているものは簡素だが、9世紀の今では足元にも届かないような黄金時代の精緻な技で、二人の満ち足りた幸福が余すところなく描き出されている。俺とイレーネに配慮してこの部屋を選んだのだろうか。そうだとすればなかなか粋な計らいと言えた。

(この娘とこんな風に暮らしたい)

 そんな思いを残響のようにたなびかせて、俺の意識は眠りの暗闇の底へと沈む。イレーネも俺同様、ほとんど寝ていないはずだ。室内にかすかに響く寝息の音は、俺のものだけではなかったに違いない。

 

 馬の汗には界面活性作用のある成分が含まれているらしいです。それで皮脂を溶かして汗の水分が体毛の隅々まで行き渡って冷却を効率化するって仕組みだそうな。

 その界面活性作用で服の汚れが落ちる!ってのをやろうと思ったんですがネットでの記述を漁る限りでは単なる汚れもしくは騎乗服が早く傷む原因としか書かれてなくてボツ。分らんことはうかつに書けない。

 まあとりあえず乗馬が見てくれやイメージほどさわやかなもんでもないことはよく頭に入りましたとさ。


 さてイレーネとトールのいちゃつきっぷりにいらいらしてる皆さんには朗報。次回から話がちょっと動いてイングランドへ向かうよ。かの地はこの頃王都のすぐ脇をすり抜けてヴァイキングが国内を移動するような地獄絵図の巷。アッシュダウンの船上でゴア分が物足りなかった方(作者も含めて)はどうぞご期待ください。

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