青ざめて馬を見よ
見渡す限り、緑色の低湿地と丘陵――相変わらずだ。ここフランドル地方も、フリースラントと景観の上で大した違いは無かった。俺たちを迎えたのは、湿地を縫って流れる細い水路の出口に建設されつつある、防船杭に囲まれた港だ。
モルタルや石材、あるいは木材を運んで行き来する、粗末な身なりの男たち。建設作業が行われているあちこちの埠頭や、奥まったところにある建物の間を駆け回り号令をかける、少し身なりのいい男たち。
そのごった返す人混みの中に、ひときわ行き届いた装いで馬にまたがった男がいた。馬上からこちらの船を見止めて、桟橋の端へと駆けてくる。
「おーい! どこの船か? 所属と目的は?」
後ろに徒の一隊が追随し、こちらへやってくる。洋上で検問できず、港への接近を許す体勢になってしまったことに、かなり動揺していると見えた。
「ああ、あの人だよ。ブリュッヘの領主――フランドル伯だ」
イレーネが騎馬の人物を遠目に確認して、そう告げる。
半白になった鉄線のような黒髪に、意志の強そうな眼差し。鍛え上げられた鉄の柱のような四肢。年の頃は40代後半といったところだろうか。
「あれが――フランドル伯ボールドウィンか」
「うん。……どうやら僕が先頭に立つのがよさそうだね」
イレーネは船首の櫓に身を晒すと、手をメガホンの形にして口にあて、叫んだ。
「しばらくぶりです、フランドル伯! 珍しい客人をお連れしました。少々お手間をかけますが、なにとぞ良しなに!」
「なんと! 旅芸人のイレネウスか、海路で来るとはな!」
こちらを見上げた騎馬の男が朗らかに応えを返す。
「客人というと……どういう方々かな」
「ノルウェー王の使者と、その随員です」
(物怖じしないなあ)
見る見るうちにイレーネ主導になる成り行きに、思わず舌を巻いた。
考えてみれば継承順位は低いとはいえ、彼女は一国の歴とした王族なのだ。人に指図し、平伏され、かしずかれることがいとも当たり前のように振舞うし、それが板についている。
生まれたときからそういう風に教育され、育てられた人間だけが持つ支配者の――風格というにはいささか軽すぎるが、何というべきか別種の空気を感じさせた。
(これをただの旅芸人と言ったところで、何人が信じるものか)
あるいはそれが、宿屋の主人などから不相応に好意的な対応を引き出したり、他の旅芸人に対して起きるような、無遠慮な接近の試みから彼女自身を守ったり、というようなこともあったのだろうか。
フランドル伯の知人とあって、船はごくスムーズに接岸の許可を獲得し、桟橋に舫われた船からは帆桁をクレーン代わりに使って馬二頭が下ろされた。梯子を先ず降りたのはイレーネとオウッタル。そのあとにホルガーとアルノルが続き、残りの人員はひとまず船に留め置かれた。
俺については誰一人、制止するものも無ければ何か指図されることも無かったので、なんとなく、といった感じでホルガーたちに続いて降りた。
「さて、俺たちはどうすればよいのかな?」
低い声でホルガーがオウッタルに問いかける。商人は朗らかな声音で、だがうっすらと笑った冷ややかな面持ちで答えた。
「実のところね、私自身がハラルド王の使者そのもの、というのが一番事実に近いのですよ。レーワルデンでは族長を助けるために、時間稼ぎの目的も含めてああいうことにしたが、ここでは私に任せてゆったりと構えてくれていれば良い」
そのまま前へ向き直って、桟橋を鹿のような優雅な足取りで通り抜けてゆく。
「どういうことなんだ?」
耳打ちでホルガーにささやく。どうも今回の一件、オウッタルの意図が読めない。
「俺にもわからん。だがとにかく、あの船の中でオウッタルは『ウルフェルに何を訊かれても黙っていろ』と言うたのだ。その間にあのマチルダとかいう女奴隷の戦士を、船で派遣する様子だったな」
「なるほど。」
ふと、ヘーゼビューでのアストリッドとの会見を思い出す。
「ふむ。一応注意しておくか。ホルガー……あの二人の女は多分、ただの奴隷とかそんなものじゃないな。自由人かもしれないし、もしかすると正妻か側妾かもしれない。頭の隅にとどめて置いてくれ」
「ほう。興味深いな。後でゆっくり話してくれ……あの男の居ないところでな」
「そうだな」
オウッタルは今のところ味方だと考えていい。だが俺たちに対して何かを隠しているように思える以上、彼に何もかも筒抜けにしてしまうのは拙い気がした。どうやらオウッタルは、事の成り行きを自分の手の内で操りたがっているのだ。
前方では早くもオウッタルが、ボールドウィンと立ち話を始めていた。
「なるほど、イングランドのアルフレッド王と」
「ええ、それでウィンチェスターまで行くのですが、生憎とここまで乗せてくれた商船が、積荷を売りにレーワルデンへ戻りたいと――」
下手なタイミングで会話にくちばしを突っ込むのは下策だ。成り行きは不安だったが、俺はじっと話の切れ目を待って耐えた。
「まあ、あまり大きな船でなければ、貸し出せないことも無いが……帰りの船のあてはあられるかな?」
オウッタルは一瞬言葉につかえた。――ほんの一瞬。
「ええ、帰りの船はイングランドで調達できるはずです。――手違いが無ければ自分の持ち船を使えたのですがね」
自分のこめかみの辺りを指で押さえ、ため息をつく様子からすると、こちらにあてつけるような意図は特に無いらしかった。だが俺は背筋に冷たい物を感じた。
彼が持ち船のバーディングを派遣したいきさつと、ここまでヤン船長の船を使用した事情の間には、因果関係と時間経過の上でわずかな断絶がある。もしかすると――彼は自分自身さえ嘘で騙せるのだ。それが嘘であるという厳然たる事実の尻尾は、しっかりと握ったままで。
「よし、では私の手元にある船から、クナルを一隻貸し出そう。あれならそちらの人員が全員乗れるし、帰りは私の部下たち数人で動かせる」
「ありがたい、助かります。何と御礼を申し上げてよいか」
オウッタルがさっとひざまずいて深々と頭を下げた。
「どうと言うことは無い。アルフレッド王にくれぐれもよろしくとお伝えいただきたい。身罷った奥はごく若い時分、ウェセックスの王家に嫁いでいたという。夫に死に別れ出戻って後はすっかり疎遠になっていたようだが――このようなご時世だ、細い縁でも大切にして身と家の護りを厚くせねばな」
「いかにも、英明なご配慮です」
ボールドウィンの視線がふとあたりをさまよい、ホルガーの上に止まったようだった。その目に何か羨望めいた色が浮かぶ。
「見事な戦士だな。私の手元にもこのような男が欲しいものだ」
そういいざま、すっと踵を返すと、彼は後ろに控えた兵士たちに命じた。
「あの船に水と食糧を補給してやれ! オウェイン、館まで駆けて客人を迎える準備をさせよ」
下知を受けて、オウェインと呼ばれた兵士が馬をとりに離れ、他の兵士たちも慌しく動き始めた。工事に従事する中からいくらかの人員が船のほうへ向けられている。
(ウルフェルやヤンをあの兵士たちと自由に接触させるのは拙いな。俺たちもいったん船に戻ろう) アルノルがそっと俺に耳打ちした。
イレーネのほうが気になって振り返ると、彼女もボールドウィンに何か言い置いて、こちらへ歩いてくる。それでひとまず安心した俺は船へ向かった。
「へへっ、ありがとうございます」
「手にずっしりと来らあ」
フォカスの手からディルハム銀貨を受け取って、船員二人はにやにやと相好を崩した。
「船長は受け取ってくれないのかな?」
船員たちが離れた後でイレーネが声をかけたが、ヤン船長はフォカスの手の上の銀貨から目をそむけて、あらぬ方角を睨みつけていた。
「俺は要らん。あんたの銀貨は毒だ。これで奴らは信義を金銭で売り渡すことを覚えた……ニシンを売り払ったら、連中には暇を出す」
船長は吐き捨てるように言うと、出港準備の作業に加わった。
「……仕方ないな」
イレーネが小さくため息をつく。
俺は以前、ヤン船長を人間の出来た男だと評したことを思い出した。正直、その印象は今でも変わってはいない。時と場所をわきまえぬ愚か者なら、ここで大声を上げて騒ぎ立て、誰かに殺されているだろう。場合によってはウルフェルに。
船長は人間の出来た冷静な男だ。物事が自分のコントロール下に収まっている限りにおいては、と言う但し書きつきで。事態が自分の手に余る状態になったときどう振舞うかで人間の真価は問われる。その意味では船長は平凡な男だった。それだけのことだ。
だが、ああ人よ、平凡な男こそが社会を構成する大多数なのだ。そして法や手続きの役に立たぬ異常な(と、ホルガーが言い表した)状況にあっては、残念ながら平凡であることは時に罪だ。
二時間ほどの後、ヤン船長の丸い船は無事に港を離れた。船員二人とウルフェル艦長、それに俺の投げた槍で顎を腫らした、あの少年兵の――彼は奴隷にされるはずだったが、艦長の嘆願でどうにか請け戻された――都合五人が船を動かしてドーレスタットへと向かった。
人間の出来た平凡な男が異常な状況で翻弄され、怨恨を胸に抱いたらどうなるか。そんな命題が胸にわだかまる。非常に危険な存在になる可能性があると思うのだが、もはやその問題は俺の手を離れて洋上に飛び立ってしまった。
港からフランドル伯の居城までは徒歩で移動する羽目になった。俺は正直くたくただったが、水牢から脱出したそのままの流れで着の身着のまま歩いているアルノルたちが、どこ吹く風と言う顔で平然としている。俺一人が弱音を吐くわけにもいかない。
「昨日は水牢の囚人、今日は領主の客か」
「うまい物が食えるとありがたいが」
皆口々に勝手なことを言い合っている。ボールドウィンはずっと前方に居るので聞こえる気遣いは無いが、もう少し用心して欲しい。
俺は少し迷った挙句、イレーネの馬の傍らを歩くことにした。くつわを取る、といえばもっともらしいが、実のところ馬のくつわに半ば体重を預けて、引っ張ってもらおうという魂胆だ。
「トール、歩きにくいよ。エクウスが嫌がってる」イレーネが苦笑する。
「『エクウス(ラテン語の「馬」)』っていうのか。ひどい名前もあったもんだな」
「ラテン語なんて普段喋らないからね。それに、僕にとって最高の馬なんだ。『馬』と呼んで何の不都合がある」
「ひどい屁理屈を聞いた……まあ、ちょいと力を貸してくれや、エクウス」
「ああもう。それくらいだったらいっそ乗りたまえよ。エクウスは丈夫なやつだ。二人分の体重くらい支えるさ。僕の前と僕の後ろ、どっちがいい?」
「何ですと……」
正直、どちらでも平常心を保てる自信は無い。だが、次の瞬間、背中に担いだかさばるウードとその袋に思い至る。
「……後ろで」
「よろしい、後ろだね」
イレーネはそういうと左の鐙から足をはずして鞍の上に膝を乗せ、俺に向かって手を伸ばした。
「曲芸用に出来てる鞍だから二人は無理だ。悪いが君は馬の腰の上にじかに乗ってくれ。揺れるからしっかりつかまってないと落ちるぞ」
「お、おう」
競争馬の鐙とは違って、膝を伸ばして乗るものなので足をかけるのはそれほど難しくない。タイミングよく鐙をとらえて、イレーネの手にすがってよじ登る。それほど大きくない馬なのも幸運だった。
「どうどう。いい子だエクウス。この人は僕の友達だ、怖くないぞ。よし、よし」
イレーネが優しく馬にささやきかける。ほんの少し落ち着かないようすを見せた馬は、どうにか俺に背中を許してくれた。
なんとか鞍の後ろに腰を落ち着け、上体を真っ直ぐに立てると――
「うひょわあ!」
尻の下に感じる恐ろしく高い体温。そしてもりもりと容赦なく動く、逞しい筋肉。城に着くまでにいろんな意味で疲れそうだ。
「変な声を立ててどうしたの。そら、僕の腰に腕を回してしっかりしがみついていたまえ」
「あ、ああ」
何か変な物に目覚めそうな不安を抱えつつ、イレーネの髪に半ば顔をうずめながら馬上の旅が始まる。腕の下に感じる彼女の腹部の曲線と温もりが艶かしく、心地良かった。
「なんだか、湿った土地だな」
「うん。温かいのは間違いないけどね」
このあたりの地域はどうも曇りや雨の日が多く、湿潤な気候らしい。冬場に雨が降ると結構厳しいかもしれない。
徒歩の男たちの横を、冷やかし声や口笛を浴びながら並んで歩いているうちに、小高い丘の上に粗い石組みの城壁が見えてきた。どうやらそれが、フランドル伯の城塞らしい。
奥まった部分には四角い塔と木造の居館があり、丘の手前の低地には耕作地と農民の集落が広がっていた。日差しを受けて麦畑が黄金色に輝いている。
「うん。いい所だ、ここは」
午後の日差しを浴びた彼女の頬が逆光気味に俺の目に入る。ふと、何か液体が一滴、イレーネの腹に回した俺の腕に落ちた。
泣いている?
ああ、そうか、と思い当たる。この一年ほどの間、彼女にとっては毎日が未知の驚愕と緊張、衝撃と、時に恐怖に彩られていたに違いない。してみれば、フォカスを口実にしてはいたが、この冬を安楽に過ごしたいというのはイレーネ自身の切実な欲求でもあろうと容易に想像がついた。
(あの精悍なフランドル伯の居城で一冬……)面白くない想像が一瞬、脳裏をよぎった。
オウッタルは腹黒、ヤン船長は恨みを抱え、フランドル伯はナイスミドル。
心休まらぬトールですが、どうなりますことか。実のところそんな余裕もあるのかどうか。
次回の更新もどうぞお楽しみに。