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ばいめた!~楽師トールの物語(サガ)~  作者: 冴吹稔
ブリテンの夏空に、雲は疾く流れ
51/102

船よ全ての山に登れ

 後方、レーワルデンの港では濛々と煙が上がっていた。アッシュダウン号が燃えている。


 帆桁にゆるく巻きとめられ月明かりの下に白く浮かび上がっていた帆にも炎は燃え移り、見る見るうちに黒く焦げて、火の粉を赤々と散らす。

 やがて、先に火が点いていた船倉ではマスト受けが完全に燃え落ちたらしく、その独特の形をした高いマストが傾き崩れる。それは瞬く間に燃え盛る炎と湧き上がる煙の渦の中に姿を消した。


「見ろよ、アッシュダウン号の最後だ」

アルノルと目が合い、俺は彼にそう告げた。


「ホルガーは助け出せたが……シグルズの仇はこれで釣合うと見るべきかどうか」

「済まない、アルノル。俺にはその問いに答えを出すはかりがない」

陰鬱に自問するアルノルに、俺は言わずもがなのことを答えた。


「それはまあ、仕方がないな。それにしても、どうもややこしい事になっているようだ」

アルノルは甲板の真ん中で顔を見合わせている数人に目をやる。


 商人オウッタル、ホルガー、ウルフェル艦長に、船倉から様子を見に出てきたヤン船長。それぞれにこの船の進路を決める権利か根拠、あるいは決めさせる実効力を持つ男たち。


「ホルガーだけじゃ不安だな。俺も会談に加わってこよう。トールは……なるほど」

俺と、俺の腕の中のイレーネを交互に見た。

「大事な女か。寝取られないようにしろよ。特に……死神にな」

「止しやがれ、縁起でもない」

不吉なことを言う。半ば本気で憤慨しながら言い返すと、アルノルはにやりと笑って甲板の「船頭会議」に参加すべく歩いていった。


「そろそろ離してくれ、馬を繋いでやらなきゃ」

「あ、ああ、済まない」

 あわてて手を解くと、イレーネはくすくす笑いながら、馬を牽いて船首のほうへ歩いて行く。フォカスもすぐ後に続いた。

「察しの良すぎる人ばかりで、怖いねえ」

彼女は振り向いてそう言った。


 すでに遠くなったレーワルデンの埠頭には、ようやく兵士たちが出てきて騒いでいる様子だった。船にとって船火事ほど恐ろしい物はない。後の世でイングランドが建造した、時代を百年先取りしたといわれる巨艦「ロイヤル・ソブリン」も、キャビンのろうそくからの失火で1697年にその60年の生涯を閉じている。

 時代を先駆けるイングランドの巨艦はろうそくで燃えて失われる。そんな呪われた前例を作った気がしないでもない。だが申し訳なく思う気持ちなどまるでない。


 実際、あの船が健在ではヴァイキングの掠奪行など、やりにくくて仕方ないのだ。ヴァイキングの得意な接舷斬り込みを封じ、高所から矢を射掛ける。全体をざっと見渡した記憶では艦首に衝角があったようにも思う。

 ローマ時代からの伝統的海戦術をとれる船というわけだが、地中海のガレーとは違って、建造方法は北方の鎧張りのそれだ。波に強く直進安定性に優れ、堅牢。敵に回せばこれほど厄介なものもないだろう。


 あの種の船に、北海をうろつかれるのは困る。


 してみると、実のところオウッタルもアッシュダウン号を好ましく思っていなかったわけだ。

(どういうことなんだろうな)

 疑問を胸中に漂わせつつ、俺も「船頭会議」のほうへと歩いていってみることにした。


「どうだ? 何かまとまりそうか?」

 いつの間にかマストの根元に車座になった船長たちを、やや離れたところからアルノルがうかがっている。その隣に俺もしゃがみこんで、様子を訊いてみた。

「だめだな。この船のもともとの船長は、ドーレスタットに立ち寄りたがってるし、ウルフェル艦長はレーワルデンに戻ることを強硬に主張、ホルガーはさっさとどこかで掠奪を働いてこのあたりを離れたいが、目的が掠奪だって事はオウッタルが口止めしてる。鎖蛇号の回航されていった先もわからん。今のところそういう状況だな」


「頭痛え……」

 掠奪を数件成功させなければ、アンスヘイムの男たちは村へ帰れない。冬を越すための物資を購入できなくなるからだ。だが、この不恰好な船では、ヴァイキングの戦術に合致せず、使い物にならない。


「あんたらには申し訳ないが、あの竜船ドラゴンシップ……え、カーヴって言うのか。どうもややこしいな。とにかく、あのデーン式の船は部下に任せて、最寄のたどり着けたイングランドの港に持ち込むようにとしか言ってないんだ」

 ウルフェル艦長は肝心の鎖蛇号の行き先を知らないらしい。

「と、いうことはデーン人が定住しつつある東アングリアは除外、ウェセックスから西の港、ということですねえ」

 

 ホルガーがぎろりと周囲を睨みまわした。

「オウッタル殿の手前、公平に話を聞いてやってはいるが、我々の戦士が事実上この船を掌握しているということは、忘れるなよ」

 自分たちの目的にとって障害になるなら実力行使に出る、とほのめかしている。オウッタルはともかく、ウルフェルとヤン、二人のフリースラント人にとっては、慎重な発言が要求されるところなのだが、二人はまるでそのあたりを諒解できていないようにも見えた。


「なあおい、これは法的にはまだ俺の船なんだぜ。積荷のニシンだって売りさばけないままじゃ鮮度が落ちてしまう。ドーレスタットで何とか、俺たち三人とこの船は解放してもらえないか。レーワルデンに残したままの船員も迎えに行ってやらなきゃならないんだって」

 ヤン船長が必死な様子で他の三人に自分の立場を主張する。彼の要求は至極正当な物で、聞いている俺としても実のところ、最も同情を覚える。


「困りましたねえ。私は持ち船をほとんどヘーゼビューやバルト海側に置いたままだ。北海のこちら側で使ってたバーディング(漁獲物などを運ぶ、カーヴに近い大きさで10対~15対程度のオールを持つ小型商船)は、マチルダが指揮して乗っていってしまった」

「ドーレスタットで船を買えぬものかな」

ホルガーがオウッタルに尋ねた。

「いやあ、無理ですよ流石に。そんな大金は持ってきていない」

「入るあては?」

「それは、ない事もないですが――ドーレスタットで手にするのは無理だ。以前にアルフレッド王に売った造船材料の対価ですから」

「ではイングランドまで行かねばだめか」

 一座の上に沈黙が下りる。その中でヤン船長が、オウッタルのことを羨望と嫉妬の入り混じったじっとりした目で見ているのが、なんともやるせなかった。


(どうにもまとまらないな)アルノルが口ひげを引っ張った。

(これは酷い。誰かが自分の主張をいったん下げないと解決の糸口も見出せないぞ)

 俺も話に加わりたいのだが、アッシュダウンを燃やした張本人なので、中々に具合が悪い。ウルフェル艦長あたりに追及されるといろいろ拙そうだった。本人は今のところ、俺のことはすっかり忘れているようではあるが。



「借りるというのは?」

 不意に華やかな声が頭上から注がれ、甲板に座り込んだ男たちはそちらを仰ぎ見た。


 イレーネが立っていた。その斜め後ろに、影が形に添うごとく控えるフォカス。


「借りる? 船をか」

「そうだ、さっきから気になっていたが君は誰なんだ」

ウルフェル艦長が半ば立ち上がりかけたままの姿勢で問いかける。


「アモリアのイレネウス、とでも呼んでくれ……しがない旅芸人さ。ブリュッヘの領主に知遇があってね、招かれた時期には少し早いがそちらの船長さんたちのことを口利きくらいはできるかもしれない」

「『しがない旅芸人』がディルハム銀貨を餌に俺の部下を誑かしたのか」

ヤン船長が恨めしげにぼやく。

 それがホルガーの癇に障ったらしかった。腰の大剣「スルズモルズ」を威嚇するように抜きかけては戻すと、大声で呼ばわった。

「ハーコン! グンナル! この男を船倉に連れて行ってしばらく出すな」

「え、ええっ!?」

狼狽する船長を、やってきた二人は無言で立たせた。

「お主は少々、怨念が多すぎる。それも取るに足りない小さな奴がな。この上の評定には邪魔だ」

 連れて行け、とばかりにホルガーが視線で促し、ハーコンたちはヤン船長を両脇から抱え引きずっていった。

「待ってくれ! 俺にはこの船の船長として……」

「安心しろ! 船は返してやるし、ドーレスタットにも寄ってやる。だが、それがお主の希望通りの順番にならんと言うだけだ!」

 船倉の蓋が閉められ、静寂が訪れる。


「全く……法や手続きがその効力を発揮するのは、物事が平常どおりに動いているときだけだ。異常な状況下ではそんな物はくその役にも立たぬ。そうだろう? ウルフェル艦長」

「あ、ああ」

従わないなら次はお前だ、とホルガーの目が言外に告げていた。

「さて、ではアモリアのイレネウスとやら。お主の話を詳しく聞こうか」

「あ、うん……といってもそう込み入った話じゃなくて……」

イレーネがブリュッヘの収穫祭に招かれていることを手短に説明すると、ウルフェル艦長がぴくりと眉を動かした。


「ブリュッヘ……ということは、フランドル伯ボールドウィンか」

「知っているのかね、艦長」

「名前と、少々の逸話くらいはな。シャルル禿頭王の娘と駆け落ちして、フランク王国を大いに騒がせた男だ」

「ほほう。それは一つ、会ってみたいものだ」

オウッタルが興味深げに目を輝かせた。

「ドーレスタットへ立ち寄ってもたもたするよりは、進展がありそうだな。よし、イレネウスよ、後でまた話を聞くこともあろうが、ひとまずは下がって控えておれ」

 ホルガーがイレーネに席を外させた。ヤン船長の扱いといい、要所要所で有無を言わせぬ強制力というか、発言力といったようなものを見せ付ける。いかにもヴァイキングらしい果断さが、彼が族長であることの根拠を示しているようだった。

「よし、行く先は決まった。ブリュッヘだ! まずはワッデン海を抜け出して北海へ出るぞ!」

 ホルガーが吼える。遠目に成り行きを見守っていた男たちが、スイッチが入ったように活気を帯びて忙しく立ち働き始めた。



「体よく自分の目的地に、船を向かわせたわけだな」

 甲板を横切ってそばへやってきたイレーネに、俺は笑いながら指摘した。

「はは、ばれてるね。正直なところその通りさ。何より、どんな土地なのか前もって見ておきたかったんだ」

「ずいぶん慎重だな。永住でもするつもりなのか?」

「まさか……でもね」

 そう言いながらイレーネは体を入れ替え、舷縁にもたれるようにして海を眺めた。東の空が透き通ったなんともいえない深い青に染まり、夜明けの近いことを教える。


「イティルからここまでの旅は実に長かった……若い僕でも堪えたよ。この冬は出来れば暖かで乾いた場所でゆっくり休ませてやりたいんだ」

「フォカスか」

「うん。頑健な男ではあるけど、彼は確実に老いている。今年で65歳になるはずだ、彼はそんな扱いを嫌がると思うけれどね」

「想像するに……君にとっては父親みたいなものなんだろう?」

「それ以上さ」

 バルディネスの野心を見抜き、陰謀を察知して長途の逃避行へと彼女を連れ出した、侍従にして教師。ルス族の奴隷商人たちに混じって陸路を旅する間、彼女を守り力づけ続けた忠僕。

 俺はため息をついた。フォカスの占める割合を削って、どれだけ彼女のそばに居場所をもてるのだろうか。

「そういえば、あの伝言には本当に肝がつぶれたよ。まさか北フランク中で俺のことを宿屋に言伝るとは思わなかった」

「その話か……うん、ちょっとどうかしていた気もするね。フォカスに一回、しこたま説教された」

「だろうな」

「寂しかったんだ」

彼女はそう言って、言葉を切った。


「デーネヴィーケを越えたこちら側へ来ても、大多数の人間の水準は大して変わらない。野蛮で、不潔で、女と見れば不埒なことばかり考える。心を開いて話が出来る相手なんて、どこにもいやしなかった。君とリンベルト師と、それにフランドル伯くらいさ。大きな町の宿屋なんかはいくらかましだったけどね」

「買いかぶられたもんだな。俺は北方人――野蛮の極みのような連中に立ち混じって平気で暮らしてる男だぜ。まあ、村の連中は野蛮が突き抜けていっそさわやかだがな」

 不公平だな、と思う。身の置き所もなく周りを警戒しながらさすらうイレーネと、ヴァイキングたちの間にそれなりに収まりよく、なじんでいられる俺。お姫様とゴミクズの皮肉な対比。


 少しの沈黙の後、イレーネはもう一度口にした。

「寂しかったんだ」

「うん」

「会いたかったよ――そして、また会えた」

 舷縁を背に内向きに座り込んだ俺の胸元に、彼女は体重を預けてもぐりこんできた。胸がうずいた。

「あの短剣はまだ持ってるよ。君を忘れられなかった――会いたかった」

 心の底からの思いを、言葉にする。

「ふふ、手放したら承知しないよ」

 イレーネの体温。髪の匂い。腕と胸に預けられた重み。その全てが俺を駆り立て、宵闇の中での秘め事へなだれ込めと叫びを上げる。だが悲しいかな、空はいっそう明るさを増し、世の恋人たちを覆い隠す暗幕の優しい時間は過ぎようとしていた。


 どちらからともなく頬を寄せ合い、唇が重ねられる。おずおずとした唇だけの触れあいから、不意にそれはその先へと続く恋路を垣間見させる、激しく貪りあうようなものに変わった。

 中断するには鋼の自制心が必要だった。希望的観測が許されるならおそらく、イレーネにも。やっとのことで身を離し、弁解がましく告げる。

「今はここまでだ。皆の目があるし、状況も厳しい――お互いの求める物が本当に同じかどうかもまだわからない。だから、ゆっくり行こう」

「きっと同じだよ。でも、君の言うとおりだな」


 誰かが俺たちの様子を目にしてか、ひゅう、と口笛を鳴らした。はっとして顔を上げると、口を尖らせたヴァジのにやけ顔と、一抹の寂しさを湛えたような表情のフォカスが目に入った。


 日が昇り、海と空に光があふれた。朝日に帆裏を白く輝かせ、船は沿岸を進む。

 北北東から南南西へと緩やかに伸びる、ネーデルラントの海岸線が左舷に広がり、幾重にも複雑に入り組んだ河口がその南に姿を現した。スヘルデ河だ。

 そのさらに向こうに、ブリュッヘ――後の世の商都ブリュージュが建設途上の簡素な姿をのぞかせる。船はゆっくりと、俺たちがまだ見ぬ未知の岸辺へ近づいていった。


 難産でございました。乗り合わせるキャラクター増えすぎw


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