ときめきの面影
港に入ると港湾役人が露骨に疑わしげな顔で俺たちを迎えた。フランクの統治下ではどこの町も北方人の襲撃におびえ、神経質になっているらしい。ましてやここはほんの数年前まで東フランクとロタールの国の国境に面していただけあって、色々とややこしいようだ。
ヴェーザー川の西側から来たとなれば、早い話が亡命者に近い扱いである。そこにつけこんで賄賂、それもかなりの額を暗に要求しようとしているらしい役人に対して、俺は切り札を切った。
「あー、ここの司教座まで行かなきゃならないんだが、何とか便宜を図ってもらえませんかね」
「司教座?」
役人が不安そうにこちらの顔色をうかがう様子になった。ブレーメンは司教座都市、それも西ローマ皇帝を以って任じたカール大帝本人が設置した、キリスト教の重要拠点である。
「リンベルト師の消息と、言伝を預かってきてましてね。非公式ですが使者ってことになるのかな」
「こ、こりゃあとんだご無礼を!」
とたんに役人が態度を一変させた。目に見えて腰が低く親切な様子になり、俺たちの船をしっかりした繋注のある桟橋へ誘導し、不釣合いに太い舫綱で繋留してくれた。
「お役目ご苦労です。よかったらこれで司教様の健康を祝して、一杯やってくださいよ」
賄賂ならぬチップと言う体で、俺は彼にデナリウス銀貨を一枚握らせる。平伏せんばかりになった役人は、船の安全は俺たちがブレーメンを離れるまで責任を持って保証する、と請合ってくれた。
「いやあ、リンベルト師の名前を出したのは効果絶大だったな」
彼はヘーゼビューで布教活動をしてはいるが、まだ現在もブレーメンの大司教なのだ。彼自身は嫌がるだろうが、教会の威光はまさに霊験あらたかだった。
ブレーメンは俺がこの時代に紛れ込んでこの方、見てきた中ではどこよりも『中世ヨーロッパ』らしい佇まいの町だった。
港湾施設も街路も、そして町の中心部に立つ聖堂も石造りだ。フランク王国の最盛期、カール大帝の御代に整備された町並みは、幾度かの戦火も潜り抜けてなお、カロリング文化の精華を誇示しているようだ。
無論、注意深く眺めれば一般の家屋は木骨構造の露出した漆喰塗りの、よくあるドイツ風の民家の祖形をなすものなのだが、それでも目立った大きな建物がどっしりした石組みで築かれているのを目にすれば、その印象は強烈に頭に残る。
「こりゃあすげえ……」
ヨルグが呆然と呟いて往来の雑踏を見回した。排水溝のある中央部に向かって若干勾配がつけられた大通りは、自然石に近い状態の大まかなものではあるが、平たく整形された石で舗装されている。
その上をラバや馬に牽かせた荷車が積荷を満載して通り過ぎていく。教会へ続く街路を貧富さまざまな人々が行き過ぎる中には、時折質素なローブに身を包んだ聖職者たちの姿が密やかに立ち混じっていた。
港で港湾役人を丸め込んだ勢い、というか流れでなんとなく教会へ向かいながら、俺は弁解めいた調子で皆にこの後の方針を提示した。
「実際のところ、リンベルト師の消息は司教座に伝えてやるのがいいだろうな。きっと喜ばれるだろうし、俺たちがこの町で動き回るには教会のお墨付きを貰うのが一番だろう」
「そうだな」
ロルフが静かに答えた。
「ホーエンキルヒェンの僧院で見つけた祈祷書とロザリオも届けよう」
「小さいけど銀なのに、いいのか?」
ヨルグがさももったいない、と言いたげに声を上げる。
「トール、それにヨルグも聞いてくれ。俺は決めた」
彼は俺たちの顔をゆっくり見回して、そして自分に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を吐き出した。
「キリスト教に、改宗する」
「……本気なのか」
しばしの沈黙の後、俺とヨルグがほぼ同時に同じ言葉を漏らした。
「ああ、本気だ。……皆に会ったら色々と言われるだろうな。だが俺は――」
ザラがぽん、とロルフの腕を叩いてそのまま掴んだ。
「小父やん、よかったなあ」
「あ……うん」
屈託なくロルフを祝福するザラに、ロルフが逆に戸惑う様子だった。
聖堂に着くと、特徴的な馬面の男が、開け放たれた扉の前を箒で掃き掃除していた。
「ミサは夕方からでございますよ」
俺たちを見咎めて男がそう言った。フリジア語のほうが通じそうなので例によってロルフに通訳してもらう。
「お邪魔だったら申し訳ない。ここの一番偉い司祭様に伝えてほしい、ヘーゼビューで布教を続けているリンベルト師の、近況を届けに来たと」
「……へえ、ちょっとお待ちを」
重要な用件であることは伝わったようだ。彼はそのまま聖堂の奥へ消え、しばらくすると幾分華美な僧服に身を包んだ、壮年の男が姿を現した。やや線の細い感じだが眉目秀麗で知的な印象を与える容貌だった。
「そうですか。リンベルト師との間にそのようないきさつが」
俺たちを迎え出た司祭はアダルガーと名のった。不在のリンベルトに代わって司教座を取り仕切っているという話だったが、とにかく自分が聖職者として未熟であるということを繰り返して語る様子が印象的だった。
「アンスカル老師も身罷ってすでに久しく、我らブレーメンの司教座つき参事会一同はリンベルト司教のお帰りを心待ちにしております。無事な様子が聞けて何よりでした」
俺は交易都市でのリンベルトとの出会いや対話、彼が北方人に持ち去られた教会財産の買戻しにまで心を砕いていることなどを、極力正確に語った。
「いやはや、異端とはいえネストリウス派が遠くキタイの地まで福音を伝え、あなたのお国では非教徒ですら聖誕祭を祝うとは。喜ばしいことです。我々も北方布教に一層励まねば」
アダルガーは感激に咽ばんばかりの有様で、目を潤ませて何度も何度も十字を切り、俺にはわからないラテン語で聖句を唱えた。
「それで、話は変わりますが私どもの中に一人、改宗希望者がいまして」
「なんと!」
ホーエンキルヒェンでの顛末を伝えて、名も知れぬ修道僧の遺品――祈祷書とロザリオを差し出す。その上でロルフが改宗の意思を明らかにすると、アダルガーはいっそこちらが不安になるほどの真剣さで、ロルフの手をとり彼を歓迎した。
「これも神のお導きでしょう。ロザリオと祈祷書はあなたが引き継いでお使いになるのがふさわしいと思います――ああいや、祈祷書は新しいものにすべきかも知れませんね」
「いや、俺はラテン語は読めませんので……」
「これはしたり! では詳しいものにノルド語で抄訳を――」
数百年後のルターの仕事が、危うくなくなりかけるところだ。
そんなこんなで司祭のテンションに引きずられ、かなり時間がかかったが、ロルフは無事に洗礼の秘蹟に与り、洗礼名として『トマス』の名を与えられた。
「トマス・ロルフ・スヴェンソンか」
耳慣れない響きを無理に噛み砕こうとでもするように、ヨルグは何度もロルフの新しいフルネームを繰り返した。
「響きはそれなりに悪くないな」
「トールも知ってのとおり――うちの女房は俺に比べるとずいぶん若い。息子も生まれたばかりだし、シグリもいる。これからは靴職人に専念して、できるだけ家族と長く一緒にいてやりたい」
「叔父貴、もうヴァイキング行には出ないのか」
「ゴルム翁に比べると早いのかも知れんが……クナルで船出する以外はもう、無しだな」
ロルフの妻と言うのはまだ二十台半ば、可愛らしい金髪の小柄な女だ。偏屈者と見られがちな彼の、内に隠れた男らしさや美点をしっかりと見極めて夫に選んだ、中々の賢妻である。
ロルフとて何も殊勝な気持ちだけで襲撃や掠奪を忌避し、キリスト教への改宗を言い出したわけではあるまい。ただでさえ年齢とともに衰える体への、不安と焦り。自分が死んだ後長らく寡婦として暮らすであろう妻への、さまざまな配慮もあるだろう。
誰にでもあっておかしくないことだ。他の誰がロルフを責めなじろうとも、俺は彼の意思を支持する。
「このあと道中の戦利品を市場で換金するつもりなんだが……ロルフ、武装売っちまうつもりかな?」
「まさか。少なくとも皆と合流するまでは、俺にはお前ら二人を守って戦う責任があるんだ。それは神も許してくださるだろうよ」
「そう聞いて安心したぜ、叔父貴」
ヨルグが安堵の表情を浮べる。
「息子を一人前の男に鍛えるのは多分、ヨルグに頼らなきゃならんだろうからな。お前が立派な船乗り、ひとかどの戦士になってくれると助かる」
「……ああ、分かった。叔父貴が誇れる甥になろう。立派な船乗り、そして戦士に」
握った拳を軽くぶつけ合う二人を、ザラがなにやらまぶしそうに見守っていた。
市場ではロルフの年季の入った剣と、盗賊の剣2本のうち質のよいものとどちらを処分するかで少々討論になった。ロルフの剣はやや研ぎ減りがして一見すると貧弱に見えたからだ。だが、本人は「武器は使い込んで慣れた物が一番だ」と譲らなかった。俺もその意見には賛成せざるを得なかった。
楽器でも同じことなのだ。急に愛器が破損してステージで借り物の楽器をつかうことになった、合同ライブの共演者が、ひどく不本意そうだったのは今でも忘れない。
剣は2本あわせて12ソリドゥス、斧は6デナリウスになった。それと、ガチョウ脂の残りは軟膏の原料になるということで、薬屋が1デナリウスで買い取ってくれた。総額おおよそ銀にして1マルク、ノミスマ金貨4枚分だ。
「フェーリングは俺たちがそのまま持っていくからな。ザラさんにはこの金から7ソリドゥスと、あと4デナリウスを渡そう」
「そんなに!?」
デナリウス銀貨に統一してしまえば88デナリウス。中世の高額取引でやり取りされるイメージのある、銀貨の詰まった小さな皮袋といった体だ。
「うかつな使い方をすればあっという間になくなる額だよ。ここは農村じゃないんだ」
「そっか。そうやな」
これまで俺がこっちで暮らした感覚からすると、割高になる工業製品などで計れば日本円に換算して3~40万程度である。できればこの金があるうちに、彼女には落ち着き先と仕事が必要だった。
司教座では信用の置けるいい宿屋も紹介してくれた。ラテン語で「鶏」という奇妙なあだ名のついた聖歌隊の少年の家が、町で一番大きな宿を経営しているというのだ。少年の案内で聖堂と港の間にあるその宿まで向かう。
「聖歌隊には町の男たちが大勢入ってるんだ。寺男の馬面ピピンもそうだよ。あいつ、のろまだけどすげえいい声なんだぜ」
ガルスは道すがらしきりに聖歌隊の自慢をした。歩きながら身軽にとんぼを切って宙返りするのだが、足元が石なので頭を打ちはしないかとはらはらさせられる。
「上手いもんだな。聖歌隊ではそんなことも教えるのかい」
「まさか。これはちょっと前に泊まった、旅芸人のお姉ちゃんが教えてくれたんだ」
少年は誇らしげに頬を紅潮させ、そう答えた。
「へえ。芸人が行き刷りの子供に技を教えるなんて、珍しいこともあるもんだ」
ロルフの通訳で少年と話しながら、俺はふと胸に甘い疼きを感じた。
旅芸人のお姉ちゃん? まさか――
「いらっしゃいませ。司教座からの紹介とはまことに光栄でございます」
がっしりとした体つきの頭の禿げ上がった主人が、ガルスの先触れを受けて俺たちを出迎える。
「お世話になる。ところで息子さんから聞いたんだが、この宿屋に泊まってた旅芸人の若い女と言うのは――」
とるものもとりあえず、俺は主人に旅芸人のことを尋ねた。
「ああ、四、五日前まで泊まってた二人組のことですかね?」
俺の顔を見ると主人は怪訝な表情になった。
「はて、黒髪に黒い目、彫りの浅い顔立ちに珍しい形の外套――まさかとは思うが、お客さん。あんたトールとかクマクランとかいうフィンの楽師だったりしないかね」
「何だって?」
流石にぎょっとした。匿名掲示板に書き込みをしていたら1レスで特定された、そんな気分だ。
「確かに俺はフィンの楽師、トールだ。だがなぜ俺の事を?」
「あんたが来たら伝えてくれ、と言ってましてね。レーワルデン経由でブリュッヘまで船で行く、ブリュッヘには秋いっぱいくらいまでは逗留する予定、と」
宿の主人はそう言って俺をちらちらとうかがった。
「評判よかったですよ、あの二人。年のいった格闘士が施す按摩治療を私も受けましたが、それ以来腰の痛みがきれいさっぱりです。軽業使いの女のほうは男装してたが、ちょっと見かけないような別嬪でしたな。……どうやらあんたは果報者と見えるね」
(間違いない、イレーネだ!)
躍り出したくなるのをこらえて慎重に確認を試みる。
「心当たりはあるが、その話が本当だという証拠は、何かあるかな」
「……象牙拵えの短剣」主人は一言そういった。
「そういえば通じる、と言ってました」
「間違いない、知り合いの旅芸人だ。ありがとう」
俺がそう言うと、主人はにやりと笑って手を出してきた。
「お伝えしたら心づけを頂ける、とあの別嬪さんが請合ってくれましてね。お一つよろしく」
見え透いたどさくさ紛れのチップ要求に思わず吹き出しそうになる。
「はは、まさかあの娘がそんなことまで言うものか。嘘だな。だがこの情報にはそれだけの値打ちはある。いいさ、騙されてやろう」
イレーネにまた会える。そう思うと我ながら愚かしいほどに心が弾んだ。懐からディルハム銀貨1枚を出して主人の掌に乗せてやると、今度は主人のほうが息を飲んだ。
「え、こんなに……」
「多いようだったら、その分もてなしに色をつけてくれ」
「ええ、喜んで!」
嬉しそうに揉み手をしながら、主人は俺たちを特等の部屋に案内した。
晩餐が運ばれてくる間ヨルグが俺をしつこくからかったが、ロルフは終始俺のことを微笑みながら見ていた。むしろ居心地が悪かったのだが、俺はあえてその責め苦に耐えた。
9/21 追記
剣と斧の売却処分と分配について加筆しました。
9/22 追記
宿屋での主人との会話を若干加筆しました。……次回でフォロー入れないとやっぱりご都合展開だと思われてしまうであろう。本当は違うのだけど。