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ばいめた!~楽師トールの物語(サガ)~  作者: 冴吹稔
北海ヒッチハイクガイド
41/102

トール、船を買う

 さほど大掛かりなものではありませんが後半に飯テロ部分があります。空腹時の閲覧はお気をつけください。コンビニなどの白身フライはダイエットに良くないので。

 翌朝、俺が起きたのは一行の中の誰より遅かった。

「喉が痛ぇ……」

 

 この時代の北ヨーロッパは、後世の人間がイメージするほどひどい所ではない。キリスト教が入浴の習慣を悪いものと決め付けてしまう前だから、人々は貴賎を問わず皆意外と清潔だし、北方人たちがイスラム圏まで及ぶ交易をする関係で、遠方の産物も比較的容易に手に入る。


 だが、水がよろしくないのだけはどうにもならない。地下水が硬水なのでとかそういう問題以前に、この低地ドイツからフリースラントに及ぶ北海沿岸の湿地帯には衛生的な水なんてろくにありはしないのだ。

 水といえばよどんだ沼や川、塩分の多い干拓地。井戸水もあまり信用できない。勢い喉が渇けば弱い酒をあおるしかないのだが、ぶっ通しで歌った喉に酒というのは、一種の自傷行為ではある。


「起きたか、トール」

ロルフが土間に道具を広げて、見慣れない靴の底革を貼り直していた。

「やあロルフ。面目ない、あんたも疲れてたのにな。――その靴は?」

「ああ、この近所のワイン商に頼まれたんだ。もうじき出来上がる」

どうやら俺が寝ていた間に仕事を一件請けたらしい。

「ワイン商ね……弱いワインがあったら売ってくれないものかな」

かすれてざらついた声でそういうと、流石にロルフが渋い顔をした。


「ひどい声だ。出発は延期するか?」

「いや、流石にそれは……皆が無事にあのウェセックスの軍船から逃げおおせてれば、そろそろドーレスタットとやらに着いてるかも知れん。待たせられないよ」

「……そうだな」

ロルフの声が妙に不安そうなのが気になった。まさか皆の無事を信じていないわけでもないのだろうが。


 ちょうど靴の補修が出来上がるころ、宿の戸口に髭をごく短く刈り込んだ、柔和な顔つきをした初老のフリースラント人が現れた。それが靴の持ち主だった。

「や、や。早いなあ、もう仕上がったんか。ありがたいこっちゃ」

この宿にも各種の酒を下ろしている、この辺りでも大手のワイン商だという。

「ケルンまでまた仕入れにいくんやけど、途中の道が荒れててなあ。ちょっと雨多いとすぐ、洪水で街道がわやになるんや」


 商談を持ちかけてみるとほくほく顔で、しっかりした樽に入ったワインを6リットルほど(俺の見た感じで)売ってくれた。ディルハム銀貨を出したのだが、お釣りにフランクのデナリウス銀貨が一枚帰ってきた。


「サラセンの銀貨やないか、豪儀やな」

ディルハム銀貨を目の高さにかざして検分しながらワイン商が満足そうに笑う。吟遊詩人らしからぬ支払いだったかもしれない。ちょっと失敗したか。鋭い相手なら、支払いの金種だけで俺たちがヴァイキングだと看破するかもしれない。


「以前立ち寄った町で、やんごとない身分のご婦人がひいきにしてくれてね」

 適当にごまかすと、ワイン商は何か都合よく解釈したらしくニヤニヤと笑いながら俺の肩をつついた。

「たいした色男やなあ。あやかりたいわ」

ははは、そんな色男がいたら俺があやかりたいものだ。


 ロルフも申し分ない手間賃を受け取って、俺たちの懐具合はいくらか強化された。宿の主のはからいで、最後にややたっぷりした昼食をとって宿を出た。

「是非またどうぞ、道中お気をつけて!」

主が俺たちを見送って、実に名残惜しそうに手を振った。もっといてほしいのが本音だろうが、お引き止めいただいてもこちらは困る。




 ザンデまではおおよそ7~8kmといった感じの距離があった。イェファーからザンデ辺りはもともと土地がやや高台で地盤がしっかりしているためか、ごくスムースに旅程が進む。北西風に後ろから押されるような感じだ。途中二回ほど馬を休ませ、鞍袋のカラスムギにナイフで刈り込んだ辺りの草をつき混ぜて食わせてやる。


 時折雲が切れて、太陽が明るい光を幾条も地上へと延ばす。やがてその光の落ちる先に、輝く水面と湿地に生い茂る草とが幾重にも層を成したように連なる、なんとも印象的な風景が見えてきた。あれがヤーデの湿地帯だろうか。


 手前にはごく小規模な町があり、ささやかな鐘楼を備えた教会らしき建物もあった。それがザンデの町だった。

 水面にはスカンジナビアやユトランドの港で見かけるものと、さほど違いの無いような小型の輸送船やボートが無数に浮かび、そのうちの幾らかはマストを立てて帆桁ヤードにくくりつけた帆をあるいは白く、あるいは逆光に黒々と、浮かび上がらせていた。

「なるほど、これは確かに、馬じゃ渡れないな」

 どこまでも続くように見える金色の水路と黒々とした草地、灰色の泥。ヤーデはとてつもなく広い。ざっと目に入る大きな水路だけでもひどく入り組んでいるように見えた。

「適当なボートが手に入ればいいんだがなあ」

「大きなものがいいな。できれば馬も乗せて、一緒にブレーメンまで連れて行きたい」

ロルフが馬上のザラを見上げてそう言った。

「湿地を抜けたあとまた馬が必要になるかも知れん。ザラさんもそのほうが楽だろう」


 確かにそうだ。縮尺の大きな地図やロールプレイングゲームの地上マップを見慣れているとつい忘れるが、実際の陸路には起伏やぬかるみなど通行を困難にするものも少なからずあるし、慣れていなければ数kmの距離でもへとへとになる。

「そもそも買えるものかどうかも分からないな。船の値段なんて見当もつかないし」

そう言ってヨルグが首を傾げた。


「まあ俺たちだと小船ぐらいはその辺で木を切り出してきて作っちまうからなあ。今回は日程に余裕が無いから困るわけだが」

ロルフがおかしなことを言い出した。

「え、船作るのって木材を乾燥させるまで結構時間がかかるんじゃ」

「ん? 生木じゃないと外板が曲がらないじゃないか、何を言ってるんだトール」

「……俺の知ってる造船と違う」


 大学時代の夏休み、宮城県の仙台に程近い小さな町まで、伊達政宗がメキシコへ派遣した国産のガレオン「サン・ファン・バウティスタ」の復元船を見物に行った事がある。

 資料館で見た当時の木造帆船の作り方といえば、よく乾燥させ寝かせた松や杉の良材から、作りたい部材の形にあったものを選んで切り出し、また外板は製材したあと蒸気を当てて少しずつ曲げて張り合わせる、というものだったはずだ。


「そんな面倒くさいことができるか。船作るのに何年かける気なんだ」

言われてみれば、大山羊号もあっという間にできていた。あれも生木か。


「なあ、うちのことは気にせんでええよ」

鞍の上からザラが会話に割り込んできた。

「私も、隣村くらいまでの距離は毎日普通に歩いてたんや。馬にはこだわらへん」


「ふむ」

言われて気づいたが俺たちとしてはなんとなく『馬はザラのもの』と言う思い込みができかけていたのだった。だがよくよく考えてみれば(盗賊の乗った)馬が彼女を連れてきた、というだけの発端である。女と言うことで無意識のうちにかばい気遣う発想にもなっていたのかもしれない。

 そのことを告げるとザラはけたけたと笑った。

「なんや、どっかのお姫様か、サムエル神父みたいやなあ」


 三蔵法師――昨晩の公演で言えばサムエル神父――が旅の間弟子を歩かせ、自分は馬に乗ったままであることは、しばしば聞き手もしくは読者の突っ込みの対象になる。日本のTVドラマで三蔵を多くの場合女優が演じるのも、案外その辺の印象が絡んでいるかもしれない。



 街中に入ると俺たちはうろうろと歩き回って、船の売り手を捜すことになった。船着場にたむろしていた数人の漁師たちにロルフの通訳で話しかけてみる。多くは全く関心を示さないか、けんもほろろに拒絶するかだった。

「あほか。漁師が船売るわけ、あらへんやろ」

「ブレーメンへ行くなら、山のほうまで南西へ歩いてから、川沿いに下れば船はいらんでぇ」

それなりに有用な情報も聞けはしたが、俺たちは一日を争うのだ。


 そうこうするうちに、新たに船着場へ来た若い男が、周りの漁師たちに聞いたらしく、俺たちに声をかけてきた。

「あんたら、船を買いたいんだって?」「うん」

「そんならうちへ来るといい」

男はピーテルと名乗った。ノルド語にも堪能らしく普通に会話ができる。


「ピーテル、親父はんの船売るんか」

とがめるような調子で、たむろしていた漁師の一人が野次を飛ばした。

「親父はもう体が利かへんし、俺は漁師の家業継ぐ修行してへんよってなあ」

ピーテルは漁師たち相手にはフリジア語に切り替えて、のらりくらりと応答した。


 いささか胡散臭い男と見えたが、俺たちは藁をつかむ思いで彼についていった。道中ぼつぼつと話してくれたところでは、彼はここの裕福な漁師(日本で言えば網元、といった感じの)の次男坊で、家業を兄に任せて行商人まがいのことをして暮らしていた。ところがこの兄に災難が降りかかったのだという。

「好物のムール貝にあたってしまってなあ」

 河口付近の海辺で取れるイガイの仲間である。美味で知られこの辺りではタマネギなどの野菜と一緒に酒で蒸す料理が好まれるのだが、厄介なことに、春から夏にかけての季節には中毒を起こすことがあるという。ピーテルの兄もうっかり季節外れのムール貝を食して、天に召されてしまったのだ。


(貝毒か、くわばらくわばら)

 貝は季節や水質によって、有毒プランクトンを摂取し可食部分に毒を貯えることがあるのだ。下痢を起こす消化器性のものはまだしも、麻痺を引き起こす神経性の毒だった場合まず助かるまい。

「それで、親父の船は今桟橋に舫ったままになってるって訳さ。兄貴が生きてたころは漁を手伝う人手も雇えたんだが、連中に船頭ができるわけじゃないからなあ。買ってくれるなら本当に助かるよ」

そう言って彼はどこかニヒリスティックな笑みを浮べた。


「まずは船を見よう。暗くならないうちに」

「ずいぶん急ぐんだなあ。なにか事情でもあるのかい」

ピーテルが興味深げに聞いてくる。ちょっといやな感じがした。商売めいた話を理由にすれば、便乗しようとついてくるかもしれない。

 俺は一呼吸置いて答えた。

「そっちの父娘の親戚がブレーメンにいるんだが、お迎えが近いらしくてね」

「なるほど。いまわの際に駆けつけないと遺産の分配に与れない、そんなところか」

想像力豊かな男らしい。それもやや下世話な方向に。

 家業を継がずに旅の行商人などと言う世知辛い世界に身を置いていれば、仕方の無いことなのだろうが、さすがにあまり深く関わりたい気はしなかった。とりあえず急ぐ事情については勝手に納得してくれたらしい。



 日はすっかり傾き冷たい風が湿地の上を吹き渡る。オレンジ色にフィルターがかかったような光の中を、白い大きな鳥が数羽、低空を優雅に滑空していくのが目に入った。

「わあ、きれいな鳥」

 ザラが少女のように無邪気な笑顔で鳥を見送った。首を曲げ後方に足を長く伸ばした姿から判断すればサギの類だろうか。


 船着場のはずれ、大き目の漁具小屋らしきものの陰に船はあった。


「フェーリングだな」ロルフが船を検分してそう呟いた。

 全長6mほどで二組のオールを備える、ヴァイキング船と同様に鎧張り(クリンカー)方式で作られた小船だ。マストを立てて小さな帆を張ることもできるらしかった。最近までよく手入れされていた様子で真新しいタールが塗られ、船材に腐食やひび割れは見当たらない。

 だが、甲板が無いので馬を立たせることができないし、馬まで乗せるにはいささか小さすぎる。

「これは、馬は処分だな」

「しゃあないわ。今までありがとなあ」ザラが馬のたてがみを撫でた。


「手放すのかい? その馬」ピーテルが目ざとく反応してきた。

「ああ、もったいないが船には乗せていけないようだし、別な船を捜す時間が惜しい」

「良く慣れたいい馬みたいだな。そいつなら9ソリドゥス(註1)にはなるだろう。それで船と交換にするってのはどうかね。差額分は銀貨で頼みたいが」

「そいつは手間が省けていいな」

 短い商談のあと、話がまとまった。船の代金と相殺して、差額分1エイリル、ディルハム銀貨にして8枚を支払う。本当なら念のため違う金種で清算したかったのだが、ノルド語が分かる相手では仲間内で密談のしようもない。彼は相好を崩して俺たちを実家に招いた。桟橋から程近く、小高く盛り上がった土地にその家はあった。


「義姉さん、お客だ。イェファーから来たっていうデーンの連中だが、船を買ってくれたぜ」

「ピーテル! あんたときたら、とうとう船を売ってしもうたんか!」

若い女の怒声が響く。手におたま(のような炊事用具)を握ったまま、小柄な金髪の女が台所から飛び出してきて、ピーテルめがけてそのおたまを振り上げた。

「あの人がイガイにあたって亡くなったからって、我が物顔で! このろくでなし!」

「うおぅ、待った待った! お客が見てるから! みっともねえから!」

「あら」 

女は顔を赤らめると精一杯上品なしぐさを取り繕って、俺たちを招き入れた。

「荒くたいとこお見せしてしもたな。どうぞ中へ」


俺はヨルグと顔を見合わせた。

「なんか、誰かを思い出すな」「ああ、どうにも誰かを思い出すぜ」

名をはっきり呼ぶことがなぜかためらわれる。


 夕食には野菜と一緒に酒蒸しにした、大きな白身の魚が出された。

「これは?」

取り分けられた魚の肉は脂が乗り、ゼラチン質が口の中でぷるりと溶けた。塩とニンニクのシンプルな味付けだがなんとも言えず美味い。料理の味を褒めると、ピーテルの兄嫁だというその女は照れくさそうに俯いた。

「近くで取れたナマズです。うちで漁に出ないもんだから高くついて仕方ないんやけど」


 表皮のぬめり取りをはじめ、下処理をしっかりしてあるようで泥臭さなどは全く感じなかった。見事なものだ。他には淡水エビの塩焼きが出た。先日のザリガニに比べるとごく小さな可愛らしいエビだが、その分うまみが凝縮されている感じで数が少ないのが口惜しい。


 数年前に倒れて以来左半身が思うように動かず、言葉も不自由になったという父親が同席しているのが少々いたたまれないものがあったが、老人は何を思ってか俺たちを見回して満足そうな笑みを浮かべ、エビの味を不自由な舌で褒めちぎる様子だった。

 本人はあまり悲観していないのだろう。頑健そうな右半身には筋肉が盛り上がり、むしろ精力的にさえ見えた。


 柔らかく汁気に満ちてそれでいてほくほくしたナマズの肉に、かりっと焼いたパンが良く合う。口の中が乾いたところにすかさずエールを流し込んで喉を潤した。

 いい加減に満腹になったところで俺はウードを取り出し、当たり障りの無い歌を奏でて一同の耳を慰めた。


「あの馬と今までのたくわえがあれば、イェファーを拠点にもっとましな商売ができる。この家は畳んで父さんと義姉さんも一緒に行こうや」

 ピーテルが楽観的な未来図を描いたが、父親と兄嫁はまだもう一つ踏ん切りがつかない様子だった。

 


 ちょっと難産でしたが大体規定路線に収まりました。


註1:ソリドゥス

 ローマ時代に起源を持つ貨幣単位。元は金貨を指し東ローマのノミスマ金貨に相当したが、カロリング朝フランク王国のソリドゥス貨は銀を多く含む合金で鋳造され、ノミスマの3分の1程度の価値になった。それでも高額であったため、ほとんど実際には流通せずもっぱらデナリウス銀貨が使われていた。



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