Here Comes The Flood
「今日、うち結婚するはずやったん」
ザラが肩を落とし、血の気のうせた唇でつぶやいた。
うん、これは正直、訊くべきじゃなかった。
炉に積み上げられた薪の山ががらり、と崩れ、火勢が落ちる。四人の顔にかかった陰影がひどく濃くなったように思えた。
「お隣のハンス兄やん。年いってたし、別に好きというんでも無かったけど、なあ」
それきり屋内を沈黙が支配した。いたたまれない。
彼女の未来の夫は、俺とヨルグが先ほど隣家の広間に安置した遺体の中にいたらしい。
これといった楽しみも無く労働に明け暮れ、隣村の教会でも冷たい視線を投げかけられる、そんな暮らしの中でようやく巡って来た「良いこと」、そして未来の約束。それが今日、手にする寸前で泥土の上に叩き落され踏みにじられたのだった。
何気なく手を伸ばしてガチョウの皮をつまんだ。口の中でほろりと崩れ、ガチョウ脂の香りと岩塩の深みのある塩味が広がった。飯は美味かったがこれではまるでお通夜だ。いや全く、お通夜以外の何ものでもないといえばその通りなのだが。
「なんだか食欲が失せたなあ」
火を止めてややぬるくなった鍋の中、最後のザリガニにヨルグが手を伸ばした。遠慮の塊だの一つ残しだのといった概念は、少なくともこの男には無いらしい。
ちゅう、と音を立てて空っぽの甲羅に残った煮汁をしゃぶると、無造作に炉の火に投げ込む。香ばしいような生臭いような匂いがあたりに立ち込めた。
結局のところパンと茹でたガチョウの肉を若干の量食べ残し、俺たちは食事を終えた。
「さて、ワインも空になったし俺たちの腹もこれ以上詰め込めない。あとはもう寝るしかないな」
それを聞いたザラがぎょっとしたように俺たちを見回し、顔を引きつらせ赤らめた。その反応に一瞬戸惑ったあと、俺たちは顔を見合わせた。
「うむ。どうも、俺たちの人品を大いに誤解されている部分があるようだ」
「ハハッ、叔父貴の目の前でさすがにそんな出鱈目はできないな」
「俺の目が無くてもやめとけ。シグリは将来お前に嫁ぐ気でいるようだぞ」
「シグリが!? 気が早えし俺は――」
ほんの三十秒足らず、そんな調子で小声で話したあと俺たちはおもむろにザラに向き直り、いっせいに頭を左右に振った。俺だけは手のひらを顔の前に立てて左右に振ったが、これがヨーロッパでは通じないジェスチャーだとは、この時点では知らなかった。
「ないない」
「無いよなー」
「北方人が皆、女と見れば襲い掛かると思われるのは心外だ」
なんだか成り行きでヨルグが袋小路のある方角へ一歩追い込まれた気がしたが、俺は沈黙を守った。
ザラは自分の想像と実際の成り行きとの落差に安堵と脱力感を覚えたのか、へなへなとへたり込んで若干涙目になると、無言で俺たちを家族が使っていた寝室へ案内した。彼女自身は屋根裏の小部屋を使うらしい。
藁を詰め込んだ巨大な箱型のベッドに亜麻のシーツをかぶせて倒れこむと、後は掛け布団代わりに、それぞれのマントを体の前面に回してきて肩まで引っ張り上げ、目を閉じる。頭の奥と体の芯から拡がってくる心地よい脱力感。
一日の間相当の距離を歩きとおして、意識していた以上に疲れていたようだ。俺は夢も見ずに泥のように眠った。
空は朝からカラリと晴れていた。この辺りでは珍しいことらしい。俺とヨルグは村人のために墓穴を掘り、ロルフはザラを手伝って、旅に持ち出すわずかな物品をまとめていた。
彼は靴造りや皮細工のための最低限の道具を持ってきていて、それらを使って、盗賊から手に入れた馬の鞍周りに、こまごまとした物入れを取り付けたりもしていた。
「へえ、器用なもんやなあ」
「道中少しでも楽がしたくてな」
微妙に食い違った会話だったが、ザラのノルド語はこの一日足らずの間にいくらか流暢になっていた。俺たちと話すことで、父親がまだノルド語を主体に喋っていた時期の記憶が引き出されているのかもしれない。
鞍の前部からは左右に振り分ける形で、シーツを二枚重ねにして縫った袋が提げられ、馬の秣用にカラスムギが詰め込まれた。盗賊のかばんは鞍の後部に皮ひもを細工して取り付けられ、中にはガチョウの脂の残りを納めた小さな壷、少々のこぎれいな布、それに岩塩が布袋に包まれて放り込まれていた。
ロルフの手が空いたところで彼にも手伝ってもらって、どうにか村人全員の遺体をそれぞれの墓穴に納めた。
修道院の廃墟から持ち出されたぼろぼろの祈祷書の適当なページを開き、俺がローマ字そのままに読み上げる。まさか『雅歌』は含まれていないだろうが、不適切な章句でなかったことを祈るばかりだ。
遺体に丁寧に土をかけ終わるころにはもう正午近く。俺は葬送のために何か演奏することにした。背中の包みからウード「コメット」を取り出して軽くチューニングを確かめる。
「うわ、何やこれ。綺麗やなあ」
初めて見る異国の楽器に、ザラが目を見張った。
「ウードという楽器さ。サラセンの商人から買った」
耳慣れない単語に首をかしげるザラに、ロルフがフリジア語で再度説明する。
『蛍の光』と『賛美歌320番(主よ、御許に近づかん)』を続けて演奏し終えると、ザラは両の目に涙をたたえ、晴れた空に浮かんだ一片の雲を仰いで目を閉じた。
「いい日や。いいお葬式やった」
いえいえ、お粗末さまでございました。俺は本来無神論者だが、あの祈祷文と賛美歌で村人の魂に正しく引導を渡せていたら良いな、と思う。
キリストはもともと形式主義的な信仰を批判して旧来のユダヤ教と一線を画した。ならば、異教徒である俺の祈祷と賛美歌にこめられた、鎮魂と救済の願いも無下にはされないのではあるまいか。そんな身勝手な希望を抱きつつ、俺は楽器をケースに戻した。
午後遅く、俺たちはブレーメンへ向けて出発した。前日と同じくヨルグが先頭で露払いを務め、ロルフが馬の手綱を取る。俺は馬の背に乗り切れない荷物を持って最後尾を歩いた。
「なんだか西遊記みたいだな」
「ああ、前にトールが話してくれたサガか」
ヴァイキング行に出るちょっと前、大山羊号の引上げ作業の合間に、俺が何とかぼんやり覚えている物語をいくつか、彼らに語って聞かせたのを覚えていたらしい。
「でかい桃から生まれた剣士が、僧院の裏庭で禁令を破って決闘するんだっけな」
「まて、なんか混ざってる」
主要キャラクターは確かにどれも四人だが、そもそも西遊記要素がゼロだ。あの時は確か少々酒を飲んで酔ってた気がするが混ぜたのは俺だろうか。
「そのあと贖罪のために聖体パンを持ってローマに巨人を退治しに行くんだっけ。」
ロルフもおかしなことを言い出した。
「ローマで大カトーとかいうおっさんが仲間に加わるんだったな」
「あ、カルタゴにひどいことをした人やな」
ザラまでがどこで聞いたのかえらく正確に切り込んでくる。
「くそぅ、文化交流に敗北した気分だ。わかった、次の宿で俺がきちんと語ってやる。四大奇書の一つと謳われた一大サガを!」
「楽しみやなあ」
ザラが軽く握った手を口元に当ててくすくすと笑った。やや下膨れで目が小さく、顎ががっしりし過ぎていて美人と言うには野暮ったい造作だが、こういう表情をするときはずいぶんと可愛らしく見える。
松明の明かりの下では随分と老けて見えたが、おそらく実年齢は二十歳をやや過ぎたくらいだろうか。彼女が生きるべきこの先の人生は、まだまだ長い。俺たちがブレーメンまで同行することで、少しでもその先行きが明るいものになることを願うばかりだ。
日暮れ少し前に俺たちは、北東から南西へ向かって大きくくさびのような形にえぐれ込んだ、細長い湾のほとりにたどり着いた。ヘーゼビューより少し小さい位の町がその奥にあった。
「ああ、街道はここにつながってたのか」
ロルフが納得したようにうなずいた。ここは現地語でイェファーと言う町らしい。
「来たことがあるみたいだな」
「ああ。アルノルが船に乗り出したころかな。俺も若造だった。ここはフランク王国からデンマークの王族に与えられた町なんだ。俺たちの言葉が普通に通じる」
何代か前のデンマーク王の一人、ハラルド・クラークと言う男は王族の例に漏れず、継承がらみのいさかいで半ば追われる様に出奔し、フランク王国に身を寄せた。ルイ敬虔王の宮廷で保護され、キリスト教への改宗を機にこの地を与えられた、と言ういきさつであるらしかった。
「だが、あまり長居をしないほうがいいだろう。ハラルドはとっくに死んだし、ルイの長男ロタールが建てた国の、この辺りにあった領土は最近両隣の国に吸収された。フランク族とデーン人の対立がそれ以来、表面化してる」
「そりゃあ剣呑だな」
異なる民族と文化が入り混じって存在する地。それを統合していた王権が消えれば、地方領主の権威も消える。
後に来るのは吹き荒れる内乱、民族と宗教の違いから来る紛争だ。21世紀でもそれは全然変わらない。
それにしてもこの辺りの状況は混沌としすぎだ。昨日偵察に行ったホーエンキルヒェンは、どうやらここから北へ10km足らずほどらしい。イェファーの町が持つ軍事的抑止力が減退し、海からの新たな侵入者を許した、ということだろうか。なんにしても俺たちは随分と遠回りを強いられたらしい。
町は土塁と板壁に囲まれ、街道側の門には武装したデーンの戦士が歩哨に立っていた。
「止まれ、何者か」
ユトランドなまりの強いノルド語だが、フリジア語に比べれば分かりやすい事この上もない。俺たちはあらかじめ相談しておいた通りの役割を演じた。
ブレーメンの司教座まで巡礼に行く靴屋とその娘、近所の木こりとたまたま街道で一緒になった楽師。いぶかしげな顔をしていた歩哨が、ロルフの足元を見て大いに納得した風だった。
「おお、新式の靴か、これは具合がよさそうだ。俺も一足あつらえたい物よ」
「材料が多めに要りますので少々お高くなりますが、帰りに寄ることがあれば、御用に与れればと存じます」
言葉巧みに相手の購買意欲をくすぐる。実のところブレーメンで船を見つければおそらくここに寄る可能性は薄いのだが。
ヨルグの木こり偽装は、盗賊が残した分厚くバランスの悪い斧のおかげで難なく通った。
「こんな町まで伐採斧を持ってくる奴があるか。大体この辺りにいい木など、そう多くはあるまい」
「へえ、おっしゃる通りで。まったくあっしの子供の時分に比べても、もう船を作れるような材木はろくに採れやしやせん。ここらで稼業に見切りをつけて、町で仕事を探そうってわけで」
「人を伐れるなら、領主様の兵団に口を利いてやらんことも無いぞ」
ちらちらとザラのほうを見ながら、戦士たちはヨルグをからかった。
「そいつはどうも。ですがあっしは木以外はからっきしで。ブレーメンで修道院の下働きに入れてもらって、薪を割って生計にしようってわけでさ」
何だこりゃ。ヨルグが思いのほか演技力を身につけていることに俺は目を瞠った。
俺については楽器を取り出してひとくさり俗っぽい歌を歌ってやると、彼らの疑念は雲散霧消したようだ。ハラルド王の宴席を去り際にフロルローグ王が歌っていた卑猥な『羊肉の歌』を聴いて、彼らは堪えかねたように腹を抱えて笑い、俺たちを通してくれた。
そんな薬味をすり込まれたら 僕はたちまちふらふらさ
そんな刀で突かれたら 肉が骨から取れちまう
抗う子羊をなだめすかして 料理人はボウル一杯の
凝乳を子羊にふりかけて 優しく揉んでなじませる――
世が世なら通報されそうな歌を歌い続けながら、俺たちは門を抜け、町の目抜き通りを進んだ。ザラが時々小声で「やらしっ! やらしっ!」と狼狽して呟いているのが耳に入った。
「ヨルグ、感心したよ。よく腹も立てずに歩哨たちをやり過ごしたもんだ」
「計略を上手く運ぶのも、なかなか格好のいいものだと思ってな」
いろいろある中でこいつも成長してるのだなあ。なんとなくニヤニヤ笑いが止まらない。
「なんだか気持ち悪い顔してるな、トール」
「やかましいわ」
笑顔のまま口元だけゆがめて応えた。
演奏を続けたまま町に入ったおかげで、宿にまで物見高い見物人が集まってしまい、俺はどうあってもなにか芸を披露せざるを得ない雰囲気だった。ヴァイキングの長館と大差ないつくりの旅籠の入り口を囲んで、半円形の人の輪ができる。それも結構分厚く。
「参ったな。足湯を使ったりして疲れを取りたいところなんだが」
ザラの道案内は決して完璧とは言えず、俺たちは何度か湿地のたまり水に足をつっこんで靴をぬらしている。滅多なことはあるまいが、放置していればたちの悪い寄生虫に感染しないとも限らない。
そのことを説明すると、ロルフも靴屋らしく思案顔になった。うん、観衆には悪いがまずはフットケアを優先だ。これは長旅には欠かせない。
「やあやあお集まりの皆様、われら夜に日をついでの長旅の後にて、いささか疲れております。されば今しばらく、旅装を解き身だしなみを整えなおして、しかる後に私めが遥か東方、キタイ(中国)の地より伝わった奇想天外なる物語を楽の音とともにご披露いたしましょう。
食事の後になりますゆえ、皆様もどうぞお腹を良い味のもので満たしてごゆっくりお待ちくだされ!」
口上を述べていったんお引取りを願う。なんとか納得して群衆がいったん散会するが、これは確実に俺のハードルが上がったなあ。
宿屋の主に運ばせた足湯の桶をそれぞれ受け取り、俺たちは靴の中で蒸れた足を洗ってついでに別の桶で顔と頭、手も洗い、しばらくぶりに生き返ったような心地になった。
炉を借りてガチョウの腿を焼き、パンの残りをかじりながらエールを渇いた喉に流し込む。
ロルフもこの際靴屋で押し通す決心をしたようで、皮細工の道具を広げて手入れをし始めた。宿の小僧に駄賃を与えて、修理用の皮まで少々買いに行かせる様子だ。この時代にはまだ手工業者のギルドのようなものが発達していないらしく、それとなく宿のものに訊いても旅の靴屋の営業にはとくに問題がないという。
さて、他の三人にもあらかじめ言ったことであるし、西遊記をこの時代のヨーロッパ人に受け入れやすくアレンジして、大幅ダイジェストで語るより他はあるまい。孫悟空をメインに据えて「斉天大聖」を「宇宙の王様」と意訳してしまうくらいの温度で。
そんなことを考えていると、宿屋の主とヨルグの会話がふと耳に引っかかった。
「ブレーメンへ行くのかい? あそこへ行くにはここから先、馬じゃあ無理だぞ」
「そうなのか。どんな具合なんだ?」
ちょっとこれは聞き捨てならない情報のようだ。
「ヴェーザー川の河口にたまった泥が潮で削られて、だだっ広い湿地に何本も不規則な水路ができてる。大体西から東へ流れるが……小船でもないと渡れん。ヤーデ(Jade:翡翠)って呼んでるが、時期によって湾になったり湿地になったりで呼び名がはっきりしないんだ」
「なんだかうすっ気味悪い土地みたいだな」
おそらくヴェーザー川というのが相当な暴れ川なのか、あるいはその辺りの潮汐が激しいのか、その辺りだろうか。
この辺りに絶えず吹いている北海からの北西風が何らかの原因で強まると、潮との兼ね合いで……ああ、分かった。小学校のころ子供向けの読み物で読んだ、オランダの堤防のアレだ。
堤に開いた穴を必死で腕でふさいで嵐の中息絶える少年の、自己犠牲的逸話が脳裏によみがえった。なるほど、あの逸話は多分近代に近い時期のものだが、同様の災害をもたらす環境はそれ以前からあるわけか。
これは、ブレーメンへ行くのは容易ではないことになるかもしれない。俺はそんな思いに頭を痛めつつも、頃合やよしとばかりに宿屋の周りに再度集まり始めた観衆の気配を感じ取っていた。