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ばいめた!~楽師トールの物語(サガ)~  作者: 冴吹稔
北海ヒッチハイクガイド
35/102

今にも落ちてきそうな曇り空の下で

 空が低い。垂れ込めた雲の下、見渡す限りの緑と灰色。

 

 起伏の乏しい湿地帯のところどころに、わずかに周囲より高く盛り上がる、丘ともいえないほどの高地がある。俺たちはそんな茫漠とした土地の上を歩いていた。


 耳元を通り過ぎる風が時折息をつくように強まってごうごうと吼え、名の知れぬ鳥のさえずりが高く低く駆け巡る。足元は明るい色の粘土質の土壌で、体重をかけるとわずかに窪んで水が滲み出した。


 靴が次第に泥と水で重くなった。太陽はたまに雲の切れ間から、天使でも降りてきそうな長い光の帯をこの惨めな地上へと差し伸べる。

 だがそれ以外の多くの時間、光はさえぎられ、比較的温暖といっていいはずのこの土地にあっても、絶えず吹き付ける風に俺の体感温度は著しく引き下げられていた。


(これは、夜になったらひどい寒さになりそうだ)

 頭の中で経験と知識が警鐘を鳴らす。どうあっても日没までにどこかに宿を求める必要があった。前方を歩く仲間二人――ロルフとヨルグの背中が目に入る。彼らも俺も、比較的軽装で手回り品は多くない。目的地まではざっと考えても、日本の九州を縦断するくらいの直線距離。

 途中に点在する村や町で宿泊や補給はできるとしても、まともに歩いていては多分、鎖蛇号との合流は難しい。その間、路銀はいかほどかかるだろうか。

 ヘーゼビューでイレーネから受け取った金子――ウードを買って現在ディルハム銀貨22枚、それにフリーダから与えられた、ディルハム銀貨6枚。

これまで懐を暖かいと感じさせてくれたその重みが、今はなにやらひどく軽く、頼りなく思えた。


(どうしてこんな事になってしまったのか……)

思考はほんの半日前へとさかのぼる。ホルガーに落ち度は無いが、今はこの巡りあわせがひたすらに恨めしい。


 辺りを警戒しながら愚痴一つこぼさず黙々と歩き続ける二人のヴァイキングが、俺にはもう何か人類とは別次元の存在のようにすら思えていた。



          * * * * * * *



 北方人にとって重要な事柄は大抵、宴会の席か民会の場で決められる。アンスヘイムでは族長であるホルガーの家の権威が他を圧するため、民会ではなくいくらか封建的色彩を帯びた宴席が意思決定の場となっていた。


「……では決まりだ。今年は東フリースラント一帯へ遠征に出よう。あそこはまだフランクの領土で、すぐ西にはロリックの建てた王国がある」

各方面から集められた情報を元に検討を重ね、ホルガーは高座から重々しく皆に告げた。

「ロリックの王国には交易都市ドーレスタットがある。いささか寂れたとも聞くが……かさばる獲物はそこで売り、まずはこの地で手に入らぬ必需品から買い求めるとしよう。例えば岩塩だ」


 水温の低い北欧では海水中に十分な濃度の塩分が溶け込むことができない。周りを海に囲まれているにも関わらず、ノースの民は食料、ことに魚肉を長期保存するために必要な大量の塩を、もっぱらドイツの内陸部などからもたらされる岩塩によって賄っている。


「イングランドじゃあ、だめなのか?」

会衆からそのような声が上がる。だが、ヘーゼビューで得た情報はそれが現実的でないことを示していた。


 イングランドの東側、ノーサンブリアやマーシアなどの小王国郡はいまやデーン人の席巻するところとなっていた。ここ数年は大胆にもイングランドで越冬している。

 つまり徐々に定住し始めているのだが、ハザール人の剣を率先して買い求めたデンマーク軍の戦士たちが伝えたところによれば、イングランド南部に拠ったサクソン人の王は今もしぶとく抵抗を続け、むしろ年々その制圧地域を広げているという。


 昨年にはその王が洋上でデーンの艦隊を破った、と言う噂もあった。未曾有の事である。イングランドはもはや、黙ってその身を切り裂かれるのを待つ犠牲の羊ではなかったのだ。


「ハラルド王は配下の豪族衆に国内での掠奪を禁じたし、これからますます、小規模な手勢を率いての単純な襲撃はやり難くなりそうだな」

「なに、掠奪に出られるだけ俺たちの立場はまだましだ。クラウスたちを見てみろ。王から資金と物資の供給は受けているが、遠方への気ままな出航は禁じられ、毎日隣のフィヨルドとアンスヘイムを巡回して、軍港建設だぞ」


 掠奪を当たり前のこと、当然の権利のように語り合う男たちに、いい加減ここの暮らしに慣れてきたつもりだった俺もいささか戸惑いを覚えた。彼らは俺を今年のヴァイキング行に連れて行くつもりだが、俺も彼らに混じって斧や剣をふるい、逃げ惑うフランクの農民を殺戮したり奴隷にするために女を捕らえたりすることになるのだろうか。

 実のところ、かすかにそうした行為に対して魅力を感じ、期待感を覚えてしまう自分に気がついても居る。

 心の奥深いところに巣くっていた原初的な狩猟本能とか攻撃衝動とかそういったものを自覚して、俺は慌ててそれら爬虫類の顔をしたおぞましい新メンバーを脳内会議から退席させた。

 せめて大脳新皮質から選出の議員だけにしてくれ、奴らはまだしも人間の顔をしている俺なのだ。


 とはいえ。


 現実的に考えれば畑も持たずスノッリやヴァジのような特殊な技能も無く(音楽は所詮娯楽であって、このような農村での暮らしに欠かせない、というわけではない)、俺が今後の生活を満足なものにするには、独立前の若い時期に海へ出て掠奪や掠奪に近い交易で富と名誉を獲得する、彼らの「ヴァイキング方式」に倣うしかないのも事実だった。


 ああ、それでも人を殺すのは自衛やそれに準じるケースだけにしよう。よしんば彼らに軟弱者、臆病者と揶揄されたとしても。

 俺は日本人だ。いまやあの時代での倫理観や、美徳とされたもろもろの精神的特質だけが、俺と21世紀日本をつなぐ細い糸なのだ。




 北海から陸地へ向かって吹く風を右舷後方から受けて、鎖蛇号は帆だけの力で軽やかに進んでいた。フリースラントの東部、後世ではドイツ北西部沿岸に相当するこの一帯は、デンマークや南ノルウェーよりも更に平坦な湿地と草原が海岸まで広がっている。


 右舷には、沖合い数キロの距離に連なる島々が堤防のように、外海と海岸との間をさえぎっていた。ワッデン海と呼ばれる浅い内海だ。島の海岸にはこの距離だと丸太か何かのように見える黒っぽい動物の姿が、ごろごろと横たわっているのが見えた。アザラシだとオーラブが教えてくれた。

 彼の矢傷はあの後順調に快復したが、傷跡の皮膚が若干引き攣れて、左手で槍を投げるにはもう少しリハビリが必要らしい。それでも彼らの常識からは考えられないような良好な経過だった。外科用器具や包帯の煮沸とアルコール消毒、ヤナギの煎じた葉による鎮痛解熱は、アンスヘイムとクラウスの部隊に広く周知されて来ている。それと、彼らが使う木タールに有意な抗菌作用があることが判明したのも新たな収穫だった。


 過酷な戦闘を繰り返す割りに、負傷した男たちのその後の経過がそれほど悲惨でないのは、彼らの頑健な身体と北欧の乾燥した冷涼な気候のほかにそういう理由もあったのだ。


「アザラシって、獲物としてはどうなのかね」

「セイウチほどではないが、歯牙は工芸品の材料になるし、皮や肉も利用する。だが今ここで狩っても加工の手間がかかりすぎるな」

「そうかあ」

 そんな会話をしていると、マストの上から報告があった。

「高い建物が見える。多分キリスト教の僧院だ」

 

 甲板の上におお、と歓声が上がった。この船一隻で大きな町を攻め落とすことはできないし、小さな農村程度では何ほどのものも奪えないが、僧院となるとこれは獲物として最上だ。武装もろくにしていないし、近隣からかき集められた富と食料がふんだんに貯えられている。


 鎖蛇号は勇み立つ男たちを乗せて海岸へと近づき、目標との間に目隠しになるような程よい丘陵をはさんだ浜辺に横付けした。チドリのような小さな鳥が、いっせいに浜から空へ飛び去った。


「少し遠すぎるな」

 アルノルが口ひげを引っ張った。海岸から見ても、僧院らしい建物までは数Km程度の距離があるようだ。

「偵察を出すか」

 ホルガーが普段は快活に開かれたその眼を、鋭く細めてそう言った。


「誰を送るか……」

少し考えた後、ホルガーはロルフとヨルグ、そして驚いたことに俺の名を挙げた。


「ロルフ! あんたは経験の長い船乗りで、この辺りの言葉にも達者だ。旅人を装って僧院に近づき、海岸からこの船が入り込めるような水路が無いか調べてくれ。付近の住人に見咎められたら上手く話をして、できるだけ情報を引き出すのだ」

「……分かった。責任重大だな」

ロルフはどこか物憂げにそう答えた。

「トール! お前はロルフについていって旅芸人の振りをしろ。まさかノースの掠奪行に楽器を抱えてついていく者がおるとは想像すまい。ヨルグはいざと言うとき二人を守れ、いいな?」

「分かったぜ。……両手斧持って行っていいのかな?」

「……流石に目立ちすぎるだろう。片手斧と剣にしろ」

ホルガーに諭されてしぶしぶ、ヨルグは両手斧をシグルズに預けた。


(ヴァイキングの掠奪行に楽器を抱えていく、か)

 俺は苦笑した。子供のころ読んだ小説『小さなバイキング』にはギリシャ風の竪琴を携えた詩人が登場し、ズレた文化人ぶりを発揮していたものだ。俺のポジションはあいつか。


 偵察のための上陸準備を整えながら、ひとしきりアンスヘイムの男たちを件の小説の登場人物に当てはめて想像してみた。だが現実のヴァイキングたちはずっと複雑で奸智に長け、それでいてより一層荒々しくパワフルだ。



 僧院までの道のりは大まかに言えば4kmといったところで、かなり近づくまで建物の細かな形は俺にはまるで判別できなかった。

 なだらかに見えた道中の地形も実際に踏み込んで見れば結構な起伏があることが分かった。緩やかな丘陵を登っては降り、湿地に足を取られる繰り返し。


 ところどころに盛り上がる濃い緑の木立を迂回し、アシの茂みに身を潜めてひと気の無い農道の様子を窺う。道の傍らに放棄された、銀灰色に変色した木製の手押し車が妙に心を騒がせた。農道の白い砂質の地面に残されたわだちは浅く、輪郭がぼやけていてずいぶん古いものに見える。


「なんだか……しみったれた土地だな、おい」

 ヨルグが不満げに鼻を鳴らした。

 海辺の土地らしく塩気を含んだ風が、通常より遥かに速く物を古びさせるのは道理なのだが、どうにもこの辺りには人の生活の痕跡が絶えて久しいようだ。僧院の足元にうずくまるように広がった村に差し掛かると、その印象はさらにはっきりしたものになった。


「参ったな。こりゃあ廃村だ」

 ロルフがため息をついた。村の中は丈高く伸びた草が地面を覆いつくし、崩れかけた家屋が黒々とした姿をそこらじゅうに横たえていた。少なくとも数年前に、ここは廃墟と化したらしい。

 何かにつまづいて転びそうになり、危うく踏みとどまって足元を見ると、そこには白骨化した人間の遺体があった。思わず「ひっ」と情けない声が漏れる。

「辛気臭いお出迎えだな」ヨルグが俺に嘲笑を向けた。

「これは僧院のほうも期待できまい」

 ロルフがひどく憂鬱そうに、村の北側にたたずむ石造りの建物を見上げてつぶやいた。


 村と僧院は、過去に何者かの襲撃を受けて、完全に無人と化しているらしかった。おそらくデンマーク辺りのヴァイキング集団による掠奪だろう。行きがけの駄賃とばかりに、俺たちは貴重品の隠し場所になっていそうな場所を未練がましく探し回った。

 見つかったのは粗末な真鍮の燭台と、修道僧の寝床になっていたと思われる場所の壁のくぼみに隠された、ぼろぼろになった羊皮紙の祈祷書らしきものと数枚の銅貨、それに銀のロザリオだけだった。


「仕方が無い、帰ろう」

 俺は二人に声をかけた。まだロリックの王国に入るまではかなりの距離があり、その途中には数多くの村や町があるはずだ。今回の不作はそこで取り返せるだろう。

「ああ、帰ろう。たまにはこういうこともある」

 やれやれ、と腰を上げ、俺たちは来た道を通って海岸へと急いだ。


 鎖蛇号がその向こう側に潜んだ丘陵のちょうど頂まで来たとき、異様なものが目に入った。外海からワッデン海へと侵入し、海岸へ接近してくるものがある。

「何だ、あれは」ヨルグが声を震わせた。


 それはこの距離を隔ててもとてつもなく大きく視界を圧する、一隻の船だった。一目見ればそれは異質な物だと分る。見慣れたカーヴやクナルとも、スケイドやスネッケなどの軍船とも違っていた。

 全体的なシルエットだけは一見、ノースやデーンの船に似ているが、船首に斜めに立てられたマストに小型の四角帆を掲げ、舷側が海面から高々とそびえているのが特徴的だ。

「でかい船だな! オールは片側で……30本ほどあるようだ」

 ロルフがすばやくオールを数えて俺たちに知らせる。

「見たところ、やはり軍船のようだ。鎖蛇号では太刀打ちできまい」

「それじゃあ……」

「船に戻らんとやばいな。急ぐぞ!」


 俺たちは疲労を押して全力で駆け始めた。だが、下り斜面の半ば過ぎまで駆け下りたとき、鎖蛇号はすでにオールを羽ばたかせて、急遽海岸を離れようとするところだった。


 巨船のメインマストに鮮やかな赤い色の布が掲げられ、船尾からの風をうけてたなびいた。一瞬花が咲いたように見えたそれは、三角形の長い旗だった。

 赤地をバックに黄色く染め抜かれた、猛々しい飛竜ワイヴァーンの意匠。

「ウェセックス王国の旗だ……」ロルフが呻く。イングランドでデーン人の軍勢を押し戻しているという、アングロ・サクソンの雄邦の長旗が俺たちの目の前に翻っていた。





 第5章、いよいよスタート。同行者は結局、ロルフとヨルグの二人に決まりました。三人というのもそれはそれでいろいろおいしい人数じゃよね。


 末尾に登場したウェセックス王国の戦艦、記録にその姿を現すのはもう少し後なのですが、新式の船、それも大型の軍船をいきなり何隻も量産して即投入するのも不自然な気がします。なによりプロトタイプの試験航海を目撃するとかこの上なく燃えるシチュエーションなので、フライング気味に出してしまいましたw


 船体の構成についてはローマ時代の商船や地中海のガレー船などの要素を少し加えて「盛って」ありますが、設計者とされるアルフレッド大王は幼少期からフランク王国やローマに遊学、滞在していた経験もありますし、ある程度の実在の可能性のあるデザインになっているのではないかと。


次回「そして3人が残った」ご期待ください。

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