水門の戦い
「畜生! なんだかヘーゼビューからこっち、走ってばっかりな気がする!」
俺はスノッリの背中を睨んで走りながら悲鳴を上げた。傾斜のある地面を荷物を抱えて全力疾走するのは実に骨が折れる。心臓が破裂しそうに暴れ廻り、肺がもっともっとと酸素を求めて荒れ狂う。喉の奥が干上がって焼け付くようだ。
スノッリの案内するルートは、森の中でも比較的足元のしっかりしている場所を通っているらしい。急に地面のくぼみに足を取られたり、とがった切り株が靴底を貫いたりするようなこともない。
だが起伏が多く、ところどころ地衣類を踏んで足元が滑りかけ、露出した木の根でむこうずねをひっぱたかれる、とまあ距離の割りに疲れる道のりだった。
「ヘーゼビュー以来? そりゃ流石に気のせいだろう。船に乗ってる時間のほうが長いぜ」
ヨルグが少し後ろを、斧を担いで走っている。その後ろに女の子二人。その後ろを守るようにロルフ。フリーダにしてもシグリにしても、とんでもなく身体能力が高いのに驚かされる。ひょいひょいと木の根や小さな岩を飛び越え、捻挫一つ起こさずに――とうとう俺を追い越して駆けて行く。
ようやく森の切れ目が目に入った。日差しを浴びた村の辺縁部、農具を収めた小屋がぽつんと見え、その向こうに鎖蛇号のマストが見えた。防壁の内側に出たのだ。薄暗い森の中から急に外へ出ると太陽がまぶしかった。
「フリーダとシグリは村へ! 男衆は武装して防壁へ向かえ!」
防壁へ上がる梯子の下に陣取ってゴルム翁が叫ぶ。陸の上で使節団の全権を担う彼にとって、ここが最後の大仕事といえた。
「ホルガー! 皆! 無事か!?」
防壁の上に這い上がり、俺は久方ぶりに彼の姿を見た。
「トール! スノッリも! 皆戻ったのか!」
彼は手首と膝まですっぽり覆う重防御の鎖鎧に身を包み、額から口元にかけて大きな鼻当てのついた兜で完全武装していた。初めて見る姿だ。
「とんだ時に戻ってきたもんだが、間に合ってよかった。奴らはどこの何者なんだ」
「ローガランの元領主の一人で、ゾートとかいうらしい。いきなりあの大船で乗り付けてきて、『水門を開けて降伏しろ』と来た。防壁が八割がた出来上がってて良かった」
『焼き討ち』エイリークではないらしい。
「そうか……ハラルド王との会見は首尾よく終わった。あのスネッケが今後村の守備に参加してくれる」
「あれが――」
ホルガーが言葉を途中で飲み込んだ。眼下に広がるフィヨルドでまさに今、想像もしなかったような戦いが展開していたのだ。
長亀号が繰り出した『シッフ・ツェアシュトなんとか(船舶破壊剣)』が、ゾートの軍船の舵と船体の接続部分に後方から突き刺さり、舵板をもぎ取っていた。
「柄引き戻せぇ! 後退ぃー(ツーリュック)!」
ベンジャミンが肥満体にままある甲高い声で叫ぶ。これは恐ろしい兵器だ。
歴史資料や映画に登場するローマやギリシャのガレー船なら、船体に取り付けた衝角で衝突攻撃を行った後は乗り込んでの甲板白兵戦に移行するが、長亀号の『船舶破壊剣』には攻撃後の行動を制限されないという利点があるようだ。
破壊力はその分落ちるが、すぐに引き戻せるため向こうから乗り移ることもできないし、
基部がロープで若干のフレキシブルさを持たせているため――
長亀号が後進から再び前進に移り、長く伸ばしたその武器が、ゾートの船のマストを舷側から支える横静索を掠め斬った。もちろんその後すぐに柄が引き戻される。
――そう、こういうことが可能になるのだ。
「貴様らの船からこちらへ乗り込むことはできん! どうだ、思惑通りにいかずがっかりしたか!」
クラウスが大声で挑発し、スネッケは軽快に走り回って軍船を翻弄した。
ひときわ見事な鎧兜に身を包んだ戦士――おそらくはゾートが、怒りに身もだえしながら喚く。
「おのれ、何者だ貴様。なぜ俺様の邪魔をする!」
「蓬髪のハラルドの幕下に仕える、戦士クラウスさ。この村を守れと直々に仰せつかったんでね!」
「ハラルド!またしても蓬髪のハラルドか!」怒号を上げて戦斧を頭上で振り回すが、無論どこにも届いていない。
「いい具合に頭に血が上っているらしいな。ホルガー。『あれ』は完成しているか?」
俺は眼下の戦いを見守りつつ、ホルガーに尋ねた。
「東側の塔に滑車と歯車が間に合ってないが……水門からこっち、西側を持ち上げて斜めにでよければ、動かせる。重要だと思ったんで部分的にでも機能を果たすようにしてあった」
「さすがだな。それでいい、十分に役に立つ。何人かを引き綱につけて、合図と同時に持ち上げてくれ」
「ああ、皆が帰ってきてくれたから人手が足りる。正直、今までどちらからも弓を射るくらいしかできなくてな。日が暮れたら夜陰に乗じて森を回りこまれるんじゃないかと、はらはらしていたのだ」
ホルガーがようやく愁眉を開いて内心を明かした。
「よし、じゃあまず射撃をやめてこっちに注目させよう。俺が今からちょっとした『魔法』を披露する。奴らを思いっきりいやな気分にさせてやろう」
「分かった……しかしトール、お前だんだんアルノルに似てきたな」
「そりゃあ光栄だ」
いいながら荷物をとき、ソフトケースからウードを取り出した。ホルガーが珍しそうに楽器を見たが、すぐに皆に号令を飛ばし、配置につかせた。櫓の太鼓を一回鋭く叩き、弓の応酬の絶えた防壁前に、一瞬の静寂を作り出す。
バンド時代でも普段はほとんど使わなかったテンション音の多いコードをかき鳴らし(ウードの調弦はありがたいことにかなりそれに適していた)、ヒグラシゼミの声に似せたけたたましい奇声を長々と発してみせる。
「ケケケケケケェッツケッケッケッケ……」
「何だ!」
二隻の船から怪しむ声が上がり、多少なりとも俺の存在を知るクラウスたちが、慎重に防壁から距離をとって動いた。
昔ケイコに酷評された非整数次倍音混ざりのハイトーンボイスで、即興の詩を歌う。ヴァイキングたちが心底嫌がるであろう、不吉極まりないイメージを歌ったケニング多目の(俺は苦手だが)呪詛の歌だ。
よくぞ来た! 鴉に餌を振舞うものたちよ
汝らの最後の地へ進むがいい
エギルの娘たちの抱擁が汝らを捕らえるだろう
その指は腐りおち、傷の鍬を持つこと叶わぬ
槍を呼ぶ神は門を閉ざし ヴァルキューレの姿、天になし
耳慣れぬ音楽のメロディーと、あからさまにヴァイキング向けの嫌がらせを盛り込んだ歌詞に、敵はおろかアンスヘイムの男たちさえ露骨に渋面を作った。うんうん、実にいい反応だ。
名誉なく、勲なく、安息もなく
蜜酒を求める喉に ただ塩水だけが注がれん
かかる運命を恐れず愚かにも立ち去らざれば――
分かりやすく普通の言葉に直せばこうだ。
よく来たなあ、死んで鴉のえさになる運命の戦士ども。お前らの死に場所はここだ。
波に飲まれて溺れ死に、水底で腐って剣を持つこともできなくなるぞ。そうなったらオーディンはヴァルハラに迎えてくれないし、ヴァルキューレが看取りに来ることもない。
戦死者に与えられるあらゆる慰めからお前らは遠ざけられ、喉には海水が入ってくるだけだ。そんな運命を恐れず、あくまで退かないのなら――
表面上の効果は、むしろゾートたちを激昂させ、死に物狂いにさせた。舵を失った船をオールさばきだけでどうにか方向転換させ、防壁のほうへ向かってくる。
だが、俺はあくまで防壁の陰で姿を見せずに演奏しているから矢を射ても届かないし、彼らが占有したその位置こそ狙い通りだった。
「その身に受けよ!フェンリルの顎門を!」
詩の最後の一行とともに、ホルガーが合図をし、防壁の両端に隠された塔の中の装置を動かす綱が引かれた。ぎりぎり、がらがらというくぐもった音とともに、フィヨルドの海底からそれが姿を現し、ゾートの船の竜骨に干渉して船体を斜めに持ち上げた。
矢狭間の死角に入った敵を排除するために仕掛けられた、水中敷設式の巨大な防船杭――先端を尖らせたマツ材の丸太でできた、攻撃的な防御構造物だ。一定間隔に杭が突き出した、熊手の歯のような形に組み立ててある。
「いやはや、こうまで見事にアイデアどおりに動くものができるとはね」
「我々の木工技術をなめてもらっては困る。歯車と滑車は、インゴルフ叔父貴が三日で仕上げてくれた」
斜めに傾いた船からは少なからぬ人数がバランスを失ってぼとぼとと海に落ちていく。同時に構造上船体の外から差し込まれているだけのオールも、何本か同じ運命をたどった。
「何だこれは!畜生」
「慌てるな、ただの防船杭だ。怪物など実在するものか!」
混乱した船上から、それでも膂力と敏捷性に長けたものたちがあえて海に身を投じ、短い距離を泳ぎ渡って防壁の下辺に取り付いた。
驚くことに、彼らは片手斧やナイフ、剣を使って垂直に切り立った防壁を上ってくる。
「物語では珍しくもないが、こういうことって本当にできるものなんだな」
俺があきれて見守る間に、ホルガーは腰につるした幅広の剣を抜いた。大人の拳ほどの幅がある豪壮な代物だ。
「ようやっと正念場か。皆! 奴らを上に上げるなよ!」
「槍のない奴は櫓からもってこい!」
誰かが呼応して指示を飛ばす。
上はインゴルフ、ゴルム翁から若きはヨルグまで、総勢30人ほどの男たちが槍や剣を手に、高さ10メートルの垂直な壁を這い上がってくる規格外の戦士たちを迎え撃つ。俺もダーマッドの剣を手に壁の内側で待機した。これは全く以って、どうかしている戦いだ。
多くは槍で突き落とされたが、それでも何人かは槍をかわし、或いはつかんでもぎ取り、とうとう最初に五人ほどがとがった丸太の上に上体を乗り出した。足がかりを探って体重を預け、体を乗り越えさせようとするところに――留守組みの戦士の一人が槍で、その男の腹を突いた。
口元から血があふれ、一瞬ぐったりと力を失ったように見えたその体が次の瞬間壁の内側に倒れこみ、彼は血まみれの口元に凄惨な笑みを浮べて、槍を手繰りながら村の戦士に迫った。
「いかん! 槍を放せビャルニ!」ホルガーが叫ぶとほぼ同時に、不運な戦士の肩を斧が鎖鎧ごと断ち割って乳の位置まで切り下げた。敵味方、二人の戦士が抱擁するように折り重なって崩れ落ちる。
続いて上がってきた男の喉もとに、俺はダーマッドの剣を突き入れた。ちゃり、と言うぐらいのひどくあっけない感触で剣はその戦士の脊椎に達し、切っ先に続けて突き入れられた湾曲部が首の内径の半分ほどを切開したようだった。
幸運にもその男は剣を鞘に収めて登ってきていたため、俺はビャルニの運命をたどらずにすんだ。鮮血が噴出し、借り物の盾をべっとりと汚した。
ホルガーが上がってきた敵二人を相手に戦っている。まともな剣の二倍以上の重量がある幅広のその剣は、ホルガーの手の中でまるでサーベルか何かのように軽やかに翻った。
タイミングをずらして叩きつけてきた剣と斧を、盾の縁と真ん中の金属部分で続けざまに受け、足の位置を踏み変えて生じたひねりを加えていなし、弾き返す。
そこからそのまま、小細工なしに恐るべきスピードで振るわれた剣が、斧の柄と剣の刀身を断ち切って命を同時に二つ、首とともに刈り取っていた。
一瞬はピンチを予想したのだが、全く手助けをする隙もない。ひるんで後ろへ退がり集まって武器を構えた敵を前に、ホルガーは剣を突き上げて叫んだ。
「アァアアアアアンッスヘエエィンッム!!」
少し離れたところで敵を壁の下へ叩き落したヨルグが、そのまま駆け込んできて斧で更に一人の顔面を叩き割り、ホルガーの鬨の声に呼応した。
「アンスヘエエイッム!」
やがて唱和する声が水門の上いっぱいに繰り返された。
ハーコンとグンナルが進み出て、敵の戦士たちに相対する。
「まあ見てろよ、俺様がこいつらをものの三合ずつ位で始末してやる」
「三合って、それはちょっと時間かけすぎではないか、従兄者」
普段とまるで変わりなく他人事のように話しながら、この良く似た顔の親族二人は、予告よりはるかに早く戦士六人を倒してどちらからともなく言い合った。
「流石だな、従兄者」
「お前もな、従弟者」
その後数分戦闘が続いたが、終わりのほうはもう吐き気のするようなシンプルな虐殺だった。
ビャルニのほかには緒戦で矢の犠牲になった男が一人。敵は五人ほどが生き残って捕らえられたが、残りは防壁の上か下で、特に不運なものは長亀号の乗組員たちによって掃討された。船から落ちて必死で水をかいているところを、オールで叩かれ、槍で突かれてそのまま水に沈んでいったのだった。
数日後。
村では死者の葬儀をごく簡素に終え(殉死をともなう船葬などといったことはこの村ではありえない)、水門の内側に苦労して引き入れたゾートの軍船の修理と、大山羊号引き揚げのための準備が進められていた。
大山羊号の方はちょっと厄介だが、水温の高い日に泳ぎの達者なものがもぐって船底の穴を仮にふさぎ、羊の皮でできた浮き袋を取り付けて浮上させる手筈になっている。
目下のところはそのために、ヴァジの父親の鍛冶工房から牛一頭を丸ごと使った皮製のふいごを取り外し、浮き袋に空気を送るホースを用意しているところだ。その所為でロルフはこのところ、ろくに寝ていない様子だった。
「なんともでかい船だ。修理してもうちの村では到底運用できんな」
「うちには長亀号があるし……そうだな、ハラルド王に買い取ってもらうか」
船着場でホルガーとクラウスが話し合っている。二人はどうやら意気投合した様子で、よくホルガーの家で一緒に酒を飲んでいた。
長亀号ではゾートと戦って四人ほどの戦士が命を落とし、クラウスの表情はほんの少し憂いを帯びていた。
「買い取りか。そういう方法もあるのだな」
「ああ。王は来年ホルザランドを本格的に攻略するおつもりだ。良い船は何隻でも欲しいのさ。あれだけの軍船ともなればなおのことだ」
「そうか、いよいよもって戦争か」
ホルガーが深くため息をついた。
「この村の事だけを考えていればいい、と言う具合には、もういかんのだろうなあ」
「そうくよくよするな。買取の金は俺たちも山分けに与らせてもらうが、たぶんあんたらの分け前は、来年の税と相殺して多目のお釣りが来るくらいの額にはなると思うぜ」
そいつはありがたいな、とホルガーが笑った。
俺は防壁に上り、櫓の上から海を眺めた。潮が引いて少し浅くなった海面、やや遠い場所に、大山羊号のマストと横静索が突き出ているのが見える。
あの長館での会議の夜から約一ヶ月。いろいろな事のあった旅だったが、俺は村を守れたと言っていいのだろうか? 正直、自信はない。ベストを尽くしてきたとは思うが、かえって村を後戻りのできない状況に引き込んでしまった気もする。
ヘーゼビューでシグリに語った言葉が思い出された。
(「大人になるってのはな、何をするにも悲しみが後ろについて来るって事を、知ることなんだよ」)
日本人になじみやすい言葉で言い換えるならば
「人間万事、塞翁が馬」
良いことと悪いことはない合わせた縄のように、表裏一体で付きまとう。
そうだ、くよくよしても仕方がない。ハラルド王はこの村を攻めることはないし、税も免除された。襲撃を受けたがどうにか撃退、というよりは殲滅できた。俺にはいまやわずかながら自由になる金があるし、シグリの杯は少なくとも一つ戻った。
先の見通しは明確になった。それはつまり他の選択肢を切り捨て未来の幅を限定した、ということでもある。だが、どのみち生きていく限りは仕方のないことなのだ。
(イレーネにも、また会えるかな)
いつの間にかそんなことを考えていた自分に気がついて、俺は苦笑した。べつに恋仲と言うわけでもあるまいに。ちょっといい顔を見せられるとぱあっとのぼせ上がるのは、俺の悪い癖だ。
防壁にヨルグが上がってきた。そういえばこの男ともなんだか妙な関係だ。腐れ縁と言うかでこぼこコンビと言うか、何かと絡む。
「こんなところにいたのか。ホルガーが宴会を催すそうだ、多分夏のヴァイキング行の話になる。あんたも出ないとダメだぜ」
「え、俺も行くのか?」
ヨルグは少し憤慨した顔を見せた。
「当たり前だろう、楽師のトール。あんたはもうこの村の欠かせない一員だし、アルノルに並ぶ知恵者だ。皆頼りにしてるぞ」
「おいおい、参ったなそりゃあ」
また魔法と歌を見せてくれ、そういってヨルグは一足先に、村の長館へ向かって駆けて行った。
第4章「AD9世紀のマイスタージンガー」これにて幕。
海洋冒険を主体にそこそこ波乱のある一節になったかと思いますが、いかがでしたでしょうか。どうにか章タイトルにそぐう内容になった気はします。
次回もしかするとヴァイキング行を前にしたこまごまとした日常イベントを書く幕間をはさんだ後、舞台は移り北海とイングランドをまたいでの、新たな冒険をお届けします。徒歩での陸路の旅もあるかも。
次章「北海ヒッチハイクガイド」
ご期待ください。