帰路の難関
オーラブの熱もあらかた下がり、傷口に新たな肉の盛り上がりが見えるようになると、俺たちは再び船に乗り込み南ノルウェーの沿岸を南西へと進んだ。ハラルド王の夜宴から三日が経過している。
「この辺りから急に景色が険しくなるなあ」
「そうだな。何にしてもあの山の頂の残雪を見ると、帰ってきたって感じがする」
転桁索を引きながら、ヴァジとそんな会話を交わした。
ヘーゼビューへ向かう往路でも感じたのだが、ノルウェーの沿岸風景はこのスカゲラック海峡の西端部を境として、急に変化する。なだらかな楯状地の辺縁部に張り付いた険しい山脈。切り立った断崖や岩山に囲まれたフィヨルドが織り成す、複雑な海岸線。
北欧、といってまず脳裏に浮かぶのはたぶんここいら辺りの風景だろう。海岸線に沿って進路は次第に北西へと廻り、先年ハラルド王が攻め落としたというローガラン地方を右舷に眺めつつ、大山羊号とクラウスの長亀号からなる小艦隊はいよいよ懐かしいホルザランドへと進んでいった。
服を濡らされて惨めな気持ちにならずに済む程度の、細かな雨が降り出した。風がやや吹き募りはじめ、船が速度を上げる。耳元でびゅうびゅうとうなりを上げる空気の音に、高速道路をドライブするような興奮を覚えた――もちろん、窓は開けて。
「いい風だ。帆走には最高の天気だな」
ヨルグが船倉の淦水をかい出しながら空を見上げた。雲が飛ぶように流れていく。
「進路正面に岩礁がある! 左舷へ落とせ、取り舵少々!」
舳先に立っていたアルノルが叫んだ。船が緩やかに進路を変え、後続の長亀号もそれに倣って船首を西へ向けた。軽快なスネッケ「長亀号」はスピードを誇る快速船だが、航路をよく知らないため、大山羊号が先行している。
だが、もともとロングシップに近い竜骨形状をもつこの大山羊号は、通常のクナルよりはずっと速度が出る。そのため長亀号はさほど帆を絞らずに追走することができた。
昨晩の上陸野営の際に「蛇の」クラウスがその事に驚いていたのが記憶に新しい。
クラウスはもともとフランク王国の東部、後のドイツに当たる地方出身の傭兵だという。16歳で殺人の罪に問われ放浪の後、立身を求めて北方へ流れてきたのだ。
背中に届く癖のない金髪、痩身で端正な顔立ちは年齢よりも若く見える。左腕が不自由な義手だが、そのハンデを克服してハラルド王に仕え、港湾警備の一隊を指揮するまでになったのだった。
気さくでユーモアのある男だが、やるときは果断にやるタイプ。厳しいが公平で部下にも慕われているようだ。代官としては望外にまともな人物といえた。
小雨に煙る海面のその向こうに、薄布をかぶせたように――あるいは薄墨を流したように浮かび上がる島あるいは岩山の姿。時折雲の切れ目から差し込む光が海面を銀色に輝かせ、遠景にかかった靄の中に、木々や岩尾根の長く伸びた影を浮かび上がらせる。
やがて、初めてアンスヘイムを訪れたときに見た、険しい岸壁が目に入った。斧で断ち割ったような岸壁がそびえる、小さなフィヨルドの湾口。
「『巨人の石碑』だ。アンスヘイムはもうすぐそこだ」
皆が口々に旅の終わりを確認しあう。道中の労苦をねぎらって朗らかに笑顔を向け合う男たちだったが、ふとヴァジが虚空を見上げた。
「妙だな」
マストの上空を飛び交う鳥にいぶかしげな目を向ける。
「こんな洋上に、ハトとカササギが飛んでる」
「本当だ」
スノッリも上空に目を凝らして首をひねった。
「何か変なのか?」
俺は二人に訊いてみた。狩りの達人と、鳥の種類を見分けるのが妙に巧みなヴァジである。
なにか異常を感じるというのならそうなのだろう。
「どっちも森の鳥だ。海の上に出て来ることはあまりないな」
「あいつらは魚とか食わないからなあ」
「ふむ……?」
森に何か異変があったということか。
疑問はまもなく解けた。湾の途中から大きく曲がって進路が北へ向くと、前方に丸太と板材を並べて作られた巨大な構造物が目に入った。出発前にホルガーたちが建造を準備していた櫓つき水門と防壁だ。
もうかなりの部分出来上がっているようだったが――その閉ざされた水門の前、切り立った絶壁と森に抱かれるように広がった水面に、一隻の重武装した大型軍船が遊弋していた。
「おいおい、何だあれは。ここ二十日ばかりの手間は無駄だったというのか!」
ハーコンが吼えた。この男、激しやすい性格と見える。やや冷静なグンナルが手綱を取る感じだ。
「落ち着け従兄者、俺たちはこうして助勢まで引き連れて帰ってきたんだ。間に合ったんだよ」
そう言って、グンナルは斜め後方に追従するスネッケを指差した。
「そういう見方もできるかも知れんが……俺たちはどうする。乗組員は13人、娘っ子どもまでいる。あの船とまともには戦えんぞ」
大山羊号の船上を、皆の押し殺した呻きが覆った。ざりざりと髭を噛む音も。各個撃破に出られたら、クナルの人員はあっという間に軍船にすりつぶされる。遠巻きに事態を見守れば、俺まで含めて11人の男手が無用の長物と化す。手足を縛られたような状況だ。ハーコンが悔しがってわなわなと身を震わせた。
距離がある所為で戦場の状況がもう一つ分からないが、櫓の上にはおそらく残留組の戦士20名ほどがいるはずだ。軍船と防壁の両方から怒号が飛び交い、まばらに矢の応酬が繰り返されている。
防壁の基本的な概念設計は実のところ俺が示した。ところどころに射撃用の狭間を設け安全に矢を放てるようになっている。だが視界が制限されるため、防壁の真下には死角が存在しているのだ。一応その部分に対策はしてあるのだが――使うチャンスは基本、初見一回のみに限られるし、完成しているという確証もない。
俺は水門の前に陣取る軍船の、舷側に並ぶオールを数えた。正確には漕ぎ手を守るように並べられた盾の数を。動いている所為で数え辛い。
「オールは28対に見える」俺が数え終わるより早く、スノッリが数を告げた。さすがに目の出来が違う。
してみると漕ぎ手だけで56人になる。サムセー島沖で戦った船より更に多かった。それに加えて20人程度の人員は乗っているように見える
村に残っているホルガー指揮下の戦士が彼を含めおおよそ20人。こちらの11人が合流して31人。長亀号の乗組員は現在漕ぎ手のほかに10名、総勢36人。
決して埋められない戦力差ではないが、上手く連携をとることができないと勝てない。そして、それは現状かなり難しく見える。フリーダやシグリを戦闘に巻き込まないことも必須条件だ。
「よし、皆! ここでわめいてても仕方がない。向こうさんも新手が二隻現れて動揺してるはずだ。迅速に決めようじゃないか。俺たちが勝つにはどうすればいい?」
アルノルが口ひげを引っ張りながら叫んだ。ああ、これは緊張しているな。
まずロルフが声を上げた。
「フリーダとシグリを巻き込めないし、人数が足りない。俺たちはホルガーに合流して防壁の上で戦うのがいいと思う」
「それには同感だ」皆がうなずく。
「実は西岸の森を抜けて、壁の内側へ出るルートがあるんだ。俺なら案内できる」
スノッリが自信ありげにそう明かす。
「クナルを下りるのか。だがそれでは奴らに持ち逃げされるかも知れんのう」
「そうか。村を掠奪されるのも困るが、船というお手軽な成果を上げられてもこちらの損害が大きいな」
俺の頭の中でカチ、と何かが組み合わさる音が聞こえた気がした。逆に考えればいいんじゃないか。
「アルノル! ちょっと訊くがこのフィヨルドの底って、結構深いのか?」
「ん? 入り口のほうは深いな。だがあの通り水門を建造できるくらいだ。湾奥のこの辺りは大したことはないぞ。深いところで大体8ファヴン(15m)程度だ」
マストの高さくらいか。それなら何とかなりそうだ。
「じゃあ、大山羊号は一回、船底に修理しやすい形の穴を開けて沈めてしまってはどうかな」
「はあ?!」皆がいっせいにすごい顔で俺を見た。
「正気かトール」
うん、ヴァイキングたちにとっては船は命にも等しい最高の財産だ。この反応は仕方ない。
だが現状、大山羊号の上にいることが俺たちの自由を奪っているのだ。
「一時的に沈めてしまってもいい、そう考えれば動きやすくなる。敵だって沈んでる船を行きがけの駄賃にさらって行く事はできないさ。後で引き上げやすいように、上手い沈め方を考えればいい」
「なんという事を……」
ゴルム翁がふ、っと息を吐き、笑った。
「なるほど、『大山羊号』の名にふさわしい運命だのう。タングリスニとタングニョースト。トール神の戦車を牽く山羊は、肉を食われても骨と皮が残っていればまた魔法でよみがえる」
「まあそういうことです、ゴルム様」
神話をなぞろうと意識したわけじゃないが、そんな風に言われればお誂えむきのようにも思えた。
「よし、よし! トールの考えは飲み込めた。物狂いじみてるが、現状では適切な手かも知れん。その線で行こうじゃないか」アルノルが皆を見回して決断を促した。
「やるか。今この船に大した積荷はないしな」
「じゃあ泳ぎの上手い奴数名で残って穴を開けてから船を離れるか」
「穴開けるのは俺に任せろ!」
「潮で流されないように、錨を入れるのを忘れるなよ」
いったん方向性が決まると彼らの行動は早い。瞬く間に段取りが決まっていく。
「長亀号はどうする?」
「クラウスたちには自由に判断して戦ってもらうしかないな。知り合って日が浅いから連携もとりにくい」
その長亀号は、進路を西岸へ向けて回頭する大山羊号を、船尾方向からまさに追い抜いていくところだった。
その船首に、奇妙なものを俺は発見した。見たところ、少し長めのオールだ。船首に結わえ付けたロープを通して先端が船外へ突き出されているのだが、その部分は鋭い鉄の穂先が取り付けられていた。
「なんだ、ありゃあ」
「俺には、槍に見える」
周りの男たちもその異様な装備に目を留め、長亀号を指差して口々に叫んだ。
「よう、アンスヘイムの諸君。えらいことになっちまってるが、ここは俺たちに任せてくれ!」
40mほどの距離から、クラウスがよく通る声で呼びかける。傍らの副官――ベンジャミンとかいういかにも異国人風の名の、横幅のある体型の戦士が号令をかけた。
「シッフ・ツェアシュトゥールング・シュヴェアート! ディプロイメンツ!(船舶破壊剣、展開!)」
おおよそそんな風に聞こえる。ドイツ語だ。数人がかりでぐい、と太い円材が押し出され、全長の三分の一ほどが船外へ延びた。
「ひょう! あの槍で敵船に突っ込む気か!」
「敵船のオールがあるから簡単には行かんと思うが、あの分だとあいつはやるかも知れねえ」
何人かが下手糞な口笛でクラウスたちを囃し立て、歓声とともに見送った。
「さあ、俺たちもぐずぐずしてられん。スノッリ、案内を頼むぞ」
「任せろ。前方のとがった岩の突き出た岸辺、あのあたりに浅瀬があって、膝丈くらいのところを渡って森に入れる」
「よし、帆桁をおろして取り外せ! 帆は貴重だからのう!」
てきぱきと撤収準備が進む。ちょうど敵船はこちらの二隻に気がついたらしく、防壁からやや距離をとって湾口側へと船首を向けようとしている。
見事なリズムでオールの調子を合わせ、全速力で突っ込んでいく長亀号の姿を窺いながら、俺たちはスノッリを先頭に森へ向かった。ハーコンとグンナル、それにシグルズが船に最後まで残って自沈させる手筈だ。
三人の手で絶好の位置まで回航されたあと、シグルズが錨を投げ込み、ハーコンとグンナルが船倉の底に下りていった。
水面の反射でやや逆光気味に暗く影をまとったクナルが、次第に沈んでいく。ずぶぬれで岸に泳ぎ着いた三人を引きずり上げたあと、俺たちは木陰に帆を隠し、木立の中を北へ向かって駆け出した。
前回の飯テロに力こめすぎたせいか、今回は書き出しと展開に苦労しました(つまり全部じゃねーか)。ドイツ語のかもし出す厨二臭はやはり最高です。
クラウスのイメージはあの人。記憶を取り戻さず社畜のまま宇宙に出たらこんな感じかな。整形もなしで。もう一人海外文学作品のキャラクターが混ざってるけどこっちは分かりにくいので特に触れない。
ヒューッ!
ちなみにヴァイキング船にラムを装備した事例は実在しますので、長亀号のギミックはそんなに突飛でもないです。