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ばいめた!~楽師トールの物語(サガ)~  作者: 冴吹稔
AD9世紀のマイスタージンガー

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29/102

謁見

トールが素人医療を行う描写が今後しばしば出てきますが、決して真似しないでください。現代社会に生きてる分には病院と薬局にお任せするのが一番です。

 足元の甲板を軽やかに通り過ぎる海鳥の影に気がついて、俺はマストの高みを見上げた。薄い灰色の背中を持つカモメが一羽、帆桁の上にとまって休んでいる。だが足の形が物をつかむのに適していないと見えて、船がちょっと傾くとバランスを崩し、黒い風切羽根のある翼をあわただしく打ち振って、再びマストの周りを滑空し始めた。


「リッサ(rissa)だなあ。陸が近いぞ」

そう言いながらヴァジが額に手をかざしてその白い鳥を見上げた。頭と腹、翼の裏側が真っ白で、翼の上面と背中が薄い灰色。翼を広げた幅は目測で1m近い。なんとなく、涼しげな印象を受ける配色の鳥だった。

「まあ、可愛い」

少女たち二人も、物珍しいものを見たと嬉しそうに海鳥を指差してはしゃいでいた。普段なら村をほとんど出ずに暮らすのがこの時代の女性の常なのだ。



 風が順調で天候が穏やかな日は、人員がぎりぎりのクナルの上もそう忙しい場所ではない。細長いちりとりのような道具を片手に、船倉にしみこんでくる海水をくみ出す作業を三時間ほど務めたあと、俺は舷側を流れる泡を眺め、船酔いしそうになると遠くの水平線を眺めながら、時折ほかの乗組員と話して時間をつぶしていた。


 カテガット海峡はスウェーデンとユトランド半島の間に横たわる大きな海峡だが、とにかく幅が広く、真ん中を突っ切るとその間陸地がまるで見えない。勢い現在位置が分かりにくくなるのだが、最前の「リッサ」のような海鳥は陸地が近づいた証拠となる、良い目印なのだそうだ。


「多分あと半日程度で、ノルウェー南部の海岸を初認できるだろう」

アルノルが物憂げにそう言った。



 やがて進行方向に、黒ずんだ陸影が姿を現す。近づくにつれて色が濃くなり、周囲の空と水の色からはっきりと浮かび上がる塊がはっきりとした形をとり始めた。マストにとまって性懲りもなく休んでいたリッサがバサ、と羽ばたき、空気を打つ音を残して船を離れる。


 一直線に陸へ向かう、翼の両端が垂れ下がった独特の姿。なるほど、ガルウィング(カモメの翼、また同様の翼形状をもつ航空機のこと)とはよく言ったものだ。


「お友達のところに帰ったのね」

フリーダが子供らしい物言いをする。前方の島の周りには確かに、先ほどのものと同じ種類のカモメが、白い翼裏を見せてくるくると旋回し、時折海面へと急降下していく姿が数多く見て取れた。




 ノルウェーの南部に当たるこの辺りの海は、風景としてはデンマークの沿岸によく似通っていた。アンスヘイムのあるノルウェー西部とは違って、海岸まで迫るような険しい山はあまりなく、なだらかな地形を持つ島々が砂浜を伴って点在している。そのいたるところに明るい色の森林と、滴るような緑の牧草地があった。

「豊かそうな土地だなあ、従兄者あにじゃ

「ああ。こういうところなら、羊のほかに牛も飼えるな」

ハーコンとグンナルが少し羨ましそうに海岸沿いの土地を眺めていた。ヴァイキングにとって牛を飼うというのは、非常なステータスシンボルなのだと聞く。


 俺は頭の中で、かつて観光雑誌の写真などで見た、ノルウェー沿岸の赤を基調に色とりどりの瓦で葺かれた屋根の並ぶ町並みを、眼前の風景に重ねていた。目をしっかりと開ければ、そこにはまだ極まばらな、木造タール塗り、所によって草葺きの、黒々とした家々があるばかりだ。


(いやはや、歴史って奴は)


 仮に俺が年老いることなくこのまま生きていったとしても、脳内に浮かぶ風景が今目の前のものと同じになるには、1000年の歳月がかかる。距離の上でも時間的にも、なんともまあ遠いところまで来てしまったものだ。

 いっそ本気で誰か好ましい女でも娶って、この時代に骨をうずめてしまうのも悪くないかもしれない。ふとそう思った。



 船が進むにつれて水路が狭くなり、いくつもの島の海岸が迫る間を縫うように進む形になる。ゴルム翁が全員に号令をかけた。


「ここからは帆で進むには不便だ!帆を降ろし、八人までオールにつけ!」

狭い水路では逆風になるとジグザグに間切って進むことも難しくなる。


 俺もオールについたが、サムセー島沖の戦いで矢傷を負ったオーラブが左腕を吊ったままで、苦しげな顔で冷や汗を流しているのに気がついた。彼はオール要員からはずされ、今は船倉で片手でもできる淦水あかみず汲みを務めている。


「オーラブ、痛むのか?」


「ああ、今朝からなんだかずきずきする。それに体が熱い」

「ああ、そりゃまずいな。上陸したら安静にしたほうがいい。それと多分酒は禁物だ」


「なんだと……」

オーラブの顔が絶望にゆがんだ。


 多分、包帯にわずかに残っていた雑菌が傷口に入り、炎症を起こしているのに違いない。

傷口を強い酒(あるかどうか定かでないが)で消毒し、煮沸した包帯に取り替えて様子を見るべきか。われながらうかつだったと思う。ドラッグストアでの仕事で少しは知識があったはずなのに、肝心の場面で彼の傍らにいてやれなかった。いかにゴルム翁が戦傷を診ることに慣れていても、所詮感染や細菌についての知識はないのだ。


 ドラムの照井は確か薬学部だった。こんなことならいろいろ教えてもらって置けばよかった、と臍をかみながらも、俺はおぼろげな記憶を探って、オーラブの症状を軽減できそうなものを思いついた。


「上陸するまで何とか我慢するんだ。俺に心当たりがある。謁見にも宴会にも顔を出せなくなると思うが、死ぬよりはましだぞ」

「宴会で浴びるように飲んで死ぬのも悪くないと――」

「あんたはセイウチの牙から俺を助けてくれた。まだ死んでもらっちゃ困る」


 周りの男たちも俺たちの会話を聞きとがめ、口々にオーラブを諫めた。

「死ぬような傷か、それしき。弱気になるな」

「トールの言うことを聞け」

「淦水汲みも、もういい。さっさと船尾で休め!」


 船尾の広く空いた甲板の上にオーラブがその長身を崩れるように横たえた。相当参っていたらしい。無理しやがって。


 介抱しようとするフリーダに、俺は鋭く警告した。

「酒は絶対に与えるな! 蜂蜜酒もエールもだめだ、熱と腫れがひどくなる! 清水がないなら上陸まで我慢だ」


「ええ!?」フリーダが戸惑う。「でも、こんなに汗をかいて、苦しそうよ」

「熱が出るのは、体が傷口から入った悪霊を焼き殺そうとしてるんだ。俺の国の医学ではそう教えてる。だが自分まで熱で死ぬのがまずい。頭を冷やしてやるんだ」

「わ、わかった!」


「お前、医術の心得もあるのか」

アルノルが驚きを顔に現してそう訊いてきた。

「聞きかじりの浅薄な知恵だ、医者の代わりは勤まらないが、それでもこっちで知られてない知見がいくらかある」

「ふうむ。オーラブが快復するようなら傾聴の価値ありだな。そのときはおい、俺たち全員に教えろよ」

「ああ」


 ロープを結わえた手桶で海水を汲んでは、水につけて絞った亜麻布の切れ端でオーラブの頭部を冷やす。

 男たちも一刻も早く上陸しようとオールを握る手に力を込めた。俺の脳裏に救急車の赤い回転灯が浮かんでは消える。


 午後遅く、傾いた日が海を金色に染めるころ、俺たちはトンスベルクの港に入り、ハラルド王麾下の戦士たちによる誰何を受けた。

「そこの船、何処のものか!」


「ホルザランドの小領主、族長ホルガーの使者だ。ハラルド王の傘下に加わるべく、貢納の品を携えて参ったのだ! 道中海賊に遭い、返り討ちにしたものの矢傷が開いて苦しんでいるものがいる。速やかな上陸の許可を願いたい」

ゴルム翁が立て板に水とばかりに用件と状況を告げた。


「疫病などではないのだな? 分かった、こちらの船が先導する、ついて来い」

スネッケと呼ばれる最小サイズのロングシップ、オール13対程度の船が、大山羊号の前を軽やかに進む。

 大山羊号が桟橋に舫われ、貢納の品を担いで俺たちはトンスベルクの港に上陸した。およそ一週間ぶりくらいの硬い地面に、いつもの事ながら感覚がくるって足元がふわふわとおぼつかない。


「トール! ここの戦士たちに、オーラブの手当ての指示を出してやってくれ。気にかかるがまずはお前も謁見の間に行かなきゃならん」

アルノルが港湾区画からの出口にある櫓門の前で、俺を呼んだ。ちょっとした絨毯ほどのサイズのつづれ織りを柱状に丸めたものを担いだまま、そちらへ向かう。


「医術の心得があるというのはお前か。どうすればいい?」

戦で失ったらしい左腕に、銀色の蛇の形をした手鉤を装着した戦士がそこにいた。

「まずできるだけ清潔な館に入れてやってくれ。そして、湯を沸かして、替えの包帯を煮ておくこと。この腕は切り落とす必要はないが、熱が出ているので清水を与えてやってくれ。汗をひどくかくようなら、海水を十倍の水で薄めたものを」


「へえ。聞きなれないやり方だな。効き目があるかどうか興味があるよ。俺もこの通り、腕をなくしてるんでね。他には?」

「用意して欲しいものが二つ。強い蜂蜜酒。発酵が進んで、甘みがほとんどなくなったものが一番いい。傷を洗うのに使うんだ。そして、きれいなヤナギの若葉を沢山。今の季節ならちょうど手に入る。煎じるのは俺がやる」

痩身の、だが無駄のない筋肉をつけたその片腕の戦士が、愉快そうに銀の蛇をなでた。


「よし、任せろ。あんたらは王に拝謁しに行くんだな。戻ったら赤い幕をドアの上にかけた館を探してくれ。このすぐそばだ」


「ありがとう。俺は楽師のトール。あんたは?」

「クラウス。蛇のクラウスだ」

クラウスは部下たちに指示を出し、オーラブを運んでいく。

「ほら、駄々をこねるなよおっさん! 酒はだめだって」

指示はきちんと伝わっているようだ。俺は少し安堵しつつ、つづれ織りを担いで宮殿への隊列に戻った。





「――この黄昏の刻限に、かくも多くの宝を手に、王の宮殿を訪れたるもの。進水間もなき見事な船を操り、数奇なる航海の物語を携えて来たりしは、いかなる高貴の人々にあらせられるや?」


 謁見の間の入り口で、年若い少年の小姓が片膝の礼をとって伺候し、俺たちに向かって問いかけた。身分ある人々の社会で行われる、儀礼的な問答らしい。

 ゴルム翁が応えて朗々と名乗りを上げた。――内容は港の洋上で警邏の船と交わしたものと、さほどの違いはないのだが、流石にこの修辞は俺には手が出ない。


「――我らはアンスヘイムの民。ホルザランドにささやかな土地を有する領主にして族長、ホルガー・シグルザルソンの名代として参ったもの。ノルウェーの統一を目指す英邁なる王の下に、他に先んじて栄誉ある地位を得んものと、罷り越したる次第」


「ホルザランドか」謁見の間の奥の薄闇の中から、よく通る低い声が響いた。


「閣下、まだ直接のお言葉を賜るには――」小姓の少年がやや引きつった声音で主を制止した。

「構わぬ、ユッベルよ。ホルザランドはわが覇業のきっかけとなった土地。いずれ手中に収め、ギュザ王女をも手に入れるのが宿願だが、これはなんとも幸先の良いことだ――明かりを持て!」

「はっ」

 嘘のように天井の高いその巨大な館の広間に、すっかり見慣れた鉄製のスタンド式ランプが何個も運び込まれ、床に突き刺されて灯がともった。


「近くへ参れ、アンスヘイムとやらの戦士たちよ。そち達の貢ぎ物、余が直々に検分しよう」

 油脂ランプの明かりに浮かび上がったのは、恐ろしげな姿の巨漢だった。蓬髪王の二つ名にたがわず、爆発したかのように頭部から肩にかけて広がる、絡まりほつれた長い髪。

何年も櫛を通していないと思われるそれは艶の失われた金色で、ライオンのたてがみを連想させた。

 どういうつもりなのか服装はひどく粗野だった。ヴァイキングと言うよりはギリシャの英雄あるいは悪王のように、腿の半ばからブーツに包まれたふくらはぎまでは、縒り合わせた鋼線のような筋肉をあらわにむき出していた。腰を覆う短い布の上部には、幅の広い革のベルトが締められている。

 その正面には威圧的な意匠の巨大な金細工のバックルが飾られ、人面を模したその目に当たる部分にはあかあかと輝く濃い色の宝石がちりばめられていた。多分ガーネットか何かだろうか。

 上半身は胸の前面でX字に交差する幅広の革ベルトがかけられ、肩の上に載ったこれも金で装飾されたパッド風の防具と、腰のベルトとをつないでいる。


 10年ほど前に俺が日本で見た特撮番組の、悪役の親玉が目の前に現れたようだった。最終話辺りでもう一段階くらい進化しそうだ。 


 粗野な外観とは裏腹に、人や物を見る目は存分に備わっているようで、高座の下、部下たちが運んできた布の上に積み上げられた財物を、ハラルド王は一つ一つ取り上げては満足げに「ほう、ほう」と声を上げあるいはため息を漏らし、時折高々と笑い声を響かせるのだった。


リッサとは、北欧に生息するミツユビカモメです。足の指が3本しかなく全部前方へ伸びて水かきになっているため、ロープなどにつかまるのには適していません。


ハラルド王の容姿は少し悪乗りしすぎてしまったかも知れませんw サブタイも漢字二文字にしてみた。まあディック・フランシスとかもありますけど。


それにしても海の風景をこまごまと書くのは楽しいですね。暇と金が両立できる身の上になったら北陸あたりの海辺へ旅してみたいものです。


次回は宴会シーンの予定。私には飯テロの才能はないと思いますが、それでも野蛮な時代の豪華な宴会って、心躍るものがありますよね。


8月12日追記:宴会シーンは一話順送りに

8月15日追記:淦水(船倉にしみこんだ水、ビルジ)を水垢と書いてしまっていたので修正

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